四面楚歌(2024年編集)
谷口文子を、手籠めにした、佐伯頼宗の日常は、大きく変わった。
会議を、突然キャンセルしたり、無断欠勤を、繰り返すようになった。社内はおろか、社外でも、人目につかない場所を見つけては、谷口文子を連れ込んで、堪能し、性に対して、貪欲さを見せる。
全てを諦めた谷口は、佐伯が欲する時には、いつでも、どこでも受け入れ、佐伯にとって、『地上で、最も、都合の良い女』になっていたのである。谷口を連れ回す姿が、社外でも確認されると、たちまち、噂が、広まった。
これを受け、社内では、佐伯に対する素行調査が、議論されている。
「このところ、佐伯の名を、よく耳にするな」
「コンプライアンス室に、多くの苦情が、寄せられています」
「多くの?どんな内容だ?」
「一番多いのは、無断欠勤です。会議を、途中で抜けたり、開始寸前で、参加をやめたり。女子社員に対する、失言も多いようです。欠勤、パワハラ、セクハラ、どれも、当てはまるかと」
(そういえば、給湯室で、説教していると、聞いたことがあるな)
「誰も、佐伯を止めないのかね?」
「諫言は、しているようです。ですが、当の本人は、聞く耳を持たず、好き勝手、振る舞ってるとのことです」
(傍若無人を許すと、他の社員に対して、示しもつかないな)
「興信所を使っても、構わない。佐伯の動向を調べてくれ。規律違反によっては、僻地へ飛ばす」
「畏まりました」
~ 十一月の、ある日 ~
仕事終わりに、外出先の駐車場で、谷口を堪能した佐伯が、上機嫌で帰宅すると、妻の結衣が、腕を組んで、待ち構えている。
「あんた、遅かったわね」
(…ん、何かあったのか?)
平静を装いながら、カバンを手渡そうとすると、結衣が、抱きついてきた。
(------!)
「おっ、おい、どうしたんだ、びっくりするじゃないか?」
「あんた、何か、悪いことしてない?」
(------!)
「な、何を、藪から棒に」
(…浮気を疑っているのか?…いや、ホテルは使ってないし、着替えにも、気を遣っている。携帯メールにも、証拠は残していない。谷口を触った指も、局部も、除菌シートで、念入りに拭いたから、匂いも、残ってないはずだ。…問題ない、強気で、押し切る)
右脳をフル回転させ、言い訳を考えるが、結衣の様子が、おかしい。
(………)
「何か、あったのか?」
結衣は、自宅電話の子機を、エプロンから取り出すと、着信履歴を見せる。
「朝から、ざっと、四十回くらい、無言電話。とても、気味が悪い。私に、疚しいことはない。考えられるのは、あんたしか、いないじゃない。…ねぇ、会社で、妬まれるような事をしてるの?」
(…浮気じゃない、良かった)
佐伯は、結衣の両肩に、手を置いた。
「編集部ってのは、色々な記事を、書くからな。もしかすると、あの、記事かな?…いや、でも違うな。……いや、やっぱり、そうかな」
佐伯は、要点をはぐらかし、着信履歴を消していく。
「しばらく、電話線を外しておこう。連絡は、携帯メールでも出来るし、生活には、支障しないだろう。…でも、怖かったな?仕事上とはいえ、すまないな」
佐伯が、低姿勢で謝罪すると、結衣の心も、少し落ち着いたようだ。
「……分かった、信じる」
「とりあえず、ご飯にしよう。腹が減ったよ」
(何処の、どいつだ?)
後ろめたい佐伯は、その場を収拾するのに、精一杯であった。
~ 無言電話から、五日後 ~
家庭の平穏を取り戻すため、早めの帰宅を、心掛ける佐伯だったが、妻の様子が、おかしい。
「今度は、呪いの人形でも、届いたのか?」
佐伯は、敢えて、明るく茶化してみせたが、結衣の表情は、曇ったままだ。
「…あんた宛に、届いた電報よ。見るのは、ルール違反だけど、見ちゃった。説明を、お願いするわ」
正座する、結衣の仕草から、良くない内容であることは、分かる。
「何だよ、チチキトク、スグカエレか?」
佐伯は、胡座をかくと、太々しい態度で、電報に目を通した。
『カシキンノケン シキュウレンラクヲ レンラクナケレバ
オヤキョウダイヲ テッテイテキニ シラベテオイコミ
キョウセイテキニ カイシュウスル ユメユメワスレルナ』
「何じゃ、こりゃあ?」
「あんた、何よ、この貸金って。闇金にでも、手を出しているの?」
今にも、包丁が、飛んできそうである。
「ちょっと、待ってくれ。全く、身に覚えが、ございません。何かの、間違いだよ」
「でも、この電報は、確かに、あんた宛よ。電話局にも、確認したけど、間違いないって。無言電話と、同一犯だとしたら、あんた、相当、恨まれてるわよ。家で、一人でいる、私の身にもなってよ!」
佐伯は、結衣に土下座して、詫びを入れる。
「この通りだ、すまない。本当に、身に覚えがないんだ」
「怖い人が、取り立てに、来たりしない?」
「借金していないんだ。取り立てられる、訳がない。大丈夫だ、信用してくれ」
「……分かった、信じる」
(無言電話といい、今回の件といい、必ず、後悔させてやる)
この日を境に、佐伯家に対する、状況が一変する。
翌日には、佐伯の帰宅に合わせ、蕎麦屋の出前と、大量のピザが、届くのである。
「注文をした、覚えがないんだけど?」
商品を届けた店員たちも、引き下がる訳に、いかない。
「いいえ、この電話番号は、確かに、佐伯家からですよ。ちゃんと、当店は、念押しで、確認しましたよね?『こんなに、大量のピザ、大丈夫ですか?』って。そしたら、『ホームパーティをやるから、大丈夫。良いから、さっさと、持ってこい』って、言われましたよね?」
「蕎麦屋だって、そうだ。こんな事になろうかと、着信履歴を、持ってきましたぜ。ほら、見てくださいよ。佐伯家の電話番号だよね?」
(電話番号は、確かに、自宅のものだ。だが、自宅の電話線は、外してある。…誰かの罠か?)
