儼然の可憐少女
「リザレイ……」
ゼルが呼んだ、恐らく女性の名前を、唇だけで繰り返す。
目の前にいるこの若い人は、メイドのように手を前に合わせ、柔らかな声を出した。来てくれてありがとう、というゼルの言葉に応答したのだ。
「いえ、大丈夫です。私を探していたそうですが……」
「うん。下の彼には気づいているね。彼は傷だらけだ、癒してやってくれるかな」
下の彼、というのはぼくのことらしい。掌を僕の頭に乗せ、説明している。彼女はぼくに目線を合わせた。どうやら、傷があるという体をよく観察しているらしい。
「傷ですか。確かに、衣服の隙間から見える肌は、どうも汚れていますが」
「さっき服をかえたから、傷が見えないのかもね。とにかく、治癒を頼むよ」
「はい」
ぼくは肩を引き寄せられるまま、彼女の方に動いた。突然だから少し足がもつれたが、両肩に置かれた手は、初めて感じた温もりだった。
ゼルはもう一度彼女に感謝の言葉を伝えると、体を半回転させ背を向けた。
「どこかに行くの?」
「さっき点検した限り、君の傷は時間を要して治す必要がある。その間なにもしないというのも無意味だしね、たまにはちゃんとした、“仕事”をしてみようと思うよ」
「仕事ですか。自分の思考を重んじるゼルさんが、嫌になるのもわかりますけど。珍しいこともありますね」
この口ぶりは、ゼルは普段職務を果たしていないのか。それなら、大天使という高い立場の彼が、ぼくのいた地上で飛び回っていたのもわかる。
でも、わからないこともある。ゼルは死の大天使と言っていたけど、それだけの彼が『君の傷は時間を要して治す必要がある』と、自信を持って言えるのはなぜだろうか。
死に関わる天使だといっても、関係がありそうなのは生という大きなくくりのみな気がするのだが。
「ふふ、珍しいことにしない為にも、頑張ってくるよ」
それを最後に、ゼルはGホールの出入り口に行ってしまった。ヘルスセンターのこの場にいるのは、ぼくと彼女のみ。
「……さて」
彼女はそう、一拍おいた。
「積もりに積もって、今にも崩れてしまいそうな話は、向こうの部屋でしようか」
「うん」
彼女は先導はしなかった。未だぼくの肩に手を置き、常に並行して歩くのだ。
やはり、若干ぼくの方が遅れてはいたが、ほぼ同じ目線に立てていた。
部屋までは数十メートルもない。それでも、彼女はゆったりと歩いていた。明らかに、通常の人間の歩行速度ではない。
だから、このヘルスセンターはどんなものなのか、ぼくにまじまじと見せて慣れさせようとしているのは、容易に推測できた。
「Gホールは煌びやかだけど、ここはこざっぱりしてるでしょ」
前を見たまま、彼女は小さく言う。ここにいる患者を気遣った声量だ。
「ヘルスセンター。いわゆる病院みたいなところだからだよね」
簡素な返事だけしておく。その通り、と認めるように彼女は頷いた。
途中、ベンチに腰を落ち着けた人間もいた。健康そうな男性と、論争を繰り広げている天使も一人いた。
場所が変わっても天界は天界。一般的な病院に行ったんじゃ、知れない光景があった。
短い道中の景色に、心躍らせている内、立派な扉の前に着いた。彼女は丸いドアノブを握り回した。室内はさっきまでの簡素な印象と、遜色なかった。
壁にそった中央に、大きなベッドがあった。ベッドにはカーテンがかかっている。彼女によると、天蓋、というらしい。
ベッド周りには、フロートや小さな家具や棚のみで、随分スッキリしていた。
ぼくはとりあえず、といった感じでベッドに導かれた。
そこに座ると、彼女は面のデコボコした緑の台を出してきた。カーボン紙のような材質でできた、白く薄い紙を台に敷く。ぼくはそこに足を置くよう、促された。
言われた通り、片足ずつ紙をたるませないように置いていく。付着物のある靴には、紙が張り付いてくる。
無駄な几帳面さが現れた。ピシッという紙の張る音を、何度か響かせた後、彼女の目をやっと見れるようになった。
「ごめん」
「いいよ。こんな紙、衛生上の問題で敷いてるだけだから」
「触るよ」と、前置きすると。彼女はぼくの履いていた靴を脱がし始めた。
「女に触られるのは抵抗あると思うけど、治療のためだから。ちょっと我慢してね」
上目遣いに笑う。彼女の言う通り、治療のためだからぼくは特に不快感はなかったのだが、そういう思考に至らない人も彼女の笑みには敵わないだろう。
