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くちひげのファントム  作者: 衣住河治
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第5章 筑波クオリファイ・ヒート1

 午前6時。まだ少し低い日差しがビル影を道に落とし始める。点滅している信号を深夜勤務を終えたと思われるタクシーが通り過ぎる。ロードノイズがビルに反射して微かな残響を残して消え去る。遠くでカラスの鳴く声。

 始発電車で通勤してくる人々もまだまばらで湾岸エリアは冷ややかな朝の空気に包まれていた。

 その冷たさを押しやるように、低いディーゼルのアイドリング音が多岐川モータースの前に停車したトランスポーターから流れている。荷台にはシートにくるまれたフォード・シェラ。

 「んじゃ、お先。」佐田が助手席から那緒都にいつものサムアップをした。軽く会釈を返す那緒都。「気をつけて。」隣の由香里が声をかける。

 運転席のぐっさんがその巨体に似合わず素早い動きで大きくハンドルを切ると多岐川モータースと大きくペイントされた車体がゆっくりと動き出す。本来は客先納入時の輸送用の車両であるが、麗子が副社長権限を駆使してレース期間中だけはチーム・マクサスで優先して使っていた。

 今日から第2戦筑波のレースウィークが始まるのだ。セッティングや車検、練習走行エトセトラ。本番の日曜日までにやることは多い。

 「ヤナさん。安全運転で。」ドライバーの関やケイスケ、そしてクルー2名を乗せたワンボックスに那緒都が声をかける。これにも多岐川モータスのペイント。トランスポーターに乗せきれなかった工具類を詰め込みワンボックスは筑波へと走り出した。

 「さて、俺たちも行くぞ。」

 駐車場に止めてあった軽トラックに乗り込みながら那緒都が由香里に声をかけた。トラックの荷台にはスペアパーツやパドック設営用のテントがくくりつけられている。

 この車は那緒都が大学時代に中古で手に入れたもので年季の入ったものだ。鈴鹿や仙台といった遠距離であれば予算を工面してもう少し大きな車をレンタル、チーム員全員で乗っていくのであるが、筑波であればこの軽トラックの出番だった。

 「あれ?麗子さんは?」と由香里。「スポンサーと合ってから筑波入りするってさ。昨日電話があった。」

 「色々大変ね、麗子さん。」カールの依り代である例のキャップを大事そうに胸に抱え足元のバッグを器用に避けながら助手席に座った由香里が言った。

 「由香里。そのバックってひょっとして。」由香里の目がメガネの奥で細く曲がる。「ふふん。」「この間麗子さんと選びに行ったの。サイズもバッチリ合わせたわ。」満面の笑み。

 「スーツに合わせてヘルメットも新調したのよ。マクサスのロゴ入り。」「見たい?見たい?」いいから座れと身振りで促し車を出す那緒都。

 「那緒都はいつもそう!」口をとがらせる由香里。「この前も私がおニューのパンプス履いてたの気がつかなかったし。」

 「私が今のメガネに変えたときだって、那緒都周りのみんなに言われるまで気づかなかったし。どこまで鈍感なのよ。」おいおいそれは去年の話だろと、心の中で突っ込む那緒都。

 「テーブルクロスを変えた時だって。折角食器とお揃いにしたのになんにも言わないんだもん。」なんか朝っぱらからやけに絡むな由香里のやつ。こういうときは。

 「悪かった。俺が鈍感なのが悪い。ごめん。」そしてすかさず話題を変える那緒都。

 「今日取材があるんだろ?その時に新しいレーシングスーツを見せてもらうさ。」「スーツ?」ウインカーを出しながら助手席をチラッとみると憮然とした由香里の顔。慌てて言い直す。

 「訂正。スーツを着た由香里様を拝見させていただきます。」「ふん。なんか適当。」助手席の由香里は前を見たまま黙り込む。やれやれと、小さなため息を漏らし那緒都は車を駐車場から出した。

