117話 敗北
合成獣がとうとうホシミの側までやってきてしまった。これから始まる捕食に期待を寄せているのが唾液を垂れ流している口元を見てわかる。
そっと目を遠くの二人に向けると、二人は未だその場に留まっていた。ホシミは辛うじて動く左手を動かし、人差し指で彼らが来た道を指し示す。
それを見て二人が息を飲んだのがこちらまで伝わってきた。しかしヴァンはすぐに理解してクルルの肩に手をかける。
「おい……一旦退くぞ」
「…………私、は」
「あいつが自分の身を犠牲にしてまで逃げる時間を確保してくれるって言うんだ。お前はあいつの従者なんだろう? 主人を無駄死にさせたいのか?」
クルルは歯が折れそうなくらい強く噛み締めながら、小さく首を横に振る。
ヴァンはその様子を見て、「ならやるべきことはわかるな」と声をかけた。
合成獣は余裕があるのかホシミとクルルたちのやり取りを待ってくれていたように見える。獲物の最期の悪足掻きを愉しんでいるのだろうか。
熊の腕がホシミの首を掴んで持ち上げるのと同時に、クルルとヴァンはその場から離脱する為に駆け出した。合成獣はそれを横目で確認するが、追おうとはしない。
本当にふざけた生き物だ。何故こんなモノを創り出してしまったのか。しかも創造者は既に殺されているというのだから笑えない。
身体が熊の頭部と同じ高さまで持ち上げられてしまった。合成獣は大口を開き犬歯を見せつけて───。
「ぐッ……!? ガァアアアァァァァアアッッ!!!!」
身に付けていた防具ごと、腹部を噛みちぎった。
『GUARRRRRRRR!!!??』
ホシミと合成獣の悲鳴はほぼ同時だった。ホシミは腹の肉を食い破られたことによる激痛が原因だが、合成獣は何故悲鳴をあげたのだろうか?
『GUU……』
合成獣の口元を良く見てみると、口腔内が血塗れになっていた。ホシミの腹を食い破ったのだから彼の血液だと思うだろう。
それは半分だけ正解である。
何故なら……。立派な犬歯とその周辺の歯は全て何らかの衝撃によってへし折られ、合成獣の歯茎から出血していたのだ。
ホシミは自身が合成獣に喰われるだろうことを吹き飛ばされたあの時点で既に予期していた。
己もあの死体の仲間入りか……と思った時に浮かんできたのは、内臓が無くなっていた死体の姿だった。
何故内臓だけ喰われたのだろうか。考えられるのはこの合成獣は内臓が好物で、だからこそ真っ先に内臓を喰らったという線。つまりこの合成獣は大層な偏食家なのだろうと当たりをつけた。
その予感は見事的中し、ホシミの目論見通りに腹部を食い破ったのだ。その行動を誘われているとも知らずに。
ホシミが合成獣に放ったのは、何かしらの魔術ではない。
彼は、自らの魔術の鍛錬のために防具に魔力を注ぎ込んできた。その注いできた魔力を、合成獣が噛み付いた瞬間に無差別に解き放ったのである。
結果、自分にもダメージが向かう代わりに合成獣の口腔内でも強い衝撃が発生し鋭利な牙を根こそぎ奪い去ったのだ。
表面上は牙だけが負傷しているように見えるが、食道を通じて内臓も傷付けられた合成獣は堪らずに悲鳴をあげた。
それが先の出来事である。
クルルとヴァンは既に離脱したようだが、二人がより安全圏まで逃げられるようになるべく時間を稼がなければならない。
ホシミは痛む身体を無理矢理動かして、己を掴んでいる熊手から辛うじて逃れた。
そして腹部に治癒を施しながら、剣を熊の上半身と馬の下半身の接合部に突き立てる為に腕を前に伸ばした。
『GARRRRRAAAAAAA!!!!』
しかし力の入らない一撃は合成獣を浅く傷付けるだけに留まり、逆に攻撃された合成獣は怒り狂った。
窮鼠猫を噛む、とは言うが。まさか追い詰めていた筈の獲物に反撃されるとは思わなかったのだろう。油断していたからそうなったのだが、所詮は本能で生きる獣でしかない。そこまで回る頭が無かったのが原因だ。
