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四番勝負__宝蔵院流槍術 〈結〉


武蔵と奥蔵院は、それぞれ木刀と稽古用のタンポ槍を手に、相対していた。

「良いな、これは飽くまで試合じゃぞ。殺し合いではない。両の者、心得たか?」

「承知いたした」

「もとより」

胤栄の宣言に、二人が答えた。

「良いな、ここが僧院である事をくれぐれも忘れるでない。殺生は許さぬぞよ」

今一度、胤栄が釘を刺すと両者が互いに視線を交わしながら頷いた。

武蔵と奥蔵院が正面切って向き合うと、その間の空間に物凄い闘気が張り詰めた。厳粛、と言うよりどこかささくれたような、異様な沈黙に縛り付けられた道場の空気が更に軋み合うように、キリキリと緊張した。武蔵と奥蔵院の呼吸は神聖な深山の遠景の様に静かに、重々しく、そして霊妙だった。僅かでも相手に油断が有れば今にも撃ち掛かって倒しそうな、痛いほどの気が張り詰めていた。

二人が静かに会釈を交わした。

勝負が開始された。

どちらも得物を構えたまま、微動だにしない。表情も、眉を吊り上げた闘志満々と言う感じではなく、厳しいながら無表情のままであった。武蔵は上段、奥蔵院はやや下向き加減に槍を構えていた。

武蔵も関ヶ原では、西軍で最も奮戦した宇喜多軍に所属して戦場を駆け回ったから、槍との対戦は初めてではない。源平時代の合戦は馬上弓矢を交える一騎打ちが多かったが、戦国時代に入って主体が足軽と呼ばれる雑兵による白兵戦に移行すると武器も槍が主力となり、所謂“槍合わせ”が戦場の風物詩となった。当然、武蔵自身も槍を取って関ヶ原他の戦場を駆け回った。だが、武蔵が交えたのは戦場の槍である。別にこれと言った技法や流儀のない、経験とその場の成り行きで振り回す、実戦鍛えの槍である。それに自分も使ったのは槍だったし、正式な槍術と、一対一で剣を交えるのはこれが初めてなのだ。

槍と刀の違い、長さが違う、これは当たり前である。持つ部分の長さが違う。この違いは大きい。刀のように、刃の部分に比して柄の短い得物は非常に扱い辛い物だ。重い金属製の刃を振るう際、左右の手の間を僅かしか確保できない柄を握って操るのだから相当に厄介である。対するに、槍の穂先は刀に比べて断然軽い。この立会いでは両者とも木製の得物だが、柄の部分の長さの違いは依然同じなのだ。掴む部分の長さの違いは梃子の原理他の要因も加わって、操作の難易度に相当の違いを生ぜしめるのだ。只、実用と言う点を考慮すれば持ち運びや場所の広さなどの要素も有るが、試合に焦点を絞れば、概ね柄の長い武器の方が有利なのは動かない事実なのだ。同じ腕力ならば、槍の方が尺の長い大業物を軽々と扱える。同じ柄の長い武器としては薙刀などもポピュラーでは有るが、真っ直ぐに突いて来る槍に比べ横に振る薙刀は比較的受け易いのだが、勢いが付くので押し返される恐れがある。しかし、薙刀の場合真剣と木刀の違いは大きい。塚原ト伝が梶原長門なる薙刀使いと対戦した時には、薙刀の柄を切り落として勝ったと言うが、これが木刀ならばそう簡単には受け切れなかっただろう。真っ直ぐに突いて来る槍ならば、余りその様な違いは起きるまいが、剣術の方が不利な事はどうしようもない。それにリーチの違い、これは致命的である。剣術の場合、扱える得物の長さには限界が__限界はどんな武器にでもあるのだが__ある。

勝機を掴む為には、大雑把に言えば当然懐に飛び込む必要が有るのだが、どうすればそれを実行できるのか。

奥蔵院は、懐に槍を溜めながら摺り足で武蔵に迫った。摺り足とは、基本的に武器を持った場合の足運びである。中国拳法などは打撃の際には、腰と背中のうねりを利用する為足裏をぴたりと地面に着けるが運歩の時には足は上げる。形意拳などは摺り足を多用するが。武器を手にした時にはその重み、只の重量だけではなく、得物その物のポジションを安定させる為、摺り足を用いるのだが、武蔵の歩法はその様な定則に縛られない。只、自分自身の姿勢は確保している。型に嵌らなくとも、自由自在に得物を操れるよう、二刀を用いて自らの心身を鍛えたのだ。

