1話 日常に飛び込んだ非日常
その景色を憶えている。
黄金に輝く長い髪を、緋色に灯る瞳を、水平線に沈む真っ赤な太陽を、憶えている。
目の前に映る女性は、儚げに微笑んで、私の顔へ手を伸ばし、優しくなぞるように頬を撫ぜる。
「────」
何かを告げるように唇が動く。
声が音となって聞こえてこないのは、忘れてしまったからなのだろう。
やがて、すべてを紡ぎ終わり、彼女は海へと目を向ける。
砂浜の上を二歩、三歩と歩いてから、こちらへ振り向いて、言葉を紡ぐ。
やはり音となって聞こえてこないが、唇の動きから何と言ったのかは分かった。
───分かってしまった。
さ よ う な ら
光が彼女の身体を覆い尽くし、徐々に輪郭がおぼろげになっていく。
私は立ち尽くして、ただ見守ることしか出来なかった。
足が消え、腕が消え、胴が消えて。
彼女は微笑みを浮かべたまま、消えてしまった。
この世に何も残さず、私に祝福という名の呪いを託して。
彼女が消え去って、世界は崩れ落ちていく。
これは夢。かつて私が体験した過去の夢。
目醒めの時間が間も無くやってくる。
世界が消える直前、彼女の名は何というかを思い出そうとしたが、結局思い出せず、崩れ落ちる世界に飲み込まれて視界が暗転した───。
ーーーーーー
窓から差し込む日差しに鬱陶しさを感じながら目を開ける。
視界に映るのは開かれた本と朝の日差しを浴びて夜露が煌めく森の木々だった。
身体を起こし、両手を上に、伸びをする。
自分の部屋ではなく、リビングのソファーで寝てしまったようだ。
遠い昔の記憶を夢に見ていたような気がしたが、内容は思い出せなかった。
何とも言えない虚しさを感じながら読みかけの本に栞を挟み、水場で顔を洗い、キッチンへと向かう。
同居人たちは昨日から出掛けていったので、朝食は自分の分だけ用意する。
今日はパンとオニオンスープと卵焼きだ。
「いただきます」
食前の挨拶をしてから黙々と食べる。
今日は何をして過ごそうか……。
スープをすくったスプーンに口をつけようとした時、森から違和感を感じた。
生命を拒絶する結界の貼られた森がやけにざわついている。
ここ二百年、この森に入る者はいなかった。
入ろうとして結界に殺される者が相次いだ為、普通の人間はまず近寄らないし、近寄ってしまったら引き返す。
「まさか結界を抜けて来たのか……? こんな人里から離れた曰く付きの森に何の用があるのやら」
スプーンを戻し、立ち上がる。
せっかく作ったスープが冷めてしまうのは残念だが、何があったのか確かめにいかなければ。
太陽を遮るようにそびえ立つ木々の背は高く、森の中はいつも薄暗いのだが、長いことこの森に住んでいる自分にとって、森の中は庭も同然だ。
違和感を伝えてくる場所へは直ぐにたどり着いた。
「────」
思いがけない光景に言葉が出てこなかった。
金色に輝く髪を血で赤く染め、身体中も赤く染めた少女が倒れていたのだ。
直ぐに駆け寄って身体を確認すると、少女は頭部や腕部、腹部、脚部を裂かれて出血多量で衰弱していて、いつ死んでもおかしくない状態だった。
「呼吸は、まだある。間に合うか……?」
少女の呼吸を確認し、傷口に触れるか触れないかの距離で手を翳す。
自身の身体にある、本来ただの人には存在しない器官、『魔術器官』を励起し、少女に治癒魔術をかける。
癒しの指向性を持った魔力が傷口を塞ぎ、出血は止まった。
しかし血を失い過ぎた少女は予断を許さない状況だった。
「先ずは安静に出来る場所へ連れていかなければ。造血能力を高めてはみるが、体力が減り過ぎている……。助かる見込みは五分もないといったところか」
少女を抱き上げ、来た方向を急いで戻る。
身体中の血液を大量に失い軽くなった身体は、今にも崩折れそうで、儚かった。
肩に届かないくらいの髪の隙間からは、通常の人種には無い、長い耳が覗いていた。
ーーーーーー
少女をベッドへと寝かし、治療を施し、血で染まった身体を拭き清め、血に塗れた衣服を着替えさせる。
施せる処置は終わったが、あとは少女次第だ。
もし無事に目を覚ましたのならば、緊急とはいえ裸を見てしまったことを詫びよう。
直ぐには目を覚まさないだろう少女をそのままに、少女が倒れていた場所まで戻る。
血の痕跡を辿っていくと、森の外へと続いていた。
森の外周部では、野盗と思しき粗野な見目の男たちの死体が五つあった。
「これはあの娘がやったのか……? 一人が心臓を一突き、一人が喉を切断、一人が首を落とされて、残りの二人が……」
死体の中で一際損壊の酷いモノを見る。
「なるほど。結界に触れたのか。不浄を厭う森に嫌われたな」
手足が捻じ切れ、割り開かれた腹から臓物を撒き散らす野盗の死体を見てそう結論付けた。
「しかし、生者であれば本能的に忌避する結界を進んでくるなんてね……。いや、もしかしたら死に近付き過ぎて効果が無かったのか。私が見つけた時点で、生きているのが不思議なくらいの重症だったからな」
状況はおおよそ理解出来た。
結界にも不備は見当たらない。
野盗の死体は先程からこちらを伺っている魔獣が食べるだろう。
「詳細はあの娘が目を覚ましてから、か。しかも森精種の中でも希少な純森精種だなんて」
ただでさえ他種との関わりを避ける者たちの中で希少な種だ。
森精種の知り合いはいるが、大なり小なり厄介ごとは避けられないだろう。
自身の住処へと戻る足取りは、今後のことを考えるたびに重くなっていくのだった。