谷口文子の苦悩(2024年編集)
ゆっくり、改変していきますので、
タイトルロゴに(2024年編集)の文字がついたものを、
お読みください。
~ 東京都 とある区役所 ~
「それでは、ここに、代理者である、貴方のサインをお願いします」
「分かりました。この戸籍謄本は、いつ頃、手元に届きますか?」
川島は、手元のカレンダーで、曜日を確認する。
「…そうですね、明日の午前中には、手続きを終えて、発送出来ると思いますよ。念の為、二日程度、見て頂くと、助かります」
「そうですか。では、よろしく」
(これで、まずは一段落だ。自分の仕事をしよう)
客が途切れたので、席に戻る川島に、斎藤が、背後から声を掛けた。
「戸籍謄本の郵送ですか?」
「ああ、今日は、少し多いね」
「川島さん、今日くらいは、早く帰宅した方が良いですよ。自分が、やっておきましょうか?」
(------!)
「助かるよ、じゃあ、早速」
川島は、生まれたばかりの、我が子に会いに行くため、押印した時間休届けを、課長の決裁箱に入れ、嬉しそうに、区民課を出て行く。
後ろ姿を、微笑ましく見送った斎藤は、託された申請書を、念の為、チェックした。
「…どれどれ、請求者は、佐伯頼宗。頼宗って、凄い名前だなぁ。代理人は……っと。本人出張中につき、代理人住所に郵送か。…えーと、郵便小為替に、返信用封筒、返信用小切手は、……うん、全部揃っているな。…これで、良しっと。明日の朝一に、総務に持ち込んで、完了だな。流石は、川島さん。急いでいても、やることは完璧だね」
区民課が、混雑してきた。
斎藤は、川島の書類を、自分の席に置くと、窓口に立った。
「十二番の方、お待たせしました。ご用件を伺います」
~ 東京都内、大日本帝国印刷(株) ~
「谷口さん、ちょっと良いかな?」
(毎日、毎日、話掛けないでよ)
谷口文子が、席を立つ瞬間を、待っていたかのように、上司の佐伯頼宗が、声を掛けてくる。
編集部では、夕刊の編集作業に追われ、怒号が飛び交う中、一人だけ、給湯室へ呼ばれる。
周囲からは、『個人的な説教』として認知されているため、セクハラだとは、誰も気付かない。気に留める者も、皆無である。
「佐伯課長、説教は、程々に。今の子は、直ぐに辞めちゃいますよ?」
「説教の内容を、他人に聞かせる趣味は、ないんでな。それに、語弊があるぞ。愛のある指導だ、説教ではない」
部下の諫言に、自分を省みず、堂々と、谷口文子を連れ出した。
給湯室の死角に入ると、周囲の気配に注意しながらも、強引に接吻したり、胸を触るのが、佐伯頼宗なりの快楽なのだ。初めのうちは、頑なに、抵抗していた谷口も、繰り返される行為に、諦めてしまった。今では、仕方なく受け入れて、早く終われと我慢している。
給湯室の湿気と、谷口の体臭が、佐伯の脳を魅了して、理性を飛ばす。
(…昼ご飯、食べたら、歯ぐらい磨け。口臭がきついんだよ)
「佐伯課長、いい加減、止めてくれませんか?セクハラだと、人事部に訴えますよ」
谷口は、毅然とした態度で、逃げようとするが、佐伯は、全くお構いなしだ。
「訴えられるもんなら、やってみろ。谷口文子は、『出張型風俗店で、本番しています』って、言い触らすだけだから。…なぁ、そんなことより、そろそろ、あっちの相手を、してくれよ?避妊は、勿論、するからさ?」
(こんな、下衆に、出勤を見られるなんて。あの晩、接客順序が、変わらなければ、絶対に上手くいっていたのに…)
谷口文子は、広島県から上京し、三次試験を経て、日本有数の企業である、大日本帝国印刷(株)に入社。
社内では、花形と称される、営業第三課に配属され、女性長期賃金労働者として、日々の業務をこなしている。
同年代では、稼ぐ方だと思うが、裕福な家庭の出ではないため、給料の半分は、実家に仕送りをし、残りの生活費を稼ぐために、三ヶ月ほど前から、やむを得ず、夜の世界に、足を踏み入れた。
本社がある港区は避け、新宿区や豊島区で、日銭を稼ぐうち、たまたま、営業の外回りで来ていた、佐伯に目撃されたのは、二ヶ月前の金曜日であった。
遭遇した瞬間、谷口は絶望を、佐伯は、今世紀最大の、好機を得たのである。
この日を境に、二人の関係は、上司と部下ではなく、強請る側と、強請られる側になっていく。
毎日、給湯室に呼ばれては、凌辱される谷口の心は、徐々に、荒んでいく。
(…誰か、助けて)
そんな、谷口の気持ちを、佐伯は知ろうともせず、お構いなしに、身体を弄び、恍惚とした表情で、谷口の髪を撫でる。
「すっきりしたから、戻って良いぞ。明日も、よろしく」
(………)
谷口は、スカートに付着した、佐伯の体液を、シンクの雑巾で、何度も拭い、雑巾を水洗いしながら、静かに泣いた。
(……早く、帰りたい)
~ 警視庁 板橋警察署 所管の交番 ~
エスカレートしていく佐伯の行為に、谷口文子は、意を決して、最寄りの交番に、相談した。谷口は、美人である。相談を受けた警察官の側に、他の警察官も、興味津々の様子で加わる。
谷口は、上司の佐伯と、街中で遭遇してから、日々、繰り返される行為を、涙ながら訴えた。
「…なるほど、それは、身を切られる思いですね」
「はい、そうなんです、大変なんです!何とか、上司の佐伯を、逮捕して欲しいんです!!」
(………)
警察官たちは、少し、戸惑いの表情で、谷口に説明する。
「えーと、谷口さん。事情は分かりますが、いきなり逮捕と言われても、…その、……ね?」
(------!)
