私の答え
「婚約者です」
短いけれど、はっきりと聞こえたその声に、私は思わず喉をヒュッと鳴らして止まってしまった。
何を、言っているの?イズルード。
隣に立つ背の高い幼馴染を見上げるが、イズルードはまっすぐラファウ様を見ていて、私と目が合うことはない。
私は横目で恐る恐るラファウ様を見た。イズルードを見ていたラファウ様は、私の視線に気づいてちらりと、見下すように目を細めた。
違う、違うの・・・
言葉にしたいのに、口が石のように固まってしまって動かない。
私はぎこちなく、首を横に振ることしかできない。
「『元』でしょう、イズルード。ラファウ殿下の前で偽りは許されないわ。」
はっと弾かれたようにエレオノーレを見た。まさか、エレオノーレが助け舟を出してくれるとは思わなかったからだ。
彼女は苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
「お姉さま、イズルードは、ハイル川の件で後学のためにメシアから派遣されてきたの。つい先ほど、ラファウ殿下にご挨拶をしていたところなのよ。」
「ああ、君が是非にと勧めたんだったな、エレオノーレ。彼なら間違いないからと。」
そう上品に笑うラファウ様に見つめられて、エレオノーレはバツが悪そうに目をそらして小さく頷いた。
・・・もしかして、これがエレオノーレの切り札?
私は以前エレオノーレに言われた言葉を思い出した。
切り札を用意しているから、覚悟しておけって。
あれから色々あって忘れていたけれど、イズルードのことだったとは。
私とラファウ様の関係を壊すことが目的なら、とても効果的であることは、たった今立証されている。
けれど・・・
あまり嬉しそうじゃないのは、何故・・・?
しかし私の疑問は、イズルードが話し始めたため掻き消えた。
「おや、そうだったかな?一方的に断られただけで、了承したつもりはなかったから、まだ婚約は有効だと思っていたよ。」
そんな馬鹿な。
私は眉をひそめた。
この辺りのことは父に任せていたから、詳細を知らないのが痛い。けれど、何の音沙汰もなく2年が過ぎれば、誰だって婚約は破談になったと思うだろう。
私は抗議しようとイズルードを見上げたが、逆に優しく見下ろされて、言葉に詰まってしまう。
「それにしても、少し見ない間に綺麗になったな、フラウ。なのに、なんて・・・」
イズルードの瞳に悲しみと怒りを見て、私は狼狽えた。イズルードの右手がそっと私の頬に伸ばされるのを、黙って見ていることしかできない。
しかし彼の手は、ラファウ様の咳払いにより私の頬に触れる前にピタリと止まった。
「・・・君たちの仲が良いことはわかったよ、元婚約者殿。私は邪魔なようなので退散するとしよう。・・・だが、彼女の様子を見るに、先にすべきことがあると思うが。」
そう、始終上品な笑みを貼り付けたままのラファウ様は、私を横目で一瞥すると、眉をしかめた。けれどそれも一瞬で、すぐに元の上品な笑みを口元にたたえると、部屋の中へ消えていく。
私はただ呆然と、ガチャンと閉まる執務室の扉を見つめることしかできなかった。
怒らせてしまった。
自室に戻って、渋るエレオノーレとイズルードから逃げるように扉を閉めた。
部屋で待っていてくれたエリザベートに、頬を冷やす氷をもらうと、一人寝室に篭った。
枕を抱きかかえるようにしてベッドに潜ると、乾いたはずの涙がまた溢れてくる。
イズルードが、あんなこと言うから。まるで両思いだったみたいに。
私がラファウ様なら、同じく怒っていたと思う。ラファウ様が私の眼の前でナディア様と抱き合ったりしたら、ひどい嫉妬で取り乱してしまいそうだ。例えラファウ様にその気がなかったとしても。
後でちゃんと、ラファウ様に謝らなければ。
そうだ、ナディア様が言っていたことも、聞かないと・・・
それから、イズルードともちゃんと話をして・・・
早ければ早いほど良いのはわかっているけれど。
今日はもう、外に出る元気などない。
窓のガラス越しに、橙色の太陽に照らされ真っ赤に染まった草木を霞む目でぼんやりと見つめて、そのままゆっくりと瞼を閉じた。
パチリ、と目を開けると、眩しい光が瞳に飛び込んできた。窓から差し込める光は強く、室内を明るく照らしていた。
明らかに、朝のような優しい光ではない。
私は弾かれたように上半身を起こした。開け放たれた窓からそよぐ風が、頬をさらりと撫でる。ふわりと風に煽られる薄手のカーテンを見ながら、私は必死に昨日のことを思い出した。
私、いつの間に寝てしまったのかしら。
まさか、昨日部屋に戻ったあの時から?
