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くちひげのファントム  作者: 衣住河治
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第1章 鈴鹿ブレイク

 「・・・エンジンが・・・吹け・・・」

 秋川那緒都(ナオト)が頭に乗せたインカムにノイズ混じりの声が聞こえた。続きを聞き逃すまいと耳を澄ます那緒都。だが声はそれだけだった。

 レースで使うインカムはコース上のドライバーと直接通話できる携帯電話の様なものだ。ただしお互いが同時に話せない。要はトランシーバーである。

 トランシーバーなので電波の状態で通話の明瞭度が違う。那緒都達が今いる三重県鈴鹿サーキットは高低差とピットから遠いせいで西コースからの電波が入りづらい。その上ドライバーの足下ではエンジンがうなりを上げている。快速電車の通過する駅のホームで話をするようなもので会話するには工夫が必要となる。一応周囲の音をカットする機能はあるはずなのだが。

 予算をケチったせいだ、と那緒都は心の中で舌打ちしながらインカムにどなった。

 「関、なんだ?良く聞こえない、もう一度言ってくれ」

 昨夜遅くまでエンジンの調整に付き合っていた顔には疲労の色が隠せない。もうすぐ30歳を迎える那緒都の眉間に皺がよる。

 グランドスタンド前のメインストレート脇に並ぶピットエリアの一角に彼はいた。周囲にはチームクルーが次ぎのピットインに備え待機している。スペアタイヤ、工具、予備のパーツが雑然と並ぶピットの中はメインストレートを駆け抜ける多数のマシンの轟音で満たされていた。

 鈴鹿700kmツーリングカーレース。およそ120周を4時間弱で周回する市販車を改造したグループAという車によるレースも終盤にさしかかり、残り10周程度で先頭集団はチェッカーを受ける状況となっていた。

 那緒都が監督を務めるチーム・マクサス@TaM(アット・タム)のフォードシエラの現在のポジションは20台出走中の15番手。既に先頭集団にラップされて周回遅れとなっていたが、スポンサーの手前リタイアだけは避けたい。それに長距離を戦うレースは終盤になにが起こるかわからない。

 ポイント獲得のチャンスはあるとドライバーを鼓舞していた那緒都の脳裏に嫌な予感がよぎる。ドライバーの関はまだ若い。なにか無理をしていなければ良いのだが。

 「関!返事をしろ!」再度インカムに呼びかける那緒都。と、その時

 『あ~スプーンカーブで1台が白煙を上げている~。カーナンバーは14!チーム・マクサスのフォードが止まった~』

 場内アナウンスが興奮した声で状況を伝える。

 「那緒都君!関君止まったって!アナウンス!」「関君大丈夫なの?」

 ピットから身を乗り出してアナウンスを聴いていた女性が那緒都の肩を揺さぶる。チーム・マクサスの母体、多岐川モータース社長の娘でありチーム代表の多岐川麗子である。

 少し暗めの栗色ボブヘヤー、ピットの油臭い雰囲気とはどう見ても場違いな赤いスーツにタイトスカート、流行の体の線が出るボディコンシャスな出で立ち。肩に羽織ったチームジャンパーが辛うじて麗子が関係者であることを主張していた。

 「ちょっと待ってくれ麗子さん」再度インカムに呼びかける那緒都。しかし返事はない。ピット内に緊張が走る。

 「那緒都!」

 小柄な女の子がピットレーンから飛び込んで来たのが那緒都の目に入った。赤いメガネ、後ろに無造作に束ねた髪はほどけかけている。チームのつなぎに身を包んだマネージャーの橘由香里だった。

 「那緒都、ビジョンに関君写ってた。コース脇を歩いてたわ。大丈夫みたい。スプーンの入り口」一気に早口でまくし立てる由香里。

 今シーズンのツーリングカーレースには冠スポンサーとして大手飲料会社がついていた。そのスポンサーがグランドスタンドのお客さんへのサービスとして巨大なテレビモニターをピットロード脇の駐車場に設置していたのだ。ピットウォールでタイムを計っていた由香里からも辛うじて見ることができたようだ。

 那緒都の顔に安堵の色が浮かぶ。ピット内のクルーの誰かがほっと息を漏らす。関が無事なのは良かった。が、しかし・・・

 「秋川ちゃん、関を迎えに行こうか?」チーフメカニックの佐田が那緒都に声を掛けた。多岐川モータースの古参メカニックで那緒都より一回り程年上な彼は、レース期間中数名のメカニックを引き連れてチームクルーとして参加していた。

