第6章 筑波クオリファイ・ヒート2
目の中に銀色の線が踊っている。少しまぶしい。前の車のルーフに反射した日の光がゆらゆらとその明るさを変えていく。視界の周囲には暗い闇。水中眼鏡で見ているみたい。よく見えないわ、よく聞こえないし。子供の頃行った海水浴で面白がって潜った洞窟の中みたいだと由香里は思った。
なんだかとても気分がいい。耳元に音が柔らかに響く。これはエンジンの音だ。エンジンの音がこんなに心地良いなんて。
手足の感覚はある。でも今目の前でハンドルを右に切った手は誰の手だろう。ああ、カールさんか。そうだ、カールさんが私の代わりに。なら安心だわ。私は眠っていても大丈夫。
「由香里!」
誰かが誰かを呼ぶ声がする。この怒ったような声は那緒都ね。那緒都はいつも心配して怒るんだわ。もう少し優しくすればいいのにねぇ由香里さん。ん?由香里?
「由香里!」
ピットに止まったフォードのドアを開け放し、那緒都はシートに座ったままの由香里を揺さぶる。その表情に余裕はない。由香里が返事をしない。那緒都の脳裏に先日の嫌な想像が蘇る。
ヘルメットを被ったままの頭をゆっくり那緒都にむけ由香里が口を開いた。「おはよ。」那緒都の肩から力が抜ける。フーッとおおきなため息。
「由香里、だな?」途中でふと気づいて声を落とす。由香里にカールが憑依していることを知っているのは自分の他には麗子だけだ。不審に思われるとマズいという考えが辛うじて働く。
「ふふっ。」「那緒都、変な顔。」メガネの奥の瞳が面白そうに笑う。良かった。いつもの由香里だ。安心したとたん少し腹が立ってきた。
「何笑ってるんだ。」しかしシートベルトを外すのを手伝いながら由香里の脚がすこし震えているのに気づく。
「降りられるか?」「大丈夫。ちょっと疲れただけ。」ゆっくりとシートから降りる由香里。「こんなに長かったのは初めてだったから。」
この前走った筑波より今日はカールが憑依したまま倍以上周回をしていた。そうか、由香里の体力を考えていなかった。これはなにか考えないといけないな。
「手を貸すぞ。」腕を取る。「大丈夫よ、自分で歩ける。」那緒都の腕を柔らかに外しマクサスのステッカーの貼られたヘルメットを脱ぐ。
「ありがとう。」一旦外したメガネを掛け直し那緒都を見つめる。「那緒都今日はやさしいね。」ヘルメットを受取ながら「バカ、俺はいつでも、」コンコン。那緒都が言いかけた言葉はボンネットを叩く音に遮られた。
「おきゃくさーん。もういいっすかー。」佐田がニヤニヤしながら由香里と那緒都に声をかける。「閉店なんすけどぉ。」周りを見るとぐっさんや他のクルー、ヘルパーの女の子までニコニコしながら見ていた。慌てて逃げるように車から離れる二人。
「由香里ちゃん!アレは持って行った方がいいね。汚れたらマズいっしょ?」「あ!そうだ!」佐田の声に由香里がきびすを返しフォードの運転席に潜り込んだ。手を伸ばして助手席のグローブボックスを開けなにやら包みを取り出す。ブルーの袋状のラッピングのそれは人の頭くらいのサイズ、袋の口はピンクのリボンで結ばれていた。表面には恐らく由香里の手書きで交通安全と書かれたステッカー。
「なんだそれ?」那緒都が怪訝な顔をする。「うふ。いいでしょ?」「お守りよ。安全に走れるように。」メガネ越しの瞳が子供っぽく笑う。交通安全ってなんだよ。あ!。那緒都は気づいた。サイズ的に間違いない。キャップだ、カールさんの。まぁアレなら直接は触られないしそれ程変には思われないだろう。なかなか考えたな。
「夕べ麗子さんと一緒に作ったのよ。」大事そうに胸にかかえる由香里。それはまるでクリスマスプレゼントを大切にかかえる子供の様だった。
ふと気になって由香里に顔を近づけ低い声で聞く「ところでカールさん、今どこにいるんだ?」由香里はしばらくキョロキョロとガレージ、ピットを探した後小首をかしげる。「引っ込んでるみたい。」一応配慮してくれてるんだな、と少しほっとする。人目の多い所ではいつもそうして欲しいものだと那緒都は改めて思った。
