第四話 決意
全身緑色の青年・シグマの家は、この街のメインストリートである商店街を横切り、少し奥に入ったところにあった。
赤い三角屋根が印象的な、小さな家。外から見る限り、二階建てのようだ。
「どうぞ、入ってください。狭いところですが、ごゆっくり」
シグマに促されるまま、彼の家に上がり込む。
「お邪魔します……」
幼馴染であるイザヤとリリア以外の人の家に入るのは初めてのことだった。どうも、宮廷を出てから初めてづくしな気がする。
――「広い世界を見てきなさい」、か……。
「見ての通り、一階がリビングダイニングキッチンで、二階が寝室です。うちは吟遊詩人仲間がしょっちゅう泊まりに来ますからね、幸いベッドだけは余ってます。お好きなベッドを使ってくださいね。まあどれでも同じですけど」
軽く家の造りを説明してくれる。一階・二階共にワンルームであるようだ。広さとしては、私の自室くらいだろうか。――イザヤやリリアの家に上がる度思っていたことだが、よくもまあ皆この狭さで生活できるものだ。
「恩に着る」
イザヤは短く言い、さっさと階段を上って行ってしまう。他人の家で随分堂々と振る舞うことだ。私も慌てて後を追う。
「待ってよ、イザヤ……シグマ、ありがとう」
「いえいえ、当然のことですよ。ごゆっくり」
階段の下から、シグマの声が追いかけてきた。
「ルルー、お前はそこの、手前から二番目のベッドを使え。俺は一番階段に近いところを使うから」
二階に上がるなり、イザヤはベッドを指さしそう宣言した。
シグマの言っていた通り、二階には本当に沢山の――ざっと十くらいのベッドがあった。というか、ベッドしかなかった。
「あのねぇ、イザヤ……そんなに警戒しなくたっていいじゃない。シグマはいい人よ……って、この会話何度目?」
「何度だって言う、お前が警戒心がなさすぎるだけだってな。これでも俺にしては信じた方だろ? 初対面の人間の家に寝泊まりして、あまつさえ仲間にしようなんて」
「イザヤ……貴方、人間不信か何かじゃないの?」
「かもな」
肩をすくめてため息をつくイザヤ。背負っていた小さなリュックを、先程使うと宣言した一番手前のベッドに放る。
「いいじゃない。思いもよらず資金調達出来たし、人手も多いに越したことはないし。何がそんなに疑わしいの?」
「…………何が、って言われると何とは言い難いけどな……」
「何よ、その根拠のない疑惑。やっぱり貴方、人間不信ね」
「あー、もうそれでいいよ……」
そんなくだらない会話をしていると――どっと疲れがわいてきた。他人の家のものであるという躊躇より今すぐ寝転がりたい衝動が勝って、イザヤに指定されたベッドの上に倒れこむ。宮廷のものとまではいかないが、なかなか寝心地の良いふかふかのマットレスだった。イザヤもそんな私を見て、一瞬の躊躇の後ベッドの上で大の字になる。
「………………疲れた…………」
そう呟いたのがどちらなのかさえ分からない。激動の一日に、肉体も精神も限界だった。意識が混沌に誘われている。
「……かなり時間は早いが……ルルー、お前はもう寝ろ」
横から、イザヤの声が聞こえた。
「うん……そうさせてもらう。……イザヤは、寝ないの?」
「俺か? 俺は……そうだな、俺も、シグマと少し話したら寝る」
「そっ……か」
半分途切れかけている意識の中で、何とか相槌だけを打つ。強い磁力で引かれ合っているかのような上瞼と下瞼に逆らうことができない。
――私は、その眠気に身を任せ、目を閉じた。
「……………………おやすみ、ルルー」
最後に、イザヤのそんな声を聞いた気がした。
――夢だ。
すぐに分かった。
目の前には玉座に腰掛けるお母様だけがいて、周りには何もない。ただ真っ白な、どこまでも真っ白な空間が広がっているだけだった――あの厄災のような白さに目を逸らしたくなるが、逸らした先も白なのでどうしようもない。観念してお母様だけを見ることにする。
「……ルルー。ごめんね、無茶な旅立ちで」
それは、今までに聞いたことのないくらい――優しげで、物悲しげな声だった。
愁いと慈悲に満ちた――そう、それこそ「天使」と呼ぶに相応しいような――そんな眼差しで、私を見つめている。
「……お母様は、亡くなったんですか?」
自分でもびっくりするくらい、自然にその疑問が口を衝いて出た。
今日一日、イザヤと二人して全力で意識の外に追いやっていた、その疑問。
――いや、疑問なんて言葉は現実逃避だ――お母様が死んだなんて、判り切ったことじゃないか。
夢の中の、自らが作り出した幻であるお母様に、否定してでも欲しかったのか。
馬鹿馬鹿しい。
「…………そんなことは、いいじゃないの」
お母様が私から目を逸らし、ふっと微笑む。
――どこか、自嘲めいた色をたたえて。
「そんなことよりね、ルルー。貴女、明日にはその服装どうにかしなさいよ? イザヤじゃないけれど、貴女は少し警戒心が足りなすぎるわ。王族なんて何もしなくたって暗殺されるものなのよ。貴女が温室育ちなのはまるっきり私の所為だけれど、それにしたってもう少し気を付けて旅して頂戴」
「え? はい、すみません……って、そんなこと言いに来たんですか? 夢の中でまで説教なんて……」
「まあ、そんなところね。……というか、敢えてそれっぽい言い方をするなら――『お別れを言いに来た』ってところかしら」
――夢の中にも関わらず、背筋を冷たいものが走る。
お母様が死んだなんて、判り切ったことだ。
判り切ったこと、だが――急に、現実を突きつけられた気が、して。
お母様の死が、急に現実のものになった気が、して――。
――私は、何も言えない。
「ルルー。今日一日、よく頑張ったわね。元々受け入れにくい事実だったとはいえ、こんな衝撃的なこと、意図して意識の外に追いやり続けるのは大変なことよ。自分では気付かないかもしれないけれど、貴女の心は今とても疲弊している筈。――今夜は、ゆっくり休みなさい。体も、心もね」
そう言うなりお母様はおもむろに玉座から立ち上がり、私のもとまで歩み寄る。
そして、私の頭に掌を置いて――そっと、撫でた。
――堪えていた感情が、静かに頬を伝った。
声は出なかった。ただ涙だけが、無音で、とめどなく溢れ出てくる。感情が溢れて言葉にならない。最早自らの感情への理解さえ追い越して、自分で感じる暇も与えられず――涙という形を成して、私の外へと放出されてゆく。
――お母様はもう此処には居ないのだ。王族の教育はずっとずっと嫌いだった、大嫌いだった、やっと解放されて清々した――けれど、でも、お母様のことは好きだった。大好きだった。あんな教育を受けてきて尚お母様を失いたくはなかったし、お母様がもう居ないという現実から目を逸らしているのも嫌だった。そうするしかなかったとはいえ――それを見ないふりをする自分が、たまらなく嫌だった。
そんな感情のままに、ただひたすら、幼子であるかのように、泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れて顔を上げた私の前に横たわっていたのは――
――ただの、どうしようもない現実だった。
今は何も無い真っ白な世界で、私は立ち上がる。腫らした目を乱雑に擦って前を見ると、あの厄災の光とは何か違う――白く眩しい光が、見えた。
その光に向かって、一歩、踏み出す。
ただの事実でしかないお母様の死を受け入れる覚悟と、堕天使討伐の決意を、その片足に託して――。