窓は、いつから空いているのだっけ?
今・・・何時!?
ばっと体を翻し、足にまとわりつくシーツに何度か動きを邪魔されながらも、ベッドから床にストンと着地する。裸足なのも構わずにととと、と寝室の扉に近づくと、今度は打って変わってそおっと、音を立てないように扉を押した。少しだけ空いた扉から、居間の様子をキョロキョロと伺う。
「フラウレン様」
突然掛けられた声に、私は大げさに肩を震わせた。観念して、身を寄せていた扉を押して、姿を現わす。
扉の先には、喜んでいるような、心配しているような、複雑な表情をしたエリザベートが立っていた。
なんとなくバツが悪い私は、肩を抱きながら床に向かって言葉を吐く。
「お、はよ、エリザベート。」
・・・もっとましなことが言えただろうに。
私の頬はさっと赤みがさすが、エリザベートは一切気にしていないようにこちらに近づいてきた。
「ああ、フラウレン様。おはようございます。昨日はお疲れの様でしたが、よくお眠りになられた様でようございました。」
「あの、エリザベート、今って・・・?」
側までやってきたエリザベートにそう上目遣いに尋ねると、まだ昼餉のお時間まで少しありますよ、と何の皮肉も混じっていない笑顔で答える。
ああ、何てことだ!この真面目さしか取り柄がないと言っても過言ではない私が、昼前まで寝てしまうなんて。こんなに寝坊したのは、幼い頃にハマってしまった児童文学を、夜通し読み続けてしまった日以来ではなかろうか・・・
私が酷く後悔する様に眉を下げて目をつむれば、エリザベートはクスクスと笑って私の背中にそっと手を添え、体の向きを変えさせる。
「たまにはこんな日があっても良いではありませんか。きっと体が欲していたのです。それよりも、お腹は空いていらっしゃいませんか?それとも、先にお風呂になさいますか?」
体が欲していた。その言葉が、何故だか私の胸にストンと落ちてきた。
確かに、昨日は酷く疲れていた気がする。よく体を動かした日にはすぐに眠くなるけれど、心が疲れていても、体は睡眠を欲するものなのか。でもそのおかげで、今日はいくらか気分が良い。やらねばならないことも幾つかあるから、自分にとっても都合が良いことだった。なんせ、とても体力と気力を使いそうなことだから・・・
「あ・・・先にお風呂に入りたいわ。」
昨日の昼以降何も食べていないお腹は、意識すると急激に空腹を主張し出すけれど、昨日の負の空気を纏ったままの肌や髪で今日一番の食事を摂る気にはならなかった。
私がそう答えると、エリザベートは、ご用意致します、と笑って私の背中をそっと押した。
お風呂で髪も肌も丁寧に洗われて、何だか心まで洗われる様だった。ほんのりと花の香りのするシャンプーで、すっかりふんわり艶やかになった私の真っ白な髪は、緩やかに纏め上げられ、白いうなじを晒している。
少し早いかと思っていた朝食兼昼食も、お風呂から上がり支度を済ませる頃にはちょうど良い時間になっていた。温かな湯気の昇るそれらを穏やかな気持ちで頂いて、食後のお茶をすする。
一杯、もう一杯、あと、もう一杯・・・
ああだめだ!あんなに心穏やかでスッキリしていたというのに、これからやるべきことを考えると途端に気持ちが萎えてくる。
私はついに覚悟を決めた。これ以上ここに居ては、どんどん外出したくなくなってしまう。
カップに残ったお茶をくいっと飲み干した。
「さあ、ラファウ殿下の所に行くわよ!」
まるで自分に言い聞かせるように口に出すと、側で控えていたエリザベートがはっと息を飲むのが聞こえた。
