華麗なる秤の大天使
「ゼルよ、また散歩か?」
地上と天界の狭間をふらふらとしていた僕は、低い声のする方へ振り返った。上には、明らかな作り笑顔をした大天使がいる。
僕は近づき、同じ目線になる。
「いいえ、これは仕事ですよ。ハインさん」
「霊魂の看守だったかな? 神より与えられた鎌も持たずに浮いている様は、普段の散歩と変わらないな」
皮肉をぶつけられ、思わず軽く両手を挙げた。ちょうど、手が顔の横にくるくらい。
「はは、これは申し訳ない。あの鎌はルイズにあげてしまったもので」
「……以前から知ってはいたことだが、本当に未熟で愚かな天使よ。神からの授かりものをそのようにぞんざいに扱う。しかも、あのルイズにだと。本当にありえないな」
この話をする度そうだが、ハインは心底信じられないということを、あらゆる手段で伝えてくる。特によく使うのは、表情と、説教じみた長いお話。
僕の責任ではあるが、今は嘘偽りなく仕事をしているのだ。できれば後にしてもらいたいと、こちらも笑顔を浮かべながら思う。
秤の大天使、ミハイル。通称ハインは、四大天使中最も偉大であるという。普段の様子は物腰の柔らかい、地上で言うところの好青年、といったところか。
だが、そこはやはり偉大な天使だけある。眼前の相手が正に反するようなことをすれば、秘めていた威圧感を存分に放出してくる。だから天使たちは、彼のことは尊敬し敬いつつも、必ず恐れている部分がある。
ハインは何故だか、僕に一度も叱ったことがない。彼に立ち向かえるのは自分の中の正義を絶対として貫いている者だけだろうが、僕にそういった自身は全くない。理由は簡単。自分の中の正義なんて、確立していないからだ。
だからそういう観点では、たとえ主観的であったとしても、絶対の自己正義を持つハインには尊敬するべきところがあるのだ。
「……だから、こちらにとっても困ることはあるのだよ。お前自身は、どう思うんだ?」
「あぁ、そうですね」
どうやら、説教の止めどころが見つかったようだ。いつものことだから勘付いてはいるだろうけど、とりあえず、通例通り話をそらすことにした。
「残念ですが、僕は今、本当に仕事を果たしているのですよ。ですから、その件はまた後々ということで」
「ふっ。普段から行っておらずとも、霊魂は回っている。今さら一生懸命になる必要はないぞ」
やはり、止められてしまった。まあ、これまでそうされなかったのが不思議なくらいだが。
さてどうしようか。どうすればハインの意識が別に向くだろうか。僕は脳内の記憶を駆け巡って漁る。そして見つけた。
可能性は低いが、やってみるしかないだろう。 僕はにこやかに話しかける。
「ハインさん。そういえば僕には、聞きたいことがありました」
彼の笑顔はいつからか消えていて、すっかり呆れていた。
「それでごまかせると思ったのか」
ため息を突かれてしまった。それでも僕は根気よく、まあまあと興味が引くのを食い止めて、話を続けた。
「僕は、その時は仕事をしていたんじゃありませんが、アークという霊魂を見つけました」
「ほう」
「ですが、実はまだアークの肉体の安否が定かでないのです。なので、アークも連れてその確認に行こうと思うのですが」
「安否の確認……?」
彼の表情は豊かなもので、今度は不思議そうに眉間のしわを増やした。
「そんなもの、必要ないだろう。魂が天界にまできているなら、もう体とは分断されている。互いが孤立しているのだ」
「ええ、そうでしょうね。わかっています。だから僕には、明確な根拠があるのです。“天界における七条法”の、第七条目」
「……“天界は、未練ある穢れた死せる者を、受けつけないものである”、か?」
流石偉大なる大天使。僕は満足げに笑んで、深く頷く。
「未練があるのか? そのアークに」