 「佐田さん、お願い出来ますか?」

 佐田は軽くサムアップの後、素早く他のメカニックに指示を出してピットを後にした。

 ピットの隅でレーシングスーツの上半身をはだけ、パイプ椅子に腰掛け待機ていたもう一人のドライバーが大げさに肩をすくめるのが那緒都に見えた。ツーリングカーレースは2ドライバー制。今回だけという条件で乗ってもらっていた彼の出番はもはやない。

 4月の柔らかな日差しはオレンジ色をサーキットに投げかけ始めていた。コース上を周回する車にはライトオンのサインが出される。これから夕闇の中での戦いが始まるのだ。

 しかしチーム・マクサスの開幕戦のリザルトはDNF、Did Not Finishで終わることとなった。

 

 鈴鹿のグランドスタンドはつい先ほどまでの歓声が嘘のように静まりかえり係員だけが忙しく動き回っている。シャンペンファイトの舞台となった表彰台も既に片付けられ、サーキットは暫しの眠りに落ちようとしていた。

 夕暮れとともに流れ込んだ寒気が、5万を数えた観客の家路への背中を押す。

 決勝の日曜日。すべての日程は終了し、レース関係者もある者は祝杯を上げにまたある者は次のチャンスのためにと、それぞれの思惑を胸に秘め帰り仕度を急いでいた。

 チーム・マクサスのクルーもまた鈴鹿を離れチーム本拠地である東京へと戻る準備の最中だった。

 作業の手を止めピットウォールからシグナルタワーを見上げてフーッと大きなため息を漏らす那緒都。レース中に上位の順位が表示されるそれに今回チームのカーナンバーが表示されることはなかった。

 昨年シーズンは純プライベートながらツーリングカーレースのダークホースとなったチーム・マクサス。

 自動車メーカーが関与するワークスチームを差し置いて、雨のレースというマシンの差が出づらい状況では表彰台に上がるという快挙をみせたが、今シーズン開幕直前になって1stドライバーの移籍という事態に直面していた。

 急遽スポット契約でドライバーは確保したものの途中リタイア。直接的原因は2ndドライバーの関のミスだった。しかしスポット契約ドライバー優先のセッティングがそれを引き起こした可能性は否定できない。もう少しセッティングに時間がかけられれば・・・

 「やっぱりスポットのドライバーだと難しいな」独りごちる那緒都。

 ピットウォールに忘れ物が無い事を確認した那緒都は、パドックを見渡し片隅にバインダーが置きっぱなしになっているのを見つけ拾い上げた。由香里がいつも使っているタイム記録用のシートがそのままになっている。

 「佐田さん、由香里を見ませんでしたか?」

 コースサイドから牽引してきたフォードをトランスポーターへ積み込みを終え、ピットガレージ内の細かい整理を指示していた佐田に那緒都は声をかけた。

 「ああ、由香里ちゃんならジュースを買いに行くって、さっき」

 グランドスタンド方向を指さしながら「なんでも、安い自販機を見つけたとか言ってたな。」

 あーそういえば、なんかそんなこと言ってたな。なにやってんだ。もう帰る時間なのに。

 「すいません、佐田さん。先に出て下さい。俺は由香里を捕まえて帰りますんで。」

 にやにやしながら「了解した、ごゆっくり。」と佐田。那緒都と由香里が恋人同士であることはチーム員全員の周知事項であった。

 なにを言ってんですかと、心の中でため息をつきながら那緒都は人の流れに乗ってグランドスタンドへ抜けるトンネルへと向かう。

 今であればスマフォ、ケータイで呼び出せば済む事だがが、この当時は手のひらサイズの電話など夢物語でしかない。那緒都は人混みに眼をこらし由香里を探しながらトンネルの中へと入っていった。


 ドシン。下半身に感じる鈍い痛み。

 「ごめんなさい、お姉さん!」小学生くらいの男の子が由香里に頭を下げた。

 「すいませんね。コラ祐一!ちゃんと前を見て歩いてないから・・・」父親らしき男が男の子の頭をもう一度下げさせる。

 「いえいえお父さん。ぼーっとしてた私も悪いんで・・・」こちらこそすいませんと慌てて謝り親子を見送った後我に返る由香里。

 「ふわっ!」思わず出てしまった妙な声に慌てて口を塞ぐ。

 な、な、なんでこんな所にいるんだっけ私?えーっと、何か飲み物が欲しいと思って・・・

 改めて辺りを見回すとそこはエントランスからサーキット道路の下をくぐるトンネルの入り口だった。トンネルから続く通路の両脇には出店が並んでいるが多くが店仕舞いの最中。中には最後のチャンスとばかり声を張り上げ投げ売りを始めた店もある。

 ここってサーキット道路のトンネルを出たところ?いつの間にこんな所まで?また何かに呼ばれちゃったのかな?

