優美なる甦の大天使
「あー、負けたっ!」
口ではそう言っているが、とてもはつらつとした、エネルギッシュな声が響いた。
この部屋が防音仕様だという話は、一度も聞いたことはない。それらしきことを表すシールもない。
「もう3回目だよ。ぼくだってコツぐらい掴むって」
「うえー、流石だなぁ。羨ましー」
彼は、ぼくの幼馴染は、あぐらの姿勢から背後のクッションに身を放ってしまった。
ボフッ。彼の頭はクッションに吸い込まれる。上にあげた両手には、ゲーム機が汗ばんだ手で握られている。
「本当にゲームやるの、初めてかよ?」
「当たり前だよ。最初、君にボコボコにされてたじゃないか」
クッションから頭をあげ、ぼくに詰めよる。
「けどよー、ほら、上達が早すぎるっていうか。だってCPUレベル7に勝つまで1ヶ月くらいかかったのに、その俺に勝つのに、お前はなんだ、30分?」
ゲーム機のスティックを、カラカラ音を立てて回す。
「そんなのアリかよー」
「ありアリ。でもこのキャラ、癖があって戦いづらかったんだよなぁ」
ぼくの些細な、なんの気なしの発言に、幼馴染は目を輝かせる。
「おっ! マジかよ! じゃあ俺のキャラとお前のキャラ、交換してもう一戦やろうぜ!」
「え、それはなぁ……」
「男に二言はない! 俺の発言は変えられないぜ!」
彼はぼくのゲーム機を、颯爽と取り上げる。
「あっ! くっそ、油断した!」
「ほらほら、欲しいなら来ればいいだろ〜」
彼はぼくのゲーム機を操作してキャラを選択しながら、狭い部屋の中を駆け回る。
「おい、待てって」
「やーだよー」
ぼくたち、2人は部屋をどたどたと走る。不思議なことに、隣人からの迷惑声は一切ない。
「あっそう! じゃあぼくも、キャラ変えるからな」
「はっ? おい、待てまて!」
誰も迷惑しないのをいいことに、いつもよりも大声で叫んでいたと思う。
……でも。誰も迷惑しないというのは、ぼくの勘違いだったのかもしれない。
ガンッ! ……ペタペタ。
ひとつの轟音によって、賑やかな喧騒が一気にして静まった。ぼくはその静けさに恐怖を覚え、頼れる幼馴染に目ですがった。
……彼の顔は、ひどく引きつっていた。この世の終わりを目にしたかのような、真っ青な顔。さっきまで元気に伸ばして動いていた足は、かたかたと震えている。
彼はぽつぽつと、しきりに呟いている。
「ゆるして……ごめんなさい……ゆるしてください……」
壊れた機械人形のように、繰り返している。
彼をこんな風にさせるのは誰なのか。ぼくは恐るおそる、上を見上げた。
「……」
上にいたのは、にっこりと笑う、女性だった。笑うだけでなにも言ってはこないが、ただ笑っていた。長い黒髪はつやがあって、身なりも豪華というか、けばけばしいというのか。
女性は幼馴染の方へ、ペタペタと歩いて行った。ぼくなんか、見えていないようだ。
「あ、あぁぁあぁあ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
彼の恐怖が最大限までのし上がったその瞬間。ぼくは初めて感じた。
――守らないと!
あの笑みに騙されていた。あの笑みが、あいつが、彼を怯えさせている、惨めにさせている!
もう、遅かったけれど。
「ウるさイ、のヨ!」
「あぁああ……! あ、あぁ……」
怒鳴り声。助けを乞う声。……断末魔?
もうなにもわからなかった。目の前で起こったことを、そのまま話すとすれば。女性が狂ったような叫び声で彼を怒鳴り、殴り、蹴って、彼は血を流していて……。
何も考えられない。怒りも悲しみも驚きも憎しみも、なにもなにも。
「……」
女性は笑んだまま、こっちを向いた。それが余計に、恐怖をかもし出しているのだろう。だろう、というのは、もうぼくには感情が消え去っていたのだ。常人の思考なんて、もうわからない。
「イつモ、アソんデくれテるのネ?」
機械音みたいな声。うざったい。いつからかは知らない。手には包丁がある。自分の手を、ちらっと見る。
「ミちゃッタねェ……」
「見ちゃった?」
「テンごくデ、アソんデね?」
「天国で、遊んで?」
女は、殴りかかってきた。ただの肉塊が、刃に勝てるとでも思ってるのか。馬鹿みたいな笑い声が耳につんざく。
「キャキャキャキャキャァ! アタシハ、ジユウ!」
鬼のような顔が間近に迫った。怖いっていうのか、これ。関係ないけど。
「五月蝿い。死ね」
ザッ。女の顔には、斜線のように深い傷がついた。ちょうど顔が、斜めに分断されたようだ。
「キャキャ……キャ……」
まだ笑っている。醜い。
今なお笑い続ける女に、急に感情が湧いてきた。後ろに倒れる彼が、見えたから。
「怖い? 憎い?」
なんで。突然体が震え出した。恐怖が込み上げてくる。くるなくるな来るな!