「お疲れー由香里ちゃん。」ディレクターズチェアの上から麗子がひらひら手を振った。傍らに緊張した面持ちで関が立っている。ん?と由香里は麗子の化粧がいつもより濃いことに気づく。あぁそうだ!これから雑誌の取材だ!ちょっと待ってちょっと待って、私、髪ぼさぼさだよ。
「那緒都!これ持ってて。」交通安全の袋を那緒都に渡すと由香里はパドックへ急ぐ。「あんまり時間ないわよ、急いでね。」察した麗子が声をかける。渡されたカールのキャップ入りお守りを怖々胸に抱え那緒都はそのままでもあんまり変わらないのになと、由香里が聞いたら三日は口をきいてもらえなくなりそうな事を思いながらため息をついた。
練習走行の時間が終了し、スケジュールは明日の公式予選までしばしのインターバルとなる。各チームのピットではガレージに車を引き込み明日に備えていた。
ガレージの屋上に設置された観戦エリアでピット作業を見ていた熱心な観客も、観戦を切り上げ三々五々ゲートへと向かう。その観戦エリアの片隅に観客とは少々毛色が違う若い女の子と連れらしきさえない中年男の二人組。
「疲れた。もう帰りたーい。」「ヒビキちゃん、あと1チームだからさ。頼むよ、マジで。」鳥の巣を爆発させた様な髪型、無精髭を顎に残した男は腕に付けたプレスの腕章を引き上げながら手をあわせ拝むような身振りをした。
ヒビキと呼ばれた女の子はプイと視線を逸らしたまま手すりに寄りかかりブラウンがかったセミロングの髪を掻き上げ口をとがらす。胸元を強調したスーツ、ミニのタイトスカートからは健康的な脚が覗く。「テレビのレポートなら良かったのにぃ。」
今更なにを言ってるんだこの子は。レーシング4の契約カメラマン兼ライターの斉藤は頭をかかえた。ラストはあのチーム・マクサスの取材だってのに。編集長を説き伏せて女の子のレポートならと、やっと取材にこぎ着けたんだ。あそこを取材するまで帰れないぞ。
「ヒビキちゃん可愛いからさ。ウチのような雑誌でもテレビ局の人の目に留まってチャンスが出てくるかもしれないよ?」実際は全日本選手権の記事に誌面はたいしてもらえない。写真なしで1段か良くて2段。写真が載ったとしても米粒みたいなものだった。しかし嘘も方便。なんとかこの子をその気にさせないと。斉藤は素早くアタマを働かせる。
「F1のレポートやりたいんだっけ?いいよねF1。」「その為のステップと思ってさ。ね?」「カッコいいよねー、F1。速いし。」喰い気味で話し始めるヒビキ。
「ドライバーも外人だし、タイヤもなんかこーんなにデッカくて。スゴイよねー。」言いながら大きく手を広げる。いや、そんなに大きくはないと思うけれど。
「ヒビキちゃんF3000のレースクイーンやってたんだよね?」「そーなの、でもチームなくなっちゃって。」困っちゃうよねーと大げさに腕を組み首をかしげるヒビキ。あざといのか天然なのかわからない子だ。
「ヒビキちゃんレース好きなんだよね。車も好きかな。詳しい?」ヒビキは大きな瞳をくるりと回して、「今勉強中なの。でね、車の免許取りに行ってるよ。」両手をぱっと開いて前に突き出す。「こないだ仮免10回目チャレンジしたの。今度11回目。」「え?」「だって難しいよねー、テスト。」筆記試験っていうやつ?と言いながら空中で鉛筆を動かす真似をする。「なんか教習所の新記録だって。失礼しちゃう。」「・・・」絶句する斉藤。いやいやなんとかする、ぞ。
さっきも言ったけどと前置きをして「ツーリングカーってさ、免許取ったら乗れる車に似てるんだよ。」「色々役に立つと思うよ?」本当か?自分で言っててどうかなと思うが。
うーん。大きなアクションで頭をかかえるヒビキ。こっちがそういう状況だよ。と心の中で突っ込む。ヒビキは大きな瞳で斉藤を見つめながら言った「そうねスキップよね、スキップ。」ヒビキは手すりを離れ二三歩スキップすると、「私はジャンプするよー!」両手を大空に突き出す。もう突っ込む気力もない斉藤だった。