 人の流れに合わせゆっくりと歩き出しながら夕闇の落ちた空を見上げため息を漏らす。

 由香里の母方の祖先は昔巫女だったらしい。とはいえ何代も前にやめてしまったと由香里は聞いていた。ただ、その血が遺伝しているのか由香里は子供の頃から妙な声を聞くことが多かった。

 例えば小学生の低学年の頃、夜の墓地を一人で彷徨いている所を警官に保護されたこともあった。白装束のおばあさんに呼ばれたと駆けつけた警官に説明したらしい。それ以来、母親に極力そういった所には近づかないように言われていたのであるが。

 「ま、いいや。とりあえず飲み物を買って戻ろう。」それからもちょくちょく不思議な事を体験した由香里は慣れっこなのかあまり気にしていないようだ。

 「ちょっと、そこのメガネのおねーさん!」

 え?あたし?声のした方を振り返る。これは人の声だな。うん。既に冷静な由香里。

 見ると半分くらい商品をしまいかけているグッズ店の前に恰幅の良いおばさんが由香里に笑いながら手招きをしている。

 「おねーさんマクサスの関係者でしょ?今日は残念だったねぇ。」「あたしゃ関選手のファンなんだよ。可愛いからねぇ。」

 そうか関君意外な所にもファンがいるんだ。後で教えてあげよう。と思いつつ

 「はぁ、どうもありがとうございます。」

 当たり障りのない返事を返す。そういえばマクサスのチームジャンパーを着たままだった。

 「そうだ、なにか買っていかないかい?大サービスしとくよ」

 「はぁ。いや、その」

 「そうだ、このヨーロッパフォードの帽子なんてどうだい?実際にドライバーがかぶっていたやつらしいよ?」

 そう言いながら店先に無造作に転がっていたブルーの帽子を由香里に無理矢理持たせる。

 「いや~持ち合わせが・・・」

 「出欠大サービスだ!500円でいいよ!持ってけ泥棒!」

 結局おばさんの迫力に負けて帽子を買わされなんとかその場をそそくさと立ち去る由香里。

 「かーさん、早く片付け手伝ってくれよ!」段ボールに商品を詰めながら店の裏から息子とおぼしき若者がおばさんに声をかける。

 「ああ、帽子1個売り上げに追加ね!ヨーロッパフォードのやつ」

 いぶかしげな顔をする息子「え?そんなのあったっけ?」

 「ほら、叔父さんが向こうのレース観戦で買ってきてくれたやつ。あの中にあったのよ。」「沢山あったから少しだけ持ってきたんよ。」

 「かあさん・・アレ売ったの?」「ま、いいじゃない。押し入れで腐らせるよりはましってもんよ。」

 俺は知らないからね。抗議しながらも息子は黙々と商品をしまい続けた。


 出店が並ぶ通路を更に入場ゲート方面へと歩くとやや開けた場所にでる。メーカーやチームの常設ショップやイベントなどが開かれることもあるその広場の片隅、人の流れから少し離れた所にサーキットランドの事務棟がひっそりと立ってる。そのエントランスに飲み物の自販機があった。

 目当てのジュースとコーヒーを無事に買い無造作にジャケットのポケットに突っ込む。と、指先に先ほど買った帽子が触れた。

 ポケットから出して改めて見るとつばの裏にマジックでなにか書いてある。アルファベットらしき文字と恐らく誰かのサイン。

 「英語?じゃないよねこれ。麗子さんなら読めるかな?」

 手のひらで帽子をもてあそびながらゲートへと向かう人の流れに逆らうようにピット方面に向かう。ふと店頭の飾り時計に目がとまる。

 「ふえ?こんな時間?那緒都に怒られる!」

 由香里は帽子を再びポケットに入れると人の間を縫うように小走りで走り始めた。


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