零番勝負__神子上典膳 〈弐〉
少年が意識を取り戻すと、武士が傍らから声を掛けた。
「見事な兵法者魂じゃのう、わっぱ。その幼年で見上げたものじゃ」
だが、少年はそのいたわりの言葉も耳に入らぬのか、涙を流して地面を叩いていた。
「糞お、負けじゃ。わしの負けじゃ」
手から血が流れるのも構わず、少年は叩きつづけた。
「わしは今まで負けた事など無かった。例え相手が大人でも、負けたりはせなんだのじゃ。だが、とうとう負けた。わしはもう生きてゆく値打ちも無いのじゃ」
子供だけに言う事も大袈裟である。だが、その激しい思い込みこそが少年の少年たる所以なのでは無かろうか。
「負けてはおらんて」
侍が傍らから声を掛けた。
「何故じゃ、何故負けておらんなどと言うのじゃわしが子供じゃから大人相手には勝負にならんからじゃというのか?」
「そうではないわ。今の立会いは只の稽古じゃ。勝負を決する為の試合ではない。__わっぱ、良いな」
武士が改めて強い調子で少年に言い聞かせた。
「兵法の世界__いや、大人の世界にあっては、強いか弱いかなどで物事を決めたりはせぬのじゃ。子供ならば相手よりも自分が強い事を見せ付ければそれで事は終わるじゃろう。だが大人の世界はそうではない。必ずしも強いものが勝つとは限らぬ。特に兵法の勝ち負けなどは時の運だ。兵法の試合、分けても真剣の試合は二度目が無いものぞ。仮に弱い者が僥倖に恵まれて勝ったとしても、強い方が武運拙く敗れたとしても、それを証明する機会は二度と訪れる事は無いのじゃ。過去に於いて如何に百戦百勝無敵を誇った剣客とても、一度敗れればそれで仕舞いじゃ。敗者として人々に蔑まれ、全ては終わる。名さえも残らぬのだ。故に軽々しゅう試合などはせん事じゃ。今のは試合ではない、稽古じゃ。だからお主は負けた訳ではない。分かったな?」
少年は、武士の言葉そのものよりも、その情念に動かされて理由も無く納得してしまった。
「その元気が有れば一人でも帰宅できよう。わっぱ、大丈夫じゃな?」
武士の意外なほど優しげな言葉に少年は無言で頷いた。武士も頷き返すと背中を見せて、立ち去ろうとした。
「待ってくれ」
その背中に、少年が声を掛けた。
「あんたの名前は何と言うのじゃ」
立ち止まった武士が、無言でふり返ると、その双眸には暗い、硬質な光が堪っていた。
「わしの名を、聞きたいと言うのか?」
その目に湛えられた光に射すくめられた少年は、思わず身震いがするほどだった。
「わしの名を聞きたいと言うのなら、それなりの覚悟の上であろうな」
「覚悟?」
「左様」
少年には分かりかねた。名を聞くくらいで何故に覚悟が必要なのか。
「良いか、わっぱ」
侍の全身から立ち上る気は、まさしく殺気であった。
「名を名乗ればそれはもう試合だ。試合となればわしは必ず相手に止めを刺す。殺すか、二度と太刀を握れぬくらいにまで徹底的に打ちのめすのじゃ。今、己がわしの名を聞けば、後々貴様が高名となったとき、自分は幼少の身でわしと立会い、引き分けた事があると言うやも知れん。その時、わしが己を打ちのめし、その口を封じる事ができれば問題は無い。しかし、その時、己は兵法者として頂点を極め、わしは逆に老いているやも知れん。そうなってはいかぬのでな、今この場で討ち果たすのだ。もし貴様が我が名を知りたいと申すのなら、それ相応の覚悟の上で聞くと言うのだな?」
少年は硬い沈黙を飲み込んで、侍の顔を睨んでいた。侍も、無言で少年を見返している。 暫しの時が流れた。
「聞きたい」
少年が、緊張の余り掠れるよう声で言った。
武士がにやりと笑った。
「分かった、分かった。わっぱ、わしの負けだ。名を名乗るのは勘弁せい」
武士がそう言って再びきびすを返し、今度こそその場から立ち去って行った。
後には、少年だけがポツンと一人、取り残されていた。