谷口は、瞬時に、噛みついた。
「何故ですか、一般都民が、こんなにも、苦しんでいるんです。納得、出来ません!」
「まぁ、聞いてください。その佐伯っていう、男の行為が、本当のことだとしても、まだ、事情を伺っている段階で、民事のレベルなんです。民事不介入といって、警察組織は、民事間のトラブルは、捜査する訳には、いかないんです。言葉が汚いですが、あなたが、強姦や拉致など、実質的被害を受けて、被害届を出せば、別ですがね」
(------!)
「じゃあ、被害届を出せば、捜査してくれますか?今すぐ、書きます!」
(困ったぞ。美人だが、賢くはないな)
「ちょっと、待ってください、谷口さん。出勤しているところを見られて、脅されて、身体を触れられただけでは、被害届の受理は、出来ません。失礼ですが、谷口さんは、自分の意思で、身体を売って、稼いでいる。所謂、副業です。それを、見られてしまったのは、谷口さんの落ち度であり、警察組織が、介入する訳には、いきません。話を伺う限り、谷口さんの会社は、一流企業だ。一流企業なら、コンプライアンス室があるでしょうから、相談しては、如何ですか?」
「副業が、会社に知られたら、解雇です。それが出来ないから、恥を忍んで、交番に来たんです」
「そう言われてもね」
(………)
「分かりました。結局、警察は、事件が起きなきゃ、何もしてくれない」
「警察組織も、力になりたいんですが。……そうだ!区の無料相談室を、紹介しますよ。そこでなら、民事事由の相談を、受けてくれますよ」
「…もう、結構です」
谷口は、二人を見限ると、交番を後にする。
(風俗嬢をしたくて、している訳じゃない。食うために、しただけなのに。副業は、確かに、就業違反だけど、それを、警察官に責められたくはない)
~ 九月二十日。東京都文京区の一室 ~
今日も、佐伯によって、凌辱された谷口は、六畳一間のボロアパートで、失意の中、遅めの夕食をとっている。
都会の、洒落た部屋には、程遠いが、上京した谷口からしてみれば、十分過ぎる、癒しの空間である。
「……コン、コン」
(誰かしら、こんな時間に?)
居留守をしていると、声が聞こえた。
「谷口さん、不在ですか?お届けものです」
(宅急便?……きっと、田舎からだわ!)
「すみません、ちょっと、バタバタし……」
(------!)
谷口の思考が、完全に停止した。
目の前に、今、この世で、最も会いたくない男が、不気味な笑みを浮かべ、立っている。
瞬時に、全身の血が、沸き立つ。
咄嗟に、ドアを閉めようとするが、男のつま先が、それを拒んだ。
「…ドアは、丁寧に扱うもんだ。せっかく、訪問してやったのに」
(------!)
「けっ、警察を呼びますよ。それとも、大声を出すわよ」
(………)
佐伯は、怯まない。
「あれ?そんなことを、言って良いの?田舎の母ちゃんに、『お宅のお嬢さんは、風俗店で、身体売ってまーす』って、教えてやろうか?それとも、全社員に、一斉メールで、風俗誌に掲載している姿を、配信しようかな。……まあ、部屋に入れてくれたら、考えても良いけどね」
この言葉で、トドメを刺された。
全身の力が抜けた谷口は、抵抗することを、諦めた。
ドアが完全に開くと、そのまま、唇を吸われ、その場に、押し倒される。
(もう、何も感じない)
無気力となった、谷口の身体を、佐伯は、己の欲望のまま、弄ぶ。
長い悪夢の、始まりであった。
(………)
(………)
(………)
暗闇の中、谷口は、天井のシミを数え、事が終わるのを、ひたすら待つ。
時計の秒針音だけが、聞こえる。
(どうして、自分は、女なんかに、生まれてきたのか?)
そんなことを、考えていると、やがて、外が白み始めた。
人の足音が聞こえる頃、やっと、身体の揺れが収まった。
「もう、こんな時間か。じゃあ、俺は、一旦戻る。手作り弁当で良いから、作ってこい。屋上で、一緒に食べてやろう。遅刻するんじゃないぞ」
(………)
静寂の中、一人、泣き崩れる。
世界で、唯一の居場所は、無慈悲に奪われ、残ったものは、明確な殺意である。
(……殺すしかない)