Ⅴ
草木も眠る丑三つ時。
衣擦れの音さえ響き渡りそうな静寂に包まれた、夜の城下町。昼間の喧騒は鳴りを潜め、時折獣の遠吠えだけが遠く聞こえる。そんな街の一角、ランプの光さえ漏れ来ぬ路地裏に――カツ、カツ、カツ……と、ブーツの踵が石畳に当たる音が響いていた。
音の主は、路地裏の更に奥へ、奥へと足を進める。そして、街の住民でさえ知らないような、地下へと伸びる細い階段の前で――足を止めた。
「待ち合わせだ。連れが先に来てる」
重厚な木の扉を開けた先にあったのは、狭く薄暗いバーだった。ひとつだけ吊り下げられたオレンジ色のランプと、熱心にグラスを磨くマスターの手元に置かれたランタン以外に、光源はない。客は、五人座れるかも怪しいカウンターテーブルの一番奥にかける、緑色の衣服を纏った青年だけだ。
マスターは声のした方に興味のなさそうな一瞥をくれた後、小さく頷いてまたグラス磨きに戻った。
「奇遇ですねぇ、『蒼髪の幻術師』イザヤ。どうぞ、掛けてください。──ああ、マスター、彼に僕と同じものを」
声を発したのは、カウンターの奥に掛けるその青年だ。が、彼の発したそれは、昼間の人懐っこそうなものとは百八十度打って変わった──全てを見透かし、見下すような声と笑みである。
普段の彼を知らない者でもぞっとするような、彼のその様子に――しかしイザヤは、特に動じた様子もなく冷たい答えを返す。
「『奇遇ですね』? ふん、白々しいな――あんなに分かり易いメモをわざとらしく残しておいて。だいたいこんな、普通に歩いてたら存在にすら気付かないような店で、奇遇もへったくれもあったもんか」
「ふふっ、違いありませんね。失礼しました」
「なんだその笑い、気味悪りぃな。さっさと本題に入ってくれ。俺は眠いんだ──こんな店に呼び出して、一体何の用だ?」
イザヤが問うと、青年は気味の悪いニヤニヤ笑いを一層深くする。そして、さも愉快そうに──言った。
「おや、おや、おや──確かに誘い出したのは僕です。でも、用があるのはお互い様──そうでしょう? 元宮廷魔術師さん」
そんな青年の言葉に、イザヤは暫くの間を空け──苦々しく答える。
「………………ああ。違いねえ──お前に呼び出されなきゃ、俺が呼び出してたさ」
「そうでしょう、そうでしょう。──貴方の用件から話してくださって構いませんよ? 夜は長いですから、ゆっくりとどうぞ」
聞く者皆の神経に触れるような、青年の妖しい猫撫で声──イザヤは苛立ったように、小さく舌打ちをする。思い切り顔をしかめて、彼は本題を切り出した。
「お前と長い夜を過ごすつもりはねえ、さっきも言ったが俺は眠いんだ。本題に入るぞ。──お前が俺たちに近づいた目的を聞かせてもらおうか。──占術師さんよ?」
「おや、バレてましたか」
あっけらかんと言う青年。
「当たり前だろう。初対面の人間に名乗るのは、普通『種族』であって『職業』じゃない──自己紹介で吟遊詩人なんて巫山戯たこと吐かされて、疑うなって方が無理だろ?」
「そりゃそうでしょうけれどね、姫様の目さえ誤魔化せれば十分だったので。それに、吟遊詩人と名乗ったってだけじゃ、呼び出しの理由としては不十分ですよ?」
青年は依然、挑発的なニヤニヤ笑いを浮かべている。まだまだ余裕があるということか――思わず歯軋りしそうになるイザヤだが、こちらも余裕を見せておかなければ不利だと思い直す。
苛立ちを隠し、彼は話を続けた。
「ルルーといえば俺も苦労したな。適度に疑う素振りを見せつつ、お前を信じる演技」
「ま、姫様がアホで助かったってとこですかね」
「まったくだ。──なぁ占術師。お前……『シグマ』って本名じゃないんだろ? 俺に殺されたくなかったら──」
