我慢の限界
母親の知人から送られてきた手紙。そこに記された「流産」という文字。
このことから、母は私を産む以前に、もうひとり子を身ごもっていたということがわかるわ。そしてその子は、産声をあげることなくお腹の中で旅立ってしまった。
私なんかに理解できることではないけど、当時に母はとてつもなく辛い思いをしたんでしょう。それなのに、もう一度私を産もうとしてくれたのは本当にありがたいわ。
それで、当時の私は酷く殴られた後に狭い小部屋にこもった。自分用の部屋なんてものはないから、物置みたいなところね。
そこで流産のことについて、痛みに耐えながら考え込んでいた。
「お母さんは赤ちゃんをなくしちゃった……? 私の家、お金持ちじゃあないけれど、お母さんもお父さんも今まで優しくしてくれた……」
家族三人で暮らしていた、幸せな日々を思い出しながらそう思考を巡らせる。時々だけど、異常なほどに両親が優しいと感じる時があった。
「ふたりとも私のことを厳しく叱らないで、見守ってくれてたのって、そのせいなのかな。守れなかった命の代わりに、私は大切にしようって思ったのかな……」
そんな答えを私は出したけれど、それじゃ母が私を殴って蹴る理由が見つからない。どんどん増えていく痣をさすりながら、いろんな観点からそれを想像する。
「私がどうでもよくなった? いや、そんなことないはず……仕事が大変なのかな。でも一回愚痴を聞いてそれで楽そうだったし。愚痴を言っただけじゃダメなの? そんなに大変なことやってたっけ?」
その後どんなことをどんなふうに考えても、これまで優しかった態度が豹変した理由について、自分が納得する答えは出せなかった。
そんな悩みを頭の片隅に置いておいたまま、その日は一日なんとか過ごした。
昼食は母がリビングにいない時にこっそり食べる。夕食は買ってきた食材をなんとなく調理して、適当な調味料をかけて、いつも通りの味を作る。早めに私がご飯を食べて、後から母が食べたい時にテーブルについて、勝手に食べる。
働きはしないけど家事は全部していたから、母と私お互いに一人暮らしをしているような感覚だったのを覚えてるわ。
大方あったエピソードは、これくらいかしら。その後の変化は、母の仕事が忙しくなったのか、殴られる時間が増えたこととか。
くどいようで悪いけど、私はこの暴力行為を正しいものだと思い込んで、自分が悪いんだって自己嫌悪を続けていたの。
だから体の傷も心の傷も隠し通して、持ち前の笑顔で普通を貫いた。文句を言うなんてその時はあり得ないって思ってたわ。
でも心のどこかで、このままじゃいけないという訴えもあった。なにか行動して、私を蹴るというルーティンを繰り返す母を救いたいなって、幽かにそう思っていたの。
そこで私は、頭の中で小さな計画を立てた。子供の考えつくものだし幼稚だけどね。
「そうだ、2、3日怒られなくてお母さんの機嫌がいい日を見計らうんだ。そしてその調子のいい日に、どうして私を殴るのか聞くんだ!」
幼い私にはまだ、母がストレス発散する為に暴力をするほどの苦労というものを知らなかった。ましてや、仕事での上司との関係なんてね。
デリカシーもなんにもない子供だから、そんな鉄砲玉で私は向かっていった。
そして様子を事細かく確認し、ついにちょうどいいという日を見つけた。簡易計画は立ててあるから、今日聞くと確定したら私は夕食後の シミュレーションをする。
母がリビングに歩いてきて、雑にご飯を食べていく。もうすぐ完食というところで、私はタイミングを図って、母に声をかける。
「お母さん」
「なによ」
母は相変わらずのキツい顔をしているが、私は怯まず反論する。
「……その、前からずっと聞きたいことがあったんだけど」
「なに?」
「……私に愚痴を言っても楽になれない、そんな大変な仕事ってなに?」
私がそう言うと、母の顔が歪んでいった。眉間にシワが寄る。それは明らかに、私を嫌悪しているかのようだった。
母はものすごい顔で私を睨んだ。その時はとても怖かったけれど、けど怯まないで私も強い目線を返したわ。今思えば、親の愚痴なんて子供に悪影響なもの、聞かせたくなかったのかしら。
でも私は変わらず母の目を見ていた。それに匙を投げたのか、深くて重いため息をついた後、口を開いた。
「接客業って言ってわかる?」
「う、うん。お客さんの頼みを聞いてそれを叶えてあげるんでしょ」
「……そう。お客の頼みを聞くのが大変なの。それだけ」