メシアにいた頃から側で仕えてくれているエリザベートには、ラファウ様との関係や、昨夜の出来事について何も語っていない。けれど、最近の私の様子について不審に思わないはずがないし、今日はラファウ様との約束はないにも関わらず、彼を訪ねようという私に、幾つかの点と点が繋がったようだった。
「・・・かしこまりました」
しかしすぐに気持ちを切り替えたらしいエリザベートは、そう、はっきりと答えた。明るく、聡明で、主人に従順で。時に突然走り出す主人にも文句も言わず付き従ってくれる。
こうして考えると、なんと出来の良い侍女だろうか。
私はエリザベートを真っ直ぐに見つめて笑う。
「ごめんなさいね、エリザベート。そして、ありがとう。あなたには、いつか必ず、全て打ち明けるから。」
するとエリザベートははっと目を見開いて、けれどすぐにその目に弧を描いた。まるで花が咲きほころぶかのように頬を染めて笑う。
それを見た私も、思わず頬を染めた。
・・・とは言ったものの。
エリザベートを連れて2人で向かう先は、ラファウ様の執務室。しかも、アポなし。
やはり、先ぶれを出しておいたほうがよかったかしら?
少しばかりの後悔がにじむが、ここまで来てはもう遅い。
だって、もしお断りされたら、ショックでまた1日を無駄にしてしまう気がしたんだもの・・・
そう、自分に言い訳をする。それに、彼の自室を訪ねるわけではない。仕事部屋を訪ねるのだから、多少の融通は利くはずだ。
その仕事部屋に、完全な私用で行くのだとしても・・・
「・・・」
考えれば考えるほど、自分の行いに疑問と後悔が生じる。折角勇気を出して踏み出した足も、執務室を目前にして止まってしまいそうだ。
「・・・いいえ、ここまで来て今更引き返せないわ。私は、弱い人間なのよ。今更それはどうにもならないのだから。それよりも、優先すべきことがあるはずよ。」
小さく、呟く。まるで、自分に言い聞かせるように。
突然、執務室に押しかける。こんな方法でないと、弱い私は彼に会うことができない。それよりも、会うことを避けることの方が、よっぽど悪いことだから。
私は一つため息をついて、真っ直ぐに前を向いた。顎を引いて、背筋を伸ばす。外見の美しさや内面の強さは他者に劣るかもしれないけれど、せめて見せかけの威厳だけは、損なわれぬように。
私は堂々とした足取りでラファウ様の執務室がある廊下の角を曲がった。
途端に、くるりと踵を返して、死角の壁に背中をぴたりと付ける。突然体を反転させた私にぶつかりそうになったエリザベートが、息を飲んで咄嗟に立ち止まる。申し訳ない。
ガチャリ、と音を立てた執務室の扉から、声が漏れ聞こえてきた。
「もう遅い。遅いのよ、ラファウ。」
「待て、ナディア。」
思わず体に力が入る。
「・・・動き出した歯車は、もう誰にも止められないのよ。例えそれが、私たちの誰もが不幸になる未来に行き着くのだとしても。」
そう言い残して、ナディア様の足音は私と反対方向の廊下の奥へと遠ざかってゆく。そのことには安心したものの、私の心臓はどきどきと鼓動を打つのを止めてはくれない。
ああ、なんて・・・
「不穏な会話」
そう、まさにそれだ。何の話をしていたのかは全くわからないけれど、良い予感は全くしない。
・・・って、
「ひゃっ!」
顔を上げると、そこにはなんといるはずのないイズルードがいて、小さく叫んでしまった。しかも、私の目の前に彼の首の角ばった喉仏があって、角からそっと執務室の廊下の方を覗き込んでいる様だ。