「でさ。えっと、佐藤さん。」もうなんとでも呼んでくれとあきらめモードの斉藤。「次の、最後のチームって、ドライバー女の人なんでしょう?」「写真あります?」確か去年のがあると斉藤はバッグの中から昨年のレーシング4を一冊取り出す。「正確には2ndドライバーだな。去年までマネージャーだった。」ページを開いてヒビキに渡す。
「一度だけ取材したんだ。」「その集合写真の左端。赤いメガネの子がそうだよ。」「ふうん。」ヒビキの値踏みをするよう視線に斉藤は気がついた。「可愛い人ね。でも。」雑誌を返しながらとびきりの営業スマイルでヒビキは言った。「でもいいわ。可愛く取ってあげてね、私と一緒に。」この子単なる天然じゃないな。ポーズだとしたら相当計算高い。これだから女はコワい。
「さ、行きましょ。内藤さん。」先に立って歩き出すヒビキにハッと我に返り続く。やっぱりちゃんと名前は訂正しようと思う斉藤だった。
「ええと、昨年まではマネージャーでチームの中で頑張ってましたが、今年からは多岐川モータースさんのサポートでマクサスさんのフォードに乗ることになりました。のろまな亀ですが、マクサスさんが用意してくれた速い車と多岐川モータースさんの技術力で頑張りたいと思います。」そこで手元の紙から目を離し、「って、こんな事言うんですかぁ?麗子さーん。」と由香里。
麗子が真っ赤な唇の口角を上げる。「そうよ由香里ちゃん。宣伝宣伝。」スポンサー様は大切よと、言いながら十字を切る。いや、麗子さん仏教徒でしょと、心のなかで突っ込む由香里。
ガレージの裏手、パドックの横幕付きテントで麗子と由香里、関、そして那緒都が雑誌の取材を待っていた。全日本レベルで取材があることはそれ程多くはない。昨年は有流太のおかげもあって数社から取材を受けたが基本雑誌が取材するのは有力なワークスのみだった。
予め雑誌社から用意された質問とそれに対する回答を書いたカンニングペーパーを麗子が用意していた。今シーズンの目標とか第2戦の調子とかありきたりの質問。テントの片隅で関が椅子に座ったままそれを見ながらぶつぶついっている。関とて取材には慣れているわけではない。ペーパーを握りしめる手に力がこもっている。
「あんまり大げさに考えない方がいいぞ、関。」全日本レベルの記事なんて使われない事も多いらしいしと、那緒都が見かねたかの様に関に声をかけた。
「何言ってんの!結果を出して使ってもらうの!ね、関君、由香里ちゃん。」麗子が大げさな身振りで宣言する。民衆を導くナントカ?
いや、プレッシャーかけすぎですよ麗子さん。それでなくても由香里の事で関はナーバスになってるのに。後でフォローしておこうと那緒都は思った。由香里は?由香里は大丈夫だな走るのはカールさんだし。ちょっとテンションがおかしいのが気にかかるけれどと由香里の様子を何気なく見る。と、傍らの椅子の上に例のお守りが無造作に置いてあるのが目に入りギョッとする那緒都。
「ひゃ!」声を上げたのは麗子だった。目を見開いたまま口を押さえ数歩後ずさりした後、由香里の腕を掴んでテントの外へ連れ出す。訳もわからず顔を見合わせる那緒都と関。
麗子はパドック横の人気のない駐車場まで由香里を引っ張りだすと声を潜めて聞いた。「由香里ちゃん。なんでカールさんがいるのよ?なんで?」「見ました?ちびカールさん。」「道具箱の上に腰掛けてたわよ。」
麗子はパドックの方を指差す。「あんなとこじゃ人に見られるでしょ、見られたらどうするの!」うーん、と由香里は頬に手を当て「隠れて見るって言ってたんですけどね-。」麗子が極端に反応するのを面白がっている風な由香里は、にっこり笑って「麗子さんからも言って下さいよ。私じゃダメみたいです。」と言った。麗子の右目の眉がピクリと上がる。一瞬の沈黙。「わかった。由香里ちゃんも付いてきて。」再び由香里を引っ張りテントに戻る二人。
