108話 忠臣の誕生
「出て行きたくなったならいつでも出て行くと良い」
夕食の席でクルクルに告げると、彼女は静かに頷いた。
それ以降は食器のなる音が聞こえてくるばかりで、クルクルは食事に集中しているようである。
表情はあまり変わらないが、目元が若干緩んでいるところを見るに、どうやら彼女のお気に召したようだ。
この娘がいつまで滞在するかは不明だが、彼女を寝かせていた三階の部屋はそれまで自由に使って貰えば良いだろう。所詮は空き部屋である。
ほとんど会話のない食事を終えると、クルクルは私に向かって頭を下げた。
「私を助けてくれて、ありがとう。そして、貴方を傷付けて、ごめんなさい……。ご飯、おいしかったです…にゃ」
「口に合ったようで何よりだ。それと、あまり気にする必要は無い。私も迂闊だったんだ、君だけの責任ではないよ」
確かに想定外の事態ではあったが、そのおかげで得られたこともある。
自分を知ることが今の私のやるべき事となるだろう。
「それでも、恩を仇で返したことには違いありません…にゃ。私に出来ることがあれば、何でも言ってほしいです…にゃ」
「……分かった。必要な時は手を借りよう」
それが君の罪悪感を薄めることになるのなら。
正直なところ、彼女の手を借りなければ出来ない物事はないし、普段やっている家事も大した手間ではないので彼女に頼ることはないだろうが。
「そうだ。六階には大浴場がある。部屋の風呂に飽きたら行ってみると良い」
クルクルはぺこりと頭を下げると転移陣に触れて上階へと向かっていった。一度部屋に戻ったのだろう。
「……不思議な娘だな」
思わず漏れた声は、誰にも聞こえることはなかった。
クルクルを塔に運び入れてから既に一ヶ月が過ぎた。
いつでも出て行って良いとは言ったが、彼女は未だに塔で暮らしている。
何度か「行くところがあるんじゃないのか?」と尋ねても「大丈夫」の一点張りで、これ以上聞いても無駄だと思い最近は聞いていない。
最初は遠巻きに見つめてきただけだった。
借りてきた猫のように大人しく、ただひたすら私を見ているのだ。
警戒は初めは少し残っていたようだが、一ヶ月に及ぶ餌付けの成果か、今ではほとんどないようで、本物の猫のように足の上に乗ってきたりする。
彼女が自分から話しかけてくることもほぼないので、いつしか人の形をしている猫を飼っているかのような気分になっていた。
犬や猫などの動物が伴侶と死別した老人の心の拠り所になる理由も分かる気がする。懐いてくれると可愛いのだ。いや、まだ私は二十代だが、気分的なものである。
今日は外で本を読もうと思って朝方に用意しておいたハンモックで眠っているクルクルを見つけた。
耳が動いているので完全には寝ていないのだろうが、目を開けたり逃げる様子はない。
そっと耳に触れてみると、一瞬ぴくりと動いてからされるがままになっていた。
しっかりと手入れがされているので、触れているととても気持ちが良い。
尻尾にも同じように触れてみると、尻尾の先端がゆらゆらと揺れ始めた。
「毛並みが綺麗で手触りがいいからいつまでも触っていたくなるなこれは」
満足のいくまで撫で回した後で、木の根元に座り持ってきた本を開く。ミコの残した魔術書だ。
色々試した結果、どうやら私は全属性の魔術が扱えるらしい。私の魔術ベースは全てミコから譲り受けたものである。
そう考えれば、ミコが火を出したり水を出したりしていたので、同じことが私に出来ても不思議ではないということだろう。
本来ならば有り得ない、一人一属性という理からは外れるが、元々ミコは外れ者で彼女に育てられた私も外れ者である。
信頼出来る者以外には言いふらさなければ特に問題はないと思う。頭のイカれた変な人物にバレて人体実験の道具にされたらたまったものではない。
今開いている頁は空間転移と呼ばれる上位魔術だ。魔力消費量のせいで一日一度しか使えないのが難点だが、とても便利なものらしい。
ミコの手書き文字で『ちょー便利。習得最優先』と書かれている。
しばらくは空間転移の習得に時間を割くことになるだろうと思いつつ、文字に目を通していくのだった。
ホシミが本を読んでいる姿を、クルクルはこっそり覗いていた。
