ぼくの「幸せ」
「あ、おかえり」
「うん、ただいま」
目が覚めて数十分。意識も冴えてきたころに、ドアの開閉音がした。ぼくが置いてきてしまったフロート製のベッドを、ゼルが取って帰ってきたのだ。
ゼルの体ほどあるかもしれないベッドだ。担いで持ってきてくれた彼に、「ありがとう」と礼を言おうとした。
だがその前に、ゼルの顔を見ると、珍しく硬い表情をしていた。睨みつけるとまではいかないが、その目は引き締まっていた。悩んでいるのか怒っているのか、穏やかでない彼を見ることはほぼない為、いまいちわからなかった。
――もしかして。
ぼくは気づいた。ゼルが微妙な顔をしている理由に。寝る前にぼくは恐れていたのだ。リザレイと喧嘩したこと、それによってリザレイが酷く動揺して感情的になったことなどが、彼に知られるのを。
ぼくの恐れは顔に出ていたらしい。ベッドを床に置いたゼルは、腕を組んでぼくを見つめる。その目は少しだけ柔らかくなっていた。
「……リザレイと会った?」
察したぼくは観念して、自分から聞いてみた。
「ああ。僕が家に行って『フロートベッドをもらえるかな」と聞いたら、奥の部屋で背を向けたまま『そこに置いてあります。ご自由にどうぞ」って言われたんだ。彼女はそれっきり、一言も口を聞いてくれなくてね」
「そっか」
「天界にいる相棒というのは、少なからず濃い過去を持っているんだ。それもデリケートな。彼女の場合は特にだし、詮索は下手にできないんだ。……なにがあったか、教えてくれるかい?」
「うん……」
気分が落ち込む。しかし、そんな過去のあるリザレイの方が何倍も辛いはずだ。ぼくは心をしっかり保って、リザレイとの出来事を思い出した。
「ぼくは帰ろうとしたんだけど、リザレイが神を崇拝してるみたいだったから、神を信じてるのかって聞いたんだ。そうしたら話してるうちに、何故かリザレイを怒らせちゃって……」
ぼくはそんな調子で、いつもとは違う、ぼそぼそとした声で話した。ゼルは途中、紅茶も飲まず口も挟まず、黙って話を聞いていた。
時々彼の様子を伺うが、責めるようでもなく優しいようでもなく正真正銘の真顔だった。ゼルの素の面を垣間見た気がする。
そのうち、一度記憶の引き出しにしまいかけた記憶を、ぼくはひとしきり話し終えた。
ゼルは怒るだろうか。説教でもされるのだろうか。話しながら考えていたが、一体どうなるのだろうか?
「……アーク」
「う、うん」
緊張が肩に現れる。
「色々言いたいけど、謝りはしたのかい」
「したよ」
「じゃあ、それにリザレイは返事をした?」
「え……多分、してないかな。許してはもらってないと思う」
説教されてる気分だ。いや、叱られてるのか。ぼくは体に力を込めているものの、心はしぼんでいる。
「わかっているらしいけど、アークは謝ったつもりでも彼女は許してない。というか、混乱している時に君の声なんて聞こえていないだろうね。だから、もう一度リザレイに会って話し合おうよ」
「もう一度……あんなに怒らせたのに、会うことも許してくれるかわかんないよ」
頭の中に、多くの選択肢、分かれ道が浮かぶ。しかしそのどれを選んでも、未来予想図は真っ暗だ。一歩進む前に、全て躊躇してやめてしまう。
空想の中でも現実でも、ぼくはうな垂れる。人と積極的に関わってこなかったから、この先どうなるのかがわからない。怒鳴られたって叩かれたって、文句は言えない。
ぼくは、リザレイともう一度会うことを――
「アーク」
「えっ?」
ゼルはぼくの肩に手を置く。その手は力強く、肩を握っている。が、顔はいつも通りの、優しい柔らかいものだった。それを見た瞬間、思わずほっとするくらいに。
「僕は、リザレイと会った方がいいと思う。けど、無理に会う必要もない」
「……どうすれば?」
「いま君は目的に向かって突っ走っているけれど、思い悩む時間が必要になった。だから今だけは、それについてよく考えてみて。彼女と会う勇気を作って」
「会う勇気……」
「方法は任せるよ。リザレイと会う機会は僕が作るけれど、アークの勇気の作り方はアークにしかわからない。行動は制限しない、好きにやってごらん」