テントの出入り口で待っていた那緒都が二人を見つけ声をかけた。「麗子さん、どうしたんです。もうすぐ」「那緒都君、関君を連れてちょっと出てて!」那緒都の言葉を遮り二人をテントから追い出す麗子。「女同士の話があるのよ。立ち聞きしたら、わかってるわね?」なにか聞きたげな那緒都であったが麗子の剣幕に渋々関をつれてテントを出る。中には麗子と由香里と、そして隠れているはずのカール。
道具箱の上を見るとカールはいない。麗子はテントの中を見回しながら声を抑えてカールに呼びかけた。「カールさん。ちょっとお話があります。」即座に麗子と由香里に独特のイントネーションの声が響く。『なんですカ、レイコサン。』『オカオ、コワいですヨ。』よけいなお世話だわと麗子は思いながら、努めて冷静に言った。
「カールさん。約束を覚えています?目立たない様にするって。他の人の前には姿を見せないように気をつけるって。」まだ姿を見つけられない麗子は探るように左右をゆっくり見渡しながらカールに呼びかけた。「麗子さん、足元!」由香里の声にハッとして下を見る。15cmほどのカールが麗子のスラックスの裾を掴んで見上げていた。正確には麗子にそう見えただけであるが。「!」声にならない悲鳴を上げて後ずさる麗子。『ゴメンナサイ。おどかすつもリ、ないデス。』頭に響いた声には笑いをこらえている様子があった。
テントの横幕を背に大きく深呼吸して麗子が小さなカールを上からにらむ。「カールさん、あなたって方は!」「女性を驚かして楽しいんですか!」麗子の顔が赤い。ああコレ、長くなりそう。取材時間までに終わればいいなと由香里はそっとため息をついた。
「何の話をしてるんでしょうね、麗子さんと由香里さん。」「女同士の話って。」関が不安そうな顔で訪ねた。「さあな。化粧とかそんな話じゃないか。」那緒都が肩をすくめて見せる。テントを追い出された二人は辺りをぶらつきながら素直に声がかかるのを待っていた。心配だからと中をこっそり覗こうと言う関を押しとどめる。那緒都にはおおよそ察しがついていた。あの麗子さんの悲鳴はたぶんカールさんを見つけたのだろう。引っ込んでるはずだったのに、ここで出てきたらマズい。麗子さん説得できればいいけれど。取材の記者が来るこのタイミングでは特に隠れていてもらわないと。
ふと何気なくパドックエリアの端を見た那緒都の視界に言い争いをする男女が入った。こんな所で痴話喧嘩かよと思いながら良く見ると男の方には見覚えがある。那緒都はその中年男が昨年取材を受けた雑誌のカメラマンだと思い出した。遠くて話の内容はわからないが女の子をそのカメラマンが引き留めているようだった。
「だめなんですよぉ~。」ヒビキは両手を前でクロスしてバツ印をつくる。「ごめんなさ~い。あそこ取材はだめですぅ。」ポーズや口調はさておきヒビキらしくないまじめな表情。斉藤は少し戸惑いながらも腕を掴んで引き留める。「いや、ヒビキちゃん。そりゃないよ。」なにを言い出すんだこの子は。さっきやっとやる気になったと思ったのに。
「放して下さいぃ。じゃないとヒビキ叫んじゃいますよぉ。」ヒビキの穏やかじゃないセリフに慌てて掴んでいた腕を放す。それで無くとも先程から周囲の目が気になっていた。斉藤は仕事柄パドックには顔見知りが多い。今しがたも見知ったメカニックが斉藤に冷やかす声をかけていった。冗談じゃないぞ。社会的に終わってしまう。
ゲート方面へ歩き出すヒビキの前に急いで回り込む。「ごめん、ヒビキちゃん。もう一度わかるように説明してくれないかな。」
「だからぁ。」ヒビキは憮然とした表情でパドックのテントを指差す。「あの右から3番目のテントですよね、黄色いの。」ヒビキが言っているのはこれから取材に向かうマクサスのテントだった。「あそこに邪悪なモノがいるんですよぉ。」「守護霊様が近づくなって。」うわ、この子こういう子だったのか。斉藤のあきれた顔を目にしてもヒビキの表情は真剣だった。
