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三番勝負__一乗寺下り松 〈五〉


「遅いのう、武蔵は」

 一乗寺界隈の畦道を固めた門人が苛立ちながら呟いた。彼だけではない。この挙に参加した門弟たち全員が不満と不安を募らせていた。

「本当に来るのか」

最早昼過ぎである。まだ夜も明けきらぬ早朝から陣を固め、皆で敵の来襲に備えて今や遅しと闘志を漲らせて待ち受けては見たものの、半日待ってなお影も形もあらわさない。こうも待たされたのでは流石に緊張感もだれてくる。

“このまま待ち惚けのままで終わるのではあるまいか”

誰もがそう思い始めた頃、流石に数多くの戦場の場数を踏んできた佐野又左衛門が、一同に呼びかけた。

「各々方、油断召されるな。待たす、焦らすは武蔵の手である。皆が疲れて気を緩めた時を狙って攻めかかろうと窺うて居るに違いない。戦場では油断こそ最大の敵と心得よ。努々(ゆめゆめ)用心を怠るでないぞ」

一応実戦を経験した老人が言う事である。成る程そんなものかと思いながら、吉岡一門は今一度気を取り直して武蔵の登場を待ったものの、日は刻一刻と西の空を下り始め、地面に映った影も段々と尺を伸ばし始め、疲労は益々募るばかりであった。

「御大将」

門弟の一人が又左衛門老人に声をかけた。

「そろそろ陣を解くべきでは有りませぬか?」

老人は無言であった。確かに潮時かも知れない。なんと言っても既に日が暮れかかっている。視界が利く所でこそ多人数の利があるが、闇夜となれば一人のほうが断然に有利である。少々かがり火を炊いた所で、不利はどうしようもないであろう。日がな一日待たされて、門弟たちの疲労も極に達し集中力も鈍っているし、第一相手が来るかどうかも判らない。

“武蔵めはとうとう来なんだか”

無念を噛み締めながら、老人は溜息をついた。ここで武蔵が出現し、門弟達が一致団結すれば、名目人に立った又市郎の存在は彼らの連帯感の中で大きく印象付けられ、今後大いに役立つ所だったが。

“仕方無い、後はこやつらを如何におだてて事を収めるかじゃ”

門弟たちの精神的、肉体的な疲労は相当な所に来ている。これ以上無駄な事を続けても彼らの恨みを買うだけの事になる。

“武蔵め、怖気付きおって”

無茶である。

「御大将」

先程の門人が、今一度老人に声を掛けた。

「そうじゃの」

出来得る限りの威厳を保って又左衛門が頷いた。

「陣太鼓を鳴らせ」

又左衛門の言葉に門人が内心やれやれとばかりに戦鼓を手に取った。老人はそんな彼の本音を知らぬ振りで通した。遠くまで良く通る打奏音に門人達が何事かとざわめいた。武蔵出現を知らせる合図は確か法螺貝を吹き鳴らす事になっていた筈だったが、中には敵が現れたのかと緊張するものもあり、一同に混乱が生じた。消極的な事を口にすれば士気に関わると思って、又左衛門老人はわざと撤収の合図を決めておかなかったのだ。このときの混乱が彼らの緊張感を大きく殺ぎ、後に重大な失策となって現れる事になるのだ。

「一同の者、そのまま聞けい」

下がり松の根元に名目人の少年の脇を固めた高弟の一人が大声を張り上げた。

「我ら吉岡一門は、吉岡直光様の御血筋にあらせられる佐野又市郎殿を名目人とし__」

元より全員に聞こえる訳ではないのだが、聞こえた物が順に伝えて行くだろうと思い、そのまま続けた。

「播州浪人宮本武蔵に勝負を挑みたるも、武蔵はいまだ当地に姿を現さず、よって宮本武蔵は吉岡の武勇に恐れを成し、勝負を放棄したものとみなし、ここに吉岡一門の勝利を宣言するものである」

おおー、と下がり松の周辺で歓声が起こった。皆、戦勝の喜びにではなく、明らかにこの徒労からの開放を歓迎する、安堵のどよめきであった。中には、未だに武蔵が来たのかと気を張って、顔を強張らせているものもあった。やがて終結宣言が全員に伝わると、漸く皆やれやれと言った感じで下がり松の周囲に集まってきた。どの顔も複雑な感情を底に溜めたまま、兎も角一段落したと言う安心で、濁ったように弛んでいた。

「各々方」

佐野又左衛門が出来るだけ明るく、充実した感じで一同に言い渡した。

「皆、良くやってくれた。今日一日陣を固め、最後まで名目人を守り抜いたる事、誠に持って重畳至極、武門の誉れとも言うべき快挙である」

怪挙の間違いであろう。

「ここにおる、名目人又市郎共々__」

老人が孫の肩に手を置いた。

「__佐野又左衛門、後見人として貴君らの勇猛に只々感じ入り、改めて吉岡一門の武勇をここに称えようず」

馬鹿馬鹿しさと疲労感が重く一同の肩に圧し掛かっていたが、幼い名目人に頭を下げられると、ふと救われたような、和やかな気持ちになり、極めて鈍い反応ながら、一応歓声の如きざわめきが起こった。

老人の合図で一同が儀礼的に勝ち鬨を上げ、徒労と虚しさをそれぞれに整理しながら解散し始めたその時__一人の男がいまだ下がり松の袂に残った少年と老人の方へと近付いて来たのであった。


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