 そろそろ通勤ラッシュの時間帯をむかえる。幹線道路には都内各所や隣県からの車が流れ込み始めていたが、筑波へのルートは通勤ラッシュとは逆方向な事も幸いして比較的スムーズに流れていた。スクラップ置き場から拾って取り付けたカーラジオから流れる交通情報も順調な流れを報じている。2人を乗せた車は予定通り都内を抜けサーキットのある茨城県へと入った。

 普段であれば一方的に那緒都に話しかけ続けている由香里であったが、都内を通過するあたりからやけに静かだ。いつものように低い位置で束ねた髪をうつむいたまま弄んでいる。

 考え事をするときのいつもの癖だと、信号待ちで助手席の由香里を見て那緒都は思った。しかも少しイラついている。こういう時にフォローしないと後で怒るんだよな。やれやれ。

 「由香里、なんか今日は大人しいな。」信号が青に変わり車をスタートさせながら那緒都は言った。

 由香里は不意に顔を上げダッシュボードの辺りを見つめると言った。「カールさん、今日のことでお話があります。」

 一瞬由香里に気を取られる那緒都。前の車のテールランプの点灯が急接近する。「うぉ。」すんでの所でブレーキ。間一髪追突は免れたようだ。危ない危ない。いや由香里は今なんて?

 「おい、ちょっとまて。」「カールさん今いるのか?」前の車に合わせ再スタートさせながら那緒都。

 「いるよ?ダッシュボードの上。」こともなげに言う由香里。

 「信じられない?」由香里が少し怒ったように言う。「いや、そんなこともないけど・・・」

 「カールさんって、写真で見た限りだとそれなりに大きな人だったと思うんだが。」ダッシュボードには大人が腰掛けられるようなスペースはないぞ。

 周囲の車の動きを気にしながらちらりとダッシュボードを見る。そこには鈴鹿に行くとき使ったサービスエリアの案内図がまだそのままになっていた。見えたのはそれだけだった。

 「最近ちびカールさんなのよ。現れるときは。」

 『タかさ20cmね』カールが那緒都の反応をみて面白そうに言った。

 「身長20cmのカールさん。手のひらサイズよ。カワイイわよ?」メガネの奥の目が愉快そうにしている。

 20cm?確かに手のひらサイズだ。「幽霊ってのは変幻自在なんだな。」那緒都は妙な所で関心した。

 「で、カールさん。」シートの上でもぞもぞ居住まいを正す由香里。『なんですカ?ユカリサン』

 「お願いがあるんです。」お願い?なんだ?那緒都も運転しながら聞き耳をたてるが当然カールの声は聞こえてはいない。

 「今日の練習走行ですけど、ほどほどにお願いしたいんです。」由香里は一呼吸置いて「関君の為に。」と言った。

 「関君はその、発展途上なんです。これからの子。」「だから。」

 『ヤヴォール。わかりマシタ』カールがドイツ語混じりで答える。

 『セキサン、じしんなくすよくない』『ワタシハヤイからね』ちびカールがウインクする。

 「カールさんが速いドライバーなのはわかってます。ね、那緒都?」「あ?ああ。」いきなり振られてとりあえず肯定する那緒都。

 「問題は私。」

 「私が速かったらちょっとややこしいことになると思うんです。」「そうよね、那緒都。」「ちょっとまて由香里。」このまま話が進んでも何のことかわからない。

 「俺にはカールさんの声が聞こえてないんだ。何の話だ?」緩いカーブにハンドルを合わせながら少しイラついた声で那緒都は言った。

 「ああ、そっか。」ゴソゴソと腰を少し浮かせ膝の上のキャップを那緒都にかぶせる。「はい、どうぞ!」「たったっ。」思わず声を出す那緒都。

 「そ、そいうことやるときは予め言ってくれ。運転中だぞ。」それに心の準備がいるだろう幽霊と話すなんて。思わずつばを飲み込む。が、特に変化は感じられない。ラジオから流れるBGM、少々うるさい軽トラックのエンジン音。

