二番勝負__吉岡兄弟 〈参〉
「遅い、何をしている」
門人の一人が苛立たしげに口走った。試合の時刻にはもうそんなに間は無い筈である。
「誠にのう」
検分役を買って出た板倉も、ポツリと呟いた。
「宮本武蔵とやら、臆して逃げおったのか」
「或いは冷やかしであったか」
「違いない、そやつ、我らをたばかったのじゃ」
門弟たちが騒ぎ立てた。
「静まらぬか」
清十郎の一言に、いきり立つ門人一同が口をつぐんだ。
更に時間が流れた。もう約束の時限は過ぎている筈ではないか。
「えーい、何をしているのだ、宮本武蔵は」
「確かに遅れておるのう」
板倉がまたしても言った。
「所司代」
門弟の一人が板倉の前で膝を折った。
「この時刻になってなお来ぬ以上、武蔵は試合を放棄したものと存ずる。されば本日の試合は、当方の勝といたしとうござる」
「いや、まだそうと決まったわけでは……」
「いいや、相違ござらぬ。宮本武蔵は吉岡憲法を恐れ、試合を投げ出したに違いございませぬ。そうと決まった以上、これ以上の長居は無用でござる。所司代、ご検分役として吉岡の勝ち名乗りを」
「それは……」
板倉は当惑しながら門弟に答えた。折角これだけの舞台を用意して、わざわざ自分から出向いたのに、何も見るものも無く帰るのは板倉としても惜しかった。
「まだ来ぬと決まった訳では……」
「いいえ、譬えどのような理由があろうとも、試合を申し込んだは先方。それがこの無礼許し難き義にござれば」
そんな門人を清十郎はやり切れぬような思いで見詰めていた。
「所司代」
「よさぬか」
清十郎が門弟を窘めた。
「まだ来ぬと決まった訳ではない。今少し待とう」
「宮本武蔵とやらは最初から嫌がらせのつもりでこのような無駄足を踏ませたのでは有りませぬか」
「かも知れぬ」
それならばその方が良かろうと清十郎は思った。その時__
「所司代、あれを」
板倉の伴の者が遠くを指差した。
蓮台野の野良道を進んで来る、只ならぬ気配を全身から漂わせた、見るからに武芸者然とした一人の男。
「あれがもしや宮本武蔵では」
恐らくそうであろうと清十郎が、いや、そこに居合わせた誰もが思った。
「おお、漸く来たか」
板倉がほっとしたように言った。
「あやつめ、今頃のこのこと現れよって」
吉岡の門弟が腹立たしげに毒づいた。
やがて、一同の待つ試合場に到着した男は、静かに目礼すると底響きする硬い声で名を名乗った。
「播州浪人宮本武蔵、只今参着いたし候」
六尺近い巨体から、重々しい威圧感を漂わせたその男、宮本武蔵は、間違いなく新免武蔵と同一人物であった。徳川新政権下の今日、宇喜多家の家臣であった新免姓では何かと都合の悪い事もあろうという真田幸村の助言により武蔵は名乗りを一時改め、在所の宮本村から苗字を付けたのだった。ほとぼりが冷めれば元に戻すつもりだったのだが、結局彼はこの宮本姓の際に一気にその名を高らしめた為、生涯、そして後世までこの普段の名乗りとして宮本武蔵の名で通す事になったのである。更に言えば彼の出生地である宮本村は美作に在るから、正確には作州浪人と名乗るべきであったが、何故か武蔵は生涯“播州浪人”を自称しつづけた。何か美作に嫌な思い出でも有るのだろうか。彼の服装は、旅塵で汚れてはいたが、一応何とか見られる服装であった。極限まで汚さを追求した事で知られる、かの有名な“武蔵スタイル”はまだこの頃は確立されていない。