晩餐会(2024年編集)
~ 十九時、東京都港区 ~
やっとの思いで、雑誌の締切を終えた谷口文子は、疲労困憊で、会社を後にする。
(…今夜は、何を食べようかな)
佐伯頼宗から解放された今、自分を縛るものは、生活費だけだ。
ただ、強姦だったとはいえ、四六時中、身体を共有した相手が、この世にいないことは、違和感を覚えてしまう。
(…情が、ある訳でもないのにね)
駐車場の裏、雑居ビルの死角。何とも言えぬ気持ちで、横目で見ながら、都営地下鉄三田線を目指す。
「谷口文子さん、少しだけ、宜しいですか?」
(------!)
芝公園駅手前で、背後からの声に、ピクッと、足が止まった。
振り返った瞬間、昼間の刑事だと分かった。
(…刑事が、私に?)
「何故、私の名前を?今日は、締切だったんです。疲れてるので、明日にして貰えませんか?」
佐久間は、物腰を低く、丁寧な口調で、接した。
「先日は、平尾交番の警察官が、あなたに無礼を働いたと聞いて、警察を代表して、謝罪に来ました。宜しければ、夕食でも如何ですか?谷口さんを、ずっと、お待ちしていました」
(------!)
(ずっと?って、何時間?)
「もしかして、昼間、営業三課を去ってから、待っていたんですか?」
「一度、平尾交番に行って、無礼を働いた、警察官二名の階級を、下げる処分をしてから、芝公園駅に来ました。彼らは、警察学校で、六ヶ月間、勉強と訓練です」
(あの二人を?…私のために?)
「……話というのは?」
「罪滅ぼしではありませんが、あなたの相談内容について、確認したいことがあります。事情は、ある程度、知っていますが、警察官二人の官職を剥いで、学校に戻した手前と、立場上、あなたから、直接、事情を伺っておかないといけません。決して、不快にさせませんから、このオッサンと、夕食をご一緒して貰えませんか?」
谷口は、佐久間の、腰の低さと、物言いが、何とも心地よく、少しだけ話を聞く気になった。
「そんな、オッサンだなんて。十分、格好良いですよ?…今夜は、何となく暇してるし。……良いわ、付き合ってあげます。その代わり、美味しいものね」
「ええ、それはもう。水道橋駅から、少し歩いたところに、芸能人御用達のお店があるんです。子牛のヒレ肉が抜群です。そこに、しませんか?誰か、知っている芸能人が、来てるかも知れない」
(------!)
イケメンが好きな、谷口は、大いに喜んだ。
「芸能人?ぜひ、行きます!!」
~ 千代田区 水道橋駅付近 明治亭 ~
高級そうな、一口サイズのヒレステーキや、赤ワインがかかった白魚など、テレビでしか見たことがないご馳走が、谷口文子の前に、豪華に並んだ。
芸能人御用達と謳われるだけあって、有名人の結婚披露宴に、来た感覚である。
(こんなに沢山、食べ切れるかしら?)
余りの豪華さに、谷口は、心配になった。
「…あの、刑事さん?」
「どうかしましたか?」
「明治亭って、かなり高いんじゃ?何だか悪いです。少し、出しましょうか?」
「可愛い人が、値段など、気にしないで良いですよ。オッサンは、普段、金を使うことないから、こういう時に、使うんです」
「…じゃあ、遠慮した方が、刑事さんに悪そうだから、思い切って頂きます。それと、目上の人なんだから、敬語は、無しで」
「分かりました。いえ、分かった。では、…はい、頂きます」
「敬語になった、ふふふっ♪」
食事が進み、谷口の、きれいな食べ方に、感心する。
「育ちが、とても良いんだね。食べ方を見ると、ご両親が、いかに君を、大切に育てたか分かる。魚の骨を、そこまできれいに、取れるなんてね」
(------!)
「えっ、そんな、まじまじ、見ないでください。恥ずかしいです。…そんな風に、両親を褒められたことないから、照れます」
「いや、本当のことだ。そんな純粋な女性を、助けられなくて、心からすまなかった」
箸を置いて、頭を下げる。
「嫌ですよ、どうしたんですか?改まって」
「この間、意を決して、相談しに来てくれたのに、若い警察官たちが、君を小馬鹿にして、追い返してしまったと、聞き出したんだ。君への言動は、無礼以外、何物でもない。人として、してはいけないことだ。まず、それを本心から言いたかった。悲しいことに、同じ警察官でも、ピンキリなんだよ」
(………)
谷口は、ワインを一口飲むと、静かに微笑んだ。
「……そうね。もし、あの時、あの交番に、あなたがいたら、絶望感や孤独感を覚えながら、帰ることはなかったな」
「私なら、状況を予測出来た」
「…予測?」
「おそらく、君は、区の相談窓口には行かず、一人で耐えたはずだ。誰にも、相談出来なくてね。そんな中、佐伯頼宗は、会社の立場を利用して、君の住居に押し掛け、接触を試みたはず。それ以上は、言葉にすべきないので、遠慮するが、私が父親なら、佐伯頼宗を殺しに行くところだ」
(------!)
「刑事さんって、凄すぎ。全部、当たってます。その後のことも、全部。口に出さない配慮は、心から嬉しい」
佐久間は涙を流し、さらに頭を下げた。
(------!)
(…ちょっと、やだ、本泣き?)
