第8章 筑波クオリファイ・ヒート4
元十字旅館の新館はホールの端から渡り廊下で繋がった3階建ての建物で、外観は旧館に合わせ旅館らしさを残している。しかし内装は所々にレジャーホテルの様式を取り入れて良く言えば独特な、正直なところエキセントリックな雰囲気を持っていた。由香里が漏れ聞いた話によればゲンが色々と口を出したのを奥さんである女将が止めたらしい。和風なのにエレベーターがあるのは荷物が多い時は便利だったりするけれど、そのエレベーターホールにある噴水までついた小さな池はちょっとやり過ぎかなと見る度に由香里は思う。
麗子と由香里が泊まっている部屋は3階の角部屋。女将の配慮で今週は3階の宿泊客は他には女性のグループ客だけ。さながら女性専用フロアの体を示していた。
「そう言えば麗子さん、泊まるの珍しいですよね?」大浴場から部屋に戻り、旅館に備え付けの浴衣の帯を結び直しながら由香里は言った。
「そ~だっけ~?」壁越しの麗子の声にはビブラートがかかっているように聞こえた。手にしたメガネを掛け返事のした方を見ると麗子は部屋になぜだか設置されているマッサージチェアの上でタバコをくゆらせている。
「麗子さん、その上でタバコはダメですよ!」「女将さんに怒られますよ。」大丈夫よと言いながらもタバコを灰皿でもみ消す麗子。ぷんと、特有の臭いが部屋に広がる。
「タバコ、吸ってましたっけ?」由香里はさりげなく部屋の窓を開けた。夜のひやりとした空気が風呂上がりの肌に心地よい。タバコは少し苦手だ。半乾きの髪だと臭いが付くし。メガネを外して髪の匂いをかぐ。ほどいたままの髪はシャンプーの香りがした。それにしてもチームの喫煙者は佐田さん位だと思っていたのだけれど。
「由香里ちゃんタバコだめだっけ?」「ゴメンね。」
マッサージチェアを離れ備え付けの冷蔵庫からビールを2つ取り出し由香里に一つ渡す。「お詫びに奢る。」「明日予選ですよ麗子さん。」「いーの。」伸ばした爪で器用にプルタブを開ける。乾いた喉を刺激する音が部屋に響いた。
「1本くらいへーきへーき。」「どうせ佐田さんもぐっさんも守ってないでしょ。」いやいや、レース期間中は禁酒ってルール決めたの麗子さんでしょう。心の中で突っ込む由香里。そういえばそのルールのきっかけは有流太さんが決勝の前日に酔っ払って腕をケガしたことだっけ。腕にひびが入ったままなのを隠して決勝に出て途中リタイアになってちょっと、いやかなり揉めた記憶が。
「タバコは大学時代に止めたわ。」言いながら窓際の椅子に腰掛ける麗子。「普段はね。」あーもう!麗子は言いながら椅子の上で大きく伸びをする。「アラブの石油王でも現れて、ポンとうちに寄付してくれないかな~。」
今日の撤収作業の最中、サーキットの事務所で麗子が電話をしているのを由香里は見かけていた。何度も電話の前でお辞儀をする麗子。あれは恐らくスポンサーのマクサスにかけていたのだろう。楽しい話ではないことは察しが付いた。
「でも代わりに第二夫人、第三夫人とかはやだな。めんどくさそうだし。」おどけた口調で麗子は付け加えるとビールを口に運ぶ。アラブの石油王は冗談だろうけれど麗子のチームに対するこだわりというか熱意というか、時折見せる情熱には少し圧倒される物があると由香里は感じていた。チームの目的のためには手段を選ばないような。今回のカールさんの件だってそうだ。そしてその想いの指し示す先には、たぶん。
「そんな事になったらお父様が悲しみますよ、きっと。」由香里の言葉にちょっとびっくりしたような麗子の顔。しかし直ぐにそれは消え去り両の口角が持ち上がる。風呂上がりですっぴんなのに唇がやけに赤い。「な~に言ってんの、この同棲娘が。」言いながら椅子から身を乗り出し由香里に顔を近づける。麗子さん反応露骨だわ、いきなり話題変えすぎ。ちょっと地雷を踏んでしまったかなと由香里は後悔する。
「顔近いです。」麗子を押し返す。椅子に座り直しビールを喉に流し込むとおもむろに脚を組む麗子。はだけた裾からチラ見えする風呂上がりの太股がなまめかしい。
「最近、那緒都君血色が良いし。」ふふふと意味ありげに笑う。「それに由香里ちゃんもお肌がキレイ。」由香里に向けた人差し指をくるくる回す。「麗子さん。それおじさんみたいですよ。」「なぁに失礼ね。こんなうら若きオトメをおじさん呼ばわりなんて。」乙女ってあーた、言わないけど。