顔は紅潮しており、先ほど触れられていた尻尾を揺らしている。
この一ヶ月間、彼をずっと見てきた。
自分よりも若いのに、とても落ち着いている。これは彼の姉が亡くなった経験のせいだろう。
読書を好み、家事をそつなくこなしているのも、間違いなく彼の姉の教育の賜物であろう。
互いにお喋りな性格ではなかったので、ここでの生活はとても静かだった。久しぶりに穏やかに過ごすことが出来たと言っても過言ではないくらいだ。
自分が「ここから離れたくない」と思うくらいには彼とこの場所が気に入っている。
今まで私は恋愛とは縁の無い生活を送ってきた。そんな私でも彼に好意を抱いているのは間違いないと言える。
しかし人から外れている存在を彼は受け入れてくれるだろうかという不安もあった。
『仙』と呼ばれる存在になった私は不老であり、寿命による死は来ない。
だからこそ今まではそういう事柄を全て避けてきた。
しかし彼は死を超越していた。私以上に常識から外れた存在だったのだ。
意識してしまうのも無理からぬことだった。
きっと彼ならば、という予感がある。
あと一歩、何かが背中を押してくれればきっと自分の気持ちを伝えられる筈。
「(そういえば、今日は年一回の満月と発情期が重なる日……)」
ふと思い出したのは、獣人の特徴である満月の夜だった。
獣人には獣であった頃の名残として発情期がある。期間は年二回で二〜三日ほどだ。
普段は理性で抑えられるものなのだが、それが満月の夜に重なる日は自分を抑えきれなくなってしまうのだ。
満月さえ見なければどうということはないのだが、今回に限っては好機であった。
これしかない。心奥で決意を固めたクルクルは、夜を待ちわびる。
夕食時から、クルクルはどこか落ち着きがないように思えた。
視線は泳ぎ、尻尾は大きく揺れ、手は常に何か動かしている。
大丈夫かと尋ねても「大丈夫、問題ない」しか返ってこないので諦めた。
具合が悪い訳ではなさそうなので心配は要らないだろう。
もう間も無く深夜だ。灯りを消し、明朝すべき事を挙げながらベッドに横になる。
本来ならばこのまま何事もなく朝を迎える筈だった。
僅かな音を立てて扉が開く音が聞こえた。
塔に居るのは私とクルクルだけである。該当者は一人しか居なかった。
彼女はどんどんと近付いてきて、ベッドの上に乗ってきた。
どうしたのだろうと眠った振りをしてこっそり様子を確認すると、部屋にやってきた人物はやはりクルクルだった。
ただし、一糸纏わぬ姿で。
かつて彼女が切った首筋をまるで癒すかのように丹念に舐め始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
興奮し恍惚とした表情を浮かべながら、言動は行動とはまるで逆。
私の服を脱がそうと手を動かしてくる。
上着のボタンが外されて露わになった肌に、クルクルは舌を這わしてくる。
身体を擦り付けながら、愛おしいという気持ちを伝えるかのように施される彼女の行為は、やがてその標的を更に下へと変えていった。
「ま、待てっ!」
流石に跳ね起きてクルクルの行為を止める。
しかしすぐに押し倒されてしまった。
「好き…にゃ。はぁ、はぁ……好きっ、好きっ」
うわ言のように呟くクルクル。その瞳は正気を失っているように見えた。
華奢な少女からは想像もつかない力で押さえ込まれた私は、身動きすることが出来ない。
「どうしたんだ? 一体何があった?」
問いかけるものの、彼女は反応しない。理性ではなく本能で動いているようだった。
逃げることは不可能。力の差は歴然。
抵抗を諦めると、クルクルは再び下へと向かっていった。きっと最後まで進まなければ止まることはないのだろう。
彼女のことは好きか嫌いかで言うならば好きである。それに美少女だ。好意を寄せられて嬉しいのは事実だった。
何故こんなことをしたのかの理由は後で教えてくれるだろう。朝になれば落ち着くことを期待して、クルクルを受け入れることにしたのだった。
そして翌朝。
解放されたのはつい一時間ほど前だった。
クルクルは満足げな表情を浮かべながら腕を枕にして隣で眠っている。
きっと昼頃までは起きないだろう。
