肉体と魂の謎
「おーい、アーク。どうしたんだ」
変わり果てた自分の姿に呆然とし、意気消沈しているところに、ゼルの呑気そうな声が割ってきた。
ぼくは慌てて首を回し、正面の窓ガラス越しの大天使に気がついた。彼はガラスをちょんちょんと叩き合図する。その通りに窓の鍵を解き横にスライドさせると、颯爽とこちら側にやってきた。
「ぼくの後でもつけてた?」
「まあね。いや、もちろんちゃんと探したよ」
ふうん……、とだけ言って、改めてベッドの上の体を見る。今はちょっとした漫才すらも、できそうになかった。
「僕が思ってたよりもひどい怪我だね。これで生きてるって、尚更信じられないけど」
「病室に残されてるから、命の糸は切れていないんだろうね。それに……」
言葉を切って、肉体の頭脇にある心電図モニターを指差す。画面の光は、跳ね上がったり飛び降りたりを一定して繰り返す。身体の働きが正常であることを、正しく示していた。
「不思議なものだねぇ。僕からすればだけど、死んでいるのが一般的だよ」
腕を組みながらそう言う。大天使だといっても、怪我に詳しいわけじゃあないくせに。と、ぼくは、隠れてゼルを睨みつけながら心中思った。
ゼルは勝手に喋って勝手に黙る。ぼくは特にこれといって話したいことも無いから黙る。すぐに静寂が訪れるのは必須だった。
彼の身勝手に反抗する為にも、なんとか脳内の記憶をほじくり返し話す。
「……でも、これは、ぼくは生きてるってことでいいんだよね」
「ちょっと疑問は残るけど……うん、心臓もちゃんと動いてるし」
ぼくの体の心臓にそれらしく手を当てると、ゼルはそう断言した。
どうやら彼の方に疑問があるようだが、ぼくにも聞きたいことはあった。裾を引っ張り、質問に応じさせる。
「ゼル、なら今のぼく、つまり魂とこの体は結合するんでしょ? 借りている器から出て、体に入り込めばいいんじゃない」
「……うん、なるほどね」
ゼルは返事はしたものの、腑に落ちない、といった声色だった。この態度はさっきからだ。ぼくはそれに段々と、いらつきを覚え始めてきた。
「なに? 変なところでもあるの?」
聞いても、彼は顎に手を当て考え込んだまま。一体なにをしているんだ?
「確かにとは思うんだけどね。ちょっと聞き返させてもらうけど、魂がなにかに引っ張られるような感覚はあるかい?」
「引っ張られる感覚……そんなの、ちっともないけど」
ぼくの素直な感想を耳に留めた彼は、悪戯っぽく笑った。しかしそれは一瞬で、次の秒には真剣な顔つきになっていた。
ゼルの質問とその表情で、質問の意図が、おおよそ見当がついていたというところから確信へと変貌してしまった。
こちらの目を見る彼に、ぼくもそれ相応の眼差しを返した。
「アーク。肉体と魂というのはね、長年一緒にいるから死に引き裂かれるまで共にいたがるのさ」
「でも、引き合ってもない」
「うん、ならきっと、君の魂が器から抜けて改に肉体に入ろうとしても、そのまますり抜けてしまうだけだろう」
「体は生きてるのに、魂だけが戻れないって……そんなことあるのか」
心底がっかりした、というわけではなかったが、微量の元気は失われた。
後ろ手にお見舞い用のパイプ椅子を引き寄せ、心の重荷も乗せるようにのっそりと腰を置く。
深くため息をつく。一番初めの出来事から何日経ったか、何時間経ったか知れないが、事が起こりすぎていた。せめてはっきり戻れないとわかってくれた方が潔くなれるのに。
ちらりと上を見やると、向こうも同じようにちらちらとぼくを見ていた。
「気でも使ってるの?」
「え?」
彼はすっとんきょうな声を出した。
「もちろんぼくは、面白くないよ。少しくらい戻れるかもって希望はあったんだ。だから悲しい」
口を真一文字にして、頷いている。
「でもね、体は生き続けてるってわかった。それだけで、喜びははるかに悲しみを超えるよ。それに体はあるのに戻れない……ってことは、完全に戻れない保証がなくなったということではないからね」
ぼくはこの考えがまっすぐ伝わるように、できる限りの思いを込めて言い切った。
