二番勝負__吉岡兄弟 〈六〉
「兄者、兄者!」
怒りを全身に漲らせ、吉岡伝七郎が兄に詰め寄った。
「引き分けとはどういう事じゃ」
清十郎は、穏やかな表情で怒りの収まらない弟を見返した。案に反していささかも動揺も見られない兄を、やや戸惑ったように伝七郎は見詰めていた。
「答えぬか、兄者」
「引き分けではない」
清十郎は静かに答えた。
「あれは俺の負けだ」
「__」
伝七郎は言葉を失い、目を白黒させながら、口から吐き出しかけた何かの言葉を呑み込んだ。
「板倉殿には兵法の事は分からぬ。あの試合は完全に俺の負けだった。武蔵に殺意があれば俺の頭蓋は粉々に砕かれていただろう」
「兄者」
目を三角に吊り上げて、伝七郎は兄に言った。
「どういう事だ、説明せい、兄者」
「何も説明する事は無い。今言った通りだ」
「納得いかぬ」
何か理不尽な言葉を聞いたような思いで伝七郎は兄に食い下がった。
「兄者は一体何を言いたいのじゃ。わしには兄者の心が判らぬ」
伝七郎の言葉は自らの偽らざる胸中の告白のようであった。今の今まで彼ら兄弟は、一門の名誉と将来を賭けて群がり来る挑戦者をそれこそ死に物狂いで下して来た筈ではなかったのか。徳川新政権によって面目を蹂躙された吉岡家の誇りを取り戻さんと、危険を承知で得体の知れぬ一旗組の草剣客たちの挑戦に応じ、これを撃破して来た筈であった。新興の、一刀流だの新陰流だのを見返し、京流宗家吉岡兵法所に昔日の栄光を取り戻そうと誓ったのではないか。それが、当主吉岡憲法こと清十郎は、名も知れぬ野良剣客と打ち合って引き分け、それ所か涼しい顔で自らあの勝負は負けだというのである。伝七郎には分からなかった。一体この兄に何が起こったのか、彼が何を言いたいのか。
「兄者……」
伝七郎は悔しさの余り拳を握り締め、奥歯を噛み締めて兄を見詰めた。
「伝七郎」
清十郎は、未だ兄の言葉を受け入れ難い表情の弟に静かに言った。
「我々兄弟は、吉岡一門は、一体何の為に戦って来たのであろうな」
「兄者……」
「何を目的として一門に挑んでくる剣士たちを相手に血で血を洗う死闘を繰り広げてきたのだ」
「何が言いたいのだ、兄者」
余りに静かな、悔しさも怒りも無い、寧ろ開放されたように静かに満ち足りた清十郎の佇まいに、伝七郎は張り詰めていた気持ちが萎え、力無く肩を落とした。
「答えてくれぬか、伝七郎」
伝七郎は言葉も無い。兄の心中を察しかねて思考が停止していた。
「俺はな、伝七郎」
清十郎の目は遠くを見ていた。目の前の伝七郎ではなく、遥かな目に見えぬ遠くである。
「剣の名家吉岡家に生まれた、只それだけの理由で修行してきた。家名を守る為、骨身を削って腕を磨き、名乗りを上げて来る他流の兵法者と剣を交え、命懸けで戦い打ち破ってきた。必死だった」
「兄者」
「だがその度に虚しさが湧き上がって来た。最早過去の亡霊と成り果てた吉岡家を盛り立てる為意味も無く試合を行い、時に謀殺してでも家名を守るその浅ましさに」
「……」
「伝七郎、お前は思った事は無いか。今の生き方が本当に自分の生きるべき道だったのかと。ほかに何か生き方が有ったのではないかと」
「兄者は」
伝七郎が何かを噛み殺したような声で言った。
「兄者は以前から迷うておった」
清十郎の静かな眼差しに、肯定の色が浮かんだ。
「兄者は逃げたいだけじゃ、己自信が今の立場から逃げたいだけじゃ」
