145話 ソンとの戦い〜其の肆〜
「そろそろ動くな」
手慰みに折っていた鶴を風に乗せてからずっと上空でソンの船団を見てきた。今夜は新月だったが暗視が使えるので遠目からでもはっきりと様子が窺える。相手はまさか見られているとは思っていないだろう。
ソン兵の前では緑系統の魔術しか使用していないので、きっと今頃は勘違いしてくれている筈だ。
そも、六色全ての魔術を扱える人間というのがおかしいのである。理を無視した人間がいるなんて、普通思い至ることはないのだから。
「四天王の誰かが指揮を執っているのは間違いないな。ふむ、乗っているのは先頭か殿か中央か」
船団を動かしている頭の位置を予測しながら、船が動き出すのを待つ。
いつもはクルルが側にいるので、一人で待つ時間はとても退屈だった。
「クルルは今頃何をしているのだろうな」
船団から目を離さないようにしつつソンの本陣に目を向けながらホシミは一人呟くのだった。
ーーーーーー
ホシミが上空で船団が動き出すのを待っているのと同時刻。
ソン本陣で、それは起こった。
「ねえヤスケ……。わたしなんかの護衛をしてていいの?」
アヤメはやや恐る恐るといった具合でヤスケに声をかけるが、ヤスケは短く「ああ」と答えるだけで終わった。
既にこのやり取りは今日一日で何度も繰り返されたものだ。
昼間、シゲンとバンドウの二人がたった一人を相手に苦戦しているとの報告が入った時が最初だったか。だがヤスケは頑としてアヤメの側を離れることはなかった。
「ヤスケは何を心配しているの……?」
シゲンとバンドウが苦戦した相手が前線にいる以上、前線から離れた本陣に実力者を遊ばせている余裕は無いのだ。
そんなアヤメの気持ちが伝わったのか、ヤスケは腕を組んで瞑目して話し出す。
「お前を一人にしたら間違いなく殺られるんだよ。前線には龍人、そして船を沈めたのは恐らく魔術師だ。だが黒猫はどこに行った? 俺がマヌで相対したのは三人組だ。龍人と魔術師は判明してるが、ほら、一人足りねーだろ」
「あなたは黒猫がこんな敵陣の只中に来るって言うの?」
「そーだ。アレは……普通じゃねえ。正真正銘の化け物だ、一目見てすぐに分かった。その化け物がソンに憎悪の感情を抱いているってんだから、何をするかなんてガキでも理解出来んだろ」
「わたしを……殺すのね」
「若しくは、生かして捕らえて拷問でもするか……。ま、どっちにしろロクな結末じゃねーよ。それにな」
ヤスケは瞑目していた眼を開き、不安げな表情を浮かべているアヤメの額を軽く指で弾く。
「オメーが大将だろ。大将がやられたら戦は負けなんだよ。分かったら大人しくしてろこの馬鹿」
「……ヤスケの方が馬鹿じゃない。このばーかばーか」
デコピンされた額を押さえながら子どもみたいな罵倒をする幼馴染みに呆れながら、ヤスケは腰に佩いた剣に手を伸ばした。
「ったく、ガキみてーなこと言ってんじゃねーよ。───来たぞ」
「え?」
ヤスケは振り返って剣を引き抜くと同時に飛来物を弾く。飛来物は軌道を反らされて地面に突き刺さる。
それは、刃を火で炙り闇夜に馴染むように手を加えられた暗殺用の短剣だった。
呆けた顔で短剣を見て、短剣を弾いたヤスケを見て、アヤメは今、殺されかけたという事実を認識した。
「……ヤスケ」
震えているアヤメを守るように背に庇って周囲を確認してから、アヤメに声をかけた。
「落ち着け。もう居ない。今のはわざと殺気を纏って攻撃してきたみてーだな。嫌がらせかよ……」
「本当に……本陣の中に敵がいるのね……。衛兵を呼んで探して───」