「邪悪なもの?」斉藤が恐る恐る聞く。「そーなんですよ。とおっても悪いものなんですぅ。」ヒビキは寒気を感じたかのように腕を組む。「コワいから帰ります。」言うなり斉藤を押しのけるように歩き出す。本気かよ?あーもう仕方が無い。
「わーったわーった。車で駅まで送るからちょっと待ってて。先方に話しを通してくるから。」
折角の機会だが仕方無い。こんな所で女の子をほったらかしにするわけにはいかないし、妙な評判が出ては今後の仕事にも響く。ヒビキに車のキーを渡し車の中で待つように言い含める。「りょーかいっす。」にっこり笑うとおどけて敬礼をしてあっという間に走り去るヒビキ。あっけに取られる斉藤。今ではヒビキの言動全てが計算されたもだろうと信じて疑わない斉藤だった。
「那緒都さん、どうしたんです?」先程から立ち止まってパドックの端を見ている那緒都を訝って関が声をかけた。「ああ、ほらあそこ。」指を指しながら那緒都はいつの間にか女の子の姿が見えないことに気づく。「ほら、プレスの腕章をした人が居るだろ?」「見覚えないか?去年、レーシング4の取材の時にいたカメラマン。」言われて関も姿を認めるがどうも覚えていないらしい。頭をかきながら「あのときはテンパってましたから、僕。」まぁそうだろうな。無理もない、俺だってそうだ。マクサスの様なプライベートチームが取材を受けるなんて、そう何度もあることじゃない。とその時、プレスの男が那緒都と関に気づいた。軽く会釈をして小走りに近づく。
「いやーすいません。」男は重そうなカメラバックを足元に置きウエストバックから名刺を取り出した。「チームマクサスの秋川監督ですよね?そちらは、関選手。」那緒都に名刺を差し出しながら「私、レーシング4のカメラマンの斉藤です。たまに記事も書いたりしてます。」「昨年、取材でお目にかかりましたけれど、」那緒都と関を交互に見ながら「覚えては・・・いないですよね。」いやお顔は覚えていますよと那緒都。それは良かった、自分印象が薄いんでと自嘲気味に笑う斉藤。
「ところで、取材をお願いしていたんですが。」テントの方を見やる。「多岐川代表はあちらですか?」呼んできますと関がテントに向かう素振りを見せる。慌てて制止する那緒都。
「申し訳ない斉藤さん。」怪訝な顔をしている斉藤に那緒都は言った。「ちょっと今チーム内で重要な打ち合わせをしている最中なんですよ。」「もう少しまってくれませんか?」
まだカールさんが中にいるかもしれない。この男をいまテントに入れていいものかどうか那緒都には判断がつかなかった。
「チーム監督抜きで?」斉藤が素朴な疑問を口にする。ええと、そこまで考えてなかったぞ。那緒都が上手い言い訳を思いつかないでいるその時、テントの中から女性の声。
「カールさん!わがままを・・・」後半は良く聞こえなかったがそれは麗子の声だった。「カールさん?」斉藤が聞きとがめる。髪型の話でしょう、と笑って誤魔化す那緒都。とっさに口をついて出たが我ながらお粗末な言い訳だ。これ以上この男に聞かせる訳にはいかない。「ちょっとここに居て下さい。」関に相手をするように耳打ちしてテントの横幕の隙間から中へ入る那緒都。残されて顔を見合わす斉藤と関。
中には仁王立ちし一点を見つめる麗子とあきらめ顔の由香里がいた。恐らくカールが麗子の視線の先にいるのだろう。那緒都には見えないが。
麗子の様子に若干引きながらも声を抑えて状況を話す。「麗子さん。雑誌の記者が外にいる。」「声が漏れてる。」
麗子が一瞬で冷静さを取り戻したのがわかる。流石は麗子さんだ。由香里は?由香里はメガネを外してハンカチで拭いている。なんなんだその余裕。
「ちょっとまって。」大きく深呼吸をする麗子。そしてささやく様に呼びかける。「カールさん?」麗子も由香里をテントの中を見回すがカールの姿はない。返事もない。
たぶん引っ込んだんだと思うと、由香里。麗子は腕組みをしたま独り言の様に小さな声で呟く。「カールさん。見つかったら厄介ですからね。わかりましたね。」カールの反応はない。