 『きょう、ワタシゆっくりはしル。』『セキサン、じしんなくさなイ。』『イイですカ?』那緒都の頭にも変なイントネーションのカールの声が響く。そういうことか。

 オッケーです。右手でマークを作ってダッシュボードに向かって返事をする由香里。予選であれば少々問題だが練習走行であれば問題無いだろう。那緒都にも異存は無かった。

 「これ、もういいか?」那緒都がそっとキャップを脱いで由香里に渡す。「えー?」「被ったままでいいのに。」いや、勘弁してくれ。そんな曰く有りなキャップ。「運転中だから。」と苦しい言い訳をする。

 口をとがらせ不満そうにキャップを受け取る由香里。「カールさんに対するデリカシーがないわ。」

 「ね、失礼よね?カールさん。」『だいじょうぶデース。』カールはダッシュボードの上で二人のやりとりを面白そうに見ている。

 「大体那緒都には気配りが足りないのよ。」「そんな事だから、」どうやら由香里に説教モードのスイッチが入ったようだ。

 サーキットまでの道のりはあと少し。はいはいと生返事をしながら一刻も早く着きたいと願う那緒都であった。


 午後になり薄い雲に覆われた筑波サーキットはレースマシンの奏でる轟音に包まれていた。

 公式練習。第2戦の筑波ツーリングカーレースにエントリーしている各チームが明日の予選を前に調整に余念がない。殆ど観客のいないグランドスタンドにはホームストレートを通過するマシンのエンジン音が反射していた。

 エントリーを済ませ公式車検も無事終わりチームマクサスのフォードも同じようにコースを周回していた。

 昨年までのデータで決めたセッティングの最終調整。マシンもドライバーも昨年から進化している。コース状況や気温も違う。マクサスにとってホームコースと言える筑波といえどもおろそかにはできない。

 ドライブしていた関にピットインのサインが出された。先程より自身の筑波でのベストラップを更新しているところを見ると足の指も問題無いようだ。やや早めのドライバー交代。少しでも由香里、というか実際はカールにウチの車に慣れさせたいとチームミーティングで決めていた。

 「ふわっ!」

 先程からピットガレージ内を檻の中の動物かのようにうろうろしていた由香里が、ピットインのサインに気がついて妙な声を上げた。

 次は私?いやいや、カールさんが走るんだし。落ち着けぇ私。深呼吸をして。

 「大丈夫ですか?」聞きとがめたヘルパーの女の子が声をかけた。大丈夫だと答える顔は少し引きつっている。

 「由香里、ちょっと」レーシンググローブを手にした由香里に那緒都が声をかける。

 「な、なんですか、監督!」と、由香里。

 なんかテンション変だな。少し訝りながらも那緒都が手招きをしながらガレージの奥へ誘う。

 「大丈夫か?」由香里のメガネの奥の目を見ながら那緒都。「なんかテンション高くておまえらしくないけど。」

 「なにいってんの!大丈夫よ。」おどける由香里。「そりゃちょっと緊張してるけど。」後ろを振り返った後小声で「カールさんやるき満々だし。」

 「カールさん今は?」同じく声を潜めて那緒都が聞いた。

 「車に乗ってるみたい。コースを見るって。」「マジか?」関は気がついてないんだろうな、幽霊乗せて走ってたなんて。それはそうと、

 「由香里。最初はおまえ走れ。」声を抑えたまま「万一の事があるといけないから、走ってみた方がいいと思うんだ。」那緒都は言った。

 「えぇぇ?」ちょ、ちょっとまってよ。由香里の目が大きく見開く。

 「声が大きいよ。」辺りを見回しながら一層小さな声で耳打ちするように「カールさんがおまえから離れた場合危険だからな。1,2周でいい。」

 いやいや、それは分かるけれども。「わたし、ウチのシエラ乗ったことないよ。壊しちゃったらどうすんの!」由香里が小声で反論する。

 「何言ってるんだ、ライセンス持ちだろ。」「速く走る必要はないから。流してくるだけでいい。」練習走行だからそれ程みな飛ばしてないし、と那緒都。

 なによ!いつもは良くとれた、何かの間違いだろうって言ってるくせに!でも那緒都の言うことにも一理あるわね。

 「わかった。やってみる。1周だけ」

 まぁなんとかなるっしょ!とガッツポーズする由香里。大丈夫か?やっぱこいつテンションがおかしいと不安に思いつつ、ここは信用するしかないと那緒都は思いなおした。

 長いピットロードをマクサスのフォードが滑り込んでくる。前回の成績順で割り当てられている為マクサスのピットは一番奥、第1コーナーの直前だった。すかさずタイヤ交換にクルーが車に群がる。

