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四番勝負__宝蔵院流槍術 〈壱〉

宝蔵院流槍術__江戸時代以前には、兵法と言ってあらゆる武器から徒手空拳に至るまでを総合的に扱ってきた事は既に述べた。槍術もまた、各流派の中で一分野としてそれぞれに修練されてきた訳だが、槍術だけの流派として世に名の知れた団体と言えば、この宝蔵院一門が最初である。この流派の開祖であった宝蔵院覚禅房法院胤栄は興福寺の僧兵の一人であり、当然最初は薙刀を用いていたが、自ら工夫と研鑚を重ねた上、大膳太夫盛忠なる人物に槍術を学び、精妙を得て一流を開いたのであった。用いる槍は有名な鎌槍では有るが、別に槍であればどれでも使えるのだ。江戸時代の、直槍を学ぶ者は十字槍を使えぬ、と柔術の先生に批判された手習い槍術ではない。後には仏法と関係なく、槍術の流派として広まったが、この頃の門弟は一応僧形の者ばかりであった。

記録の上で宝蔵院一門と沢庵禅師の関わりを思わせる資料は残っていないが、胤栄は柳生石舟斎宗厳とは親しく、上泉伊勢守が柳生家に逗留した折にも足繁く通って教えを受けたとの事であるし、石舟斎の息子但馬守宗矩の帰依僧であった沢庵と知り合いであったとしても不思議は無いのではあるまいか。

奈良に到着した武蔵は、興福寺の境内に足を踏み入れた。現在では広大な奈良公園の一角として観光地になっており、宝蔵院の建物は影も形も残っていない。その一角にある宝蔵院に着いた時には、明らかに兵法修行者と知れる武蔵に対し、門番の荒法師が厳しい視線を向けたが、武蔵は少しも怯まず沢庵からの紹介状を静かに懐から取り出した。

「暫らく待っておれ」

武蔵を残して堂内に姿を消した衛僧が再び戻ってくると、中に入るよう促がされた。奥の一間で待っていると、若い僧が武蔵を呼びに来た。

「客人をお連れ致しました」

若い僧が恭しく声を掛けると障子の向こうから恐ろしくしわがれた声で通すよう指示された。

「失礼仕る」

障子を開くと威厳に満ちた巨体を据えた老法師が深い眼光を武蔵に放っていた。

「宮本武蔵で御座る」

武蔵が会釈すると、老入道がうむと頷いた。

「よう来られた、まずはそこに座られよ」

恐ろしくしわがれた、しかし、力強い、ハッキリした口調で促がした。武蔵は言われるままに腰を降ろした。

「沢庵殿の添え状によれば、大層迷うて居るとの事じゃが」

多少息がつかえるような感じもあるが、八十翁としては異例なくらいしっかりした口調である。

「兵法者などは目先の事しか見えぬ愚か者が多いゆえ、気が付いた時には取り返しのつかぬ間違いを仕出かす事も珍しうはないがの。そなたも考えも無う好き放題に相手を求めた挙句、気が付けば三悪道に足を踏み入れて身動きが取れぬというわけか」

「そう言われれば、返す言葉も御座いませぬ」

胤栄の言葉に、武蔵は只畏まるほか無かった。

「そなた、それ程大それた事を仕出かしたにも拘わらず、まだ懲りもせず兵法を続けようと言う存念かな?」

容赦無い胤栄の言葉に、武蔵は黙って耐えるほか無かった。

「どうやら、相当応えて居る様子じゃな。子供をも無慈悲に斬り捨てた悪漢ゆえ、羅刹の如き冷血かと思うたが、自らの罪を悔いる心は持ち合わせておるらしいの」

次々に浴びせられる酷烈な言葉を、武蔵は無言で受け続けた。

「わしとても御仏に仕える身で有りながら、薙刀や鎌槍を手に僧侶に有るまじき振舞いを繰り返したゆえ、人の事を責める事も出来ぬが。まあ、人の世とは所詮濁世に他ならぬ。どうじゃ、そなた、どうせ落ちるのならば何処までも落ちて見ようとは思わぬか?」

「落ちる?」

「左様、今更貴公がしおらしい顔で前非を悔いた所で殺された者達の御霊は浮かばれぬじゃろうて。浮き上がる事が叶わぬのなら、今ここで足掻くだけ足掻いて見るが良かろう。落ちる所まで落ちた以上、怖れるものなど無い筈ではないか」

