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二番勝負__吉岡兄弟  〈壱〉


慶長九年__関ヶ原での大勝以来、家康が敷いて来た暫定政権が幕府として朝廷に正式に認可された翌年である。京洛の真中、三条大橋の袂に掲げられた高札に、人々の目は集まり、大いに評判となっていた。

「何ちゅうて書いてあるんどす?」

「京流宗家吉岡兵法所当主吉岡憲法殿、かねてより貴公の高名四方に並びなく、当方是非とも一度その高技を拝察いたしたく、この度我が一剣を持ってしかと確かめんと……」

「おい、こら、果たし状やえ」

「果たし状?」

「誰にや」

「決まっとるやろう、吉岡一門どすがな」

「またいつもの奴かいな」

「せやけど今回の奴は面白いでえ。洛中のど真ん中にこんなモンぶっ立てよるんやからなあ」

「そいつの名前、何て書いたあるねん?」

「播州浪人宮本武蔵やて」

京都__治乱攻防会者定離栄枯盛衰離合集散、明治以前、すなわち国内戦のみに限定された近代化以前の日本の権力闘争の中心として栄えたこの王府も、関ヶ原以降は徳川家の監視の元、その繁栄も内実の伴わぬ飾り物となりつつ、意図的にそうされつつあった。その時代の流れに抗するように、西ノ洞院四条に道場を構え、剣名を誇っているのが京流宗家、吉岡兵法所であった。

京流__東の鹿島七流に対し、京八流とも言われ、貝原益軒によれば日本の剣術の流派はこの両派閥にルーツが在るとかいわれるが、中条流__この物語の重要人物に関わる流名だから是非ともご記憶願いたい流派である__とか馬庭念流などというのもあり、この説の真偽は怪しい所だが、とにかくろくに兵法家のいない京ではこの京八流宗家、吉岡一門は並び無き名家であり、京洛の人々からは“憲法の家”と呼ばれ、親しまれている。この七流とか八流の正確な流名は残っていない。京流には義経流だとか鞍馬流とかいう、取ってつけたような名が残っているが、その実態たるや全く分からぬのが実情である。川中島の合戦で有名な山本勘助などがこの京流を学んだと言われているが。吉岡家の立場の曖昧さに拍車を掛けているのが、剣豪将軍と言われた室町十三代将軍足利義輝であった。松永弾正に襲われ十数人を切り伏せる活躍を見せ、壮絶な最期を遂げたこの豪傑公方は京流吉岡家を無視して、そのライバルである鹿島神道流の達人、塚原ト伝、上泉伊勢守に弟子入りし、奥義を伝授されたと言われている。一説によればト伝の究極奥義“一つの太刀”を伝授されたとの噂まであるが、これは誇張された噂である。ト伝が“一つの太刀”を伝授したのは、伊勢の領主北畠具教であり、ト伝の養子彦四郎も、具教からこの唯授一人の技を“盗んだ”と言われている。しかも、先年発足した江戸の新幕府はこの吉岡家を無視し、年来の家臣であった柳生家の新陰流、小野家の一刀流をもって将軍家指南役とし、京の名門吉岡家の誇りをいたく傷つけたのであった。まだ、織田信長や豊臣秀吉などは剣術に興味が無く、兵法家などに見向きもしなかったから良かったが、今度の天下人である徳川家康は、下手の横好きながら剣術に限らず馬術槍術その他諸々、色んな術技を学習した、言わば免許マニアのような所が少なからずあり、その殆んどがペーパードライバー状態とは言え、一応兵法に興味があるらしいのである。しかし、その家康が吉岡兵法所を無視し、新興流派の新陰流だの一刀流だのを将軍家兵法指南と指定した事は、逆に吉岡家の面目を丸潰れにしてしまった。こんな訳で、旧名家の吉岡家にしても、只デーンと腰を据えて構えていれば良いという物ではなかった為、当代の吉岡憲法、清十郎直綱とその舎弟伝七郎直重は名乗りをあげてくる挑戦者を積極的に迎え撃ち、何とか昔日の栄光を取り戻さんと躍起になっている。その上、吉岡家というのは実は武士ではない。“憲法染め”と呼ばれる染物を本業とする町人なのである。それだけにこういった扱いに対して過剰なほどに反応するのは仕方が無いのかもしれない。実際、吉岡兄弟は功名目当てに挑んで来るはぐれ剣士達を悉く迎え撃ち、流石は京流宗家吉岡と大層評判であった。これが現在権勢の頂点にいる新陰流や一刀流ならば、こんな事をする必要はない、所か慎まねば成らないだろう。剣の腕前は大した事は無いが、寝技の政治家としては恐るべき智謀を備えた柳生宗矩などは、金持ち喧嘩せずという金言を忠実に守り絶対に自分で手を汚す事は無かった為、後に一万七千石の大名として大目付にまで上り詰めたのだが、小野忠明の方は将軍家師範となってからも自ら進んで数多くの剣客と立会い、何度も謹慎蟄居を命ぜられ、最終的な家禄は六百石だった。将軍家の剣術指南役ともあろう者が在野の兵法家と打ち合って負けたりすれば、開幕間もない徳川新政権としてはイメージダウンは計り知れない。関ヶ原で勝者となったとは言え、豊臣恩顧の大名たちはこの新しい覇者に対して激しい怒りを内心に貯めており、高が剣術の試合とは言え、将軍家の威光に影を落とすような危険を孕む行為は厳禁なのであった。勿論、負けて最も損害を受けるのは当の本人である。下手をすれば死ぬか、再起不能、恐らく主家の名誉を著しく損なったとして折角の将軍家御指南としての栄職も無くすに決まっている。

これに対し、前記のような理由により、吉岡一門では割りに他流派の挑戦を受けており、武蔵が吉岡家に挑戦する機会は充分にある。しかし、そう簡単に事が運ばないのが現実と言うものなのである。吉岡憲法が他流試合に応ずる時は、必ず西ノ洞院にある吉岡道場においてであり、一門の関係者のみの中で試合を行うのである。つまり、その中で尋常の試合が行われているものかどうか、確かめ様も無いのだ。いきなり当主兄弟が挑戦に応ずる事などは無い。まずは何人かの門弟と立ち会わせそれで片がつけば良し、仮にやられるにしても相手を疲れさせるか、その癖や長所短所を研究する為の準備となる。そうして幾人かの門弟と立ち会って漸く当主兄弟が剣を交えるのであった。そうやって試合に応じたときには、必ず相手の息の根を止め、死体を人目に着く所に数日曝して置いてから投げ込み寺に放り込むのだが、或いはどうしても敵いそうに無い場合は、一門総掛かりで闇に葬るのである。名家復興に賭ける彼らの執念が見て取れるような噂であった。

武蔵はそう言った危険を避ける為、まず出来るだけ目立つ形で吉岡一門への挑戦状を、彼らの目と鼻の先で大々的に公開した。こうすれば評判が立って、一門のみの私闘とはし辛いであろう。その上用意のいいことに、武蔵はこの高札と同時に京都所司代板倉勝重の元にも吉岡家への挑戦状を届け出ており、これを見た板倉は、喜び勇んでこの試合を公式のものとしたのである。


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