私は慌ててイズルードの胸をつかみ、彼の体を角から離れる様に引っ張る。
するとイズルードの体は、思ったよりも簡単に引っ張られて、勢い余って私の顔にぶつかりそうになった。すんでのところで、イズルードが両腕を壁に付いて、ぶつからずに済んだけれど、私は今、イズルードの腕と体によって、壁に閉じ込められている。なんだこれ。
「いつの間にこんなに積極的になったんだい、フラウ?」
背の高いイズルードが、少し背を曲げて吐いた息が、私の頬を掠める。顔が近すぎて、目を合わすことができない。
私ははっと、ぎゅっとつかんでいたイズルードの胸元を離して、今度は手のひらで押し返した。なのに、先ほどは簡単に引っ張られた体は、ピクリとも動かなかった。
近い近い・・・
私の心臓が、先ほどとは違う意味でドキドキと脈打つ。彼の体が、息が、空気を介して熱を伝えてくる。それがどうしようもなく、恥ずかしい。
私は思わずぎゅっと目を瞑った。
「・・・可愛い。そんな顔されると、キスを強請られていると勘違いしそうになるよ。」
甘くとろける様な低い声に、私の背中がぞくりと震えた。
ぱっと、音がしそうなほど勢いよく目を開ける。
しかしその直後、目を開けたことを後悔した。すぐ間近にあったアイスブルーの瞳に、囚われた様に動けなくなってしまったのだ。
たったの2年。されど、2年。離れていた間に、幼馴染の優しく人懐っこい瞳は、刃の様な怜悧さを身につけていた。
これはなんだ。こんな彼を、私は知らない。
怖い
初めてイズルードに、そう思った。
視界の端に映った彼の細長い指が、まるで男の人の様で、その指が私の顎を摘んで、びくりと肩が震える。
いいえ、イズルードは男性なのだから、何を当たり前のことを。
そう頭では考えるのだけど、心のどこかで、それを全力で否定する、いや、否定したい自分がいる。
そうだ、今までも。そうして彼を否定してきた。彼の私を見つめる瞳に熱がこもっているのを、私は知っていた。知っていて、わからないふりをした。私たちは単なる幼馴染。それ以上でも、それ以下でもない。ましてや、男女の関係にはなり得ない。
弱い私は、ずっと彼からも逃げてきた。距離を詰められれば、その分逃げて。また、追いかけられて、逃げる。その繰り返し。彼の気持ちに気づかないふりをして、ずっと逃げてきたのだ。
間近に迫ったアイスブルーの瞳から目をそらしたくなるのをぐっと我慢して、見返す。囚われたのではない。今度は自分から、見返すのだ。すると、怜悧さを含む瞳は冷たさと、相反する熱を増して、すっと細められる。
「・・・なんて皮肉だろうね。こうして失って初めて、君は僕の気持ちに気づくのか。僕の知らないところで僕ではない誰かに変えられた君が、僕の気持ちに向き合うのか。」
その顔が、私を憎む様に、愛おしむ様に、そして、悲しそうに。複雑な感情を混ぜこぜにしてぐにゃりと歪む。
私は思わず、瞳を揺らした。
何か、言わなければいけない。これまで散々逃げてきたけれど、ちゃんと、言葉にしなくてはいけない。でないと、イズルードは、前に進めない、そんな気がする。
けれど、こんな顔を見た後で、何が言えよう。私が口に出すことは全て、彼を傷つける刃にしかならないのではないか。
私は、内心とても混乱していた。
こんな、いつ誰が通りがかるとも知れない廊下で、未婚の男女のこの距離は非常にまずい。何より、男の人にこんなに近寄られることに慣れていない私の心臓には、非常に負担が大きい。加えて、イズルードの複雑な感情を感じ取ってしまった今、私の中に沸き起こる罪悪感、同情、友愛、そして、嫌悪。混乱しないほうがおかしい。
