表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/42

五番勝負__宍戸梅軒


興福寺における宝蔵院流槍術との立会いの後、武蔵は東に下る事にした。無論目指すは日本の新しい首都となった江戸である。元々、

“上り兵法、下り音曲”

と、言われるように、名高き鹿島神道流などが出た関東が兵法の本場とされた。これに対して伊東一刀斎などは、

「上り兵法を下り兵法にしてみせる」

と意気込んだと言う事であるが。

その途中の伊賀で、武蔵は少しばかり厄介な兵法者に試合を挑まれていた。鎖鎌を操る宍戸という人物である。この宍戸の名前は判らない。武蔵を扱った小説の、元祖とも言うべき最も有名な作品において命名された、

「梅軒」

なる名前が広く流布している為、ここでもこの名前を採用する事にしよう。

伊賀の国は天正九年(1581年)織田信長に総攻撃を受け、俗に伊賀者と呼ばれる、特殊技能を身に就けたこの国独特の土着の郷士達は散り散りに逃げ去った。徳川新体制の元、伊賀の太守に悪名高き裏切り名人、藤堂高虎が任ぜられたが、この頃には逃げ散った伊賀者たちもおいおい戻って再び根を下ろしつつあったようだ。宍戸梅軒は、そんな出戻り忍者の一人だったのだろう。鎖鎌は忍者も比較的良く使った武器であると言われている。

所で、この鎖鎌と言う武器は一般的には片方に分銅、片方に鎌を鎖で繋いだ代物であったが、物によっては両側に鎌を用いる物も有るそうで、分銅付きの方でも原則的には分銅を投げるのだが、流派によっては鎌の方を投げる事も有ると言う。昭和の世には“燃える闘魂”のキャッチフレーズで知られた有名プロレスラーが鎖鎌の名人と戦うという話が持ち上がった事も有った。

それは兎も角、武蔵はこの鎖鎌の使い手と行き掛かりから戦う事に為ったのである。

その獣じみた双眸に武蔵を捕らえた梅軒は右手に垂らした分銅鎖をゆっくりと回し始めた。武蔵は腰の真剣を抜いた。この試合は最初から命を賭けた真剣勝負である。この宍戸と言う男は分別有る武芸者と言う感じでは無さそうだったし、大体この鎖鎌という武器自体が大層残忍な代物ではないか。刀や槍や薙刀ならば木製の稽古道具があるし、相手の得物を絡め取るのなら、棒に鎖を取り付けた乳切木という武器も有るが、鎖鎌と言うのは木で出来た物は無いし鎖分銅にわざわざ肉を切る為の鎌まで設えたのだから、随分血腥い凶悪な道具と言える。

梅軒は小柄、と言うほどでもなかったが、武蔵の前に出れば随分小さく見える。元々伊賀者は体格の小さな者が多い。梅軒の振り回す分銅鎖は回転する毎に尺を伸ばして行く。まるで武蔵との間合いをそうやって計っているようであった。武蔵は静かにその動きを注視していた。野獣であった。吉岡兄弟や宝蔵院の荒法師ならば人間である。しかし、武蔵は野獣だ。彼は相当知能が高く、後世に評価されるような美術品や文章を遺したが、それは頭脳と言う生理的な器官を最大限に活用したのであって、いわば人類と言う生身の存在が作り上げた物といえよう。武蔵は最後まで人間ではなかった。人類であった。人類と言う野獣であった。梅軒もまた、野獣であった。彼も武蔵と同じように本能の趣くままに戦い、武器を取り、それを用いて暴れ回る野獣であった。忍者は野獣であってはならぬ。機械である。与えられた任務のみを忠実に遂行する影の存在であり、自らの自我などは有ってはならないのである。無論、自分から剣客に戦いを挑むなど、忍の者に有るまじき振舞いなのである。忍者の活躍華やかなりし頃__忍者が華やかに活躍するわけが無いのだが__にはあっちの大名、こっちの武将からも引く手数多で、需要が追いつかず、忍武者たるものが勝手に私闘を行うなどは考えられない事であった。今時戦もろくになく、忍者の働き場は何処にも見当たらないのだから仕方が無いといえば仕方が無いのかもしれない。失業してキレ易くなるのは何時の時代でも変わらぬ人の性と言うものであろう。そうでなくとも元々忍者と言うのは過酷な訓練によって人類の持つ能力を極限まで引き出す為に、ある種の精神障害__病理学的な物ではなく、意思的なものだが__となり、任務が与えられている時にはそれがどんなに理不尽でその苦しみに引き合わない報酬しか与えられない場合でも、それに没頭する人種なのだが仕事の場を失えば、途端に精神の安定を欠いて抑圧された本能を剥き出しにするのである。生きる為に盗賊を働くもの、昔任務で入り込んだ店先に、涼しい顔で舞い戻る者、何処かの大名に随身でも出来たら言う事は無い。だが、梅軒は違う。彼は得意の鎖鎌の技を修練し、これという相手を見つけては勝負を挑み、その凶暴な闘争心を満たしていた。彼も武蔵と同じ、人類と言う野獣なのである。