「無駄だ、やめとけ」
ヤスケはアヤメの言葉を遮って、
「どうせ見つからねーよ。既に此処まで誰にも見つかることなく忍び込んでるんだぜ?」
と言ってから大きく息を吐いた。
ずっと気を張って過ごしていたので、少し気疲れしてしまったのだ。
今回は様子見のようだが、すぐに次の攻撃が来ないことでようやく一息つける状況になったヤスケは、ほんの少しだけ気が楽になった。
「ま、これで狙われてることは分かったろ。今後なるべく人は近付けねー方がいいぜ」
「接触する人間は最小限にってことね……。ええ、分かったわ。ひとまず、四天王以外との接触は控えるようにするわ」
「そうして貰えると守りやすくて助かるぜ」
そう言って苦笑するヤスケだったが、余裕があるように装っているだけで実際はかなり切羽詰まっていた。
もし黒猫が本気でアヤメを狙いに来たら、先のように止めることは出来ないだろう、と。
だから自分に出来るのは、命を賭して大将を逃がすことなのだ。
時間さえ稼げれば、近衛と共に戦場から離脱させられる。それこそが為すべきことなのだと。
以前、力の差をまざまざと見せつけられた時から、血の滲むような鍛錬を重ねてきた。その成果を見せる時はまだ先だが。
「(せめてアヤメだけは逃がしてやらねーとな……)」
ヤスケはアヤメに気付かれないように拳を握る力を強め、決意を新たにするのだった。
ーーーーーー
「今だ、船を動かせぇい!!」
ヒコノシンの号令の後に、船団が音もなく河を下っていく。船の数は十八隻。北の大河に九、南の大河に九だ。
東から西へと流れる大河は、元ユサの領地からラナの領地を通って、現サクまで流れてから海に流れている。
その為にラナの船への警戒度は非常に高かった。敵の大軍をいとも簡単に懐に入れてしまう道があるのだ。警戒するのも当然と言える。
昼間は偵察に出した船が高位の魔術師によってあっさりと沈められてしまったが、きっと一切の灯りがない夜に船を動かすなんて馬鹿なことは仕出かさないと思っていることだろう。
本来ならばヒコノシンとて、このような味方が大きな危険を冒す戦略は立てたくなかった。
しかし、陸の戦況は数で勝ってはいるもののたった一人の龍人に戦線をボロボロにされる始末。
かといって陸が駄目なら河を行けば良いという話でもない。普通に河を下れば魔術師に狙い撃ちにされ、貴重な船を沈められるという二重苦だった。
だからこそ。危険は百も承知で夜の闇を進むのだ。
「頼む……見つかってくれるなよ……」
ことここに至ってはもはや祈ることしか出来ない己の無力さに歯噛みしながら、それでも祈る。
音を立てないように進んでいるせいで速度は遅かったが、長い時間をかけてようやく目標となる陸地にたどり着いたのだった。
陸地に降り、隊列を揃えて夜襲の準備を整える。
ヒコノシンが乗っているのは北の大河の船団だったが、船は全隻無事のようで、やはり自分の目論見は間違っていなかったのだと、そう思った。
剣を抜いて、立ち塞がるように目の前に立つ一人の男の姿を見るまでは。
「闇夜の強行軍、ご苦労だった。だが残念だ。ここから先は通行止めでな。進みたくば、私を殺してからにすると良い」
灰髮に黒いローブを纏い、かつて相対した時に空を飛んでいたあの魔術師が。
昼間、船を二隻とも軽く沈めてみせたあの男が、目の前に立ち塞がっていたのだ。
剣を軽く振るい、感触を確かめながら男は更に言葉を続ける。
「ちなみに南の船団は既に壊滅済みだ。さて、お前たちはどう出る?」
その口から出た言葉は、到底受け入れられないような、深い絶望を叩きつけるものだった。