「死ねよ! 死ねよ!」
女の体を滅多刺しにする。滅茶苦茶に刺すから、傷ひとつひとつは浅い。はずなのに、少しの切り傷が、赤黒く深くなっていく。
女の顔が、鼻の先くらいまできた。いつのまにか、血にまみれている。ぼくも、殺されるのか――
恐怖が限界値を超えた。
「うわああああああああああ!」
汗がじっとりと出てきている。体には、布、布団が張り付いてくる。……布団?
「ここ……ヘルスセンター?」
蒸し暑い布団をはいで、素足のまま冷たい床に降りる。体全体が冷やされて、少し落ち着いたと思う。
「今の、夢だよな」
誰に聞くでもない、自己暗示をかける。
そういえば、ぼくが起きたのはぼく自身の叫び声だ。誰かきてもおかしくはない。そろそろくるだろう。
ほら、駆けてくる音がする。
「アーク! なにかあった?」
やはりと思ったが、リザレイだ。
「なにも。ちょっとした悪夢を見てただけだから」
「悪夢って、それこそ大丈夫なの?」
「リザレイだって、悪夢のひとつやふたつみるだろ」
心配顔をしていたリザレイは、呆れ顔へと変化していった。
「夢すら見ない人だっているわ。それは侮辱に値するよ」
ぼくはその意見に賛同しかねたから、目を合わせず身なりを整え始めた。彼女はやれやれといった様子でため息をつく。
帰るわよ、と言ったリザレイだったが、扉の音は一向にしなかった。彼女がぼくの肩を叩いたからだ。ぼくになにか、ついているのか。
「ん〜、体は湿ってるのに、顔とか指先は冷たい」
「なんだよ?」
「温度管理は健康の鍵! これでも持っときなさい。人間にはぴったりよ」
閉じた手に、温かいジャリジャリしたものが押し付けられる。
「カイロ?」
「小豆のやつ。知ってる? 小豆って結構いいんだよ」
「へぇ」
指先や掌で揉んでみる。紙袋越しに小豆に挟まれた指は、少し熱いくらいの温もりに包まれた。
ぼくはありがと、とだけ言って、小豆製カイロをポケットにしまった。ちなみに、服の構造については全く聞かされていないので、カイロをしまうのには一苦労した。
「あ、そうだ。アークに会いたいって、私の相棒が言ってたわ。連れてきてもいい?」
「相棒っていうと、確か、四大天使だったか」
「そう。軽めでいいし、私も立ち会うから」
四大天使。天使の中で身分の高い七大天使の中の、さらに上の天使たち。リィは気さくな感じだったが、全部がそうとは限らない。
というか、お堅い感じが天使らしいのではないかと、思い始めてきた。まあ、リザレイもいてくれるということだし、会うだけあってみるのもいいだろう。
「わかった。ここでいいのか?」
「うん、ちょっと待ってて」
ストップのサインを手で出してから、部屋を出ていった。
四大天使。会うのはリィと合わせて2回目。リザレイは相棒であることを誇りに思っていたところから、仕事にルーズだったりラフな面を持っていたりすることはないのだろう。
ぼくも向こうもそこまで詳しいことは知らないはずだが、いきなり怒鳴られでもしたらたまったものじゃない。少しは丁寧に、緊張くらいしておこうか。
扉の遠くから、足音と話し声が聞こえた。女性――リザレイの声が大半だが、若い男性の声も少しする。
「……だから、そういうことはしないでよ」
そんな声が、もうすぐそこにあった。
声の後は、すぐに扉が開いた。お待たせ、というリザレイの後ろには、端正で優美な顔立ちのドライそうな顔が、どこかをうつろに見ていた。
「アーク、この天使が――」
「待て」
ドライでうつろだった目は、リザレイを制止すると、ぎろっとぼくを睨んだ。ぼくは少し、肩を強張らせる。
ぼくと威厳ある大天使は、目をかち合わせる。
「アークといったな。私は、承知の上でもあるとは思うが、四大天使の一人であるガウリイル。もとい、グリウだ」
「グリウ……」
「仕事としては、甦の大天使として復活をさせたり、神の御言葉を伝えたりといったとこりだな」
「そう。結構偉いし、重要な立場なんだ」
「まあ、そんなところだ」
甦の大天使、グリウ。彼には、想像通りの印象を受けた。己の信念を貫き、常に神に従うような、そんな感じもする。
ゼルとは大違いだな、と勝手に思ってしまっていた。友達のような雰囲気だったゼルとは違って、まさに雲の上の存在だ。
腕を組みベッドの上から見下ろすグリウに、逆鱗に触れないようそっと声をかける。
「グリウ、どうしてぼくの所にきたの?」
優美な大天使は、軽い身のこなしで側のフロートに座った。相変わらず、強い視線をこっちに浴びせてくる。
「深い理由はないのだがな。相棒にされるわけでもなく、未だここを彷徨いている人間は、一体どんなものなのかという興味だ」
「興味……」