「これも定かではないんですが。時折、悲しげな表情を見せるのです。初めて会った時も、僕が天使だと言ったら一旦は高揚したように思えたのですが、直後に目を伏せていましたし」
「それは、信心深いということではなく?」
「僕がいってはなんですが、彼はそんなこと全くなさそうでしたね」
「なら、他人かなにかが関わっていそうだな」
「他人ですか」
そこまでは考えつかなかった。硬いハインにも相談してみるものだなと、ぶしつけだが思った。それに、ハインは想像よりも真剣に考えてくれていて、何故か嬉しくなった。
「でしたら尚更、僕とアークは地上へ出向かないといけません。なので、これから行ってきてもよろしいですね?」
「ふむ……そこらの事情が不鮮明なまま互いを引き離して、体の方が問題を起こされても困るな。まあ、それくらい良いだろう。決して姿を見られないようにな」
僕は会心の笑みを必死に抑え、ちょうど良い具合の笑顔で、ありがとうございます、と言った。
説教からも逃れられたし、前からの目的も遂行できる。一石二鳥、という奴だろう。
ハインに向かって軽く一礼してから、僕はもう一度挨拶をした。
「これからアークを呼んで、地上へ行きます。心から感謝します」
僕はハインの上を通り、天界へ向かおうとした。が、ハインのよく通る声で静止することとなった。
「ゼル! 宿題だ。これまでの自分の悪行について、考えを少しでも述べられるようにしておけ!」
「悪行って……はい、わかりましたよ!」
大声で返事をしてから、改めて天界へ体を向けた。
さて、すぐにGホールのヘルスセンターに行かなければ。
リザレイの腕にかかれば、あれくらいの傷はすぐに治る。時間もだいぶ経ったはずだから、もう動けるだろう。
仮にも魂と肉体が繋がっていたとしたら、放っておけば大事が起こるかもしれない。
「とにかく、全速力でアークに会わないとな」
♦︎ ♦︎ ♦︎
「あーあー、暇だなぁ」
ぼくは変わらず、ベッドの上で転がっていた。体を丸めたりねじらせたりしている内、勿体無さと探究心が後押しして、ヘルスセンターを探索したくなってきた。
起き上がって冷たい床に足を落とす前に、布団の上で硬直して考える。
ぼくは無鉄砲に動くことが、怖く思えるのだ。まだよく知らない場所で立ち尽くす、あのなんとも言えない恐怖。孤独感に近いだろうか。
この部屋に来るまでの記憶を探し回って、ある程度の計画を立てた。
足らない部分は、実際に見てから補えばいいだろう。
「ふう……行くか!」
冷え切った床。冷え切ったドアノブ。冷え切った空気。そこに流れ込む、人と天使の温もり。
ぼくは扉を力強く開ける。
改めて一目見た印象は、清潔で活発さがあるといったところだ。真っ白な壁や真っ白なタイルに、病弱ながらも笑う人たち。暗く沈んだ気持ちの人は、大ざっぱに見てもいなさそうだ。
のんびりと脳内構図通り歩きながら、ヘルスセンターの構造をマッピングしていく。
部屋ひとつの形は、六角形の両端に長方形がくっついたような感じだ。それがいくつもあって、繋がっている。
単純な造りだが、一つひとつの部屋に色んなものが詰まっている。歩く途中、ぼくの手当てをしてくれた男性が見えた。彼は笑いながら手を振る。ぼくも微笑んで、振り返した。
部屋をひとつ超えて男性が確認できなくなると、ぼくはその微笑を解除した。自然な笑みの中で人工的な笑みを浮かべるのが、惨めになってきたのだ。
表面上はゆったりと歩きつつも、内心複雑だった。
「ハインさんに会ったらどうだ」
ついさっき、グリウに言われたことだ。特に目的もない今そうするしかないだろう。ないのだが、ぼくはとても気になってしまうのだ。
ハインという天使に会って、なにかが進展したその先には、一体なにがあるのかと。
死んで天界に訪れてから、正直言って楽しいことはあまりなかった。唯一得したことといえば、死後の世界の存在があるとわかったくらいだ。