「麗子さん、大丈夫なのか?」先程から蚊帳の外の那緒都がたまらず聞いた。「大丈夫よ。」自信ありげに答えたのは由香里だった。
「ま、そうね。」ふっとため息を漏らす。「カールさんもわかってるでしょう。」麗子は自分に言い聞かせる様に言った後、那緒都に記者を中に入れるように言った。
なんかチーム内でトラブルでもあるんだろうか。先程の声はたぶん代表の多岐川女史だな。
関と二人取り残された斉藤はつい今し方の出来事に思いを巡らせていた。個人的にはチームマクサスを応援したいので根掘り葉掘り掘り起こすのはやりたくはない。が、記者の端くれとしての興味が頭をもたげる。カールって誰だ?新しいクルー?外人だよな。なにか引っかるものを斉藤は感じていた。それが何かはわからなかったが。
「斉藤さん、お待たせしました。」横幕を開いて那緒都が顔を覗かせ斉藤に声をかけた。「中へどうぞ。」
このテントに斉藤が招かれたのは二回目である。前回の取材で聞いたときにビックリしたのだが自分たちで改造して軽トラックに連結してあるらしい。中にはテーブルと椅子が数脚。そのテーブルの脇に立っていた麗子が笑顔で斉藤を迎え入れた。
「斉藤さんですよね?お久しぶりです。」「代表の多岐川です。」麗子の見せるとびきりの営業スマイルだ。先程の仁王の様な形相は何処にいったのかと那緒都は関心する。
「あら、お一人ですか?」「確かお電話では女性のレポーターの方がいらっしゃると。」「申し訳ない!」麗子の言葉にかぶせ気味に斉藤が頭を下げる。
「折角お時間を頂いたのに、本当に申し訳ありません。」平謝りの斉藤。「レポーターが体調が悪くなっちゃいまして。これから車で送り届けようとしてる所なんです。」あら、大丈夫ですかと麗子。
「いや、たいしたことはなさそうなんですが。」斉藤が再び頭を下げる。「そんな訳で今日の取材はまた日を改めさせてください。」本当に申し訳ないと深々とお辞儀する。
二人のやりとりをやや緊張した面持ちで見守っていた関がほっと息をする。一方麗子が一瞬微妙な表情を見せたのを那緒都は見逃さなかった。が、再び笑顔で答える。「わかりました。とても残念ですが仕方有りませんわ。」恐らく麗子の頭の中ではマクサスにどの様に伝えれば問題無いかを模索しているのだろうと那緒都は密かに思う。
こういう雑誌の取材だと後日というのは当てにならないらしいと那緒都は聞いたことがあった。恐らく再び取材が来ることはないのだろう。うちのチームが余程目立つ活躍をすれば別だろうが。
申し訳ないを繰り返しながら斉藤は床に置いたカメラバッグを担ぎ歩き出す。が、ふと今思い出したかのように振り向くと「ところで、多岐川さん。」「カールってどなたです?新しく外国の方が入ったのですか?」と言った。
一瞬固まる麗子。「いや、さっき多岐川さんが話をしてたみたいだったので。」「申し訳ない。大きな声だったので耳に入ってしまって。」頭をかきながら麗子の表情を伺う斉藤。
マズい。なにか誤魔化さないと。那緒都は考えを巡らす。「カールってこれ?」口を開いたのは由香里だった。スナック菓子の袋を手にしている。「麗子さん好きだもんね、これ。」ニコニコしながら袋を開ける。ちょっと想定の斜め上だぞ由香里。
しかし麗子は調子を合わせる。「お恥ずかしい。」由香里から菓子の袋を受取り一つつまんで口へ。「わたしこれに目がないんです。」サクサクと咀嚼しながら言う麗子。これは後で話しのタネになるぞ密かに思う那緒都。
「いや、失礼。私の勘違いでしたか。」一つ頂いて良いですかと斉藤は麗子から菓子を貰うと「これ美味しいですものね。」と言いながら微笑む。菓子を手にカメラバックを揺らしながら斉藤はテントを出て行った。ふーっと麗子と那緒都の口から息が漏れる。
「麗子さんもこれ好きだったんですか。」「僕もこれ好きですよ。」事情のわかっていない関が嬉しそうに言う。麗子が関に菓子の袋を渡す。「全部食べていいわよ。」わけがわからずキョトンとする関。
今後この菓子はうちのチームフードだなとため息交じりに思う那緒都だった。