二番勝負__吉岡兄弟 〈結〉
蓮華王院三十三間堂__平清盛が後白河法王の勅願によって造進したこの場所は、堂前において矢通しなど武芸を競う習わしがあることで知られている。兵法の試合には願っても無い場所であった。本日辰の刻(午前8時)宮本武蔵と吉岡伝七郎の試合が行われるのがここ三十三間堂であった。今回の試合は公式ではない。野試合である。前の試合のいざこざに懲りて、所司代板倉勝重はこの試合には関わらぬと申し渡したのであった。無論公式であれ私闘であれ、武蔵にも、伝七郎にも異存は無い。
試合の刻限はもうすぐである。門弟数人と連れ立って、吉岡伝七郎は三十三間堂に向っていた。
「伝七郎先生、武蔵めは清十郎先生との試合の折には刻限より遅れて参った故、そのおつもりで__」
「分かっておる」
同行した門弟に伝七郎は忌々しげに答えた。彼も自分で頭に血が登りやすい性格は自覚している為、その事を門人に諌められた事は面白くないのである。
「宮本武蔵と言う男は何かと姑息な手を使い申すゆえ、先生、くれぐれもそのおつもりで」
「執こいぞ、分かって居ると申しておるのだ」
試合を前にナーバスになっている伝七郎にすれば、門人の忠告は余計な差し出口なのである。元々プライドの高い男だけに、他人にあれこれ言われる事を激しく嫌うのであった。
吉岡一行が三十三間堂に着くと、そこに一人の男が立っていた。
「吉岡殿、良くぞ参られた、存分に試合われよ。これは播州浪人宮本武蔵で御座る」
本堂の正面に仁王立ちした男は良く響く声で、聞く者の肝を拉ぐほどに名乗った。
「な、何?」
「宮本武蔵だと?」
伝七郎をはじめ吉岡の門人たちは武蔵が遅れて来るものと思い込んでいた為、思わず戸惑った。飽くまで少々の動揺である。しかし武蔵は天性の勝負師だった。伝七郎の僅かな心の乱れを見逃さず、更に相手の神経を掻き乱すべく言葉を重ねた。
「吉岡殿、身共が前回と同じ愚を犯すとでも思われたか?」
武蔵のこの一言に伝七郎は逆上し、血相を変えて叫んだ。
「宮本武蔵、如何に!」
“五輪書”火の巻__むかつかすると云事。
様々な手を用い、策を施し、相手の神経を掻き乱し判断を狂わす事も兵法の一つであると武蔵は後年書き残している。噂に聞いただけではあるがこの吉岡伝七郎直重は腕前こそ兄清十郎に勝るとの評判だが、直情径行で頭に血が昇り易い性格だとの事であり、武蔵はそれを利用しようとしていた。計略は図にあたり、見事に伝七郎は武蔵のペースに乗せられたのである。清十郎が危惧した通りになった。前日兄に指摘された事を思い出し、伝七郎は平常心を取り戻そうとしたが、一度火が着いた怒りを鎮める事は最早不可能だった。
成功した、と見た武蔵は侮蔑の色を浮かべ、更に連打を放つように言った。
「吉岡殿、心気が整わぬように見受けるが、貴公が落ち着かれるまで待ったとて当方は一向に差支えないが」
「黙れ、武蔵。腰の物を抜け!」
次々に投掛けられる嘲罵に度を失った伝七郎が、猛り狂って吠えると腰に帯びた名刀一文字を引き抜き、青眼に構えた。
「どうした、宮本武蔵、抜け、抜かぬか。臆したのか」
伝七郎に目を据えたまま、わざとゆっくり何かの儀式のような所作で武蔵は腰の村正を抜いた。
村正__江戸時代、徳川家にとって不吉な刀であるとして妖刀などと呼ばれたこの名刀、何故武蔵がこれを差しているのかというと。
