163話 鬼人の少女
ナナリーたちと会談した翌日の早朝。ホシミの影分身が大渓谷へ向けて荒れている道無き道を進んでいると、目の前から誰かが走ってくるのが見えた。走っている人物はホシミの存在に気がつくと、すぐ傍までやってきて速度を落とす。
褐色の肌、黒い髪、真紅の瞳。そして極め付けは額にある二本の角。彼女が鬼人であることは一目瞭然だった。背丈は百六十より少し高いくらいだが胸の大きさはリアに匹敵するほどだった。
息を整えている鬼人を観察しながら様子を伺っていると、目の前の娘から「ぐるる~きゅー」という大きな音が聞こえてきた。
「ねえねえ。何か食べるものとかないかな? ボクおなかすいちゃった」
「はあ……。別に構わんがな……」
警戒心を微塵も持たずに自分の腹部をさすりながら尋ねてくる娘の姿にため息を吐いたホシミは、何かあった時のために持ってきた食糧を手渡した。
「それで、こんな所に一人でどうした?」
ホシミから提供された食糧をガツガツとかき込むように食べる娘に話しかける。すると鬼人の娘は口に詰まった食べ物をきちんと飲み込んでから話しだした。
「おかあとね、喧嘩したんだ。だから逃げてきたんだけど……、おかあったらボクが毎度何かやらかすと思ってるし、しかも逃げるボクに向けて熊くらいある大岩投げ飛ばしてくるんだよ!? あーもー、だから魔獣と殴り合うような脳筋は困るよね!」
ぷんすか、という音が聞こえてきそうなほど怒りながらも、食べ物に伸びる手は止まらない。
「あ、これおいしいー! 作った人は料理上手なんだね!」
一口食べて破顔して、飲み込んでからまた怒って。誰が見ても忙しない娘であるのは一目瞭然だった。
やがて出された食糧を綺麗に食べ切ると、大きく息を吐いて露出した腹部を撫でる。
「ふー、ごちそうさま。ごはんおいしかったよ、ありがとう!」
「それは良かった。満腹になったのなら親御のところへ帰るといい。心配していることだろう」
「おかあがボクの心配なんかするもんか。それより……」
鬼人の娘の視線はホシミが持つ剣に向けられる。数秒ほどじっと眺めると、にやりとした笑みを浮かべた。
「キミって腕が立つよね。立ち居振る舞いに隙がないし、ボクの勘がそう言ってる。食後の運動ってことでさ、ボクと死合わない?」
「拒否権は?」
「敵前逃亡は背中から斬られても文句言えないかな」
笑顔で言っているが、要するに無いということだ。こちらの事情など一切無視するのは鬼人としては珍しくないのだが。
彼ら───いや、鬼人の男は然程強くないので彼女らか。彼女らは基本的に他種族との交流がないので自分たちの常識・法だけで他者と相対する。
鬼人の法とは『強者に従う』ことである。つまり───どちらが強いかハッキリさせないことには関係性が作れないのだ。
「こんな事になるだろうと予測していたが、どうせなら無視するべきだったか」
ホシミがやる気を出したことに気付いた鬼人の娘は喜び口角を吊り上げる。
「無視されたらずっと付きまとってたかもよー? でも良かった、ごはんをくれた人を後ろから斬ることにならなくて」
短めの金属の棒を取り出した鬼人の娘は、手首をしならせる。内側に収納される仕掛けがあったのだろう、一瞬で棒は伸び、背丈の倍はあろうかという長槍へと姿を変えていた。
「仕込み槍か」
ホシミも剣を抜いて構える。
「そうだ忘れてた。ボクはサリア。キミの名前は?」
「ホシミという」
先程までの緩い空気は何処かへと吹き飛び、既に殺気の飛び交う戦場の空気へと変わっている。今話しかけたところでサリアは決着が着くまで乗ってこないだろう。互いに構えて僅かな時間ののち、一陣の風が吹いた。
「……シッ!」
サリアの一撃は疾かった。
一歩を踏み出した時には既にホシミの横から薙ぎ払いを繰り出していた。
しかしホシミはその一撃を一瞥もせずに受け止めていた。力が均衡し鍔迫り合いの様相を見せるがサリアは迷わず退いた。
「ふぅん。今の止めるんだ」
驚愕、怒り、興味、様々入り混じった表情を浮かべたのも一瞬。
「ふっ……ふふふ。あっはは……あはははははははは!!!!」
大きな声で大笑し、更に速度を上げて槍を振るってきた。
正面からの斬り、払い、薙ぎ、突き。無駄な動きはなく、攻撃が次の攻撃の予備動作となって更に続く。
しかしどの攻撃もホシミにはいなされ躱され届かない。
「すごい、すごいすごいすごい!!! おかあ以外でボクの攻撃を受けられる人初めて見た!!!」
槍の石突を地面に突き刺し遠心力を利用して蹴りを放つサリア。ホシミの腹部に突き刺さるがそのまま勢いを乗せて飛び退く。