兄に対しどのような言葉を送って良いか分からず、伝七郎はやっとそれだけを言った。
「そうかも知れぬ」
清十郎はその言葉を否定しなかった。
「そう、俺は迷うておった。運命に従い、状況に流されるまま闘い、何度も何度も繰り返す疑問に対し答えを出す事もならず、今をやり過ごす事だけを考えて来た。そして__」
何のわだかまりも無く話す清十郎の姿を、伝七郎は脱力感と共にやり過ごしていた。
「とうとう、答えが見つかったのだ」
「答え、だと?」
「言葉では解決できぬ迷いを、言葉ならぬ方法で断ち切った__あの男が」
「あの男?」
「武蔵だ」
その言葉を聞いた途端、伝七郎の全身がかっと熱くなった。清十郎の様子に流されて、忘れていた怒りに再び火がついたのだ。
「あの男は強い」
伝七郎は硬く喉元を強張らせた。
「武蔵と相対した時に直感した。あの男は俺が今まで相手にして来たどの兵法家とも違うと」
「……」
「あの武蔵と剣を交えた時、俺は思った。世にはあのような男もいるのだと。あれほどの剣客が存在する事を俺は始めて知った。伝七郎、矢張り世間は広いものだ。我々は井の中の蛙であった」
「もう良いっ!」
堪りかねたように伝七郎が叫んだ。
「兄者は臆したのじゃ、兵法に。一門の名誉を背負って戦う事に」
「そうかも知れん」
「今の兄者に吉岡家の当主たるべき資格は無い」
「その事だ」
待っていたように清十郎が言った。
「俺はお前に家督を譲ろうかと思う。以前から考えておった事だが、漸く決心が着いた。今回の事は良い機会だ。伝七郎、明日からはお前が吉岡の当主、吉岡憲法だ」
「……兄者……」
伝七郎は怒りを通り越して哀しみさえ感じて項垂れた。彼は今までこの兄を目標に、時に尊敬し、時に憎しみさえ抱きながら心中密かに対抗意識を燃やし、追いつき追い越す為兵法の修行を続けて来た。清十郎を凌ぐ為、今まで苦刻奨励し、辛い日々に耐えてここまで修行を続け、今では兄以上の使い手との評判であったが、全てはこの兄を目標にして来たのである。
「__分かった__」
「そうか」
「兄者の恥はこの俺が雪ぐわ」
「何?」
「宮本武蔵はこの俺が幣す」
「伝七郎」
清十郎の目に、暗い光を双眸に宿した弟の思い詰めた表情が映った。その顔に死相を見出した清十郎は眉をひそめて弟を諌めた。
「馬鹿な真似は止せ、命を無駄に捨てるつもりか?」
「何?」
伝七郎は険しい表情で兄を見返した。
「武蔵は俺との試合を曖昧に片付けられた事を憤っている。次に戦えば容赦無く命のやり取りとなるぞ」
「兄者」
伝七郎は、今にも掴み掛りそうな形相で兄に言い返した。
「譬え兄者でもこの俺を侮辱する事は赦さんぞ」
「侮辱などしては居らぬ」
激しく息巻く弟に、清十郎が諭すような口調で言った。
「兵法と言う物の恐ろしさは伝七郎、そなたも心得て居ろう。それにあの宮本武蔵という男は特別だ」
「__」
「恐らくはあの男に敵う者等は居らぬだろう。彼は百世までも名を残すほどの兵法者だ。武蔵に敗れた事を、俺は少しも恥とは思わぬ」
「そこまでじゃ!」
伝七郎が歯を食いしばり、何かに耐えるような形相で全身を震わせていた。
「もう良い、兄者。今日を限りに兄弟の縁を切る。わしは必ず武蔵を倒し、吉岡の恥を晴らして見せるわ。其の時はわしが当主となる。兄者は隠居でも何でも好きにすれば良かろう」
「……」
伝七郎の凄まじい怒りを目の当たりにして、清十郎はこれ以上掛ける言葉も無かった。今の彼に何を言っても無駄であろう。