清美なる炎の大天使
「はあ、はあ、後10秒!」
ルイズとの耐久戦は、もうすぐ幕を下ろしそうだった。
これほど急な運動をするのは初めてで、激しい運動をするのも初めてだった。
だが、一方のルイズは、動き回りながら魔法を使ったり鎌を振り回したりしているのに、汗ばむ様子も見られなかった。
「ラストスパーート! 手は抜かねぇぞ!」
また口調が荒くなっている。ルイズは、性格が変わりやすいのか。
波のように打ち寄せる弾丸。慣れない避けの動きには、少し前から馴染んでいった。脅威だったのは、弾丸と鎌の両攻撃だ。
片方に集中するわけにはいかないし、素早いルイズの腕の振り下げにさえも苦戦する。
でも、そんな一方的な戦いも終わりだ。
「終わりっ!」
ルイズの活発的な、切りの良い声で終戦は告げられた。一気に肩の荷が下りた感覚を覚えた。
「ふう……やっと、終わったぁ!」
ぼくは思わず、そんな風に叫んでいた。手近な雲に思い切り倒れこみ、汗も汚れも無視して深呼吸を繰り返した。
ぼくの頭の側に、なにかが見えた。ルイズがあぐらをかいて、ぼくを覗き込んでいたのだ。
彼女の短パンから出た足に、ぼくの吐息はかかっていただろうか。鎌を足に置き仰ぐ少女の吐息は、少なくともぼくには聴こえていたが。
「やっと人らしいところ見せたなぁ」
ルイズは、ぼくに向かって言い放った。予想だにしない言葉に、かなり驚いた。
ぽかんとしているぼくに、ルイズもぽかんとしている。今では蒸し暑い被り物を、グッととると、どこか遠くを見ながらぶつぶつ言いだした。
「会ってからちょっとしか経ってないけど、なんだか人らしくないなって、思ってたんだ。反応も薄いし、素っ気ないし。こんなわけわかんないところにきて、もっと焦ってもいいのにさ」
パーマ、と言うのだろうか。クシュクシュした若干巻き髪のセミロングを、手で通して整えている。
時々指を服に擦り付ける。汗は流していたようだ。
「だから、この耐久戦をしたんだ。君の健康状態を確認したいってのもあったけど、本気で疲れさせたら、どんな反応があるんだろうなって気になってさ」
「あー……そうだったんだ」
人らしくない。なんとなく勘付いてはいたが、表立って言われたことはなかった。周りの人たちは、気を使っていたのだろうが、無意識のうちに苦痛になっていた気もする。
ルイズが今、はっきり言ってくれたおかげで、また前の自分から生まれ変われたと思うし、心をほんの少しだけ許せそうにもなった。
返事はまた、素っ気なくなってしまったが、ルイズと目が合った。
「ありがとな」
ぼくはそんな素直な感謝を、“彼”以外に初めて言った。初めての体験だらけだけど、一番の驚きはこれだった。
「いーえっ」
ルイズは身を乗り出した。戦いの興奮のせいか、それとも別のものか。顔は紅く火照っていた。
ぼくは手で雲を押して、起き上がった。ルイズも、鎌で体を支えて立つ。被り物は、長い耳当てを利用して、胸の前で結んでいる。
「帰るか? アーク」
「ああ、ルイズ」
戦ううちに、ルイズの家からは離れてしまったようだ。背中に狼が見える少女を先頭に、あの不思議な家へ飛んだ。
無言だが清々しい気分で到着すると、まず絞ったタオルを出してくれた。ぼくはそれで顔や体を拭く。
フロートに寄りかかって落ち着いた頃に、少しばかり雰囲気の変わったルイズが、着替えをだしてきた。
「はい、買った報酬。30秒外で待ってるから、さっさと着替えて!」
なぜかこの家にある、男物の服。ぼくの腕に押し付けると、走って扉の向こうへ行ってしまった。
30秒は、長いような短いような、曖昧な時間だと思う。疑問は一度取っ払って、すぐに着替えることにした。
「よっ……と」
服を代え、もう一着の上着を羽織ると、汗を吸い取った方の服をきれいに四角に畳んで、身の回りを整えた。
新調された衣服に不備がないか、確認が大半終わった頃。コッコッ、と軽い音が鳴った。ぼくはその意味を理解すると、「大丈夫」と返事をした。
ドアノブが回り、しっかりと狼を被ったルイズが、家に入ってきた。ぼくの身なりを、首を上下させて見ている。
「いーじゃんいーじゃん。似合ってる」
「そうか。こっちは、どうしたらいいんだ?」
丁寧に畳まれた、湿った布を指で示す。
「洗ってやってもいいけど、女にやられるのは気がひけるか」
