二番勝負__吉岡兄弟 〈四〉
遅着の無礼を咎めようと門弟の一人が何かを言いかけたが、清十郎がそれを制した。
「吉岡憲法清十郎直綱でござる」
清十郎が武蔵に一礼した。
「それでは相手も参ったゆえ、即刻試合を開始したいと存ずるが、双方とも異存ござらぬな」
「当方に不都合はござりませぬ」
清十郎は静かに言った。
「同じく」
武蔵も答えた。
両者同寸の木刀を手に相対すると、板倉が二人の間に立って言った。
「双方、この試合に於いてどのような結果と成ろうとも遺恨は残さぬように、左様心得られよ」
試合を前に、対面した武蔵と清十郎に対し、板倉が確認を取った。この試合は木刀を寸前で止める、稽古試合であると決めており後々遺恨が残っては面倒な為、板倉は二人にあらかじめ釘を刺したのだ。
「それでは」
板倉の合図で、武蔵と清十郎が一礼した。
「いざ」
「参る」
試合が始まった。
両者オーソドックスな中段構えで相青眼に対峙した。清十郎は武蔵の目を見据えた。武蔵の目は意外にもくわっと見開かれた不動明王の如き目付きではなく、瞼を半分閉じたような、眠そうな感じの目であった。これが武蔵流の“観の目強く、見の目弱く”見る為の目付けである。彼が後年著した、
『五輪書』
によると、眉間にしわを寄せ、額にはしわを寄せないのだそうである。中国拳法で言う所の二目平視と同じである。
しかし、その五体から放たれる気合は、炎のように湧き上がり、物凄い重圧を持って清十郎に迫って来る。それを受けている清十郎は、思わず目がくらみそうに成った。彼は未だかつてこれほどの気を放つ兵法者を見た事がなかった。この感覚を何と表現すればよいのであろうか。圧倒的などという在り来りな言葉では表しようのないその凄まじい威圧感に、清十郎はこちらも気力を振り絞って武蔵の放つ気に対抗したが、それでも押し返されそうであった。武蔵はかつて、山中の小屋で“飯綱使い”と呼ばれた老人__後に武蔵は知ったのだが__二階堂流の名人、松山主水の秘奥“心の一方”を受け、もって生まれたその気に益々磨きが掛かったのだった。
清十郎は目も眩まんばかりの重圧に耐えていた。清十郎だけではない。周りで見守る吉岡の門弟も、板倉も、板倉の伴の者もその場に居合わせた全ての人間が、武蔵の気に呑まれて息を殺して見守っていた。
武蔵は動かない。
清十郎もまた、その場から一歩も動けなかった。
“おお__”
清十郎は息を詰め、渾身の気力を振り絞って武蔵の発する強大な気に対抗していた。殆んど物理的なまでのその重圧に、彼は臍下丹田に意識を集中し、歯を食いしばって耐えている。“気”の正体、と称して、さまざまな人間が、様々な説を言いたてているが、そのどれもが当たっているようでもあり、そうでもないと言える。“気”とは、様々な要因が絡んで生じる現象であり“気”なる単体の物質が存在する訳ではないのである。血液と言うものを考えて頂きたい。純化学的物理学的に血液と言う元素があるのではなく、赤血球、白血球、血小板などの物質が混じり合って、所謂生命活動__これに関する定義も定かではないが__を維持する為の液体、即ち“血液”を形成するのである。“気”も同じ事であった。プラズマだとか何だとか色々な事が言われるが、それは“気”の一面を述べたに過ぎない。霊現象をプラズマと表現する事は、自動車を称してあれは鉄、人間を蛋白質の塊である、と言うのと同じ、事実の一面を述べたに過ぎないのである。それはいいとして、武蔵が放つ“気”は、プラズマと言うよりは、神経系統が放つ精神電流であった。生物の体が意思のままに動くのは、脳に端を発する指令電流によるもので、鮫はこの運動の際に発する神経パルスを感知して獲物の所在を知るという。外部から電流を流されれば当然の事ながらその当人の神経系統は干渉を受け、随意運動が困難に成る。武蔵の強烈な脳神経細胞の発する精神電流が、プラズマを媒体にして__純物理学的にはプラズマその物は絶縁体だそうだが、ここは方便として受け取られたい__清十郎の神経感覚を圧していた。