交渉を受け付けない、店員の態度に、佐伯が、困って通報すると、警察官二名が、駆けつけた。
佐伯は、懸命に、これまでの経緯を訴えたが、警察官も、戸惑いを見せる。
「困りましたね。…この状況ですと、店側には、非がありません。着信履歴も、間違いなく、佐伯家からですし、何とか、当事者間で、解決出来ませんか?民事不介入なんですよ、警察組織としては」
「困ったなあ。…じゃあ、せめて、半分は買取ますから、半分は、勘弁してもらえないですか?」
「いや、いや。うちらは、商売してるんです。何が、悲しくて、泣き寝入りをせな、いかんの?」
見かねた警察官が、間に入って、助け船を出す。
「少しでしたら、交番で、買い取りますよ。本官、今日は、当直の予定なので」
(………)
ピザ屋と蕎麦屋は、警察官の顔を立て、半額、負担することを、渋々、了承した。
「当面の間、佐伯家からの出前は、お断りします。事情は分かりませんが、誰かに、恨みを買っているようだ。電話線を外すとか、注意した方が、良いと思いますよ」
関係者たちが、引き上げていく。それを見届けた、結衣は、その場に座り込んだ。
「……あんた。私、もう嫌だわ。あんたが、責任を取って、何とかしなさいよ」
「…分かっている。明日から、しばらく、有休を取って、様子を見るよ。何処の誰かは、分からないが、度が過ぎる」
~ 翌日、二十二時。佐伯家 ~
「……ピンポーン」
(こんな、夜分に誰だ?)
朝から、何かあると思い、待機していた佐伯は、恐る恐る、玄関を開ける。
「遅れて、ごめんなさい。ご指名、ありがとね♪」
(………)
いかにも、妖しい、風俗嬢だ。
「……えーと、風俗嬢は、頼んでいません。お引き取りください」
次の瞬間。
「お客さーん、冷やかしは、勘弁してくれませんかね?当店の、ナンバーワン嬢を、強引に、指名しておいて、そんなこと、言わせませんよ?この電話番号、佐伯家だよね?」
(------!)
強面の男が、着信履歴を見せるや否や、佐伯の胸ぐらを掴むが、佐伯も、負けてられない。
「知らないものは、知らん。おい、結衣!警察を呼べ」
風俗店の男も、動じない。
「ああ、どうぞ。当店は、合法の派遣型風俗店だ。警察が来ても、何も、出来ねえよ。指名料と、朝までコースで、十二万円を支払うまでは、テコでも動かないからな!」
先日の警察官が、通報を受けて、やって来た。
(………)
状況を察した警察官は、直ぐに、耳打ちする。
「佐伯さん、今回ばかりは、佐伯家を助ける事は、出来ませんよ。一応調べますが、風営法に準じて、派遣型店舗を営んでる場合、対価は、支払うことになります。諭してみますが、期待せんでください」
「そんな、何とか、お願いしますよ。私は、か弱い都民なんです」
「そんな事を、言われてもね」
警察官は、強面の男を諭すが、説得に至らず、形だけの指導をして、立ち去った。
警察官の姿が見えなくなると、強面の男は、肩で風を切りながら、佐伯に、詰め寄る。
「さあ、ビタ一文、まけないよ。キッチリ払うまで、何日でも、居座るぞ。警察を呼ばれたんだ。迷惑料に、延滞料も上乗せするから、軽く、百万円を超えるな。派遣型風俗店は、時間給だから、払うまで、どんどん加算されるぜ?。泣きを入れても、合法的に、派遣型風俗店が、勝つ。何なら、裁判でもするか?」
(------!)
(------!)
「…金は、払うよ。最初の十二万円で、勘弁してくれ」
「はあ?馬鹿か、お前?百万円だって、言っただろうが?」
佐伯は、強面の男に、土下座して、頼んだ。
「…二十万円。本当に、これが、今直ぐに、払える限度だ」
(……ちっ!)
