番外勝負__松山主水 〈弐〉
「若いの、何の用じゃな」
「宿をお借りしたい」
武蔵がこう頼んでも大抵断られるのが普通だが、老人はいとも無造作に快諾した。その呆気なさに、武蔵の方が不思議に思った程である。仮に、親切を装い旅人を泊めてその懐を狙う類の山賊であったとしても構わない。兵法の修行には願っても無い好機である。
囲炉裏の自在鉤に吊った鍋に、塩漬け肉やら山菜やらをぶち込んだ、何やら得体の知れない雑炊を煮込みながら、老人が武蔵に話し掛けた。
「所で御主、こんな所をうろついて、どうやら只の浪人とも思えぬが、差し詰め武者修行中の兵法者というところかの」
「未だ未熟者でありますれば」
武蔵は素っ気無く答えた。
「これから、天下に名を売らんというわけじゃな、結構結構」
鍋をかき混ぜながら、老人が如何にも人の良さそうな笑みを見せた。
「そろそろ出来たようじゃ、こんな山奥じゃで、ろくなもてなしも出来ぬが、体だけは温まるじゃろう。さ、食うがよい」
「ご老、痛み入り申す」
軽く頭を下げながら、武蔵が木椀を受け取った。
「所でご老」
この老人と顔を合わせてから初めて武蔵の方から話し掛けた。
「ご老は何故にこのような山奥に住んでおられる」
「何故と言われてもの」
答え様もないと言った感じで、老人が淡白に顔をほころばせた。
「まあ、歳をとると何かと人から煙たがられての、まあ隠遁したのじゃが、同じ事ならば人と人とのしがらみから逃れようと思うての、山奥に身を寄せながらひっそりと余生を送っておるわけじゃ」
淡々と語る老人の佇まいからは、只の隠居とは思えぬ落ち着きと言うか、風格のようなものが感じられる。いや、風格と言うよりもっと力強い、底から湧きあがって来るような気配である。
「ご老」
武蔵が老人の方にその強い眼光を向けた。
「ご老はもしや兵法者では有りませぬか?」
「そうじゃの……」
その問いに対して、老人は囲炉裏の火に目を落としたままおもむろに答えた。
「まあ、わしもこの歳まで生きて来た訳じゃが、振り返って見れば自分が一体何をして生きてきたのじゃろうかと、思わんことも無い」
過ぎ去った遠い日々を見詰めるように、老人は語った。
「兵法か、わしも若い頃は己の腕一本をもってすれば国でも城でも望みのままじゃと気負い込んでひたすら腕を磨いた事も有ったわ。若い時には何も怖れるものなど無い。己が誰よりも強く、そして何者をも従わせる器の者じゃと信じてそれこそ骨身を削って修行に打ち込んだものじゃがの」
老人は武蔵の方を見た。
「今は既に戦乱の時代ではない。太閤殿下が小田原城を落として以来、六十余州の何処にも戦は起こらず、武士はその腕を振るう場所も与えられず燻って居る。その不満に動かされ、殿下は朝鮮出兵をなされた訳じゃがその威信を掛けたこの戦も果々しうは行かず、最近では殿下ご自身も病の床に伏せっておられるそうじゃ」
「その殿下が身罷られれば、本朝に再び戦が起きましょうや」
「さあてのお」
武蔵の言葉に老人は、淡々と答えた。
「仮に元亀天正の如き戦国の世が再び起こったとして、果たして兵法などで国が盗れる物であろうか」
「……」
「鹿島の飯篠長威斎、京の鬼一法眼の頃より、幾人の兵法家が戦に出たかは知らぬがの、未だかつて兵法を持って大名に取り立てられたという話は聞かぬ。ましてや今の世に在っては戦も様変わりしての、個々の武勇が著し難うなったで」
戦国時代というのは、食うか食われるかの実力主義の時代であった。それまでの、麗装美々しい騎馬武者が、高らかに名乗りをあげて、槍を合わせて一騎打ちなどという浪漫主義的情景は、絵巻物の中にのみ生きる美しき言い伝えであり、このような前近代的な合戦箪などは最早伝説となりつつあった。織田信長の登場により、足軽と呼ばれる雑兵が大量に、それも組織的に動員される様になって以来戦国武士団は急速に近代化され、源平時代のような古式ゆかしき一騎打ちは最早成り立たなくなっていた。要するに“武士の時代”から“軍隊の時代”へと移行しつつある。いや、完全にそうなってしまった。まして、鉄砲が登場し、今や戦力の中心を占めるようしなった時代ともなれば尚更である。時代のうねりの中で武士と言う特権階級が力を失い、国民皆兵による近代化の動きが顕在化しつつあるのだ。これを無理矢理時代を逆行させ、国民の身分差別を法制化してまで“武士の時代”を復活させたのは徳川家康である。何かにつけて差別の好きな家康は、身分階級の固定と言う、この国の歴史上かつて無い封建制度を確立させ、三百年近くに渡って人民を苦しめ続けた。実際、人民の階級を上から下まで呼吸の隙間も与えぬ程厳格に固定し、差別すべしと明文化して公布すると言った、異常な政権はこの国の歴史上かつて存在せず、後にも先にもこの江戸幕府__この時点ではまだ出来ていないが__以外にありえなかった。
「そればかりではない、所詮兵法などは歩卒の業よと言うのが世の考えじゃわい」
前時代にあっても、戦場で一騎打ちを行ったのは騎上の士分であって、兵法者などは足軽としての扱いを免れない。関ヶ原で、二十もの兜首を獲った“笹の才蔵”こと可児才蔵などは、ある兵法家に試合を挑まれた際、自分は馬に乗り、左右に郎党、鉄砲足軽を従えて、戦場仕度で試合に臨んだ。それは卑怯だと気色ばむ相手に、これが戦場なり、と言い放ったという。
「兵法を持って風雲に乗り、一国一城を切り盗るなどとは、夢のまた夢よ」
ふ、と昔を懐かしむような表情で老人が漏らした。