「まさか本当に朝までとは……。しかしあの豹変ぶりは一体……」
考えても答えは出ない。
しかし彼女を受け入れたことに不思議と後悔はなかった。
クルクルが理性を失っていたとはいえ、相当な好意を寄せていたのは昨夜の言動からも分かる。
都合よく考えるならば、彼女が出て行かないのは自分に好意を抱いていたからだということになる。実際そこまで自惚れてはいないが。
「……せめて、食事の用意くらいはしておきたいな」
きっとお腹が空いているだろう。起きたらすぐに食べられるようにしてあげたい。
揺らさないように腕を抜いて、布団をかけようとして、シーツにある赤い染みに気付いた。
「まさか……初めてだったのか?」
答えは返ってこない。ただ穏やかな寝息だけが聞こえてくる。
何が彼女をここまでさせたのか。疑問が新たに増えたものの、風邪を引くと悪いので布団をかける。
全てはクルクルが起きてからだ。
着替えを持って大浴場へ向かい、身を清めてから食事の支度をするのだった。
クルクルはやはり昼頃に起きてきた。
風呂に入ってきたようで、髪がまだ濡れている。
視線は忙しなく動き、顔は紅潮していた。
きっと昨夜の記憶が全部残っているのだろう。
「おはよう、ござい、ます…にゃ」
「おはよう」
挨拶を交わすと、盛り付けをしていた私の後ろからクルクルが抱きしめてくる。
「……ご迷惑、でしたか…にゃ?」
彼女の声は震えていた。
私は作業を止め、抱きしめてきたクルクルの手を握る。
「そんなことはない。嬉しかった……しかし理由が分からない」
そう言うとクルクルはホッとしたような息を吐いた。嫌われていないと知って安堵したのだろう。
「……私は、いつの間にか貴方が好きになっていて、まだ受けた恩を返せていないことを気にしていました…にゃ。しかも恩は日々増えていくばかり……。幸いなことに、私は女で貴方は男。好意を伝えられて、貴方にも返せるやり方が、これしか浮かばなかったのです…にゃ」
「……初めてだったのではないのか?」
「はいです…にゃ。でも悔いはありませんし、寧ろ嬉しいのです…にゃ」
「では昨夜の豹変ぶりは何だ? 普段の君とは全然違ったが」
「獣人にある一つの特徴……。発情期と満月の夜が重なる日、満月を見た獣人は本能のままに相手を求めます…にゃ。好意を寄せる相手がいるのなら、その人のことしか考えられなくなって、意思を無視して襲う……。ちなみに昨夜は満月でしたにゃ」
つまり昨夜の豹変は偶然……いや、満月だと知っていながら月を眺めたのだ。意図的なものだろう。
クルクルは抱きしめる力を僅かに強めて更に言葉を続ける。
「……それと、もう一つ。獣人には、己の生涯を捧げてただ一人に忠誠を誓うという文化があります…にゃ」
それは聞いたことがある。
奇特な文化だった為に頭に残っていたのだ。
ほとんどの獣人は生涯を捧げるほどの人物に出会わずに死を迎えるんだ、というミコの言葉を思い出す。
「ホシミさん……いえ、ホシミ様。我が生涯を全て貴方に捧げます。貴方が望むならば、私は剣にも盾にも影にもなりましょう。好きです。愛しております……主様」
「本当に私で良いのか? 後悔はしないのか?」
本当に私みたいな男で良いのか。これは彼女の人生に大きく関わるものだ。
だからこその確認である。しかし彼女は、
「貴方以外にあり得ません…にゃ。そんなことを聞いてくださるなんて、本当にお優しいです…にゃ」
断言するように言い切り、くすくすと笑うのだった。
ならば私もしっかりと責任を負わなければいけないだろう。
「そうか……。分かった、君を受け入れるよクルクル。前から思っていたが少し呼びづらいな。これからは『クルル』と呼んでも良いか?」
「勿論です…にゃ。もう私は主様のものなんですから……」
「出来れば、様付けは無しにしてもらえるとありがたいんだが……」
「では主と。末長くよろしくお願い致します、主」
「よろしくクルル」
「はいっ!」
振り返って抱き寄せると、満面の笑みで応えてくれるクルルだった。尻尾が嬉しそうに揺れていて、可愛らしかった。
なお、しばらく話し込んでいたせいで、昼食が冷めてしまったのはご愛嬌である。