「早く、其処らで、下ろして来い。払うまで、玄関で、待ってるからな」
「分かった、直ぐに、行ってくる。妻には、手を出さないで欲しい」
「中々、器量が良い、奥さんだな。…まあ、手は出さないで、おいてやる」
佐伯は、泣く泣く、近くの店舗で、金を下ろし、強面の男に、派遣料金を支払った。
(この屈辱、絶対に、忘れない。絶対に捕まえて、痛い目に、遭わせてやるぞ)
~ さらに、翌日 佐伯家 ~
「……ピンポーン」
連日の嫌がらせに、軽い鬱の症状を見せる結衣は、インターホンが鳴ると、恐怖で、動けない。
そんな妻に、これ以上、負担を掛けまいと、佐伯が自ら、対応する。玄関を開けると、自治会長をはじめとする、近所の人間が六名、険しい面持ちで、立っていた。
「ちょっと、佐伯さん。いい加減にしてくれる?」
(………)
「すみません、お騒がせして。連日、見知らぬ誰かに、嫌がらせを受けてまして」
佐伯の謝罪に、怒りを覚えた、自治会長が、口火を切った。
「近所迷惑を、訴えに、来たんじゃない!儂は、佐伯家の、連帯保証人になった、覚えはないぞ。一体、どういうことだ、説明して貰おうか?」
他の住民も、同調して、佐伯を責める。
「そうだ、そうだ!何で、我々が、佐伯家の借金を、返さなければ、ならないんだ?」
(………?)
「どういう事ですか?話が、全く、見えないのですが」
(------!)
(------!)
(------!)
自治会メンバーは、この言葉に、業を煮やし、佐伯の胸ぐらを掴む。
「ふざけるな!良いか、各世帯に、電話が入ってるんだ。『佐伯家の、借金の件で、連絡しました。お宅は、佐伯家の、連帯保証人になっているので、支払ってくれないと、明日、取り立てに、伺います』ってね。娘なんて、ビビっちまって、布団の中で、震えてるんだぞ。借金を作るのは、構わないが、周りを、巻き込むなよ。どんな手を、使ったのか知らんが、自分の尻は、自分で拭けよ。いい加減にしないと、警察に、訴えるぞ!!」
(………)
この苦情に、佐伯は、ただ、土下座して、許しを請うしかなかった。
土下座をしている間、今度は、兄弟から着信があり、債権の取り立てだと、強面の男たちが、家の前で、居座って、困っているとのことである。警察騒ぎになったが、債権書は有効で、警察官たちは、為す術も無く、引き上げていったらしい。
(もう、何が何だか、分からない。俺が、一体、何をしたって、言うんだ)
佐伯は、自治会メンバーに、身の潔白と、これまでの経緯を説明したうえで、絶対に、自治会には、迷惑を掛けない、自分は、逃げも隠れもしないので、借金取りが来た場合には、佐伯の名前を出して、本人の元へ、取り立てにいくよう、伝えて欲しいと、訴えた。
この言葉に、納得出来た住民たちは、舌打ちしながら、引き上げていく。やっとの思いで、自宅に戻ると、泣きはらした結衣が、『もう、耐えられない』と、離婚届を、佐伯に叩きつけて、出て行った。
四面楚歌の佐伯に、この後も、携帯電話への無言攻撃、大量の出前、怪文書の投函などの、執拗な嫌がらせが続き、強がりを見せていた佐伯も、当初の面影は無くなり、疑心暗鬼で、見かける人間、全てが、敵に見えるようになった。
数日後、自宅から、逃げるように会社に戻るが、借金の取り立てが、社長宅にまで及んでおり、解雇の辞令が、編集部の入り口に、目立つように、掲示されている。
(……解雇だって?社長にまで、迷惑が…)
佐伯は、肩を落としながら、自分の席に向かうと、既に、自分の席はなく、荷物が無造作に、ゴミ箱の前に置かれている。課長席には、散々、虐めていた部下が、踏ん反りかえって、座っていた。
編集部の人間は、誰一人、佐伯には、声を掛けず、白い目で見る。そんな中、新課長が、佐伯に、餞の言葉を掛けた。
「大活躍だったみたいだねえ、佐伯ちゃ~~ん?あんたが、若い女と愉しんでいる間、借金取りが、社長に文句言いに、来ましたよ~。あんた、借金まみれ、なんだって?…どうやったら、そんな、糞みたいな、生活が出来るのか、記事にしたいですねえ~。不倫のこととか、奥さん、知ってるんですかねえ?…あっ、いけない。他人の家庭のことは、口を出すべきでは、ないですよね?……消えろ、負け犬が」
(……もう嫌だ、こんな屈辱、耐えられない)
家族も、職も、自尊心まで、失った佐伯は、衝動的に、屋上から身投げし、三十八年の人生に、幕を下ろした。
二十分後、大日本帝国印刷(株)の駐車場で、人が死んでいると、110番通報を受けた警察が、関係者からの聞き込みと、現場検証で、遺体の状態と、屋上の不審点がないことから、自殺と断定され、その場で、捜査が、打ち切りられた。