116話 大熊退治〜其の弐〜
夜の山は静かである。
焚き火の音以外は、そよ風で葉が揺れる音と虫の鳴き声くらいしか聞こえない。
昼間遭遇した熊のような生き物の気配も感じない。基本的に、夜は生物にとって休息の時間なのだから当然ではあるが。
私は一人、寝ずの番をしていた。洞窟の奥では、ヴァンが大の字でいびきをかきながら眠っており、クルルは私の隣で横になって眠っている。
最初はヴァンも「一人に任せるのは悪い」と言ったが、クルルとの二人旅のときもずっと夜は起きていること、私の場合は眠らなくても自身の能力が低下しないことを何とか説得して休んでもらった。
ヴァンは半信半疑だったが、「そういう魔術もある」と言って無理矢理納得させたのだ。
二人が就寝してそろそろ二時間は経っただろうか。寝ずの番は暇である。枯れ枝を炎の中にくべるだけしかやることがない。
今度せっかくだから何か無聊を慰める趣味でも始めてみようかと思っていた時、奥で眠っていたヴァンが身体を起こした。
「どうした? まだ朝は遠いぞ」
「ションベンだよ……。ふあ〜ぁ、ねみい……」
そう言ってヴァンは洞窟の外に出て行った。しばらくして戻ってきたヴァンは、焚き火の側ーー私とは反対側に座りこんで炎に手をかざす。手が濡れているので洗ってきたのだろう。
「なあ、眠くないのか?」
「全然。寝ようと思えば寝られるが、寝なくとも支障がない」
「それも魔術ってか。便利なモンだとは思うけど、なんか……」
ヴァンは僅かに言い淀むが、私が目で先を促すとため息を吐きながら言葉を続けた。
「なんか、人間じゃないみたいだって思った。悪ぃな。貶すつもりはないんだ」
「分かっているさ。しかし、人間じゃない、か。ふっ、言い得て妙だな」
自分の身体のことは完全には把握していないが、通常の人間からは大きく離れていることは既に理解している。
だからこそ人里から離れて暮らしていたし、同じく人間を辞めたクルルと共に過ごしているのだから。
「これでも不自由は感じていないし、ヴァンが気に病むことはない。それに、私には尽くしてくれる従者がいるからな」
そう言ってクルルの頭をそっと撫でると、ヴァンもクルルに目線を移す。
「この嬢ちゃんは、はたから見てもお前にぞっこんだからなぁ。知ってるか? 獣人が尻尾を触らせる相手って心を許した奴だけなんだぜ」
「そうだったのか。それは知らなかった」
クルルが綺麗な黒尻尾をよく腕に巻いてきたりするのは親愛表現だったのか。往来でも平気でやっていた気がするので、ほかの獣人には私が彼女のそういう相手だというのは伝わっていたのだろう。
「まあ、知らなくても問題はないだろうが、他人の尻尾にいきなり触れるのは引っ叩かれるから止めとけよ」
「分かっているさ。流石にそんな常識外れはしないとも」
「確かに、お前なら心配はなさそうだ。何かあってもその嬢ちゃんが守るだろうしな」
くくっと声を噛み殺して笑うヴァンは、ゆっくりと横になると、
「じゃあ、また寝るわ。何か起きたらすぐに叩き起こしてくれよ」
と言って私の返事も待たずに再び眠ってしまった。
すぐに眠れるのはある種の才能だろうが、身体を休めるには睡眠が一番良いのは事実だ。
彼はそれをよく知っているのだろう。
何せ彼は龍人。青年の姿をしてはいるが、私などよりも遥かに長い時を生きているだろうから───。
再び一人の時間に戻ったが、その後は何も起きず、無事に朝を迎えることになる。
洞窟で夜を明かしてから、再び山中を進む私たちは、薙ぎ倒された木々が目立つ場所までやってきていた。
「これは……」
「何かがぶつかったのでしょう…にゃ。それにしても、大木をいとも容易くへし折るなんて……」
「これをやったのはおそらく俺たちが狙ってる魔獣だろうな。最初は大熊くらい余裕だと思っていたが、この状況を見て変わった。こいつは油断したらこっちが殺られるぜ」
地面には大型の足跡が残されていたため、ヴァンの言う通り件の魔獣で間違いないだろう。しかも余程狂暴な個体のようだ。
木々を薙ぎ倒す威力を持つ魔獣に奇襲されて先手を取られれば、誰かが良くて大怪我、最悪死ぬこともあり得るだろう。