「もう1ヶ月だっけ?」「実際のとこどうなの?上手くいってる、んだよね。」聞くだけ野暮かぁ。わざとらしく手で顔を扇ぐ。
「・・・この間喧嘩しました。」「つかみ合いの大喧嘩。」「え?なになに?お姉さんに言ってごらん。」興味津々ですね麗子さん。まぁいいですけど。ちょっと私も聞いて欲しいし。由香里はテーブルの上の缶ビールを開けると一口飲む。たちまち顔が熱を持つ。アルコールは苦手だ。ビールなんて苦いだけだし。でも。
「聞いて下さいよ。」「うんうん。」麗子が身を乗り出す。
一緒に暮らすにあたって家事を分担することに決めた。那緒都も私も色々忙しいのだ。当番制で掃除、洗濯、炊事を一週間単位で交代する事にした。自宅に遊びに行ったときなんとなく思っていたけれど、那緒都は一通りそつなくこなす。違うわね。有り体に言って手際良すぎ。「実家で二人の姉に鍛えられたから。」と、那緒都は当然の様に言った。少しイラッとした。え、私ですか?私はまぁ、それなりですよ。「由香里ちゃん実家住みだったわよね?ご両親も健在だし。」痛いところを的確に突く人だ。私のことはとりあえずいいんです!
ある日バイトを終えスーパーで買い物を済ませ帰宅すると、那緒都が取り込んだ洗濯物をたたんでいた。居間できちんと正座してタオルを丁寧に畳む那緒都。なんかちょっとカワイイ。ほっこり見入ってしまうわ。
那緒都がふと作業の手を止めた。「あのさ由香里。」そして惚けて見ていた私に言った。業務連絡でもするみたいに。
「ブラジャーのホック、ちょっと曲がってたから洗濯ついでに直しておいたぞ。あのブルーのやつ。」え?なんだか那緒都の口から普段聞かないような単語が。
「でもレースがちょっとくたびれてきてるから、早めに買い直した方がいいな。」なに?ブラ?え?あたしの?え?
頭に血が昇って来るのがわかった。心臓の鼓動に会わせて熱が上がる。顔が熱い。たぶん耳も真っ赤だ。今那緒都は何を言った?そっか家じゃないんだからかあさんが洗ってくれてるわけじゃないんだ。私ったらいつのも癖で。え?え?え~!
「そっから大喧嘩ですよ。」「そゆーのかぁ~。」もちょっと色っぽい話かと思ったと麗子。「でもつかみ合いって。那緒都君女性に手を上げるようなタイプじゃないと思ったけど。」「そこはそう。あっちは防戦一方でした。」主に当たり散らしていたのは私だ。なんか色々家の中の物が残念な事になった気がする。あまり思い出したくないけど。
「あ!」麗子が声を上げた。「そう言えば少し前、那緒都君が頬に絆創膏貼ってたことがあったわね。」ああ、気づいてましたか。「・・・それ、そうです。」ペアで買ったコーヒーカップの片割れと、奮発して買った大型冷蔵庫の脇の傷。那緒都の傷は幸い破片がかすっただけだったので直ぐに回復した。でも目にでも入っていたら。そんな事にでもなっていたら。なんてお馬鹿さんな由香里。今思い出しても自分の馬鹿さ加減にあきれてしまう。絞め殺してやりたいわ。
「まぁでも洗濯機で洗うだけでしょ?」すかさずフォローを入れる麗子。「どうせ那緒都君のことだからシャツとかと一緒に、」「違うんです。」由香里が口を挟む。「那緒都は私の下着を手洗いしてたんです。」「ブラもショーツも。」え?流石に目を丸くする麗子。
那緒都曰く「女性の下着は高価でデリケートだから手洗いは基本。」だそうな。実家で家事を分担していた時に二人の姉にそう教えられずっと守っていたらしい。どんだけお姉さんに仕込まれてんだよおめーわ。ビックリすると同時にちょっと嫉妬した。その時は。
「ショーツも?手洗いで?」うんうん。下を向いたまま無言でうなずく由香里。「由香里ちゃん、それは・・・」「女子としてヤバイ気がする。」ですよね、ですよね。顔を手で覆う。
それ以来下着はそれぞれ自分の分は自分で洗っている。那緒都が自分だけ洗ってもらうのはおかしいと譲らなかったからだ。そういうとこ頑固だわ、嫌いじゃないけど。私といえば別々に洗うと言っても流石に手洗いは面倒なのでネットに入れて洗濯機の手洗いコースを愛用。ありがとう文明の利器!