けれど、何か言わなくちゃ。
そう思って開いた私の口は、わなわなと震えてしまった。
「イ、イズル・・・」
「言うな」
イズルードの名前を呼ぼうとした私の声を鋭く遮ったのは、目の前の彼ではなかった。私ははっと肩を揺らして、声のした方に顔を向ける。目の端で、イズルードの口元がゆっくりと弧を描くのを見たが、今はそれどころではない。
ラ、ファウ、様・・・
唇を震わせたそれは、音にはならなかった。けれど、いつからそこにいたのか、腕を組んで、鋭い目つきで私たちを睨みつけていたラファウ様の目元が、私を見て一瞬はっと見開かれて。気づいたときには、腕の鈍い痛みとともに、ラファウ様の背中に庇われていた。はっと右手を見ると、ラファウ様の大きな手にしっかりと握られている。少し、痛い。なのに、何だろう、この湧き上がる温かさは。顔を上げると、ラファウ様の華奢だが私のそれより大きな背中越しに、背の高いイズルードの顔が見える。その顔は、私と違って大した驚きもなく、作り笑いを浮かべていた。
「・・・メシアでは、幼馴染の男女が所構わず睦み合うのは普通のことなのか。」
ラファウ様の低い声に、私は顔を赤らめたり青ざめたりさせるのに忙しい。
けれどラファウ様は、私のことなど見向きもせず、依然手首は固く握られたままだけれど、目の前のイズルードから目を離さない。
「もちろん、そんなことはありませんよ。ただし私とフラウは結婚を約束した身。若い男女が顔を合わせて熱に浮かされてしまうのは、メシアでもマルバラフでもそう変わらないのでは?」
「しかしここは我が居城。これ以上風紀を乱すというなら、家主として君の滞在を許すわけにはいかない。」
ラファウ様の冷たい声にも全く怯まずへらっと笑ったイズルードは、はいはいすいませんでした、と、全く気持ちのこもらない謝罪を返す。そしてぼそりと、何で僕だけ怒られるのかな?と呟いて笑う。その呟きに、私は顔を赤らめるしかない。私には断じて、断じてイズルードと睦み合うつもりはない。つもりはないけれど、端から見れば、そう受け取られても仕方のない状況であったことはわかるため、イズルードとラファウ様の言葉の棘が胸に突き刺さるのだ。
そんな私の心を知ってか知らずか、ラファウ様は私の右手首をつかむ手に力を入れた。正直、痛い。
そのまま、かくん、と引っ張られる。突然のことに対処しきれない私の体は前のめりになりながらも、さらに引かれ続ける腕に助けられながら何とか無様にこけることなくラファウ様の背中を追って歩き出す。
途中、すれ違いざまにイズルードをキッと睨んで見上げたけれど、彼はひょいと肩を竦めただけだった。
そんなイズルードに何か言ってやりたくなったけれど、ラファウ様の腕に引っ張られてはそんな暇もなく。ただでさえ足の長いラファウ様の早歩きに小走りでついていく私は、ぐんぐんと廊下を進んで、あっという間に角を曲がりイズルードから見えなくなる。
けれどラファウ様の動きは止まらない。いい加減握られた腕が痛くて、赤くなっている気がするけれど、目の前に広がる背中から怒りのオーラが立ち昇っているように見えて、口答えする勇気もしぼんでゆく。そんな私に追い打ちをかけるように聞こえてきたのは、私に聞こえるか聞こえないかくらいの、ラファウ様の呟きで。
「大丈夫。次はフラウの番だ・・・」
