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三番勝負__一乗寺下り松 〈四〉


下がり松の巨木の傍らには吉岡一門の名目人佐野又市郎が、周囲には後見人佐野又左衛門を始めとして門人の中でも屈強を謳われた剣客がズラリと顔を並べ、本陣を堅めていた。

「又市郎よ、そなたは大将じゃ、堂々と腰を落ち着けて居れ。将たる者は決してうろたえず、兵を信じて只威厳を持って座って居ればよい」

「はい」

老人の言葉に健気に頷いた、南国出身にしては色白で華奢な線の細い少年は、佐野又市郎。今回の騒動で、祖父の思い付きで引っ張り出された気の毒な少年であった。鬼国といわれた土佐は荒武者が育つ事でも有名であったが、環境がそうさせるのであって生まれつきの物ではない。おまけに、祖父と二人で居候として身を縮めながらの二年余りの歳月が、すっかり少年を萎縮させてしまった。こんな孫の姿に、又左衛門老人が居たたまれなくなったのは当然かも知れない。だがこの痛々しさが、逆に門人達を奮い立たせたのであった。

又左衛門老人は満足だった。吉岡一門の不幸に付け込んで如才なく立ち回り、門弟達を立てる一方、今回の事では一から十まで画策して彼等を踊らせ、特に当日はこれまでの実戦経験で培ったノウハウを生かして布陣の配置から人数の手配りまでをやってのけ、戦争を知らない剣客達の尊敬を集めたのであった。中風の老体を引き摺って現場を駆け回り、門人達を叱咤激励する様は、時が時だけにある種の悲愴美さえ見るものに感じさせた。後は宮本武蔵が姿を現してくれればそれで万事収まると言うものであった。或いは孫の又市郎が切られるかも知れぬという恐れはあるものの、まさか当年とって十一歳の少年を手にかけるほど相手も異常では有るまい。所詮は功名目当ての浪人である。彼らの物差しは如何に天下に名を売るかと言う事であり、まさか年端も行かぬ少年を斬る等と言う事はないだろうと老人は高を括っていた。

その通り、武蔵は迷いながら一乗寺への道程を、重い足取りで歩いていた。

“俺は何の為に一乗寺へ向うのだ”

吉岡一門からこの挑戦を受けた時、武蔵の血は燃え上がった。ついこの間まで世に名も知れぬ、一介の兵法修行者に過ぎなかった若者が、天下の吉岡から、それも一門総掛かりで自分に、たった一人の宮本武蔵に挑戦すると言うのだ。こんな快挙、いや、怪挙は恐らく前代未聞であろう。

“おれが、誰にも成しえなかった事を行うのだ”

武蔵はこの時、死を覚悟した。剣風凄まじく敵陣に乗り込み、たった一人で吉岡一門と渡り合う己の凄絶な姿を想像し、彼は身のうちも震えるほどに高揚した。

“譬え朽ち果てたとしても何の悔いる事があろう”

武士として生まれ、兵法者を志したものとして、これほどまでに生きる意義を感じさせてくれる事が他にあろうか。

だが、所詮己一人の身勝手な思い込みでしかなかったのである。初め、僅か十一歳の少年を名目人に立ててきた吉岡の陋劣さに憤慨した武蔵だったが、冷静に考えてみれば彼らがどれだけ追い詰められているかと言う証左ではないか。それが自分のせいだと思うと、彼は何とも言えず物悲しい想いに囚われるのであった。

何故、人の世とは斯様に理不尽であるのか。

以前の彼は飢えていた。獣を捕らえ、木の皮をはぎ、草の根を掘り、虫や爬虫類まで食って飢えを凌いで生き抜いた。もしも世間が武蔵に充分な糧を与えていれば、彼も或いはこのような無茶な冒険を行わなかったかも知れない。そういう訳でもないだろうが、兎も角も武蔵は生きる為、食い扶持を得る為に死に物狂いで戦い、そして現在の自分を築き上げたのであった。

行く手に鳥居が見える。迷って気疲れした武蔵は何と言う事もなく、と言った感じで立ち寄った。

“行くべきか行かざるべきか”

境内の社殿の縁側に腰を据えて武蔵は考えていた。いや、考えるなどと言ったまとまった思考ではない。モヤモヤした気分を抱えたまま、時間を潰しているだけの事であった。このまま時間が過ぎてしまえば不愉快な決闘の現場に行かなくとも良い、無意識のうちにそう考えていたのかも知れなかった。

「如何に名目人とは申せ、子供を切ったと有っては武蔵先生の御高名に傷が付きましょう」

そう言って止めるものも多かった。

その内、武蔵は何を思ったか社の正面に立ち暫く佇んでいたが、ふと無意識に手が動いた。そして、今まさに鰐口に手が触れんとしたその時__

“俺は何をしようとしているのだ__”

しばし呆然としたのち、武蔵は溜息をつくように俯いた。

“見苦しいぞ、宮本武蔵”

己を罵ると、武蔵は両の拳が白くなるほど強く握り締めた。

“日ごろ不信心な貴様が、迷うた挙句この期に及んで神頼みか”

この屈辱が、武蔵の萎えかけた闘志に再び火を着けたのであった。

“何を迷うていたのだ、俺は”

硬く目を閉じ、奥歯を食いしばって気根を整えた武蔵は、やおら社殿に背を向けると踵で地を踏みつけるような勢いで猛然と歩き出したのであった。


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