「ごほっ……がほっ」
圧迫されていたせいで詰まっていた息を吐き出して反射的に呼吸を整えるホシミだが、合成獣の怒りは頂点に達している。
ホシミの頭の中の冷静な部分が、自身の負傷と相手の負傷を分析して、この場を生還することは不可能であると結論を出していた。
牙を失った合成獣は未だ動けないホシミを再度掴み上げ───。
『GAAAAAAAAAAA!!!!!!』
振り回して何度も何度も地面に叩きつけるのだった。
その一撃は地面を陥没させるほど強力で。先の攻防で胴の防具を食い破られていたホシミに防ぐ術は無かった。
彼にとって幸運だったのは。最初の一撃で首と脊骨を叩き折られて心臓に突き刺さり即死していた為に苦痛を感じる時間が短かったことだった。
こうしてホシミは、今生で二度目の死を迎えた。
どれほどの時間が経過したのだろうか。原型を留めないほどに破壊されたホシミに飽きた合成獣は、こぼれ出た内臓を喰らおうとして己の歯が無いことに気付き、落胆してその場から離れていった。
ホシミによって内臓を少し傷付けられていたせいか僅かに歩みは重かったが、それでも寝床へと帰って行く。
後に残されたのは、新たな死体と化したホシミだけだった。
ーーーーーー
クルルとヴァンは、命からがらあの場から離脱してきた。そして、一度夜営をしていた洞窟まで戻ってきたのだ。
残されたホシミがどうなるのか、どうなったのかは想像に難くない。アレは正面から戦うには相手が悪すぎた。
「はぁ……はぁ……」
「……ふぅ」
ヴァンは大の字でうつ伏せに倒れ、疲れた身体を休ませている。クルルはへたり込むように座り、戻ってきた道をずっと凝視していた。
息を整えたヴァンは、クルルに対して何と声をかければ良いか分からなかった。
横目でクルルの後ろ姿を見るが、元々小柄な少女が更に小さく見えてしまった。まだ会って二、三日しか経っていないが、この娘が従者としてではなく一人の女として彼を愛していることはすぐにわかった。
だからこそ、愛する人を見捨てて逃げる羽目になってしまった彼女にどう声をかければ良いのか分からないのだ。
対してクルルは、戻ってきた道を眺めてはいたもののその瞳は死んでいなかった。
長い間……それこそ短命種の一生と同じくらいの時間を共に過ごしてきたのだ。その中でホシミが死んだのはクルルがやった一回のみ。
彼を殺めてしまった罪悪感から、ずっと彼の身を守ってきた。彼はそれが分かっていたから、クルルの心を守る為にずっと守られてきた。
その中で、彼も全くの無傷という訳にはいかなかった。何度も怪我をしているが、彼の身体は治癒魔術を使用していないにも関わらず驚異的な速さで自然治癒するのだ。
無事で済むとは到底思えないが……最初に見た、死すら超越する自然治癒で復活する。そう思っている。
だからクルルが考えているのは先のことだ。
無茶をしたことと悲しませたことの罰としていっぱい愛してもらうのは既に彼女の中では確定事項だが、その前にあの厄介な合成獣を倒さなければならない。
今回の敗北は、遭遇のタイミングが悪かったことと、敵が大熊の魔獣ではなく合成獣だったことを知らなかったのが原因だ。
しかし、既に相手の正体は判明した。ならば作戦も立てられる。でも、それは最愛の主人が戻ってからにしよう。
そう考えたクルルはゆっくりと立ち上がりヴァンの方へ振り向いた。
「もう少ししたら日が沈みます、夜営の準備をしましょう…にゃ」
「それは構わねえけど……嬢ちゃんは大丈夫なのか?」
何が、とは言わないヴァンの優しさに感謝しつつクルルは頷いた。
「ええ。私はもう大丈夫です…にゃ。だって」
───きっと主は生きているから。
最後の声は誰にも届かず、山の中に溶けていった。