歪な日常と違和感
「……え? な、なに? お母さ……」
黙って。そんなこと言われて戸惑わない子供はいないわ。これまで優しかった母が、そんな辛辣なこと言うはずないって思っていたのに。
動揺のあまりに、口も頭も回らなくなってしまった私なんて気にせず、母は言った。
「……あなたは知らないでしょうけどね、私は疲れてるの。愚痴なんか聞かなくていいから、黙ってて」
状況は把握できなかったけど、それでも頑張って私は口を出した。
「だって! 私、お母さんの役に立ちたいの。だから私にできることだったらなんだって――」
「うるさいっ!」
「ゔっ!」
母の堪忍袋の尾が切れたのか、前触れもなく怒鳴り私の腹を蹴り飛ばした。その弾みで、背中も壁にうったわ。
ついさっき、先に夕食を食べたばかりだったから、吐くかと思ったわ。
母は肩で呼吸をしていた。目は見開いていて、なにかの一線を越えてしまったような心情が垣間見えた気がした。
「……役に立ちたいなら黙って、失せて。ご飯はもういい、片付けといて」
そう言って母は、荒々しく自室に帰っていった。私はもうなにも考えられなかった。
お腹と背中が痛い。心も神経はないはずなのに、とても苦しかった。喉が塞がれたように、息をするのもままならなかった。
それでも私はその日は耐えて、痛みと動悸が治ってから夕食を片付けて、黙って寝た。いつもは母と一緒の部屋で寝るんだけど、その日は子供ながらに、同室にいるべきじゃないと判断してリビングで寝た。
……翌日から、母の暴力と私の自己嫌悪は始まった。
母がまたやつれた表情で帰ってきて、「汚いきたない」と言いながら服を洗濯かごに入れる。そうして私の作った料理を食べる。
「不味い」
「え……?」
「不味いまずいマズイ。私はこんなに疲れて仕事してきて帰ってくるのに、ご飯はこんなに不味い。どうふざけたらこんな味になるのよ」
「わ、私だって頑張って学校に行ってご飯作って……」
「毎日ずっと男の子に触られているの? 唇を寄せられるの?」
「え……」
「どうせ馬鹿みたいに笑って無駄に時間を過ごしているだけでしょう。それだけで頑張ったなんてよく言えたものね!」
怒鳴りながら母は暴力を振るってくる。
「言ったでしょう! 黙ってって!」
「やめて、やめて……」
「言うことを聞かない馬鹿のくせに! 私の苦労も知らないで甘えんじゃないわよ!」
「いたい……うぅ」
体中に痣ができるくらいの打撃を受ける。次第に母の態度が変わっていく。顔は青ざめていく。
「あ……」
半歩引いた後、母は急ぎ足で部屋に帰った。私を気の済むまで感情のままにいたぶって、そして事の重大さに気がついて、部屋に急ぎこもる。
これがいつもの、夜のルーティーンだった。
最初は慣れなかったわ。……え、当然って? ふふ、そうかも知れないけれどね、その時の私の思考は、「母が正しい」。
いくら母が私を傷つけようと、それには母なりの事情があるのだから、まだ幸せな私が耐えなければ。そんな思いでいっぱいだったわ。
でも回を重ねるうちに慣れていった。もちろん痛みにはいつまで経っても慣れるはずはないけど、いつ母の沸点が上がって越すか、痛がる声を出さないようにどう息を止めるか。
そんな技術は上がっていった。学校ではなにも変わらず笑って過ごして、時間は短くなったけど街を冒険して、一見変わらない毎日を過ごした。
「お母さんがいつか、笑って幸せになれるように。私が頑張らないと」
そんな目的を持って、罵声を浴びせられ殴られ蹴られ、私は生きていた。
周りの人間に怪しまれることもなくね。これってすごくないかしら。痣の痕も、少しの知識や知恵を利用して上手く隠していたの。
そんな中、世間は休日と呼ばれる日。リビングのテーブルに、私が知っているものよりはるかに大きい封筒が置いてあったの。
母はさっき買い物に行ったから、しばらく帰ってこないことはわかっていたわ。書類を覗いたなんて知れたら、大怪我でもするかもしれない。
「でも、紙の場所をちゃんと戻して、汚さないで読めば大丈夫だよね……」
私は好奇心で、封筒を覗いた。
そこには色んな紙があって、幼い私は読むことも躊躇うくらいの文字数があった。でもきちんと表題が書いてあって、読む気の起きた紙だけ読み込んでみたわ。
たまたま読んだその紙は、ホチキスで留めてあるようなセットになっているものとは違って、単体のものだった。
私は淡々とそれを読んでいく。
「出生届、かな? 下の方はよくわかんない………あ、名前って欄がある。……“レイリー”ちゃん? くん? 書いてないからわかんない、書きかけみたい」
母はまだ帰ってこない。私はまだまだ調べ尽くしたくなって、また別の紙を漁りだした。
それは角がホチキスで留められていて、表紙の一枚目には写真が貼ってあったわ。その写真は何故か大体が真っ黒で、ほとんどなにもわからなかったけれど。明るい部分は、あっても小さな人形のような形だったわ。
私はまた読んでいく。
「……こっちは細かくてよくわかんない。写真は見えないし、箇条書きされてるけど読めない。ラインとか引いてあるけど、どこを見たらいいんだろう」
書類のページを何枚かめくる。
「あ、さっきと同じ真っ黒の写真だ。何枚あるんだろう。あれ、なんか文字が書いてある。お母さんのふらふらした字……え? これ“レイリー”って書いてある? どういうこと?」
真っ黒でほとんどなにも見えない写真に、母の見慣れた白い字でそんな名前が書いてあったの。未提出、未記入の出生届に書いてあった名前と同じ名前が。
俄然興味の出てきた私は、また紙をめくっていった。そしてまた妙な写真を見つけた。
「真っ黒な写真。でもさっきはもう少し明るい部分があったのに、今度は完全に真っ暗だ。なんで?」
この興味が止まるわけもなくて、私は紙をめくり尽くしてしまった。しかし私にはそれ以上情報が掴めず、その書類から好奇心を埋めることはやめた。
代わりに、さらに封筒の中を漁っていった。そうしたら、文字がつらつらと印刷された紙とはひときわ違う、手紙を見つけたわ。
母の知り合いか誰かかと思って、私でも読めるかと手にとってみた。
手紙自体は封筒なんかには入ってなくて、そのまま読むことができたわ。冒頭には母の名前が書かれていて、じっくり読み進めていく。
苦労しながら読んでいくうち、あるひとつの単語に私は引っかかったの。でも、それについて考えを巡らせることはできなかった。
「なにしてるの!?」
「あっ、お母さん……」
どうやら随分な時間がたってしまっていたようで、母が袋をぶら下げて帰ってきた。
その母についての書類を盗み見てしまった私は、許されるはずもなかったわ。当然、手紙から手を外され、めちゃくちゃに殴られた。
でもその時だけは、私は痛みや喉の心配じゃなく、そのひとつの単語を気にかけていた。
流産という、その言葉を。
お読みいただきありがとうございます。
少し重い話ですが、あまり長くは続かない予定ですので、しばしお待ちください...。
ヒールの母親は一体どんな人物なのか、次話解き明かされるはずです。お楽しみにしていてください。