奥蔵院が更に距離を詰めた。もう後僅かで武蔵を射程圏内に捕らえる事ができる。武蔵にも、その位の事は判る。後の江戸時代の、専門剣術使いではない。その気になれば、有り合わせの棒切れででも戦えるのだ。槍の間合い位は実感できる。武蔵はわざと動かなかった。奥蔵院は、気合で相手を殺すが如く武蔵を睨み据えた。武蔵は、それを正面から受けると、それを更に上回る剣気で押し返した。槍術の場合、剣術ほど微妙な感覚を必要としない為、気で相手を封じると言う事は余程気の力に差がない限り、意味がない。圧倒的に格が違う場合に位押しで攻め潰すのでもなければ、効果はないのだ。何と言っても長い柄を両の腕でがっしりと掴んだ槍術は、剣術ほどに神経を使う必要はない。これが、槍の穂先で小さな的を突くとか言うような細かい芸ならば別だが。槍の試合は、言ってしまえば力技である。逆に、槍術家の方からすれば、剣客と戦う時には気でもって敵の感覚を乱せばよいのだが、気と言うのは受ける方のみならず、放つ方も余程感覚を研ぎ澄まさねば強く放射する事は出来ないのである。つまり、両の腕で槍の柄を強く握り締めている槍術使いには、剣術使いの感覚を狂わせるほどの気を放射する事は難しいと言う事である。

二人の気合が、正面からぶつかり合った。この気は、まさしく気迫とか気合とか言った感じの気である。意思力といっても良い。奥蔵院がその気を押し返すように、今一歩、いな、半歩間合いを詰めた。もう後僅か、間合いギリギリの所で二人の気迫が激突した。武蔵が不動のまま呼吸を固く引き締めた。奥蔵院が奥歯を噛み締めて両目をくわっと見開いた。

「でええーいっ__」

道場の壁をも吹き飛ばすかと言うような掛け声と共に、奥蔵院が踏み込んで凄まじい突きを放った。武蔵がまるで風に吹かれた枯葉の如くゆらりと身をかわすと、奥蔵院が槍を引き戻し、第二撃を放った。二本目は、一本目の突き程の鋭さは無かったが、伸びが有った。

「えい、えい、いえーい!」

奥蔵院が続け様に槍の連撃を繰り出した。武蔵はそれを辛くもかわし、大きく跳んで間合いを確保した。

“これは”

奥蔵院の槍術の鋭さに武蔵は舌を巻いた。何とか全て避けたものの、まさしくほうほうの体と言った感じであった。

“これが宝蔵院の槍か”

これほど鋭い突きを、武蔵は今まで受けた事も、見たことも無かった。戦場で戦わされる槍合わせは、実戦鍛えの剛強さは有ったが技術的に洗練されておらず、余り速度はない。それよりは、自分から“良き敵”を捜し、乱戦でも平然と槍を振るうのが戦場往来の槍仕であった。それに対し、この宝蔵院流槍術は戦場で何処まで使えるのかは未知数であるが、道場などの限定された条件の中に於いては恐るべき実力を発揮するようである。軍用ジープとF1カーの違いと言うものであろう。なるほど、練習によって突きが研ぎ澄まされて来るとだろう言う事くらいは武蔵も予想がついたが、槍術で、ここまで技術を鋭くできるのかと武蔵も驚愕していた。それに、奥蔵院は武蔵を間合いに捕らえるまでは絶対に無理な力押しはせず辛抱強く待ち続け、入って来たと見るや息も付かせず突きの連撃を見舞った。この精神力も、流石は興福寺の荒法師であった。もし、最後の最後までこの忍耐が持続できれば或いは勝負の結果は違った物になっていたかも知れない。

武蔵は奥蔵院の突きを何とかかわしたが、完全に避ける事は出来ず木刀でこれを受けた。無論、この位で鍛え抜いた槍術の突撃を防ぎきれる訳は無いのだが、剣で槍を受けているうちに武蔵は何かを掴んだような気がした。武蔵は中段青眼に構えを取り、今一度奥蔵院に対した。最初、武蔵は上段に構えて相手の槍に向って行った。上段は攻撃の構えである。どうせ槍の攻撃を剣で受けるのは無理だと踏んだ武蔵は間合いの不利を埋める為、一気に懐に跳び込んで勝敗を決しようとした。だが、いかに敏捷さに自信のある武蔵とて、そう簡単に鍛え抜いた槍術家の懐に飛び込むのは無理であった。

“愚かな”

奥蔵院は安易に構えを変更した武蔵を内心嘲笑った。懐に飛び込めぬのなら受けようというのか、と相手の考えの浅さを軽蔑した。奥蔵院は幼子を斬殺した男を憎悪する余り必要以上にその実力を過小評価しようとした。奥蔵院がもう少し冷静に先入観を持たずに、少なくとも一時的にでも感情を抑える事が出来れば武蔵の構えの変化をもっと警戒したであろう。尤も、武蔵とて確信があって中段に構えた訳ではない。只、上段よりは何かが違おうと思った、否、感じた。

“ほう”

胡坐をかいてその様子を見ていた胤栄が感心したように、岩床のような老顔に歪んだような硬質な微笑を浮かべた。別に武蔵の戦術がどうと言うのではない。戦っている武蔵の佇まいが実に充実した、自分の居場所を見出したような感じに思われたからだ。

“それに比べて”

胤栄は奥蔵院の感情で濁った顔を見ると、老いて顔面筋肉も硬直した表情に苦笑いを浮かべた。

“修行が足りんの”