ここでイザヤは一度言葉を切る。
そして、片手の親指と人差し指で作った拳銃の形に魔力を込めると──青年の首筋に突きつけた。
「本名と所属だ。言え」
「物騒ですねぇ。やめてくださいよ」
全身から殺気を放ちながら問うイザヤに、しかし青年は──決して『シグマ』などという名ではない青年は──けたけたと笑う。そして、琥珀色の液体を少し口に含むと、肩をすくめて言った。
「正直言って今のは少し驚きましたよ、宮廷魔術師さん。てっきりあなたの目に映る僕は、『職業を隠すことで現在の宮廷事情を知らないふりをし姫様に近付こうとする、暗殺者かもしれない怪しい奴』くらいだと思ってましたから。見くびっていた、と素直に認めざるを得ませんね」
「そりゃあどうも」
さいて驚いたふうでもない青年の言葉に、イザヤは冷たく礼を言う。青年は、イザヤに問いを重ねた。
「ちなみに、僕の素性については──どのような推論をお持ちで?」
「まどろっこしい奴だな。なぞなぞやってるんじゃないんだぞ」
もはや苛立ちを隠すこともせず、カウンターの木材を人差し指で叩き始めるイザヤ。
──と、唐突に、彼の前に、琥珀色の透き通った液体の注がれたグラスが置かれた。ランプの光が反射して、玻璃のような煌めきを放っている。
イザヤは黙ってそれを一口含むと、呟いた。
「…………美味いな」
シンプルな賞賛の言葉に、青年は思わず口元を綻ばせる。
「ふふっ、そうでしょう。なんてったって、僕の行きつけですからね」
「ふん。……まあ、この酒がなくなるまでなら、お前のなぞなぞごっこに付き合ってやらんこともない」
イザヤはそう言って、また一口酒を呷る。よほどこの酒が気に入ったらしい。
――彼はグラスを置くと、少し姿勢を正して言った。
「あくまで予想だが──俺は、お前が反国家組織『イリアス』の長なんじゃないかと思ってる」
にわかに、狭いバーに緊張が走るのが分かった。
暫しの沈黙。
「──…………ほう。根拠を聞かせて貰いましょうか」
これまでの挑発的な態度はどこへやら、青年の発する声は硬いものだった。辛うじて感情だけが押し殺されている。
イザヤは「図星かよ……」とため息をつき、推論の続きを話した。
「別に、ただの勘だよ。たまたま喫茶店から現れた奴が都合良く資金提供してくれるなんて違和感しかないし、占術で宮廷の様子が『視えた』から暗殺に好都合と踏んで待ち伏せてたって考えるのが妥当だろ。それに、宮廷勤めの間じゃ『イリアス』の長が占術師なんて有名な話だしな」
「ただの勘……にしては随分ですね。いつから気付いてたんです?」
「最初からだよ。俺が一度でもお前のことを『シグマ』って呼んだか?」
青年は、更に沈黙して琥珀色の液体を呷る。
イザヤはそんな青年の様子を特に気にしたふうでもなく、「マスター、お代わり。代金はこの緑色につけといてくれ」と空になったグラスをマスターに差し出す。
──暫くの間、マスターの作業する音だけが狭い店内に響いていた。
「…………参りましたね」
沈黙を破ったのは青年だった。
「なんだ、藪から棒に。お前の警戒心が薄いのがいけないんだろ?」
「ええ、全くです。──どうします? 宮廷魔術師さん。僕をこの場で殺しますか?」
挑戦的な目で問いかけ、くふふと可笑しそうに笑う青年。
──イザヤは、鳥肌が立つのを感じた。対話の相手がもう少し頭の回らない人間なら、彼は既に殺されていたっておかしくはないのだ──それなのに、この青年ときたら──。
──既に、諦めがついているみたいじゃないか。
「死んでも構わない」を前提に、どこまでもギリギリの駆け引きを仕掛けてくるこの青年が──イザヤには、少し怖かった。