一通り調べ終えた後は、今までよりも念入りに辺りを警戒して先に進むことにした。
森の中は異常なほど静かだった。
木々のざわめきも、鳥の囀りすらも聞こえてこない。この先にいる禍々しい存在から逃れ、この場から離れていったのだろうか。
ふと、クルルが足を止めた。眉を寄せており、端整な顔立ちが悩ましげに歪む。
「……嫌な臭いがします…にゃ。これは、血? いや、腐臭?」
クルルの呟いた言葉に私とヴァンは警戒を強めた。
「クルル。この臭いを辿れるか?」
「出来なくはないですが、早くしないと鼻が麻痺してきちゃいますにゃ。この悪臭に完全に慣れてしまう前にたどり着いておきたいです…にゃ」
まだ私には感じ取れないが、クルルがそこまで言うのなら相当臭うのだろう。私はクルルに「頼む」と告げて先導をお願いする。
少し歩くと、私にも感じ取れるほどの臭いが奥から漂ってきた。と同時に、この先にあるモノの正体に思い当たり顔を顰める。
「なあホシミよ。俺は何だか嫌な予感がするぜ?」
「奇遇だな。私もだ」
同じく顔を顰めているヴァンに同意して、臭いの発生源に近づいて行く。
そして、やがて木々の隙間に出来た天然の広場に到着した。
「────」
私たちは最初、言葉が出てこなかった。
広場にあったのは、やはりと言うべきか死体である。しかし、身体の欠損が著しく、性別を特定することは出来ない。白骨が内から突き破るように垣間見え、肉は腐敗して蝿が舞い蛆が湧いていたので、死後それなりの時間が経過しているのだろう。
死体は五体。適当に集められたのか放り捨てられたように倒れており、その全てが似たような有様だった。
内臓だけは綺麗に無くなっていたので、魔獣の餌になったのだろうか。
クルルが感じた腐臭の原因は間違いなくコレだろう。何か彼らの手掛かりが無いか広場を見渡してみると、へし折れた剣が隅に一本だけ見つかった。
「彼らは私たちよりも前に魔獣を討伐しに来た者たちだろうな」
「で、力及ばず負けちまったと。ってことはさっきの木が薙ぎ倒されてた場所は……」
「ああ。彼らが戦った場所だと思う」
それが何日前のことかは不明だが、おそらくは想像通りだと思った。
この広場は魔獣の寝床のような場所なのだと思う。しかし死体だけ残されて、肝心の魔獣が居ないのは何とも不可解だ。
「クルル───」
「……主。一旦退きましょう」
「───え?」
近くに何か気配はないか調べてもらおうとした矢先、クルルは撤退を進言してきた。
クルルはこと戦闘においては一切の冗談を言わない。そのクルルが撤退を勧めるのである。
何故撤退するのか訊ねようとするが───。
「───ああ、もう遅かったみたいです…にゃ」
───遠くから、地鳴りのような音が響いてきたのだった。
絶望。
奴を一目見た瞬間、その言葉が浮かび上がった。
コレが件の魔獣であることは疑いようがないだろう。いや、そうだとしか言えない。
「……オイオイ。俺は熊系の大型魔獣って聞いてたんだぜ。詐欺もいいところじゃねぇか」
ヴァンはわざとおどけた口調で話し、生理的嫌悪感から生じる身体の震えを誤魔化している。
「これは、想定外です…にゃ。どうしてこんな、麓に近い所に……」
クルルはこの魔獣を知っているのだろうか、意味深な言葉を呟きながらすぐに動けるように身体を低くする。
「化け物とは、こういうモノを指して呼ぶのだろうな……」
私は魔獣の外見に嫌悪を抱き、竦む身体に喝を入れる。
何せその魔獣は、馬の下半身と熊の上半身を合わせ持つ、体長四メートルはあろうかという正真正銘の化け物だったのだから───。
『GUAAAAAAAA!!!!!!!』
魔獣の咆哮と同時に武器を構える。
今のは威嚇だろう。魔獣は地ならしをしてこちらの様子を窺っているようだ。
「クルル……危なくなったらすぐにヴァンを連れて逃げろ」
「…………………………………はい」
小声でクルルに告げると、かなり間が空いてから小さな返事が返ってきた。
私を置いて行くのは嫌なのだろうが、全滅するよりはマシだと思ってくれれば良い。嫌でも無理矢理納得してもらおう。