「別にいいけど」
「じゃあ、洗っとく。いい感じになったら持ってくから、好きな所行っててオッケーだよ」
両手に服を乗せて、ルイズがそれをつかんで受け取る。嫌な感じは、見受けられなかった。
時に荒っぽくなる言動は、どうにも無鉄砲さを思わせる。けど、家庭的な一面も持ち合わせているようで、多彩な技能があることがよくわかる。
当の本人は、先ほど受け取ったものをかごに入れていた。かごは白く、持ち手がある。
「なに?」
「いや。そのかごはなんのためなのかと思って」
再びフロートに腰かけていたぼくに正対するように、片一方のフロートにルイズは座った。
両腕を重ねテーブルに置き、その上に顔を乗せている。
「人間が管理している人間のためのシステム、団体があるんだ。あのかごは、そこから配られてる。人の洗濯物はかごにつめて、Gホールにある専用の場所で洗うっていうのが、一般的だな」
「Gホールか。集会場みたいなぐらいにしか思ってなかったけど、人の暮らしの軸みたいなもんなんだな」
「そうだね。他にも献身的なシステムは、たくさんあるよ」
「へえ、安心して暮らせそうだな」
それきり、会話は途切れた。片方は自分の腕の上で遊んでいるし、片方は人の向こうに見える景色に見惚れている。
お互い、若干の笑みを浮かべていた。人の頃は一度もなかった時間。きっと、日曜日の昼下がりのような、なにもしない穏やかな時間というのは、今のことを言うのだろう。
息づかいや、布の擦れる音のみが聞こえる。「暇だな」なんてぶしつけなことは言わなかった。
疲れていたというのもある。ただテーブルに置いていただけの自分の腕に、顔を乗せた。真正面に、ルイズの顔が見える。
また、口角をきゅっとあげた。自然な笑顔だった。ぼくもつられて、微笑む。
「なあ」
ルイズはそのままの姿勢で口を開く。そのせいで声はこもっていたが、室内なら充分な声量だった。
「ん」
「女なのに、雑な奴だなとか思ってる?」
「ちょっと」
「正直だなぁ」
言いながら、クスッと笑い声をあげる。
「ルイズがいた地上はな、女子がのびのびできなかったんだよ。おしとやかにしてろってさ」
「ずいぶん古い考えな気もするけど」
「さあな。別に男になりたいんじゃないけど、制限されてた分発散してるんだ」
よく口調が変わるのは、そのせいか。ぼくは、またひとつルイズのことを知った。
「だからって、なんで天界に」
「自殺した。もうあんな世界、こりごりだったから」
「そう」
決心して、告白してくれた。初対面じゃあ絶対に話さなかったことだけど、微妙に互いを知れてきている。
どちらもそう簡単には心を開かないタイプだ。これは、信頼しているといっていいだろうか。
「なあ」
「ん〜?」
「ぼくも喋っていいか」
「どんなエピソードがあるかな」
ぼくたちは顔を横にしたまま、ぶつぶつとこもった声で、喋り続けた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「おや、こんなところにいたのですか」
僕は彼女の背後から、驚かせないよう優しく声をかける。
「あら……地上へ放浪している、暇な大天使さまじゃない」
「はは、流石あの子を相棒にするだけありますね。いつも通りの皮肉屋だ」
「褒め言葉よ、ゼル」
そう言う、叡智と哲学を司る天使――ウリエルことリィは、少し気分が乗っていた。
彼女がいつもどこにいるのか、それはわかっていた。だから、傷を癒せる“あの子”の居場所を知らないか、聞きにきたのだ。
「怪我を治せる、彼女はどこにいるんですか?」
「怪我ねぇ。あのひよっこ坊やに任せちゃだめ?」
「いやぁ、彼は変に頑固でしょう。ここにいる人間には使ってくれませんよ」
「建前建設ご苦労様。まあ、いいわよ」
リィはそう呟くと、おもむろに振り返った。
「ちょうど、暇していたところだし」
「すみませんね、暇を邪魔して」
「失礼」と言って、彼女の横に立つ。上層と下層を臨める孤立した雲に、僕たちはいる。固く黒い柵に、リィは腕を乗せている。
彼女の豊かな髪は風に吹かれ、美貌を引き立てる。天界の明かりに、鮮やかなブロンドヘアーは輝く。
「ねぇ、実のところは、もっと別のことが話したいんでしょう」
「ええ。人間の少年を拾いまして。アークと名付けたんですが、そのアークについて気になることがあるのです」