一瞬、はて?と首を傾げかけた私だが、すぐにラファウ様のお怒りか!と気づいて、顔を引きつらせた。ラファウ様の止まらぬ歩みが、まるで地獄へ続いているかのように思えて、戦慄が走る。執務室からどんどんと離れて、普段は足を踏み入れない場所に向かっているのも、恐怖を助長する。けれど、ついていく他手立てはない。
だって、私がラファウ様の腕を振り払えるわけないじゃない・・・
私は諦めに似た気持ちで、ラファウ様の後を小走りで付いて行くのであった。
突然。本当に突然開けられたドアの隙間に、ラファウ様がすっと滑り込む。腕を曲げて引っ張られた私が小さく息を飲んで部屋に滑り込んだ途端、頭のすぐ後ろで空気がふわっと膨れたような感じがして、でも予想に反してドアはカチャッと閉まる直前にスピードを緩め、音もなくそっと閉じられた。
狭い部屋に、かちゃん、という施錠の音がやけに大きく響いた。
その一連の動作は私がラファウ様の腕から離され、扉を振り返る前に終わってしまい、何となく居心地が悪くてそのまま振り向けないでいる。なので代わりに私は、さっと室内を見渡した。
窓のない、狭い部屋。床や天井は深い幹の色をした板張りで、壁は白をベースに、金色の草花や鳥たち生き物が所狭しと描かれていて、大層豪華絢爛である。中央には赤い2人掛けのビロード張りのソファと、小さなテーブルが置かれている。部屋の四隅には様々な形の、様々な大きさの、様々な材質のものが、様々置かれていて・・・
つまりは、見る人が見ればまるで豪華なゴミ置き場かと思うような、雑多な物置部屋ようだった。しかしそれらには煤けて灰色になったビロードの布が埃除けにかけられていて、ゴミではないのだとわかる。
何だか、統一感のない部屋ね・・・
訝しんだ私は、少し油断していたのだと思う。背中に人の気配を感じて、はっと振り返れば、すぐ間近に眉間に皺をたたえたラファウ様の顔があった。私の赤くなった右手首を再度掴み、私を引っ張りあげるようにして体を近づける。
手首のチリっとした痛みに思わず眉を寄せれば、ラファウ様の顔が更に歪む。
「その顔」
低い低い声で呟かれて、私は眉をひそめたまま頭に疑問符を浮かべる。
「その顔で、あいつの名前を呼ぶな。」
あいつとは、イズルードのことで良いのだろうか。その顔って、どんな顔のことだろう。
痛みに眉をしかめているとは思うけれど、それだけ?それだけで、ラファウ様はこんなに怒るかしら?
それに。
私は自由な左手を、そっと持ち上げた。右腕が痛んで眉をしかめる私よりも、何故かもっと痛そうに顔を歪ませるラファウ様の頬にそっと触れる。
「・・・」
何を言えば良いのかわからなくて、口を開いたものの、音を出すことなく閉じる。
なぜ、そんなに痛そうなの?なぜ、そんなに苦しそうなの?
ラファウ様。
どうかラファウ様の痛みが少しでも和らぎますようにと、祈りを込めてその頬をそっと撫でる。
すると私の祈りが通じたのか、ラファウ様の顔から険が落ち、途端捨てられた子犬のような顔になる。深い、緑色の瞳が、縋るように私を見て、心臓がどきりと跳ねる。
ラファウ様はすっと瞼を伏せると、私の左手に頬を摺り寄せた。
何これ、可愛い・・・!!
長い睫毛の隙間からチラリと覗く瞳のなんと色っぽいことか。女の私よりもよっぽどに。
そんなラファウ様は、固まる私の左手に何度か頬ずりした後、そっと、私の左頬に擦り寄ってきた。私の左手はそのままに、いつの間にか引っ張られていたはずの私の右手は、ラファウ様によって彼の頭に誘導されている。
抱きしめろと、そういう意味ですか・・・ラファウ様っ!!