それにまだ検証不足だが過去の事例を鑑みるに、私は死ぬ事が出来ないのだ。自己犠牲で悦に浸る趣味はないが、一番生存の望みがある者が残る方が良いに決まっている。
「なあ嬢ちゃん!」
と、そこでヴァンが魔獣から一切視線を逸らさずに声をかけてきた。
「コイツのことを知ってるなら教えてくれ!」
ヴァンは先ほどのクルルの意味深な呟きを聞いていたのだろう。クルルは迷う素振りすら見せずに、すぐに自分の知り得る情報を開示した。
「アレは馬と熊の合成獣です…にゃ! 昔頭のトチ狂った大馬鹿者が、自身の実力を他者に見せつける為に作成したものの後に暴走。大馬鹿者と大馬鹿者が住んでいた村を壊滅させて逃げ出したいわくつきですにゃ!!」
「人工獣ってことかよ! 厄介過ぎるってぇ……のッ!!?」
魔獣……もとい、合成獣が巨躯を活かした突進でヴァンを押し潰そうとする。ヴァンは跳んで何とか躱すが、此処は広場。合成獣は勢いを衰えさせないように円を描くように旋回し、今度は私に向けて再び突進してくる。
「こんな場所じゃコイツの思うままだぞ!!」
「分かっている! だが木を盾にした所で木ごと押し潰されるぞ!!」
ヴァンの声に声を荒げて返答しながら飛び込み前転の要領でギリギリ回避。合成獣は鼻を鳴らしつつも何処か愉しげに再び旋回を始めた。
「チィッ。あの野郎遊んでやがる……」
「場所が悪いな。せめて平地でなければーー」
「それなら、地面をボコボコにするのは如何ですかにゃ? 土壁を築けば、何発かの突進は耐えられる筈です…にゃ」
クルル言葉を聞いて、私は即座に集中を開始した。返答する時間すら惜しかったのだ。
合成獣が完全に動きの止まった私に狙いを定めたのが何となくわかった。
獰猛な笑みを浮かべ、真っ直ぐに轢き殺そうと突進してくる。
「オイ、ホシミッ!!!」
ヴァンが叫ぶがもはや完全に避けられまい。
しかし、それで良い。そもそも、避けるつもりはないのだから。
「間に合えッ! 土壁ッ!!」
地面から土が盛り上がり、重厚な土の壁がホシミと合成獣の間に立ちはだかった。
合成獣は急に現れた土壁に対応出来ず、派手な音を立てて激突した。
まさに間一髪だったと言って良いだろう。
しかし急造の土壁は、たった一度の突進による衝撃で粉砕してしまった。
動きは止められたが、合成獣は目と鼻の先。しかも今までは馬部分の下半身しか使用していなかったのだ。
ニヤリ、と合成獣が嗤ったような気がした。
完全に油断していた。
動きさえ止めれば。動きが止まれば何とか出来る。そう思い上がっていた。
これは間違いだった。何故ならば───。
「主ッ!!!」
振りかぶっていた熊部分の右腕が、私を振り抜いて猛烈な勢いで吹き飛ばしたのだから。
吹き飛んだ私は、広場と山の境界線となっていた木に衝突した。右半身を叩きつけるようにぶつかった為に、右腕の感覚がない。
遠くからクルルの悲鳴が聞こえてくるが、息が詰まって言葉が出ない。
しかも合成獣は腕を振り抜いた時に爪を立てていたようで、左脇を抉られていた。防具のお陰で幸い深くはないが、なければ内臓が零れ出していただろう。
「ッ……! ガハッ! ゴホッゴホ!」
「主!」
「おい待て嬢ちゃん!! 近寄れば嬢ちゃんも巻き込まれるぞ!! それにあいつは死んでねぇ!!!」
私の元に駆け寄ろうとするクルルをヴァンが立ちふさがって阻止する。
咄嗟のことで冷静さを失っていたクルルだが、私が生きていると判って何とか踏み止まったようだった。
本当ならば「ひとまず逃げろ」と言いたい所だが、未だ声が出ない。
しかし合成獣は、私にトドメを刺そうと、徐々に近付いてくる。
何か打開の一手を打てなければ私は斃れ、次の標的は二人に向き全滅は必至だろう。流石のクルルでも回避に専念していたのだ。やがて疲労が積み重なり、動きが鈍った瞬間が詰みである。
「(何か───。何か、ないか? 状況を打破する何かが───!)」
焦燥感と間近に迫る生命の危機に脳が焼き切れそうなほどだった私はあることを閃いた。
このまま何もしなければ全員仲良くあの死体の仲間入りである。
どうせ死ぬのなら。せめて派手に散ってこの憎たらしい合成獣に一矢報いるとしようか。