 降りてきた関がコース状況を脇で控えていた由香里に伝えた。由香里は関の言葉に首を何度も振って返事をするとシートに滑り込む。ダッシュボードの上にはちびカール。

 『カわりましょ』カールの声が由香里の頭に響く。

 「1周。私が走るわ。」シートベルトをクルーに締めてもらいながら由香里が呟く。えっ、と聞き返すクルー。なんでもないとひきつった笑顔で礼を言う由香里。車のドアが閉められた。

 「私も走れるようになってた方が危なくないって、那緒都が。」イグニッションオン。エンジンが再び目を覚ます。

 『ヤヴォール。わかりマシタ』『ワタシおしえましょ』

 前もってクラッチが重い等、一通りレクチャーを受けていた由香里はスムーズにピットレーンへと車を滑らせる。ホームストレッチを第1コーナーへ侵入する車に注意しながら無事コースイン。案外いけるものじゃん私。由香里はひとりごちる。

 2つのRで構成された第1コーナーを速い車を避けアウト側で回る。よしよし。邪魔にならなきゃいいの。ちょっとアクセルが敏感だけどイイ子ねこの車。S字コーナーから第1ヘアピン。由香里はクリップに付くことも無くマシンを走らせる。周囲の車はトラブルでもかかえているのだろうと、やや距離をとってオーバーテイクしていく。

 『アクセル』『もすこしアクセルふみましょウ』ダンロップブリッジ下を縁石ギリギリで大回りしていた由香里についにじれたカールが言う。『そくど、おそイと、アブナイでス。』

 カールがそう言った丁度その時、フォードのラインを2台の車が横切る。「!!」声にならない悲鳴を上げる由香里。行き場を失った車はコースサイドのグラベルへ。砂を巻き上げながらなんとか再びコースに戻るフォード。『アブナイでしょ?』涙目の視界の隅にカールの得意げな顔がうつる。

 なにそれ。ちょっとムカつく。いいわよ!わーったわよ!私だって何度もここは走ってるんだから。やってやるわよ!

 ライセンス取得の為に一昨年筑波で行われたワンメークレースに何戦か参加していたのは事実である。もっともブービーを争っていただけではあるが。

 「いくわよ!」誰に言うとでも無く口にする。第2ヘアピンを1速で立ち上がる。アクセル全開、即2速。筑波に合わせられたミッションが小気味よく反応する。アクセルオン。え?これ速いよ。ワンメイクで乗っていたスターレットとの違いに戸惑いながらもレッドゾーン寸前でシフトアップ。

 バックストレッチ、筑波では一番長い直線である。その終わりには90Rの高速コーナーがホームストレートへ繋がっている。

 『アクセル、もっト!』『モット!モット!』「無理無理無理!止まれなくなるわ。」由香里は踏み込めない。最終コーナー脇のスポンジバリアが壁のように迫る。ブレーキへと脚を踏み換えようとする由香里の動作を見てカールが叫ぶ『マダ!ブレーキまだ!』頭の中に響く声に驚いて思わず一瞬ブレーキを緩めアクセルを踏み込んでしまう由香里。90Rが迫る「きゃー!」今度は悲鳴が口をつく。フルブレーキ。無我夢中でハンドルをさばく由香里。車はなんとか最終コーナーのアウト側を縁石ギリギリで通過する。

 <大丈夫か?由香里!>無線から那緒都の声。大丈夫じゃない。大丈夫じゃない、けど。「大丈夫。」辛うじて無線に答える。もう十分だわ「カールさん、お願い。」ホームストレートのグランドスタンド側をのろのろと走らせながら由香里は交代を申し出た。

 『ヤヴォール。りょうかいデス』カールが由香里の体にのりうつる。暗い海の底に沈んで行く様な感覚。カールとの感覚の共有。カールの生き生きしている様を少しだけしゃくに思う由香里だった。

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