「でもわかる様な気がするな、あの二人のお姉さんに鍛えられたなら。」「え?麗子さん会ったことがあるんですか?」一度だけね、と麗子。
那緒都を正式に多岐川モータースで雇用する際に念のためご家族に挨拶しようと言うことになったらしい。社長である父親と一緒に実家にお邪魔したいという話を打診してもらったところ、何故か二人のお姉さんが上京すると言うことに。
当日那緒都を引き連れて会社に現れた二人はさながらモデルの様だったと麗子。二人とも身長は那緒都より少し高くヒールを履くと完全に上背は並みの男を見下ろす程。那緒都と同じく彫りの深い顔。しかもゴツい肩パットでウエストラインを絞った黒いパンツスーツに身を包んだ様は迫力満点だったらしい。
所謂母子家庭である那緒都だったが、母親は地元企業の社長をやっていて都合が悪く残念ながら同席はできなかった。まずはその事を深く謝罪する二人の姉。良く通る声の堅苦しいその口上に居合わせた多岐川モータースの社員は何事かと思ったそうだ。
「佐田さんなんてその筋の人かと思ったらしいわ。」その時の事を思い出したのか麗子は楽しそうだ。「父も少しビビってた。」クスリと笑う。「ですよね。私も最初少し怖かったです。」麗子はその言葉を聞き逃さなかった。
「なになに?どゆこと、どゆこと?」ズイと顔を由香里に近づける。「由香里ちゃん、那緒都君の実家に行ったの?」しまった。内緒にしておこうって言ってたのに。仕方無い。
「今年のお正月にちょっとだけ。」「聞いてないわよ。」由香里の頬を引っ張る。痛いですよと手を払いのける。「大げさな事じゃないんですよ。」たまたまスケジュールが空いてただけと主張する。あ、その顔は信じてないですね。まぁ私もちょっと、いや凄く色々考えましたけれど。
「で、どうだった。」「お母様にはちゃんと挨拶できたの?那緒都君を私に下さいって。」にやつく麗子。それはふつー男性のセリフでしょう。てゆうか、
「ホントそいうんじゃないです。」「それにお母様とは少ししかお話しかできなかったし。」
代わりに二人のお姉さん、直海さんと瑛海さんとは色々お話できた。那緒都とは一回り以上年上の二人の姉は母親代わりだったらしい。二人の前では那緒都が借りてきた猫の様なのがおかしかった。直海さんは元バレーボールの代表選手で今は大学の顧問、瑛海さんは警察学校の柔道指導員とバリバリの体育会系。中学の頃から家の中の事は三人で分担していたらしい。そりゃ上手くもなりますよね。私なんて、あれ?麗子さん?
少し前までニヤニヤしながら由香里の話を聞いていた麗子が椅子の上で静かに寝息を立てていた。そんな所で寝ると風邪をひきますよと、麗子を椅子から引きはがして布団へと誘導する。布団の中で丸くなって眠る麗子を見ている由香里も大きなあくび。今日は初めての事ばかりだったのだ。そして明日はもっと沢山初めてのことをやらなければいけない。那緒都や麗子さんの前では言わないけれど、正直不安な所はある。カールさんのことは信用はしているけれど。
「やめた。」考えても無駄だ。明日の予選の為にも早く身体を休めよう。明日は今日より長く、今日よりもっともっと速く走らなければいけない。由香里は少し寒さを感じて窓を閉めて布団に潜り込む。月の光がカーテンの隙間から部屋をほのかに照らしていた。