105話 離別
ミコはその後も体調に波はあったものの、何とか日常生活を送れるほどではあった。
数日元気に過ごしては一日二日ほど寝込みの繰り返しだったが、それでも多くの時間を二人で過ごしてきた。
しかしそんな時が長く続かないのは私もミコも分かっていて。
とうとう、その日がやってきてしまった。
「あーあ……もう、ろくに身体が動かないや……」
「ミコ……」
ベッドに横たわるミコは、顔面蒼白ではあるものの会話にはあまり支障はないようだった。見た限りでは肉体的な衰えも見当たらない。
しかし、もう自分の力だけで立つことはほぼ叶わなくなっていた。
一日のほとんどを寝たきりで過ごし、私と会話をするだけの日々。
散歩が好きだった彼女は、ベッドの上から眺める景色しか見ることは出来なくなった。
「ねえ、ホシミくん。不思議だよね、私の身体。筋肉の衰えとかもないのに、動かなくなっちゃうんだよ?」
「……何かの病気とか、ですか?」
ミコの手を握りながら尋ねると、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「これはね、病気じゃないんだ。私の身体的欠陥って言えば良いのかな……。ね、神人って知ってる?」
私は首を横に振った。そも神人なんて言葉を聞いたのは初めてだった。
「神人はね、遥か昔に神様から作られた特別な化身って言うのかな。私たちには大元がいて、神人はその複製。と言っても、そっくりそのまま同じじゃないんだけどね。例えば〜」
そう言ってミコは私の手を自身の胸に押し当てる。
「ホシミくんを大好きって想う心は私のもの。あくまで元と外見が似てるってだけで、中身はまったくの別物なんだよ。分かりやすく言うなら、兄弟って微妙に似てるよね? でも全然違う人でしょう? 私もあんな感じ」
「じゃあその、ミコの大元となっている神様は……?」
「神様はね。昔々にみんな死んじゃったの。理由は分からない。ただ、死んだって事実があるだけ。残された神人は、神様が消えた喪失感を抱きながら生きてきた。そして、つがいとなった神人の子どもたちが只人の元になった。あ、勘違いしないでね、私の初めてはホシミくんだから。ホシミくんの為に求愛は全部断ってきたんだから」
ミコは私の手を胸に押し付けながらにこにこと笑っていた。暖かくて柔らかい感触に意識が向いてしまいそうになるが、ミコの話はいわゆる創生神話と呼ばれるものだ。
書物にすら載っていない歴史の生き証人で、相当長い年月を生きてきたことは疑いようもなく、彼女は存在そのものが特別な人物であった。
「他の神人は居ないんですか?」
彼女の話からすると他にも神人は居る筈だ。
でなければ今のこの世に只人は存在しないことになる。
それに他の神人ならば彼女を治せる見込みがあるかもしれないという淡い期待を抱いたのだが。
「うん。もうみーんな消えちゃった。私が最後の神人だよ。どうして私だけが生きているのかだけど、私にはね、役割があったんだ」
「役割?」
「そう、役割。この星の行く末を見届けるっていう役割。私の中には、神様が神人を生み出してからのこの星の歴史……記憶って言ってもいいかな。それが収められてるの。結構頑丈に作られてたんだけど、やっぱり私にも寿命があったみたい」
決して軽い内容ではないのに軽く言ってのけるミコは、しかし私から一度も目線を外さずに見つめてくる。
不安そうに見つめているだろう私の姿を見て「うん」と頷いてから、彼女はとんでもないことを言いだした。
「ねえホシミくん。ホシミくんさえ良かったらだけど、私の跡を継いでくれないかな?」
私はきっと驚愕に目を見開いていたと思う。
それに何より、只人でしかない私に神人の代わりは出来ないと思った。
「可能なら、ミコの役割を引き継ぎたいです。ですが……私が継いでも、ミコのように長命ではありません。子々孫々に受け継がせたところで、いつか絶えてしまうことは容易に想像できます」
出来ることなら継いでやりたい。そうは思うも、物理的に不可能なことも承知していて。
しかしミコには私の葛藤はお見通しだったようだ。
「それなら、解決する手段があるよ」
「え?」
ミコに手を引かれて思わず前のめりにベッドに手をついてしまう。