「落ちるとは、如何なる仕儀を持って」

「試合よ」

老僧胤栄はその涸れ果てたごつい顔を歪めるようにして笑った。

「三悪道を右往左往して苦しんで居るのならば、その次の境涯、三善道に上ってくるが道の正法というものよ。まずは三善道の最下層、修羅道に這い上がってくるが良い。夢中で足掻いておるうちに光明も開けるかも知れぬ」

年老いた胤栄の言葉はどこか大雑把で、余り説法のような感じはしなかったが、武蔵にとっては回りくどい御高説よりはこの方がはるかに有り難かった。流石に年とともに年季を経た胤栄は、この方が武蔵のような男には理解し易いと読んでの事であろう。如何にも説教臭い沢庵の言葉よりも胤栄の直接的なやり方に、武蔵は兎も角も立ち会ってみたいと言う欲求の方が先に立った。

胤栄に連れられて武蔵が宝蔵院一門の道場に入ると、汗を流し、気合を入れて槍の稽古に精進していた荒法師どもの間に何ともいえぬ、分厚い緊張感が漲った。

「皆の者、よう聞くが良い、ここに居られる御仁は先に吉岡一門を向こうに廻してこれを撃破せしめた兵法者、宮本武蔵殿じゃ」

武蔵の名を耳にして、一言も発さぬままの荒法師達が異様な視線を武蔵に向けた。既に来客の有った事は知らされ、院主胤栄からも道場にて待つようにとの内示は受けていたから客が兵法者か何かであろう事は予測し得たが、それがまさか、選りにも選って一乗寺下がり松に於いて少年を斬殺したあの宮本武蔵だったとは、彼らにとっては予想外であった。何故に、このような男を道場に通したのかと言う、不満やら疑念の気配がその場一杯に充満したが、武蔵は寧ろ荒法師たちの無言の非難、いや、もっと露骨な、軽蔑とか憎悪とも言える波動をもろに受けて、逆に気が楽になった。それでも彼らは無言のまま胤栄の言葉を待った。

「吉岡の当主兄弟、門弟衆を相手にたった一人で兵法者として前人未到の奮戦をやってのけた御仁故、これと立ち会うて見る事は願うても無い好機と思い、こうして道場にご足労願うた次第じゃ。皆の者、宮本殿に一手ご教授願おうと思う者は居らぬか」

胤栄の言葉に対し、門人の荒法師どもは戸惑い乍ら沈黙した。一体、院主胤栄は何を意図してこのような申し出を行うのか。幼い名目人を斬り捨てた鬼畜の如き剣客を道場に引き入れ、あろう事か教授願うなどとは仏道に帰依する者に有るまじき事ではないのか。純情で単細胞な槍僧どもには武蔵のような残忍な男は許し難い外道なのであった。それとも、試合に事寄せてこの悪党を撃ち殺せとでも言うのだろうか?

「何じゃ、誰も居らぬとは情けない。まさか宝蔵院の僧兵ともあろう者が怖気づいたわけではあるまいな」

僧たちは戸惑って互いに顔を見合わせるような__実際にそうしたと言うのではなく、そんな感じで互いに気をやり取りしたような__気配を漂わせた。

「奥蔵院、そなたは当道場でも並び無き使い手であるが、どうじゃ、宮本殿と試合うてみる気は無いのか?」

胤栄に名指しされた奥蔵院という荒法師が戸惑いながらも、静かに闘志を胎の内に掻き立てながら、無言で前に出た。

「法院殿、その義、謹んでお受けいたし申す」

「おお、そうか、流石は当院きっての豪腕じゃ」

 この奥蔵院という日蓮宗の修行僧は、後に宝蔵院流二代目胤舜に槍術を指導したと言うほどの使い手である。

奥蔵院の目は、既に武蔵の方へ向けられ、あからさまな表情で相手を威圧していた。武蔵も、この敵意とも闘志ともつかぬ眼光を、寧ろ心地良げに受けていた。戦いの気配が、自分の中に巣食った蟠りを一気に吹き飛ばしてくれるような、武蔵にはそんな風に感じられた。


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