「まあ、あの呑気な奴が連れている人間なんて、まともじゃないんだろうがな」
さらっと、辛辣なことを言われたような気がする。リザレイも、グリウの肩を小突いて耳元でなにか言っている。小突かれた本人はそれに対して、苦い表情をしている。
「……と、アークはしばらく天界に残りそうだからな。できれば、天使の存在は覚えていた方がいいだろう」
「うん、リィにもわからないことはなんでも聞けって言われた」
「リィさんに会ったのか。地上の人間が、随分関係を広げているものだな」
そう言うグリウの肩が、また引っ張られた。迷惑そうに顔を歪める。
「グリウ! さっきから失礼よ。一言多いの、自制ってものを知って!」
小声でささやいていたリザレイは、我慢ならないといった様子で声を上げた。
大天使に親のように叱るリザレイ、渋ったような顔をしているグリウを見ていると、まるで親子のように思えてくる。
立場が逆転しているようだ。それほどリザレイがしっかりしているのか、グリウが弱々しいのか。どちらにせよ、ぼくがその光景をぽかんと眺めていたのに変わりはない。
「ああ、もうごめんねアーク。呼んだ私が悪かったわ。行くわよグリウ」
リザレイは額に手を当てた後、肩を掴んで引っ張っていこうとした。彼は痛がりながら反抗する。
「おい、やめろリザレイ! ここにきた意味がないだろう」
「用は終わったんでしょう。いる意味もないわ」
すっかりぼくは空気になっている。別に気にはしていなかったが、どうしていればいいかいまいちわからない。
ふたりのいがみ合いは、終わりそうな気配がない。時にぼくの知らない言葉まで飛び出してきて、いつもこの口げんかには慣れていることを思わせる。
とりあえずなにか事を起こそうと思って、場違いかもしれないが口を挟んだ。
「あ、あのさ! 一個聞いていい?」
「え、なに? アーク」
特に考えもしないで発言したから、次に何を言おうか浮かんでこない。空っぽな頭を必死にひねる。
間が2秒ほど空いただろうか。ぼくはありきたりだが、質問を思いついた。不自然になっていないといいが。
「えっと。傷も治してもらったし、次はどこに行ったらいいんだろうって……」
向かい合わせになっていたふたりは、顔だけをぼくに向けている。相変わらず固い表情をしているグリウに代わって、彼女が返事した。
「ああ、確かにそれは困るね。ゼルさんとなにも決めてないの?」
「うん、多分決めていないと思うんだ」
「そ、そっか」
リザレイは腕を組んで、軽く考え込んでくれた。グリウはそんな彼女をまだ見ていたが、論争は諦めたようで目線を外した。
ふう、やっと収まった。
少し沈黙が流れる。形だけ考えているぼくと、リザレイの目がぴったり合った。少し申し訳なさそうに、目を伏せた。
ぼくは柔らかい表情をしたつもりだ。証拠に彼女も、微笑み返してくれた。ふと、その横をちらっと見る。グリウがこちらを見ている。ただし、きつい目ではない。と、彼は話しかけてきた。
「それなら、ハインさんのところへ行ったらどうだ」
「ハイン?」
「あの方は、四大天使の中で最も偉大だ。天使のことも管理しているから、事情がどうであろうと一度行ってみたほうがいいだろう」
リィよりもグリウよりも高い身分の四大天使。知り合ってから数分だが、このグリウが礼儀正しくする相手とは、彼が認める者、つまり彼に似た者だとぼくは考える。
最も偉大ということは、他の天使や相棒たちからは聞けないことも聞けるのだから、意外にいい案かもしれない。
「なるほど、わかった。ゼルが帰ってき次第、すぐに提案してみるよ」
「ああ。先に見通しもつくんじゃないか。何故ここに留まっているかは知らないが」
グリウは目をそらすと、出入り口の扉へ身を回転させた。扉を開け、そのまま出て行こうとする。
「あ、ちょっと。勝手に行かないでよ」
リザレイが慌てながらグリウについていく。さっき話を中断してしまったから、リザレイはまだなにか言いたかったのかもしれない。
自分から行動しておいてなんだが、ぼくはまた取り残された。先の方針も決まったことだし、とりあえずゼルの仕事からの帰りを待っていればいいだろう。
「んー……」
その間、なにをしていようか。今の環境ではやりたいこともできない。
考えた末、あの悪夢を見ない程度にゴロゴロしていることにした。だが、暇を持て余しているのではない。ぼくの脳内は、様々なことが目まぐるしく渦巻いている。
地上で言うところの、1日というものは経ったのだろうか。
「ゼル、早く帰ってこないかなぁ」
お読みいただきありがとうございます。
アークの心情を感じ取ってもらえたでしょうか。
次話もお待ちください。