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二番勝負__吉岡兄弟  〈七〉


“京流宗家、吉岡兵法所もこれで仕舞いか”

宮本武蔵と吉岡伝七郎の試合の当日、道場の板敷きに端座しながら、清十郎は考えていた。

伝七郎は恐らく生きては戻れまい。それは予感等ではない、殆んど確信に近い想いであった。

“__伝七郎__”

不憫な弟であった。

性格は矯激で粗暴だったが、清十郎には無いカラリとした所も確かにあった。幼い頃から兄に対して対抗意識を剥き出し、事ある毎に競争を挑んで来た弟だった。余り他人に対して特別な意識を抱かぬ清十郎ではあったが、この弟だけは別だった。余りに可愛げのないその態度に、近親憎悪に近い感情を抱く事さえあった。この弟を殺してやろうかと思った事も一度や二度では無かったし、向こうも恐らく同じであろう。生まれながらに跡取としての地位を約束された兄に対する嫉妬であったか、それとも総領としての責任感から常に神経を尖らせていた自分の方が、知らず知らずの内に弟に辛く当たっていたかも知れなかった。そしてそれが互いの業前を大いに進展させた事は紛れも無い事実であった。それに、名門吉岡家の誇りが異常に強く、徳川新幕府の仕打ちに対してもその怒りは凄まじい物があった。

「のう、兄者、我ら兄弟が試合を重ねればその武名も四方に轟くじゃろうて。そうすれば公方様も我が吉岡を召し出されようぞ。その時はわしが江戸に下る。兄者は京に在って吉岡本家を守ってくれい。江戸で大きな顔をしておる成り上がり者どもに思い知らせてくれるわ」

どちらかと言えば兵法に倦怠感のような想いを抱いていた清十郎に比べ、伝七郎は前向きに取り組んでいた。

“伝七郎、我ら兄弟は遂に互いを理解できなかったな”

これが今生の別れかと思うと清十郎は伝七郎を悼んで涙を流したのであった。

室町幕府が崩壊した時にその指南役であった吉岡家もまた滅びるべきであったのかも知れない。名家の誇りを強く抱いた伝七郎の敗死とともに京流宗家も滅びるのであろう。象徴的な情景ではないか。

恐らく武蔵と伝七郎、両者の業前は互角であろう。だが、武蔵には独特の静けさがある。否、到底静けさ等と言える代物ではあるまい。あれは何と表現すれば良いのであろう、あれ程までに激しい剣気を放ちながらその心のうちには髪の毛一筋ほどの乱れも、動きも、焦りもない。宛ら炎に包まれた鉄の像の如き恐るべき精神力であった。

“間違いない、あの宮本武蔵と言う男、これから先も益々勝ち続け、天下に名を広める事であろう”

あの剣技、力量、圧倒的な存在感、全身から立ち上る業火のような凄まじい闘気。恐らくは後にも先にもあのような剣客は現れる事は無いだろう。

「伝七郎」

 試合の前日、清十郎は伝七郎に最後の助言をした。

「武蔵の剣には形が無い。己の技を振るえ。相手の出方を窺おうとか、太刀筋を見極めよう等とは考えるな。これしかない、この一手しかないという得手を先に出すのだ。相手を意識するな。成敗は天に任せ、己の技を使う事に専念しろ」

「兄者、(かたじけな)い」

「それからもう一つ」

清十郎は言った。

「お前は怒りに我を忘れる事がある。自分のもてる力を存分に振るう為には心を静め、己を抑えるのだ。さすれば__」

勝機がある、と言う言葉を清十郎は呑み込んだ。

「必ず勝てる」

「心得た、兄者」

伝七郎が、清十郎に叩頭した。

「兄者」

伝七郎が兄に向って苦しげな目を向けた。

「仮に兄者の言うが如く、宮本武蔵なる男が天下無双の使い手であったとしても、あ奴目が吉岡憲法と引き分けたという評は天下に鳴り響く。武蔵が他にも名の知れた剣客と打ち合い、これを破ったというなら兎も角、今まで世間に聞いた事も無い兵法家と引き分けたとあらば、世の者どもは我ら吉岡を嘲うであろう。無論、天下に名の知れた剣客はそんな武蔵を相手にする事など無い。それが兵法の世界と言う物だ。武蔵の名ばかりが上がり、吉岡の名は地に落ちる」

清十郎は黙って伝七郎の言葉に耳を傾けていた。

「兄者、勝負は時の運だ。わしは兄者の言う通り自分の技を振るうだけだ。そして必ずや宮本武蔵を切り捨ててくれる」

清十郎は何も言わなかった。それが兄弟の間で交わされた最後の言葉であった。

清十郎は歯軋りするような思いで昨日のやり取りを思い出した。

矢張り自分が武蔵との再戦に臨むべきであったか。

“無駄だろう”

清十郎が敗れれば伝七郎は武蔵に戦いを挑んだに違いない。

“伝七郎”

愚かな弟を憐れんで清十郎は肩を落とした。

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