それなら、死ななくても、あのまま地上にいた方がもっと素直に笑えていたような気がする。
家庭環境だって深刻な問題があるわけじゃなかった。明るい彼といれただけで、幸せだったのに。車なんか、来なければ。
「後悔したって遅いのに」
自らの意見にそう呟く。客観的に見れば、あの時のぼくの行動に落ち度はなかったのだろうか。
でも、今のぼくは深くふかく後悔している。どうして自分を捨てたのか。それは彼にとっても辛いはずなのに、どうして彼の襟を引っ張らなかったのか。
目の奥から、水が湧き出そうになる。けれどぼくは、目を強張らせて感情も液体も殺した。
斜め下の床を視認しながら、足を動かす。華やかとも言えるヘルスセンターは、もう瞳に映っていなかった。
しかし、ぼくの足音だけが聞こえるようになった頃、そんな思考は断ち切られた。
「わっ」
ポン、と。生暖かく硬いものに体が触れた。
「アーク、傷はもう大丈夫なのか?」
「……うん」
ゼルがそこにはいた。走って、いや急いで飛んできたのか、少しだけ息を弾ませているようだ。
しっかりと目を合わせて、質問をした。
「ゼル、仕事は終わった?」
「もちろん。ついでに手がかりも見つけたよ。先の道へ進む為のね」
そう得意げにするゼルに、ぼくもグリウに提案されたことを教えてみた。
「グリウっていう天使にも言われたよ。この先会ってみたら良いんじゃないかって天使を」
「へえ。じゃあそれが合致してるか、試してみようか?」
ゼルはぼくの方を向いておもむろに笑った。その時の表情は、なんとも意味ありげに感じられた。
「どういうこと?」
「同時に、天使の名前を言ってみるのさ。面白そうだろ」
そんなことをする意味がわからなかったが、彼なりの考えでもあるのだろうか。一応渋ったようにして、コクっと頷いておいた。
ゼルも了承を得たように小さく頷き、合図を決めた。ぼくと彼は、糸のように細い声で「せーの」と言った。
ぼくたちの声は、重なった。
「ハイン」 「ハイン!」
どうやら、ふたりの目的地は一緒だったようだ。ゼルは相変わらず笑っているが、今回は満面の笑みをなんとか抑えている、という感じだった。
「見事だね、アーク」
「うん。よく一緒になったね。ゼルがハインに会おうと思ったのって、理由はあるの?」
「ああ、実は僕ね。ついさっきハインに会ってきたんだ。その際、地上へ降りる権利をもらっておいたよ」
そのゼルの一文に、ぼくは電気ショックを受けたかのように衝撃を受け、硬直した。
地上へ降りる……? どういうことだ。
恐らく間抜けな顔をしていたぼくに、ゼルは穏やかな口調で語りかけた。
「君の状態からするに、本来は君はここに入れないということが判明してね。でも君は今、ここにいるだろう? それから導き出せる結論が、アークの肉体はまだ息がある、という可能性なんだよ」
「体に、息が……?」
どれだけゆっくりに説明されても、体に流れる衝撃の量は変わらないだろう。
ぼくがまだ、地上で生きているだって?
「で、でもぼくは、もう長い間天界にいる――」
「それは承知の上だよ」
ぼくの発言は彼の手によって止められる。再び、頭が混乱しだした。現実と言えるかわからないが、この状況を、まだ完全には掴めていない。
「地上へ行くまでは距離がある。それまでに整理しておけばいいさ。さあ、すぐに行こう」
呆然とするぼくの硬い掌を、ゼルの手が包み込んで引っ張る。体が勝手に浮く。
一体なにが起こっているのか。地上にたどり着くまでに、心を整理できる自信は、ほぼなかった。
けど……淡くて儚げな理想も、同時に浮かんできた。
「もしかして、もう一度、彼とまた……」
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