気ばかりではない。武蔵の構えには形と言うものが感じられない。構えと言うものは、人間の体の尤も動き易い、力の出しやすい形である。ピッチャーが時速140kmの剛速球を放る為のモーション、それを打ち返すためのスィング、飛距離300ヤードのドライバーショット、これらは筋肉の構造に乗っ取ったモーションすなわち“構え”の賜物なのである。持つ部分に比して全体の尺の長い刀という代物は、譬え両手をもってしても自由自在に動かすのは難しく、それなりの体勢からでないとなかなか扱い辛い。彼が修行した二刀流、後年“二天一流”と称した両手に二本の刀を持って修行する練習法が生み出した“有形にして無形”の剣は、これらの運動律に囚われぬ、状況に応じた動きを身につける為の鍛錬法であった。金属の棒、鉄パイプでもゴルフのクラブでも構わない、片手に一本ずつ持って振ってみて頂きたい。両手で一本の棒を振るうのと比べれば、その使い辛さが分かるであろう。軽い竹刀くらいなら片手ずつで扱うくらい何ともないが、その得物が鉄の棒であれば簡単には行かないのである。それだけに力もつく。バーベルなどを持ち上げるより、よほどハードでアクティブな実戦的筋力トレーニングなのである。中国拳法では“武器は手の延長”との考えから、各種武器の錬法も修練に含まれるのは、重い金属機器を振る鍛錬は、大変有効なウェイトトレーニングになるからなのだ。銀箔に竹光の剣を振り回す表演大会の軽快で華麗なる演武、いや演舞とは根本が違うのである。おまけに平たい形状の刀は、真っ直ぐ縦に振らねばスムーズに動かす事は困難で、片手で振る事により刃筋を無理無く真っ直ぐに動かす感覚を身体で覚えることにも成るのである。両者の身の丈はほぼ同じくらいなのだが、この為清十郎は武蔵の間合いが掴めなかった。
いつの間にか武蔵が目の前まで迫って来ている。武蔵がどう動いたのか、いつの間にこんなにまで近付いたのか、それとも自分から距離を詰めたものか、清十郎には記憶も実感も無かった。その姿は、まるで目の前に巨峰が聳え立つような威厳と迫力と威圧があった。あともう少しで清十郎の間合いに入る。それは武蔵の間合いでもある筈だったが、先に述べたような理由から__清十郎にしてみれば武蔵が如何なる鍛錬を行ったかなどは分からないが__果たして自分と武蔵の間合いが同じなのかどうかは判断の仕様もなかった。
“これは__”
全身から、水を被ったように清十郎は汗を滴らせていた。
もう少しで太刀先が届く。あと一歩踏み込めば打ち込めるのだ。
その僅か一歩先に待つ物が、果たして勝利なのか、それとも敗北なのか。
物凄い緊張が武蔵と清十郎を締め付けていた。この二人だけではなかった。試合を見守る全ての者たちが、この異様な気の磁場に支配され、息を詰め、全身を強張らせながらこの戦いに魅入られていた。誰もが言葉はおろか、身動ぎさえ出来ずにこの立会いに魂を囚われている。
武蔵が今一度全身の気を搾り出し、清十郎を押し込んでいた。清十郎が最後の力を振り絞ってこれに応じた。
両者の緊張は最高潮、いや、限界に達した。その瞬間__
何かが弾けた。
何かが消えたのかも知れない。
武蔵と清十郎、両者同時に動いた。
世界中の何もかもが凍りついた様な一瞬の、その後__
「おお__」
板倉が、息を呑むような呻き声を漏らした。
武蔵と清十郎__両者の木刀が互いの頭上で静止したまま、二人は残心のまま立ち尽くしていた。