任せる。勇気の作り方なんて、そんな丸投げされても困る。そうぼくは思うけれど、きっとこれはゼルの優しさだ。その優しさを受け入れないと。
「……アーク、行動を制限しないっていうのはね。なにをしたっていいってことなんだ。だから、この僕の意見を無視したっていい」
「目的に突っ走っても?」
「勿論。そもそも、リザレイと仲違いしたままでいいならそれでいいんだ。天界で生きるなら、仲を直したほうがいいと思っただけで。……前に、君自身が言った言葉を思い出して」
「ぼくが言った言葉?」
役に立たない頭を起こして、ちょっと前の過去を探る。ぼくはゼルに、なにか言っただろうか。
「ねぇ、それってなに?」
ぼくは聞いたけれど、ゼルはもう聞いていなかった。いつのまにか紅茶で喉を潤していた。完全にモードが、娯楽の方にいってしまったようだ。
アドバイスをするだけして、彼は自分の世界へ帰っていった。
――行動を制限しない、か。
もう構っていても仕方ないし、落ち込んでいる意味もなかった。気分を元に戻す為に、地上じゃ「ダメ」と言われてできない、子供にとって夢のようなことでもしたらいいだろうか。
つまり、ぼくがずっと願っていたこと。
「…………」
ぼくはなにも言わない。なにも教えない。そのまま無言でフロートベッドを引きずって、微妙に宙に浮かせる。そしてベッドに寝転ぶと、なるべく暗いところに移動して、頭も体も心も全て委ねた。
――そう、ずっとこうしたかった。今までの睡眠は、浮かんだまま寝ている感じだった。体を預けていなかった。辛くても疲れていても寂しくても、周りに心配をかけたくなかったから、誰にも教えなかった。頼れなかった。
全部を放り出した空っぽの頭で、根拠のない空想がしたかった。明日の計画なんて明日の自分に任せて、夢を見たかった。
空っぽになったぼくの頭。これでなら、彼女のことも彼のことも、空想として考えられるかな。考えるうちに寝るかもしれない。それならそれでいい。
すごく久しぶりだ。心の底から安心して眠るなんて――
紅茶の入ったカップが机に当たる音が心地いい。彼は言った通りなにも注意なんてしない。
ここなら、天界でなら、誰にも怒られないしなににも責められない。安心していいんだ。
♦︎ ♦︎ ♦︎
……ここは、家。
目を開けなくても、あの懐かしい匂いでわかる。全く姿を見ないで、たまに見る後ろ姿はとても疲れている、あの人が作るあの料理。
ぼくが美味しいというと、あの人も嬉しそうな顔をする。その時、ぼくは愛されてるんだなと、安心する。
「簡単に作れて、しかも美味しいんだよ」
確か、そう言っていた。だから、前にレシピを教えてもらったと思う。でも、いくらぼくが作っても敵わない。あの人が作る、そぼろ。
油を引いて、砂糖とみりんと醤油と。色々混ぜてできたあのそぼろは、とても甘くて旨くて。噛めば噛むほどそれは滲み出てくる。
「あ……」
目の前の、見慣れたテーブル。そこには、湯気と油を出しているそぼろがあった。米がなくたって、それだけで食べていた。使い慣れた箸もある。
使い続けるうちぼくの体にあった椅子に、深く座る。箸を上手に握って、「いただきます」と呟くと、ぼくはそぼろをそのままかきこみ始めた。
懐かしい味。そぼろの一つ一つに旨味が染みていて、口いっぱいに入れればその美味しさがより味わえる。でもあの人が作れるのは並程度の量で、大量に食べるのがいつも惜しかった。
「うっ……うぅ……」
いつのまにか、ぼくは泣いていた。それでも食べることはやめないで、頬張り続けた。
これはきっと、夢だ。だからいくら食べたって、そぼろはなくならない。でも、幻だって、ぼくの舌は確かに感じている。
――ちゃんと味わえ。次に味わえるのはいつかわからない。だから、好きなだけ。
ぼくは涙を流しながら、大好きなそぼろを頬張っていた。その味を忘れないように、舌に覚えさせるように。
何年ぶりかに見た、幸せな夢。覚めないで欲しかった。この家に、あの人はいなかったけれど。
「……母さん……」
お読みいただきありがとうございます。
相棒やアークたちの過去など、少しずつ明かしているつもりです。
一体どんな過去を、それぞれ持っているんでしょうね。