徳川家康の祖父松平清康、父広忠は二代続けて家来に殺されたのだが、その時使われたのが何れも村正であり、息子の信康が切腹した時にもその首を落とした介錯刀がやはりこの村正だったと言うのである。歴史家によれば、村正の産地が偶々松平家の田舎である三河に近く、当然これを差している者も多かった為確率的に事故発生率が高かっただけであるとの事だった。しかし、意外に縁起担ぎの家康は我が家に祟る妖刀であるとし、これを嫌った為、時の権勢家に阿った所有者たちは次々とこれを手放したのであった。その為村正の値は暴落し、これほどの名刀が信じられぬほどの安値で殆んど投売りされていた為、武蔵のような浪人者が容易く手に入れたのである。余談だが、後に大阪の陣で真田幸村は打倒徳川の祈願を篭めこの村正を腰に帯びて戦陣に臨み、水戸黄門として知られる徳川光圀がこの気概こそ武士たる者の鑑であると絶賛した。更に余談ではあるが、幕末、所謂倒幕の志士たちも真田雪村を気取って村正を争って求めたとの事である。
「構えろ、武蔵ィ」
伝七郎は堪えかねたように叫ぶと青眼に構えた。武蔵はその言葉を無視し、得物を右手に掴んだまましばしの間立ち尽していた。ほんの僅かの間であったのだが、その時間は伝七郎にとって途方も無く長いように感じられた。伝七郎は奥歯を軋らせ、両目を剥き出しながら刀の柄を握り締めた。
怒りに全身を振るわせた伝七郎が何かを言いかけたその時、気合を外すような絶妙の間で、武蔵が動き出した。別に構えを取るでもなく、右手に刀をぶら下げたまま伝七郎に向って武蔵が近付いてくる。
「く」
相手の不可解な行動に伝七郎は一瞬混乱した。ほんの一瞬である。だがその一瞬の迷いがこの勝負を決した。
爆発するような気を全身から噴出した武蔵が、凄まじい形相と共に太刀を振り被った。伝七郎の目には武蔵の姿が、一瞬百丈もの巨体に見えた。
「おあ!」
驚愕した伝七郎が太刀を振り上げた時、武蔵は疾風のように伝七郎の横を駆け抜けた。
何が起こったのか、二人を見守る吉岡の門弟にも、当の伝七郎にも把握しかねたが、両者が擦れ違い猛然とふり返って再び相対した時には、伝七郎の右腕からは真っ赤な鮮血が夥しく流れ出していた。
「あ!」
門弟一同が悲痛な声を上げた。
斬り付けられた伝七郎の右手は、辛うじて柄を握ってはいるものの、出血の度合いから見て相当な深手であることは間違いない。恐らく動脈が断ち切られ、上腕三頭筋が切断された事は確実である。
最早勝敗は決したも同然であった。
傍で見守る吉岡の門人たちは、何か理不尽な思いで目の前に起こった事実を眺めていた。
だが、武蔵は気息を整えると無慈悲に伝七郎に迫った。伝七郎は踏み止まった。彼は堪えていた。迫り来る死の恐怖に対し、逃げる事無く向って行った。最後の気力を振り絞り、蝋のように白くなった右手で柄を握り締め、武蔵の肉迫に応じた。余程力が入っているのだろう、手傷を負った伝七郎の右腕からは、幾条かの血が噴出していた。何とか刀を握ってはいるものの、恐らくその右手の感覚は殆んど無いに違いない。握力の失われた右手に気力を込めると、伝七郎は大上段に振り被った。殆んど同時に武蔵も太刀を振り上げた。
「やめてくれー」
堪えきれぬように誰かが叫んだ。
「ぬお」
「くあ」
両者が太刀を振り下ろした。
「ああ__」
吉岡の門弟達が絶望の底へと突き落とされ、膝から崩れ落ちる者もいた。
そこには、袈裟懸けに刃が肩に食い込んだまま天を睨み、全身を震わせながら立ち尽くす伝七郎の無残な姿があった。
武蔵の勝ちであった。
返り血を浴びながら残心のまま静止していた武蔵が更に深く太刀を引き絞ると、声にもならぬ呼息を吐き出した伝七郎は爪先立って背を反らしながら太刀を取り落とし、宙に有る何かを掴もうとするように両手を天に突き上げた。その手を強く握り締め、最後の力を振り絞ると左肩と右腕から真紅の水流が噴き出し、周りを鮮やかに染め上げた。血液と共に生命の最後の一滴まで放出した伝七郎の身体が力無く傾ぎ、ドウと石畳に倒れこんだまま力の強張った顔で不思議そうに大空を見上げていた。
全身を鮮血で染め上げた武蔵が、赤鬼のように立ち尽くし、舌を伸ばして口元の血を舐めた。