「……いや。先に、お前の用事とやらを聞こう」
「おや、おや……目の前に反国家組織の長がいるというのに見過ごすんですねぇ。まあ、文字通り懸命な判断ですけれど」
「別に見逃してやるつもりもないけどな。ただ、俺をこうして呼び出した以上、何かカードを握られてる可能性も十分あると思っただけだ。それに、お前が死んだ場合の対策が組織で講じられてる可能性もな」
イザヤがそう言ってため息をつく。
――マスターが、無言でグラスを置いた。
「その通りですよ、宮廷魔術師さん。流石、頭が回りますね」
「褒めたって無駄だ。お前に握られてるカードが大したことなければ殺す」
「大丈夫です。そう簡単には殺されませんよ」
ここで青年は、一度言葉を切る。
そして、妖しい笑みをたたえながら──言った。
「イザヤ。あなたが、髪を蒼く染めている理由は──なんですか?」
「────っ」
対話が始まってから、初めて驚いた顔を見せるイザヤ。青年は調子を取り戻したのか、また例のニヤニヤ笑いを浮かべている。
「────……本当、お前は白々しい奴だな。なんですか、なんて──その様子じゃ、知ってるんだろ?」
「はい、知ってますねぇ──だからこそのカードです」
楽しそうにイザヤを追いつめる青年。サディスティックな笑みが一層深まる。
「いやはや、占術師ほど生きやすい種族もないと思いますよね、本当に。よく、戦闘に向かないから何かと不利だ、なんて言われますけど──そんなの、頭の足りない輩が占術の使い方を分かってないだけですよ」
「ふん。今ここで戦闘に持ち込まれたらひとたまりもない癖に」
「どうでしょうね。これでも反国家組織の長やってますから、最低限のナイフ術くらいは心得てますよ。まあ、あなたを殺して逃げられるくらいには──、ね」
そう言って、肩をすくめる青年。
この世界の人間は、自らの種族が得意とする技術――剣士ならば剣術、魔術師ならば魔術――以外は、得ることができない。遺伝と言えば分かり易いだろうか、他の種族の技術を得ようとしても、絶望的に才能がなく使い物にならない程度の技術しか得られないのだ。先程青年が言った「占術師は生き延びるのに不利」という通説があるのもそのためだ――が、青年は否定したとはいえ、やはり戦闘技術が必要なときというのはどうしても存在する。
そこで重宝されるのが、「ナイフ術」や「武道」など、どこの種族にも属さない技術である。
極めれば剣士や銃撃手、武闘家などの本職にも勝るとも劣らないが、極めるには相当な努力を要する。そのため、これらの技術を持たない者が脅しやはったりで技術の名を出すことも多い。実際、今のような心理戦では、なかなかの効果を発揮するのだ。
──だが、イザヤには、青年のそれがはったりだとは思えなかった。
「いやぁ、驚きですよねぇ──本当に。『蒼髪の幻術師』の通り名とその端麗な容姿、そして溢れる魔術の才能──種族問わず宮廷マニアで知らない者はないほどの人気を誇るあなたが、種族的には……魔術師という『生き方』を選んだだけで、厳密には魔術師でもなんでもないんですから」
──やはり見抜かれていたか。
イザヤは下唇を噛む。
この情報は彼の最大の強みであり、弱みでもあって、とかく誰にも知られてはならなかったのだ──彼が秘密裏に産み落とされた、王族の血を引く者であり――更には、ルルーや女王でさえ他種族との混血である中、王族の『純血』が流れる者であるなどということは。
だから、普段から、並大抵の占術師では『視る』ことができないよう、何重にも何重にも魔術で保護をかけていた情報だったのに。
──この占術師は……只者ではない。
