番外勝負__松山主水 〈参〉
武蔵は静かに口を開いた。
「それがしは何も功名を著し、取り立てられんが為に兵法を修行している訳では御座らぬ」
「ほう」
老人が目を細めた。どういう感想を抱いたのかは分からぬが、悪意を抱いていない事は確かである。
「若いの」
若いとはどういう意味なのか、武蔵の内心の疑問に答えるように老人が言葉を継いだ。
「若いと言う事は良い事じゃ。美しき事じゃ。世の穢れにまみれておらぬ、その心映え、わしもかつては抱いていたものじゃ。その目的がどのようなものであれ、御主のように、無欲に兵法に命を賭ける者、腕一本で一国を切り盗らんと望む者、あるいは兵法をもって戦場で名を上げんとする者、様々じゃ。無論、戦だけが人の生き方ではない」
「……」
武蔵は、老人の言葉に何と答えて良いのか分からない。
「それがしは美しうなどは御座いませぬ」
それだけを言った。恐怖に煽り立てられ、狂乱しながら有馬喜兵衛を撲殺した時の、己の姿を思い浮かべ、苦い思いで武蔵は呟いた。
「若いの」
又しても、老人は言った。
「貴公がどのような生き方をしてきたのかは存ぜぬが、そうやって己の姿を省みて悔いる姿は、若く、美しい物じゃ。同じ後悔でも、全ての終わった老人の物とは違う。未来に通ずる悔いであろう。増して兵法を志すと成れば、どれほどの血を流し、屍の山を築かねば成らぬかの」
老人は静かに瞑目した。
「どうじゃな、貴公」
老人は武蔵に向き直った。
「ひとつ、わしと試合うてみぬか」
「ご老と?」
「そうじゃ、貴公、見た所若いが相当の気を放っておるようじゃ」
「気、でござるか」
「左様、兵法に於いては気が大事じゃ。わしも貴公ほどの気を持った兵法者は、そう幾人も見た事が無い。恐らく天分と言うものであろうな。これから貴公は暫くここに逗留して、わしに打ち込んでみよ。いつ、如何なる時でも構わぬぞ。眠っているときであろうと、物を食うているときでも、厠にしゃがんで居る時でもな。見事わしから一本取ればそなたの勝じゃ」
老人は武蔵の目を覗き込みながら言った。
「承知いたした」
武蔵は頷いた。
「所でご老」
「何かな」
「ご老は何と申されるのか」
「わしの名か」
「お聞かせ願えまいか」
「そうじゃのお、世を捨て山奥に隠遁した只の老いぼれじゃて、今更昔の名など口にしても詮の無い事じゃ」
武蔵は、無言で老人を見詰めた。
「分かった分かった、今思い出すでの、そう恐ろしい目で睨むでないわ」
老人が苦笑いしながら言った。
「そうじゃのお」
老人が目を細めながら、何かを考えるように言葉を切った。
「そうじゃの、名は忘れたが、人からは“飯綱使い”などと言われて居ったかの」
武蔵は沈黙を飲み込んだ。兵法者の中で、“飯綱使い”と呼ばれたのは、まずは塚原ト伝であった。しかし、ト伝は武蔵が生まれる十年以上前に八十過ぎの高齢で死んでいる。もし何かの事情で生きていたとしても、百歳をとうに過ぎている筈だった。如何に情報の伝達が遅い時代とは言え、その位の事なら武蔵にも分かる。だが、それ以上敢えて聞こうとは思わなかった。この老人が塚原ト伝の亡霊であれ何であれ、相当の使い手である事は確かだった。