靴の下は素足で、そこにも青いあざがあった。彼女は考え込むような表情を見せると、近くの棚へ体を向けた。
「ちょっと待ってて」
彼女は白く清潔な棚から、これまた真っさらな、シャープな容姿のバケツと絹製タオルを持ち出してきた。
銀のトレイも持ってきた。トレイには、バケツとタオル以外に、様々な医療器具的なものが揃えられている。
ぼくが知っていたのは、消毒液とピンセット、布状と棒状のガーゼくらいだった。後は見たこともなかった。天界の物だろうか。
彼女は既に水の入っているバケツに、タオルをつける。大きな水音から小さな水音へ。タオルを絞っているようだ。
「まずは、体を清潔にするよ」
「さっき、汗をかいたから拭いたんだけど」
「なら尚更よ。それに、君はヘブンバックの子の器をもらったんでしょ。あそこは、空気は澄んでいるけど汚れた瓦礫がある」
固く絞られたタオルは、一度柔らかに解かれる。ざらざらとした感触が、彼女が持つタオルから足に伝わってきた。
「……なんで、これが器だって?」
「君はここでは見かけない顔。やけに傷だらけだし、天界に住む者ならここヘルスセンターに来るはず」
彼女の目は、ぼくの足だけを見ている。汗も汚れもきれいに拭き取られていく。
「うん」
「でも君をみた覚えは一度もない。なら君は、外部の人間だ。でも、地上から来た人ではない。人は魂としてやってくる。元の体を保持するばかりか、その体のまま歩き回るなんて前例がない」
「うん」
「だから現れる結論は、地上から来た魂がヘブンバックの器に入り込み、ここに人型で現れた。 それだけ」
「なるほどね」
彼女は下にいるから、額や髪に隠れて表情が確認できない。でも、声の調子からおおよその予測はできた。
「名推理だね」
「でしょ?」
顔を上げる彼女。想像通りの、得意げな顔をしていた。口角も上がっている。タオルと足にかかる力が抜けた。
「我が名探偵の名は、リザレイ。相棒に四大天使、ガウリイルを持つ特異な人間よ」
「自己紹介?」
「もちろん」
「自分で言ってて、どう思ってるの?」
「その場のノリって奴よ。特になにもないわ」
リザレイは、ふふっと笑った。手を口許に当てる。大人びた中にもお茶目な面を持ち合わせた彼女は、理想の人間のタイプかもしれない。
「ぼくは、アークっていうんだ。ちょっと事故にあってここにきた」
アークね。私は、あの必要とされていないつまらない世界から、脱出してやったの。慌てふためく姿は、実に滑稽だったわ」
「面白いね、リザレイは」
「褒め言葉ってことにしておくわ。ところでアーク、それ、本当に思ってる? なんだか嘘っぽく聞こえるよ」
いつからか、また足を拭き始めていたリザレイは、鋭い意見を言ってきた。確かに、嘘はついたと思う。リザレイが面白い人だというのは、変わらないけれど。
「ああ、本当に思ってる。リザレイは稀に見る、面白い人間だ」
「……へぇ。君も、面白い人間だよ」
足の清潔さは取り戻せたらしい。次には消毒液を手に取っていた。リザレイはそれをガーゼにつけ、足や足首辺りについた傷に当てだした。
「っ……」
自分で受けた記憶はない傷に、消毒液がしみて痛い。
「男の子でしょ。ちょっと我慢してて」
「男の子って。これくらいなんでもない」
とはいっても、痛みがないわけじゃない。苦痛感が小刻みに打ち寄せてくるのに耐える為、ベッドの布団をギッと握っていた。
突如、傷がしみるよりも痛い激痛が走った。
「痛っ……!」
「へへへ、ごめんねー。あざの重症具合を確かめたかったんだ」
「心臓にも、体にも悪い。本当?」
「ほんとホント、嘘じゃないうそじゃない」
後にあざは無くなっていたから、それは真実だった。でも、その時のリザレイは、子供のように無邪気に笑っていた。だから、余計よくわからなくなった。
「なぁ、リザレイっていくつなんだ?」
足の甲を触る指が、一瞬にして硬直した。温かみが、甲の一点に集中する。
「それはー……年齢を聞いてるの?」
「当たり前だろ」
「あのね、女の子に年を聞くもんじゃないのよ。知らないの?」
「いや。聞いたことなかったな」
リザレイは深いため息をついた。もちろん、ぼくにかからないよう横を向きながら。
「これから覚えとくことね。まあ、私は中三だけど」
「あ、そうなのか……」