「冥界に送るんでは、問題があるの?」
リィは視線を景色から外し、僕の微笑する横顔に移した。
「はい。実際、確認したわけではないのですが、アークの元の肉体の安否が定かではなくて……」
「え、魂はもう、完全に抜けきっているのよね? 抜けた魂が再び戻るなんて、あるのかしら……」
「万に一つ、ないとは言い切れませんからね」
ふぅー、と息の漏れる音が聞こえた。彼女はまた、ぼぅっと雲を見ている。
「とりあえず、地上で確かめてきたらいいわ。私に相談するのは、それからよ」
「そうですか。ありがとうございます」
「というか……貴方もいい加減、相棒を連れたらどうなの。扱いに慣れさえすれば、結構重要なポジションになるわよ」
自分の相棒のことを言っているのだろうか。随分と誇り顔だった。
遠くの下層では、天使とその相棒たちの、賑やかな喧騒が響いている。
「相棒を連れたとして、なにをさせたらいいのかわからないんですよ」
「別に、仕事の手伝いとか都合のいいようにさせたらいいの。扱いが非道でない限り、過ごし方は自由よ」
「仕事ですか」
「ああ、地上でのお散歩が仕事だったかしら」
「間違ってはないですが。それに、彼は距離を取りたがっているように思えます」
「距離?」
僕とリィは、初めてまともに顔を見合わせた。嫌々ながら聞いている、といった感じではあったが、真剣に考え始めてくれたようだ。
「アークは初め、ルイズと会っていました。その時の言動は年相応のものだったのですが、僕が実際に接触してみると。どこか遠慮というか、大人用の振る舞いといった感じでした」
「それが、貴方と距離をとっているという根拠?」
「まあ、人見知りというのもあるかとは思うのですが」
僕は小さく唸りながら、彼の態度について考え込んでしまっていた。リィはそれを見て、なにを思ったのか、手を口許に当ててクスクス笑いだした。
一体なんなのか、僕は目で訴えかけた。
「ふふ、私はいつも、あのルイズと過ごしているのよ。人の子供の心は、貴方よりは理解しているつもりよ」
「それは確かに、そうですね」
「アークはね、きっと信頼していないのよ。でもその標的は、貴方だけじゃない。自分が認めた相手以外じゃ、本心を出したくないのね」
「認めた相手ですか。ルイズにはすぐさま話しかけているところを考えると、大人嫌いとか?」
「さあね、彼の本心がルイズに見せているものとは、限らないかもよ?」
人の様子は、よく見ているつもりだったのだが。人の、さらに子供の心というものは理解しがたいものだ。
複雑で、違いがあるからこそ面白いというのもよくわかるが、今はわからないと困る。感情もよく読めないから、相棒になることを承諾するかもわからない。
澄みきった美しい天界とは対照的に、僕の心は荒れていた。ヘブンバックのように薄暗くなっていった心だったが、それは小さな火によって明るくされた。
神の炎と光を扱うリィは、指先から小さな火を灯していた。
「貴方もしんみりした顔をするのね。なにを迷っているの、兎にも角にも、アークが人として生きているのかどうか、その確認が先決でしょう?」
彼女はいつも、ぼんやりとした印象だが、たまに鋭い発言をすることで有名だ。
今も、行き詰まった僕の心を照らし、道を示してくれている。
「貴方の言うことは、いつも正しい。ありがとうございます。悩むのは、やることをやってからですね」
「そうよ、そうやって能天気で楽観的で、最終的には結果を叩き出す。それが貴方には合ってるわ」
リィは、ガラスのようなものでできた短剣を、僕に突きつける。彼女が神から頂き、お守りにしているという短剣だ。
彼女は自分が扱う神の光で、人の未来を照らす。それでも岩石が道をふさぎ、未来の道へ進めない時。この短剣で未来を切り開くという。
人以外にも、先の未来へ導く際は、いつもこれを突きつけるのが彼女のポリシーらしい。
「ええ。この短剣に誓って、道を突き進んでいきますよ」
「その意気ね。さ、あのふたりをほったらかしにしたら、なにが起こるかわからない。でしょう?」
「そうですね、早く帰りましょうか」
お読みいただきありがとうございます。
今回は会話が多かったでしょうか。新たな天使、リィを気に入っていただけたら幸いです。