■第十章■
その日の午前中、俺は定期検査に追われていた。
なんだかよくわからない機械に通されたり、スキャンしたり。レントゲンらしいものをとったり、血液検査をしたり。
とにかく病院内を上から下へ、そしてまた上へ、と様々な施設を回っては、医学なんて難しいから意味が良く分からない検査を繰り返していた。
単純な作業の中にも、病院で働いている人たちの優しさに触れていた。
病院という殺風景な閉じた世界の中で、人々の笑顔がきらきらと輝いて見えたのだった。
ただそれだけで、心が救われるような。
そんな、閉じた世界に俺はいた。
ようやく一通りの検査が終わって、一番最初の検査の結果を、診察室の前の待合用の椅子に座って待っていると、どこからかピアノの音が聞こえてきた。
キョロキョロとあたりを見わたすと、一人の少年が小児科の向かいの古ぼけたアップライトピアノを演奏していた。
彼は俺より二歳か三歳年下だろうか。おそらく小学生くらいだろう。
それはそれはとても楽しそうに演奏していた。思わず、彼のピアノの音に聞き入っていた。
「こーら、涼。」
数メートル先の病院内の薬局の窓口から、彼の母親らしき人物が少年に走り寄る。
「勝手にピアノ弾いたらだめでしょ。迷惑になるってことも考えなさいよ。」
「悪かったな。」
母親にピアノからはぎ取られて不機嫌そうな少年は、薬を見て、ため息をついていた。
「俺の病気、ったくいつ治るんだよ。」
少年の声に、ハッとした。
しかし、俺以上に彼の母親は動揺した顔に一瞬なり、笑顔を取り戻して言った。
「ちゃんと薬を飲んで、お母さんと先生の言うこと聞いとけば治るわよ。」
・・・うちと、同じか。
しょうがない。親は、子供を励ますことしかできない。医者じゃないんだから。
医者だって、診察して薬を処方して、手術をすることしかできない。
もう、治らない病気はこの世にたくさん存在する。それによって、毎日どれだけの人間が死んでいくのだろうか。
そして俺もいずれその人間の仲間入りをするのだろうか。
「桜岡さーん。」
少年とその母親の背中を見つめていると、診察室から先生の声がした。
「あ、はい。」
いそいそと、椅子から立ち上がり、スリッパをパタパタさせながら診察室へ向かった。
ドアを開ける前に深呼吸する。
しかし、まさか本当に絶望的な結果が俺を待ち受けてるとは、このときはまだ知る由もなかった。
まだ俺は、自分だけは死ぬはずがないと、自分だけは結局最後まで生きているんじゃないのかと、そう思っていた。
入院病棟から、二日に一回くらい、病死していく人たちを見ても、俺はまだ生きてる、俺はまだ生きられると思っていた。
いや、思っていたかった。
俺はまだ、生きていたかった。
まだ、死にたくはなかった。