「刑事さん?刑事さんが、泣いて謝らなくても。私は、もう、大丈夫ですから」
「いや、交番の警察官に、この予測が出来ていたら、君は、被害に遭わなかった。…今まで、死ぬほど、辛かっただろう?心から、この世と、佐伯、警察官を恨んだのだろう。君のように、無垢で、育ちが良い娘がだ。ご両親のことを思うと、胸が張り裂けそうだ」
(………)
谷口は、佐久間の想いに、そっと、涙を拭う。
「…刑事さん。私、今、こうして刑事さんが、心から、私のために泣いてくれたこと、一生忘れません。両親には、話せられないけど、私を、理解してくれている人がいる。それだけでも、広島から、東京に出て来て、良かった。…あのね、一番嬉しいのは、私が風俗嬢をしていることを知っても、普通の人間として、刑事さんが接してくれること。佐伯は、私を、性のはけ口として、物のように扱ったから。…こんな私でも、幸せになれるかな?」
「当たり前だよ。君は、家族のために、頑張っただけだ。心までは、売っていまい。胸を張って、生きるだけさ。私は、君の生き様を、誇らしく思うし、尊敬する」
「ふふふ。刑事さんって、本当にいい男。結婚は?」
「しているよ。独身だったら、君を口説いたかもね。愛する、妻子がいる」
「そっかあ。あーあ、残念。刑事さんなら、朝まで付き合うのにな」
「その台詞は、未来の旦那に、とっておきなさい。さあ、温かい内に食べよう」
すっかり打ち解けた二人は、互いの故郷のことや、仕事話で、意気投合したのだった。
~ 二時間後、水道橋駅 ~
「すっかり、ご馳走になりました。……ねえ、本当に、私の部屋に来ない?」
谷口は、酔った勢いで、佐久間にアプローチする。
「行けば、絶対に、理性が負けてしまうよ。魅力ある女性を前に、途中退場は、失礼だ。だから、行かない。気をつけて、帰ってくれよ」
「はーい。もし、派遣型風俗店で会ったら、仕事を忘れて、口説くのは、私の方かも!」
「冗談を、言わない。本気に、してしまうだろう?…おやすみ」
「…おやすみなさい」
去り際に、谷口は、神妙な面持ちで、振り返った。
「刑事さん。刑事さんと、もう少し早く、出会っていれば、佐伯を恨み…、ううん、何でもない、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ、良い夢を」
谷口は、名残惜しそうに、手を振りながら、駅の構内へと、消えていった。
完全に、視界から谷口が消えたところで、佐久間が、口を開く。
「もう、出てきていいよ、山さん」
店内の別席で、見張っていた山川が、木陰から姿を現した。
「やはり、佐伯頼宗の自殺に、何か関与しているな。山さんも、感じたか?」
「…はい、残念ながら。谷口の表情、故郷の話、佐伯への感情、…直感ですが、引っかかります」
「同感だ。…ただ、あの様子は、直接、自らの手を汚した感じではない。社長室の話を、思い出してくれ。債権者が来て、社員の解雇を促したことから考えると、債権者を雇っていたのは、谷口か?……いいや、違う。谷口は、警察組織の知らない、第三者に相談し、その第三者が、債権者を雇って、佐伯を罠に嵌めたと、考えた方が、仮説が立てやすい」
山川は、タバコを取り出すと、佐久間と二人で、火を点けた。
「荷物の受け取りを、拒否する元妻も、気になりますね」
「この自殺の引き金は、谷口文子で間違いないと思うが、背後関係が、複雑かも知れないな。とりあえず、明日は、佐伯の元妻の、行方を割り出して、佐伯の自宅にも、足を運んでみよう」
「では、私は、捜査一課に戻って、段取りを済ませておきます。警部は、酒が入ってますから、このまま、帰宅されてください」
「…悪いね、山さん」
「…いえ。警部の心情を聞けて、私も、つい、谷口の親に、感情移入してしまいました。谷口も、心から、嬉しかったと思います」
「悪い娘では、なかった。素朴で、良心がある子だ。それを壊した佐伯頼宗は、死に値する行為をした。…そこは、分かるんだが」
「…辛い職業を、選んだもんです」
「お互いにね。…じゃあ、山さん。あまり、無理をしないでくれ。時間が掛かるそうなら、程々に、切り上げて、帰ってくれよ」
「はい、おやすみなさい」
~ 一時間後、佐久間の自宅 ~
「おかえりなさい、珍しく、飲んできたのね。茶漬けでも、食べますか?」
「ああ、頂くよ。…なあ、千春」
「なあに?」
「今日、若い警察官を、警察学校へ降格させ、無礼を働いた被害女性に、お詫びを兼ねて、夕食をご馳走してきたんだ」
「愚痴を言いたそうね?…良いわ。たまには、一緒に、食べながら、聞いてあげる」
いつもは、一人で考えて、答えを出す佐久間だが、今夜は、珍しく、本音を吐き出す。
「…なるほどね。じゃあ、その苦労人の女性が、事件の鍵を、握っているかも知れないんだ」
「…うん。場合によっては、逮捕しなければならない。初動の対応を間違えたせいで、故郷の家族に、仕送りする為に、自分の身を削ってまで、懸命に生きる、一人の人生を狂わせてしまった。そのことを、何も感じず、平和ぼけして、交番勤務していた巡査たちも、部下の不祥事を、不問にしようとした上層部も、許せなかった。…でも、組織として考えると、私の行動は、真逆かも知れない」
(………)
千春は、優しく、手を握り締める。
「あなたは、間違っていません。誰かが、やらなきゃいけないことを、したんだから、胸を張って。解雇になったって、良いじゃない。天下の佐久間警部が、クヨクヨなんて、似合わないわ」
(………)
「…ありがとう。そして、…ごめんなさい」
(………?)
「晩飯に、捜査の為とはいえ、四万円も、使ってしまいました」
(------!)
千春は、厳しく、手を握り締める。
「それは、許せません。天下の采配と、財布の采配は、別よ。…可哀想だから、毎月、一万円ずつ、小遣いから引いて、四回払いに、してあげるけど」
「……よろしく、お願いいたします」