困惑している私をよそに、愛らしいほどに満面の笑みを浮かべてその手段とやらを告げるのだった。
「私と一つになりましょう?」
理解するのに時間が掛かって動きが止まった私に畳み掛けるようにミコは言葉を続ける。
「快楽と繁殖を目的とした性交ではない、文字通りの意味で一つになるの。私はもうじき動かなくなる。だからその前にホシミくんの中に取り込んでもらうの」
「待て待て待て!! そんなこと出来るわけが」
「出来るよ。私とホシミくんなら」
出来るわけがない、と言おうとしたがミコは私の言葉を遮って出来ると言いきった。
「ホシミくんだけは、出来るんだよ。今までの交わりでホシミくんの体液を全部中に取り込んだのは、いつかこんな日が来ると思ってたから。全能ではないけれど、これでも神様の複製だからね。ホシミくんのことは全部解析済みなんだよ」
あまりの内容に絶句した私だったが、ミコの笑みが何処か寂しそうで、何も言わずに彼女を抱きしめた。
「私と一つになったら……ミコはどうなりますか」
「消えちゃうね。でも、このままだと私は何も残せずに消えちゃうの。ごめんねこんなこと押し付けちゃって」
「……私は大丈夫です」
元よりミコに拾われた命だ。ミコの為に使えるなら悔いはない。……とは絶対に悲しむので口に出しては言わないが。
「私よりも、ミコの方が辛いのではありませんか?」
「私は大丈夫だよ〜。いつかこんな日が来るって分かってたもの。でも、心残りはあるかなぁ」
そう言ったミコは私の肩を叩いた。どうしたのだろうと様子を見る為に身体を離すと、彼女に唇を奪われる。
何度も口付けた、小さくて形の良い柔らかくて甘い唇。ミコはしばらく堪能した後でやっと唇を離した。
「本当はね、ホシミくんの子どもが欲しかったの。ホシミくんと、私と、私たちの子どもの三人で、また桃を採りに行きたかったよ」
ミコの目尻から一粒の涙が溢れていた。
それは叶うことのない未来への憧れだろうか。
彼女と別れるのは辛い。しかし、彼女の生きた意味を無にするのはもっと辛かった。
ミコに与えられた残り時間はあまりないのだろう。でなければこんな事実を話すことはなかった筈だ。
なら、私の取るべき選択は───。
「分かりました。ミコの跡は私が継ぎます。だから、ミコの全てを私にください」
「ホシミくんなら、そう言ってくれるって思ってたよ」
ミコはそう言って嬉しそうに笑うのだった。
一ヶ月があっという間に過ぎた。
私はミコから様々な道具の在り処と使い方や一つになった後で最優先で習得した方が良い魔術を教わった。
ミコはほとんど動けなかったが、私が抱きかかえて塔内を運んで歩き回った。その甲斐もあって、予定よりも早く伝えておくべきことが終わったと言う。
「流石だねホシミくん。物覚えが良くてお姉ちゃんは鼻が高いよ」
ベッドに横たわりながら得意げに話すミコ。
心なしかほんの僅かに体調が良さそうだった。
「ミコの教え方が良いからです。……今日は体調が良さそうですね」
「あ、分かる? 何でだろうね〜。もしかしたら神様が最後くらいは楽しんでこいって言ってるのかもしれないね」
ミコは笑って、私を手招きした。
立ち上がって側までいくと横をぽんぽん叩いている。そこに来いということだろう。
彼女が叩いていた場所に乗ると手を伸ばして頭を抱えられる。
そして耳を口元に近付けられると、ぼそっと囁いた。
「ホシミくん専用のミコです、どうぞ美味しく召し上がれ?」
「……ミコ。貴女は病人なんですよ」
思わぬ内容で呆れた声が出てしまう。しかしミコは気にしていない様子である。
「良いじゃない。最後の我が儘くらい聞いてよ。あ、最後じゃない。これともう一つあるわね。ねー良いでしょ? ずっと相手出来なかったから溜まってると思ったんだけど、動けないお姉ちゃんはもうそんな価値も無いの?」
よよよ、と見るからに嘘泣きであったが冗談でも価値が無いとは言わないで欲しかった。
「……あのですね、ミコ。ミコを心配して」
「まあそれは半分冗談として」
「……」
彼女が元気だったなら、間違いなく仕返ししていたと思う。
少し目線が冷たくなったのを察したのか、ミコはあたふたとし始めた。