それまで縦に回していた鎖を、頭上にかざして横に回し始めた。勢いも大分着いて来ている。無表情な梅軒がふ、と笑った。乾いて皮膚がくすんだその顔は、どこか蜥蜴を思わせるが、今の笑いも表情を動かす筋肉を持たない爬虫類の顔が、角度によって笑ったように見える事がある、そんな笑顔だった。

梅軒の分銅が、武蔵を襲った。武蔵は身を伏せてこれを避けた。梅軒は伸びた鎖を引っ張って元に戻した。如何に俊敏な武蔵でも、懐に飛び込む隙は無かった。再び梅軒が分銅を頭上で旋回させていた。

梅軒の攻撃をかわし得たものの、武蔵は戦慄していた。鎖鎌と言う武器その物は、正直な所余り戦闘的ではない。殺傷力は高いが動きに隙も多いのだ。只、鎖に得物を絡め取られる恐れもあるし、手元には物騒な鎌も有るため変則的で勝手が違う。しかし、それ以上に武蔵が感じたのは、ゾクゾクするような感覚であった。梅軒は今、本気で武蔵を殺そうとしていた。その殺意は堂に入っており、人を殺し慣れた者のみが持つ肝の据わりがあった。武蔵にとっては久々の“実戦”である。宝蔵院一門は業前こそ優れてはいたが、真剣真槍で殺し合いをした経験は無い。そんな人間が如何に殺気立っても左程の恐さは無いのだが、この伊賀者は違う。吉岡一門も挑戦者を闇に葬って来た経験はあるが、赤信号みんなで渡れば、のでんであり、梅軒のように戦場も経験し、平然と相手の寝首を掻くような陰惨な図太さは無い。武蔵も関ヶ原で合戦を経験してきたが、それはエキサイティングで開けっ広げな迫力であって、このような自然で濃密で巧妙で不気味な殺意は始めてであった。別に取り立てて興奮せずとも極自然に人を殺せる、忍者特有の洗練された殺意である。成る程、以前佐助が言ったように全く気配を感じさせぬと言う事は無い。しかし、それが異様に整ったと言うか、実に自然なのである。

“これが忍びの殺気か”

武蔵はゾクゾクと震える物を感じた。

それが恐怖であるのか、歓喜であるのか、武蔵には分からない。いや、そんな感慨にふけっている暇などは無い。だがそれは、夢中になっていると言っても間違いでは無かっただろう。

梅軒がもう一度分銅を投げ付けた。武蔵は今度はそれを避けなかった。手にした刀で分銅を受けると、その鎖が巻き付いたのであった。武蔵は自らの得物に巻きついた鎖をぐいと引き寄せた。梅軒は戸惑ったが、どうする事も出来ない。しかし、このままでは武蔵の方もどうにも為らぬであろう。武蔵と梅軒の視線が正面から激突した。鎖を引き合いながら、視線で押し合っている。無表情な梅軒が歯を剥いて武蔵を睨み付けた。不気味な仮面が剥がされ、弱い人間の素顔が曝け出された様であった。武蔵は相変わらず無表情であった。両者は鎖を引き合っている。梅軒の顔は益々追い詰められ、余裕が無くなって来ている。それも当然かも知れない。何と言っても大男の武蔵に比べれば、梅軒は体格で見劣りする。忍者は岩壁などにへばり付いたりよじ登ったりせねば為らぬ為、腕力は極限まで鍛え抜かれているのだが、武蔵もまた二刀流で鍛えた腕力がある。この体格差がもろにハンディとなっていた。

刀に巻き付いた鎖を引き合いながら、武蔵は徐に右手を離した。左腕一本で梅軒の両腕と互角に引き合っていた。梅軒は益々逆上した。武蔵はその動揺を見逃さなかった。武蔵の右手が腰の小柄に掛けられた。

「お!」

それが次にどんな行動に繋がるのかと言う事ぐらいは梅軒にも判る。だが、抜く手も見せずに脇差を引き抜くと、武蔵は電光の早業で投擲した。梅軒は反射的に左手の鎌を使ってその投げ打ちを払ったが、その時には既に武蔵は巻き付いた鎖を払い落として梅軒に迫っていた。懐に入ってしまえば鎌位では寸の帯びた刀に対抗する事は出来ない。鎖分銅が勢い良く動いていれば仮に入ってこられても何とかできる、せめて相手もやり難いだろうが、この状態では全く成す術も無かった。

「うお!」

梅軒は断末魔の叫びを上げた。

血塗れた愛刀を鞘に収めて歩き出した武蔵の背後には、紅く染まった梅軒が長々と横たわっていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