足の処置は終わり、手や腕あたりに取りかかっていた。服の下は、さっきの着替えでは気づかなかったが、相当なあざや切り傷があった。
高さの調節できる黒い棒に、ぼくの腕は乗っていた。Uの形をした、革のような感触のものが先についていて、そこに腕が通っている感じだ。
「ふぅ。こんな傷ばっかりの子、ヘブンバックにいたのね」
ぼくの体のことだが、治療には苦労していた。素人のぼくにも、これほど細かで大きな傷は、ひとつひとつに時間がかかるとわかった。
「なにがあったんだろうな。どこか、見覚えがあるんだけど」
「ふぅーん。思い出せたらいいね」
数分後、腕と足にはすっかり包帯が巻かれた。リザレイによると、ここ天界では本来、包帯なんか使わないそうだ。
絆創膏のようなものを貼り、それは数時間経てば簡単な切り傷くらい完治できるという。さらに、天界は基本飛んだり硬い部分がない為、軽い傷しか負わない。だから、その絆創膏もどきは多用されると、リザレイは説明してくれた。
ただぼくの場合、傷が多いし範囲も広い。絆創膏を大量に貼るわけにはいかないので、人間の従来の方法をとることにしたらしい。
「はい、これで私が治療する分は終わり」
包帯を巻き終わり、またタオルで体を拭くと、リザレイは手をパンパン叩きながら言った。
「私の分って?」
「流石に体までやるわけにはいかないでしょ。私が嫌だし」
「なんだ、それ。ぼくは別にいいけど」
「……だから、私が嫌って、言ってるでしょ! もう、本当世間知らずなの?」
乱暴な手つきで、トレイに乗せられていたものを戻し始める。
どうやらぼくは、世間知らずらしい。でも、そうだと自分でも思う。ニュースにも周りの人間の噂話にも耳を傾けず、“彼”にばかり入り浸っていたから。
「すみません! 治療完了しましたので、きてください!」
半開きにした扉から、リザレイが叫ぶ。叫んだ時の声と、さっきのぼくにかけていた声は、明らかに違っていた。
引き締めた顔を、リザレイは向ける。
「これから男の人が治療してくれるから。終わったら安静にしてるのよ」
こくん、と頷く。トレイやタオルを持って、リザレイは部屋から出て行った。
「……」
随分と、静かになった。深い沈黙が訪れた。彼女がいるだけで少しは賑やかになっていたと、初めてわかった。
なんとも、掴み所のない人だった。ぼくよりも年が上だから、文武両道という大人びた印象を初め受けたのだけど、話していくとぼくよりも幼い、子供らしさも感じられた。
ある意味ではメリハリがついていて、ルイズが尊敬するのもわかる。ぼくもあの人を、尊敬するべきなのだろうか。まだぼくは、そんな年上の人を見つけられていない。
コッコッ。ノック音だ。
「入りまーす」
若い張りのある、成人男性と思われる声だった。彼は扉を開け部屋に入り、ぼくに話しかけてきた。
「リザレイがやったみたいですね。それじゃあ、失礼ながら体の方を治療させていただきます」
ぼくは察して、上の服を脱いだ。手足より傷は少なかったが、深刻さは同等らしかった。
男性はリザレイよりもぎこちない手つきだったが、ぼくからすれば完璧に近かった。
数分かけて全ての治療を終わらせると、ごゆっくりとお休みください。と言って、男性はそそくさと出て行った。
お休みください、と言われても。わがままかもしれないが、ぼくは明るいところではあまり眠れない。
天井が遮られた、豪華なベッドとはいえ、電気がどうしても目につく。
「う〜ん……」
布団を被ったまま、しばらくきょろきょろと辺りを見回していた。その時、音がした。
キィ。
ぼくは慌てて、一瞬でその方向へ首を回した。見えたものは――
ついさっき見かけた気がする、白い手と指先だった。でもそれが見えたのは、刹那のことだった。なぜなら、突然明かりが消えたからだ。
「!?」
いきなりの暗転に、ぼくの心臓は跳ね上がった。心音がはっきり聞こえてくる。
けれどあの細く白い指は、恐らく彼女だろう。
とにかく、そんなことは休んだ後に聞くとして、さっさと頭を枕に押し付けた。
なんだか、地上で実際に眠る時のようだ。本当は、何十時間もすぎているのかもしれない。天界は常に明るい為、時間の経過がよくわからない。
ぼくは本当に、あの家で寝るかのように、朝をそのまま迎えるかのように、目を閉じた。
「おやすみ……」
お読みいただきありがとうございます。
次話は、リザレイの相棒天使登場です。是非お待ちください。