六番勝負__夢想権之助 〈弐〉
「おのれ、宮本武蔵、我が杖術を虚仮にするか!」
顔を真っ赤にして喚く権之助の言葉を無視し、武蔵は権之助の前に立った。
「武蔵、何の真似だ。まさか本気でその様な代物でわしと立ち会うと言うのではなかろうな」
「怖気づいたのならば、引き払われても構わぬが」
武蔵の侮辱に対し、完全に度を失った権之助はもう怒りに我を忘れていた。
「良くぞ申した、そこまで高言する以上覚悟は出来ていような。この夢想権之助を侮辱した事を地獄で後悔するが良い」
吠え喚く権之助に対し、武蔵は冷たく笑い返しただけであった。勿論権之助は律儀なほど率直に感情を昂ぶらせた。
「行くぞ、宮本武蔵!」
権之助は九尺の杖をしごくと恐るべき勢いで武蔵に撃ち掛かってきた。九尺、約270センチの棒は一振りするだけで先端に物凄い加速が着く。無論、普通人には扱えるようなサイズではないが、権之助にはそれを使いこなすに十分な膂力が有った。武蔵は恐るべき敏捷さでこれを避けた。権之助は杖を引き戻すとすぐに真っ直ぐに突いて来る。武蔵はこれも避けた。突き専門の宝蔵院流槍術ほどの鋭さは無かったが、振って来た直後の変化だけに些か厄介な感じだった。その後も矢継ぎ早に権之助の杖は攻撃を仕掛けてくる。突き、打ち、薙ぎ、どのように変化するか、予測は容易ではない。それを武蔵は見事な身ごなしで鮮やかに避け続けた。権之助の全身から湯気のように濃厚な闘気が立ち上り、その怒りの凄まじさを感じさせた。裏も表も無い、陽気で開放的な闘志だった。
尺の長い武器に対しては懐に飛び込む以外に勝機は無いのだが、それには如何な手を用いるべきであろうか。第一に当人の機敏な動きで相手の攻撃をかわすほか無いのだが、それは前提条件に過ぎない。使用する武器も中途半端な長さよりも、思い切って短く、軽量の物の方が良かろう。三尺の刀では、目方もさることながら、長い為に梃子の原理が仇となって扱い難くなるのである。これらの事を、興福寺での奥蔵院との立会いで痛感した武蔵は、その異様に長い権之助の杖を目の当たりにした時、楊弓と割り木を得物に選んだのであった。その上、この権之助と言う男は見るからに単純で、挑発すれば簡単に頭に来るだろうと言う事も武蔵は計算に入れていた。その判断は見事に図にあたり、権之助は武蔵の注文通りに感情を昂ぶらせ、手にした得物も動きを殺ぐ事無く手の中に収まっていた。両手で一本の刀を後生大事に握った場合、大分動きが制限されて機敏には動きにくいが、両手を自由に動かせればバランスも取りやすく、思い通りに動けるのだ。
権之助は慌しく攻め立ててくる。だが元々俊敏な武蔵は、殆んど重さを感じさせない武器によって本来の動きを失う事無く見事にかわし果せていた。それでも常にギリギリの見切りで危うく逃れているのであって、楽に避けている訳ではなかった。一気呵成に攻撃を繰り返す権之助に、僅かに疲れが見え始めた。武蔵は今まで相手にして来たどの相手よりも機敏であった。繰り返すが、元来の動きを簡易な得物で自在に維持しているからだが、権之助はそれに気付かなかった。
“この男は天狗か!”
今まで敏捷な剣客と立ち会ってきた事も有ったが、彼らは武蔵ほどの実戦経験も思い切りの良さも無かった為、普通の長さの木刀で権之助と立会い、もたついた所を九尺の杖の餌食になってきた。その為、権之助には自分の杖を悉くかわしてゆく武蔵と言う男が、何か人間以外の魔怪のように思えて来たのであった。益々焦りが権之助に募ってきた。頭に来易い性格は、巧く言っている時は調子に乗って勢いが付くものだが、一旦気後れすると容易く自分を見失ってしまう。粘り強さに欠けるのだ。それでも無理矢理自らを鼓舞するように杖を振り回す権之助には、既に試合を投げてしまいそうな気配が漂ってきた。
「うおおおー!」
目を剥いて上から振り下ろした杖の一撃をかわした武蔵は、とうとう前に踏み出して、権之助の杖の内側に入りかけた。
「あ!」
地面を叩いた杖を跳ね上げたが、武蔵は左手を思い切り伸ばして割り木でそれを受け止め、更に奥へと踏み込んで行く。力任せに受け止めたのではなく、腕の力を抜いて柔軟に、クッションのように力を殺して自らもその方向に動き、出来るだけ無理無く杖に対応した。おまけに如何に梃子の原理で加速が着くと言っても、下から跳ね上げた位では勢いを着けるには距離が短すぎた。加速が着かないように、武蔵は出来るだけ腕を伸ばして早めに下の位置で杖を受けた。宝蔵院での試合と同じ展開に持ち込んだ。ただし、今回の得物は楊弓である。権之助の目の前で右手の楊弓を振り上げた武蔵は鋭くそれを打ち込んだ。眉間を打たれた権之助は昏倒し、白目を剥いて長々と伸びていた。