「…………」
怒りに狂っていた母の顔ではなく、静かで物悲しそうな顔で黙ってしまった。次第に、微笑んではいないけれど柔らかい顔つきへと変わっていった。
そして、申し訳なさそうに話し始めた。
「今さら過ぎるけど、ごめんなさい。もっとあなたを大切にできればよかったのに。……言い訳がましいけど、環境が変わってストレスも増えて、殴ることしかできなくなったのかもしれない」
「そ、そうなの?」
「本当はこんな話聞かせたくないのよ。こんな自分が今も情けないし」
「ううん、そんなことないよ。だって変なことをしてお母さんを怒らせる私が悪いんだから。お母さんは自信を持ってよ」
私は少し元気を持ち直して、しゃきしゃきと母に言った。しかし母はまた俯いて、静かに部屋へと歩いて行ってしまった。寂しそうな気弱な背中を見て、こっちまですごく不安になったのを覚えているわ。
母の気持ちがまた沈んでしまったのは、私が声をかけてからかしら。何故かわからないけど、柔らかかった表情はさらに脱力し気怠くなっていた。
「お母さん……」
その日は静かに一日を終えた。
次の日、それが全てを決定づけた運命の日だった。
その日は学校の創立記念日で休みだった。けれど私はそのことをすっかり忘れていて、荷物を背負ったまま一度学校へ到着してしまった。母にももちろん伝わっていないわ。
「あらあら、今日は休みですよ。創立記念日ですから」
「あ! そういえば……教えてくれてありがとうございます。明日また登校します、さようなら!」
「はい、さようなら」
校庭で学校の整備活動をしていたおばさんとそんな会話をして、急いで逃げるように帰っていった。
そして私は家に戻る。
「ただいまー……て言っても誰も居ないか」
今日は平日。母は仕事で朝早くから出ているはず。今この家には私ひとりしかいないんだなぁ、と思いながら家をふらふら歩き回る。
……そのとき、私は鉢合わせてしまった。全てを壊した、服の乱れた男に。
家の廊下に突然、見たこともない男の姿が現れた。私とその男、双方戸惑い訳の分からない瞳でお互いを見つめていた。
だがその時、男の奥に母が見えたの。目の前の男以上に戸惑い、目を見開いている。
「お、お母さん? この人誰?」
「え、なんでここに……えっと……」
母はしどろもどろになる。男はこちらが意味を理解しないまま騒ぎ散らす。
「お母さん? やっぱり君、娘さんがいたのかい。それじゃあもっと仕事をしなくちゃいけないじゃないか」
「うっ……だからってなんで家まで……ちょっと! 今すぐ部屋に入っていなさい!」
母は私に向かって言ったようだった。男に対して気弱になっているが、私を守ろうとしてくれているのか。
だが男はもう私のことなんて気にしないみたいだった。どんどん母を追い詰めているようだった。
「はぁ……これでさらに借金が積み重なったらどうする気? 今のままじゃあ満足に払えないよ?」
借金。そんな事情を聞かせたくなかったんでしょうね、母は。サラサラとそう言う男に、鋭い目を向けていた。威嚇をする野生動物のように。
そんな状況になっても、私にデリカシーはない。傍若無人に振る舞って私は言う。
「お兄さん! お母さんに何の用? お母さんは仕事で疲れてるんだから、今日くらいゆっくりさせてあげてよ!」
その他に私は何回か男に声を投げかけた。その発言一言一言に男は自尊心を傷つけられたのかなんなのか、今度は私だけを意識するようになった。
彼は感情任せに周りが見えなくなっていたが、私には状況が理解できた。周りもよく見えた。
奥のキッチンから包丁を取り出し、今にも男の背に刃を突き立てそうな母が、男の背後越しに見えた。
そしてそれは、予想通り男の体を貫いていく。
「あっ……!?」
母は背中に刺した包丁を抜き取り、何回も穴を開けてはその蓋を取り外していく。赤い液体がこぼれ出る代わりに、男のうなり声はだんだんに消えていく。
私は思わず声を出す。いや、当然のことよね、流石にこれは。母親が見知らぬ男を滅多刺しなんて。
「ひっ……おかあさん?」
返り血まみれで汚れてしまった母を私は見る。その姿は幼心に猟奇殺人鬼のようにも思えた。母は小さく言う。
「はぁー、はぁー。安心して、もう、不安の種は除いたわ……」
眠くてかけなかった続きを書きました。
ついに母親が超えてはいけない一線を超えてしまいましたね。
これに子供のヒールは、何を思うのでしょうか。