「あ、ごめん。ごめんね? ちょっとからかいたくなっちゃっただけで、だからそんな目でお姉ちゃんを見ないで〜!?」
そんなミコの様子に一つ息をついてから「で」と言葉を続ける。
「我が儘って何ですか? 出来ることなら叶えますよ」
「それはね」
ミコは少し間を置いてから最後の我が儘を口にした。
「ホシミくんと、海に行きたいの」
私はミコの望みを叶える為に、北北西部に位置する海岸へと向かっていた。
当時はまだ氷に覆われておらず、片道およそ一日の距離に海があったのだ。
ミコが魔術で筋力を強化してくれていたおかげで彼女を背負いながらの移動でもあまり苦は無かった。
その間は今までの思い出を話しながら歩いてきた。
ミコは途中で眠ってしまったが、私は何故か疲れることなく夜通し歩き続けられた。
海岸に到着したのは、翌日の昼過ぎといったところだった。
辺境の為、辺りに人の姿は見えない。
綺麗な砂浜も、果てしない海岸線も、今は二人だけの貸し切り状態だ。
「着きましたよ、ミコ」
敷物を敷いてからミコをその上に座らせる。
ミコはその間子どものように「おー」とか「きれーい」と言っていた。
彼女の隣に並んで座ると、ミコはこちらに身体を預けてくる。
「綺麗だね」
「そうですね」
短い言葉の後は、しばらく何も喋らなかった。二人で寄り添って海を見つめる。
ただそれだけで、幸せだった。
「ねぇ、ホシミくん。私、今すっごく幸せだよ」
ミコは海を見つめたままだったので表情は伺えないが、おそらくは微笑んでいたのだと思う。
「私も、幸せですよ」
「知ってる」
くすくすと笑ってから、彼女はこちらに振り向いた。
「ホシミくん。今から君に私の全てを送るからね」
そう言ってから私の胸に手を置くと、穏やかな光が包み込んだ。
圧倒的な情報量を誇るミコの記憶の奔流は頭の一部を乗っ取るように、しかし決して私の邪魔にならないように送り込まれる。
まるで脳の中にもう一つの脳が出来上がったみたいに。
変化は頭の中だけではなく、身体にも起こった。
心臓が脈打つ度に、今まで感じたこともないような力が満ち溢れてくる。
まさに文字通りの意味で自分が自分でなくなっている。しかし、不快ではなかった。
ミコの暖かさが、優しさが、好意が、私を包み込んで守ってくれているようで。
ミコと一つになっている感覚が、永遠に続いていくかのようだった。
それは海岸が赤く染まるまで続いた。
ミコはやり切ったのか笑みを浮かべて私を見ている。
しかし目の前にいるミコは、まるで抜け殻だった。存在が希薄になっており、身体が僅かに透けているのだ。
その代わり、私の中にミコの全てが収まっているのが分かった。ミコがかつて見てきたもの、感情、思い出、その他全てが私の中にある。
「これでホシミくんは私の役割を受け継いだ。記憶も、感情も、知識も、魔術器官も、全部ぜーんぶホシミくんの中にある。今ここにいる私は消えちゃうけど、ホシミくんの中にいる私はずっとずーっと一緒だからね」
消えそうなミコはそう言うと私に口づけをしてからゆっくりと立ち上がった。
私も立ち上がると、ミコは私の頬を愛おしそうに撫でていく。
「ミコ……」
「そんな顔しないの。私はこれで正真正銘貴方の物。ずっとホシミくんの中で生き続けるの。身体は無くなっちゃうけど、ホシミくんと添い遂げるっていう私の小さな夢は叶うんだよ」
ミコは私から離れるように一歩、また一歩と海の方へと歩いていく。
その間にも彼女の身体は光の粒子となって消えていく。
「ホシミくん。大好き。愛してる。きっとまたいつか会えるって私は信じてる。だから今は───」
振り返った彼女の言葉は、音にはならなかった。しかし、何を言っているのかは直ぐに分かった。分かってしまった。
───さようなら
幸せそうに微笑んでミコは消えた。
彼女に託されたたくさんの物を手に、赤く染まる砂浜で、私は一人涙を流した。
「ミコ……私も、愛しているよ。ずっと待ってるから……いつかまた、会おう」
日が完全に沈むまで立ち尽くしていたが、やがて海に背を向けて歩き出した。
立ち止まってはいられない。ミコの代わりにやることがあるのだ。
いつか会える日を信じて、ミコと暮らした塔へと帰る。
この時の私はまだ己が不老不死になったことに気付いていなかった。