全体重に遠心力も乗った重い一撃だった筈なのにホシミがよろめく様子も息を吐き出す様子もないことに、サリアは更に昂ぶっていった。
「ほらほらほら、受け身でばっかりいると突き殺しちゃうよ!!!」
一層激しくなるサリアの攻め。強者と相見えた興奮で猛るサリアは、ホシミがあまり反撃を繰り出さず受けて流すだけなのに気付かなかった。
「ここだ」
サリアが未熟であるのも理由の一つであろう。己が母親以外に強者と戦ったことがないという経験不足もあるだろう。サリアはホシミが観察していることに気付いていなかった。
サリアは優秀な戦士だ。彼女の実力があれば戦場で数多の首級をあげることは容易い。己が武威を示し、英雄として祭り上げられるのもすぐだろう。
だがここは戦場ではなく、相手は雑兵でもなく、戦士でもない。不老不死となり、記録する為に人と世を眺める、ただ人より長く生きているだけの魔術師だった。
「………え?」
思わず漏れた、本人にとっても意図しない出来事であったのはサリアの表情で理解った。
既にサリアの手には槍は無く、宙を回転しながら飛び、ホシミの背後───地面に突き立った。
いったい何が起きたのか。状況を把握しようと視線を彷徨わせているサリアを余所に、ホシミは剣を仕舞う。
「私の勝ちだ」
その声が聞こえたのかどうか。サリアは暫く固まったまま動くことが出来なかった。
「ボクの負けかあ……」
ようやく立ち直ったサリアは、開口一番、空を見上げて寝転がった。
「ねえねえ、最後どうやったの?」
寝転んだまま、ホシミに問うサリア。彼女は最後に何が起きたのか理解していなかった。
「君が突きを放ち身体が伸び切った刹那を狙って武器を弾いた。普通なら達人の領域にある君の一突きを弾き飛ばすなんて芸当は不可能だ。だから普通ではない手段を用いた」
「キミが一瞬消えたように見えたのはそれが原因?」
「そうだ。君が攻撃を仕掛けたあの刹那、私は自分の身体を加速させた。黒属性の魔術でな。消えたように見えたのは認識するより速く君の死角に私が動いたからに他ならない」
そして身体が伸びた一瞬を狙って全力の一撃を叩き込んだのだ。
「君は強力な力を持っている。魔術の補助なしであの戦闘が出来るのだからな」
潜在的な能力も含めれば、クルルには及ばずとも手が届くかもしれない。それ程までに彼女の───サリアの実力は高かった。
「そっか。あーあ、おかあに言われてたのになー。戦闘中に魔術を使う相手もいるって」
全てが腑に落ちたのだろう、一度目を閉じてため息を吐いてからサリアはゆっくりと起き上がった。
「卑怯者の誹りは甘んじて受けるが?」
「そんなこと言う訳ないじゃん。魔術もまた力、ただ武器を振るうだけが実力じゃないってボクだってわかってるよ。脳筋ゴリラのおかあじゃないんだしさ」
当人に聞かれたらぶっ飛ばされそうなことをしたり顔で口にしつつ、サリアはホシミの前で両膝をつく。
「男に負けた女は倒した男の物。だからボクのことはキミの好きにしていいよ。あ、要らなかったら殺してね。自分を倒した相手の物にもなれない女に生きる価値はないから」
さも当然とばかりにホシミに言い募るサリア。彼女の瞳は、既にこのまま死ぬことすら許容していた。
「……」
これが鬼人の常識なのだ。ホシミが何を言ったところで、サリアが納得することはない。他のヒトとは完全に考え方が異なるのだ、相互理解などという甘ったれた言葉は鬼人には通じない。鬼人は絶対に『敗者は勝者の物』という考え方を辞めることはないのだから。
「私は君が来た方角にいる鬼人の一団がこれより先の国に来られると困るのでここまで来た。サリア、君のお仲間を帰す方法はあるか?」
「そうなの? うーん、おかあをぶっ飛ばせばほかの子は潔く諦めて帰ると思うけど。あ、でもそれをキミがやっちゃうと……」
「そう、今のサリアのようになってしまう。だからサリア、君が私の物となるのなら、私の為に鬼人たちを追い払ってほしい」
「うんいいよ。そっかぁ、おかあと全力で死合えるんだ……。ふふふっ、いいねいいね、キミと会えてボク本当に良かったよ!!」
即答したサリアはそう言って笑みを浮かべる。彼女は気付いていないがその笑みは禍々しいものだった。
「キミが他の男に負けるまではボクはキミの物だよ。それまではこの身体、好きに使ってね」
こうしてホシミは鬼人の娘、サリアを手に入れることとなった。二人はともに鬼人たちが留まる渓谷へと向かう。
……その様子を、本体は影分身から見続けている。