武蔵が自分から奥蔵院に接近した。奥蔵院が牽制のように軽い突きを出した。武蔵が軽く木刀で絡めるようにそれを受けると同時にこれと言って策も無いかのように後退した。その姿に、奥蔵院は益々相手を見縊って内心冷笑した。だが、武蔵はそのやり取りで、確かな感触を掴んだのだ。

無理をする事は無い。はっきり言葉にしてそう思った訳ではないが、感覚としてはそれに近い物だった。鍛え抜いた槍術は、避けきる事も受けきる事も出来ない。ならば受けながら避ければ良いのだ。言ってみれば馬鹿みたいに簡単な話である。だが、実際に試合の場に出てみればそうは出来ないものである。だが、他に手は無さそうだった。武蔵は力を抜いて奥蔵院を見据えていた。奥蔵院は武蔵の気配の変化を、消極的な気後れと受け取った。引き締めていた筈の奥蔵院の顔に、有ろう事か小さな笑みが浮かんだ。ほんの一瞬である。だが、一旦そうなるともう元通りにするのは不可能に近い。その僅かな油断が致命的とも言えるほどの隙を奥蔵院に生んでしまったのだ。

“奸邪の者、思い知れ”

性根の腐った悪業の剣客に仏罰を加える歓楽を抱き、奥蔵院の胸は高鳴った。譬え先端に布を巻いた稽古用のタンポ槍と言えど思い切り落ち込めば骨を砕く事も出切るのだ。

勝負を決めんと一気に踏み込んで突きを放った。矢張り武蔵は木刀で軽く受け、同時に横に動いてこれを避けた。突き出した槍を手元に引くと、奥蔵院は続けて攻撃を繰り出す。武蔵は同じように切っ先で受けつつかわす。得意になって更に槍を突き出した奥蔵院には完全に油断が生じていた。成る程、油断はすまいと自らに固く言い聞かせてはいたのだが、矢張りいざとなると思い通りには行かないのである。かさに掛かって攻め立てる心理状態は積極的と言うよりも完全に驕りが生じていた。動きも雑になっている。

今一歩大きく踏み込んで激しい一撃を放った。多少強引かとも思ったが、攻めに転じた以上は手を緩めるべきではない。相手は弱気になっているのだから、息も付かせず攻撃を続ける。そうすれば相手は益々萎縮するであろう。その安易な攻撃姿勢が勝敗を決したのだった。

奥蔵院の無理な姿勢からの突きを木刀で受けた武蔵は今度は下がる事無く、踏み込んで行った。槍を受けた木剣に、力を入れず張り付くよう接触させながら奥蔵院目指して前に出た。

「あ!」

紅潮に近いほど興奮していた奥蔵院の顔から一気に血の気が引いた。慌てて槍を引いたが、武蔵の木刀は槍の柄を滑るように抑えながら、更に踏み込んで接近してくる。

見る間に奥蔵院の目と鼻の先に達した武蔵が、木刀を上段に振り被った。

「そこまでじゃ!」

武蔵が今まさに打ち下ろさんとしたその瞬間、道場の建物まで打ち崩さんかと言うほどの重みと厚みの有る声で制止が掛けられた。胤栄であった。だが、武蔵は木刀を止めず、静かに奥蔵院の額に当てがい、言わば完全に己の勝利を誇示した後にゆっくりとゆっくりと首を動かし、胤栄に顔を向けた。奥蔵院も武蔵の為すがままに任せながら、恐怖と屈辱に物凄い形相で相手を睨みつけていたが、気が抜けたように息をついて目線を胤栄に向けた。

「そこまで、そこまで、勝負有った。武蔵殿、貴公の勝ちで御座る。流石じゃ」

胤栄が立ち上がって武蔵と奥蔵院に歩み寄った。武蔵が木剣を下ろし、奥蔵院から離れた。

「奥蔵院、勝負と言うものが如何なるものか良う判ったかな」

息を殺してその場にやり所の無いように立ち尽くしていた奥蔵院が、もう一度大きく息をつくと屈辱を噛み締めるように下を向いた。

「どうじゃ、そなたはこの道場でこそ幅を利かせて居るが真の勝負師に掛かればこの始末よ。おぬしの腕前は確かに武蔵殿と互角であったかも知れぬ。だが試合となれば別じゃ。今のように、僅かな油断が命取りとなる。もし武蔵殿がその気ならばおぬしの命は無いぞよ」

胤栄は心底面白そうに言った。

「だがの、わしらは勝負師ではない、修行者であると言う事を忘れるな。何も負けたからとても一向に構わぬ。仮に勝ったとて意味は無い。奥蔵院、どうやらその顔では相当今の負けを悔しいと思うて居るようじゃな。まだまだ修行が足りぬの」

胤栄は武蔵の方を振り返った。

「武蔵殿、どうやらその面魂を見るに大分迷いは吹っ切れたようじゃな。今のように、試合と言っても何も相手を殺す必要は無い筈じゃ。わしが嘗て教えを賜った上泉伊勢守のように、不殺活人という行き方もある。できるだけ殺生を控える事が分別と言うものじゃ」



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