聞いていたゼルは、目をやや見開いている。
「それって、もしかして。戻る方法をこれから探すっていう意味かい?」
「どうして驚いてるんだ、その通りだよ。ぼくは今すぐにだって地上へ、人間世界へ帰りたいんだ。僅かでも可能性があるなら、探さなきゃ」
ゼルの表情は数秒固まっていたが、その後は理解や納得をしたように微笑んだ。いつもの安心できる微笑みだ。
「ふふ、アークに想像以上の勇気や希望があって、なんだか嬉しいな」
「馬鹿にしてる? ぼくはこれでも考えて苦しんでいるからね」
「ああ。アーク、君はなにかとんでもないことをやらかしそうだね」
「平穏に過ごしてたいよ、ぼく。きっと勝手に巻き込まれていくんだろうな」
気づけば、いつもの漫才じみた緩い会話が展開されていた。心が落ち着いた証拠だろうか。
けど、天界が住み心地がいいというのもあるかもしれない。地上でも辛く楽しい日々も悪くはなかったけど、展開で出会う天使や、特に人間には眼を見張るものがある。新しい発見がわんさかと出てくるのだ。
どうやらあそこは、エデンの園でもないから、誰もが働く必要がある。怠けをしてはいられないが、十分の充実した日々が過ごせる。
地上の人間浸りだったぼくも、ずっと過ごしている内に良さに気づき気持ちよく感じている。
「さて、じゃあアーク。もうここに思い残すことはないかい?」
「多分。それに、なにかあったらまた来ればいいでしょ?」
「いやぁ、ハインが許してくれるかな……」
自分のことだとはいえ、流石に心の奥の奥のことは断言できない。
しかし、現時点では、明るく前向きなポジティブな気分でいられた。
今は天界に戻る。そこで充実した日々を過ごしながらも、地上に無事帰る方法を必死に探す。そんな未来予想図が、不思議と出来上がっていった。
「こう上手くいくといいけどな」
つい、そんな独り言が出てしまった。
「ん、やっぱり未練でもあるかい?」
「いや、なんでもないよ」
雑に言い訳して、それより早く戻ろうと声をかけると、ぼくはここに来るよりも速いスピードで窓を出て、空を飛んで行った。
ゼルは恐らく大慌てでこちらに向かってきているだろう。窓の鍵は、4階に忍び込む輩がいないと信じ、屋外と屋内を締め切る仕事だけゼルに任せた。
「そうとなったら、まずは住みやすい環境を作らないとなー」
まだ彼は来ない。ひっそりとそんな独り言を言う。これから戻って、環境づくりをゼルに手伝ってもらうよう頼み込もう。
ある程度の計画を立てると、ゼルがやや息を切らしてきた。
「はぁ、窓を閉めて全速力で飛んできて、どれだけ疲れるか――」
「ゼル、多分ぼくは当分天界に住むから、住みやすいよう協力してくれる?」
今度は彼がため息をつく番だった。汗を拭うような仕草をし、疲れたように顔を歪めていた。
やり方はどうあれ、初めて優位に立てた気がして、何故だか嬉しく笑ってしまった。
「アーク……君って奴は」
「あはは、ごめんゼル」
ゼルはまだなにか言いたそうに口を開いたが、声帯を震わせる前に制止したようだった。代わりに、若干の睨みをきかせてきた。
ぼくは片手で謝るポーズをしてみたが、腕を組んで渋った表情をするのはやめてくれなかった。
時々こみあげる笑いに、こらえきれなくなってしまうこともあるようだけど。
「アーク! よそ見は事故の原因だぞ」
その呼びかけに、一瞬ひやりとした。 今となっては言葉の意味がよくわかる。うん! と返事をして、しっかり目的方向を見据える。
ぼくの真横を飛行するゼルも、まっすぐ前を向いている。
互いが正面を見る状況で、風音もあるのに聞こえるかどうか定かではなかったが、試しに呟いてみることにした。
できれば、聞こえていないでほしいけれど。
「地上に帰るまで、よろしくね」
お読みいただきありがとうございます。
今回は事件というより、アークの心情について考えていただけたらなと思いました。
次話は、アークの生活環境を整えることになるかと思います。是非お待ち下さい。