「あのう、イザヤ。純粋な好奇心から訊きたいんですが」
「……なんだよ」
「そんなに睨まないでください? あなたの保護が甘かったのが悪いんですから。……で、あなたが魔術師として優秀なのは、やっぱりその血のお陰なんですか?」
「生憎だが王族の純血以外の種族に生まれたことがないんでな、比較対象がないから何とも言えないが……まあそうなんだろ。なんせ王族の純血なんぞ、元の魔力値が異常に高い。スタミナ切れなんてまずないからな」
「そうなんですねぇ。勉強になります。……あ、それともう一つ。髪を染める理由は、王族特有のシャンパンゴールドの髪色を隠すため──それは納得できるんですけど。……なんで、敢えて青色なんです? わざわざそんな目立つ色にしなくたって良かったじゃないですか」
青年の、今晩にしては珍しく取り立てて悪意のない質問に──しかしイザヤは。
「やめろ…………なぜそれを訊く…………」
顔を手で覆ってカウンターテーブルに突っ伏す。
「な、なんですか? 僕、そんなまずい質問しました?」
青年がおずおずと尋ねると、イザヤは顔を上げてグラスを手に取るなり急激に傾け、琥珀色の液体を一気に呷る。そして、ダン! とテーブルにグラスを叩きつけると、口角泡を飛ばす勢いで青年を怒鳴りつけた。
「うるせぇ! 王族で純血って隠さなきゃなんねえって知ったのが俺が幾つの時だと思ってる⁉ 六とか七とかそんくらいだぞ‼ そんな年頃――蒼髪がカッコいいと思ってたんだよ……っ! 突っ込まないでくれ頼むから‼」
「え、あの、なんかすみません」
雰囲気ぶち壊しでひたすら魂の叫びを上げるイザヤに、青年は思わず頭を下げる。今晩幾つも彼に悪意と敵意を持った言葉を吐いたにも関わらず――なぜか、それらの発言をしたときよりもよほど悪いことをした気分になる青年であった。
「いいか占術師……お前のことはとりあえず殺さないでおいてやる。だから、お前も、そしてお前の手下も、このことは一切言いふらすな。いいな」
「わ、分かりました……」
イザヤが王族の純血を引く隠し子であるという情報をカードとして切ったつもりだったし、そんなことが知れれば一発で反国家過激派からの暗殺部隊が送り込まれそうなものなのに、結果として世界一どうでもいいイザヤの秘密を握って命を拾った……青年は非常に複雑な心境だった。
──青年がそんな逡巡をしていると、今までずっと黙っていたマスターが、唐突に声を発した。
「…………店じまいだ。緑色、会計」
「おや、もうそんな時間ですか?」
地下にあるこの店にいては分からないが、外は薄ぼんやりと明るくなりかけていた。東の方には紅紫の雲が棚引き、西の空には一等星が沈んでゆく。
──そんな様子を占術で『視た』青年は、席を立ち、言った。
「もう朝です。続きは、また次の夜にこのバーでしましょう」
「まだ付き合わされるのか……? だいたい言うことは言ったしもういいだろ、俺は寝たいんだよ」
「ダメです。僕の用事が済んでませんから。ほら、出ますよ」
「分かったよ……」
イザヤも、渋々といった様子で立ち上がる。
──そして、ふと思い出したようにマスターの方を向くと、長い指を二本立てて言ったのだった。
「マスター、俺とこいつに出してた酒、テイクアウトで二瓶。代金はこの緑色にツケといてくれ」
ウン万年振りに亡国の姫君を更新しました……!超超数少ない、待っててくださった方はお待たせしました。それ以外の人ははじめまして。
さて、はじめての伏線回収回です。伏線が死ぬほど苦手なりに頑張りました。他の話とかなり雰囲気の違う回になりましたが、来週からも更新していくのでこれからもぜひよろしくお願いします!