徐々に羞恥で余裕をなくしてゆく私を置いてきぼりに、ラファウ様の両腕が私の背中に回って、二人の間には隔てるものがなくなってゆく。
「ラ、ラファウ様・・・」
戸惑う私の口から出たのは、制止だと思う。なのに、私の左耳は、ラファウ様の嬉しそうな、少しくぐもったうん、という返事を拾った。同時に背中に回された腕にぎゅっと力が入るのを感じる。
嬉しい、けれど、恥ずかしい・・・
何だか最近、ラファウ様とお会いするたびにこういうことをしている気がするのだけれど、気のせいだろうか。
会えない時間が長い分、それを埋めるようなラファウ様の甘い行為は、私の心を翻弄するには十分で。そんな波に飲み込まれて取り乱してしまいそうで、けれどそんなのもったいないと思う冷静な自分もいて。
ラファウ様に会ったら話さなくては、と思うことがあったはずなのに、今はそんなことどうでも良いと思ってしまう。ここも何処だかわからないし、そもそもラファウ様はつい先ほどまで怒っていたはずで。
でも、今は、忘れよう。
私は色々なことを考え出すときりがない自分の心を、上から覗き込むのを一旦やめにした。そして、これはとても慣れないことだからちょっと難しかったのだけれど、見るのではなく、ゆだねることにする。温かい気持ちに、体を委ねる。そっと力を抜いて、ラファウ様の腕に身をまかせる。そうすると自然に、ラファウ様に擦り寄られていたはずの頬に自分がすり寄っていて、自由な両手はラファウ様のさらりとした夜空色の髪の感触を堪能する。
どれだけの時間が経っただろうか。永遠のように思えたが、意外とそんなに長くなかったのかもしれない。
急にすっと体を離したラファウ様に、思わず縋るように手を伸ばすと、珍しく頬を微かに染めたラファウ様が私から目をそらして、これ以上は良くない、と掠れた声で呟く。
その声にはっと我に返った私は、それはもう熟れたトマトのように顔を真っ赤にさせて、伸ばした腕をさっと引いて顔を覆った。
けれどその手は、すぐにラファウ様のそれによって優しく剥がされる。
「すまない」
一瞬、何に対する謝罪かわからず、顔を赤らめたままラファウ様を見上げる。下げられた眉の下の宝石のような緑色の瞳の先を辿ると、赤く腫れた私の右手首があった。
私は慌てて赤い顔をふるふると横に振る。
少し赤くはなっているが、大したことではない。もともと色素の薄い私の肌は、実際の被害よりも大げさに赤く染まってしまうのだ。
たがら、気にしないで欲しい。
そう願うけれど、ラファウ様には伝わっただろうか?
ラファウ様は何処か痛むようにきゅっと瞳を閉じて、私の右腕をそっとご自分の唇に引き寄せる。そして、ラファウ様の唇に触れるか触れないかギリギリのところまで寄せると、そっと腕を下ろした。私に背中を向けると、赤いソファに乱暴に腰掛ける。そして無造作に、片手で前髪をぐしゃりと掴む。
「・・・最近自制がきかないんだ。」
そう、手元から覗く顔を歪ませ自嘲気味に笑ったラファウ様に、私は何といって良いかわからず、ラファウ様の吐息に触れた熱い腕をそっと胸に抱きよせる。
ラファウ様が自制がきかないだなんて、とてもじゃないが信じられない。今まさに目の前にいるラファウ様は、理性の塊のようなのに。
むしろ、自制がきかなくなりそうだったのは、私の方・・・
先ほどまでの自分を思い出して、少し引いていた熱がまた体を熱くする。
そんな私を見て何を思ったか、ラファウ様はくすっと笑う。その屈託ない笑顔を見ると、さらに私の体は熱くなるのを、彼は知っているのだろうか。
「君は、いつも眩しい。」
突然発せられた言葉に、私の心臓は一際大きくどきんと脈打つ。そして、慌ててぶんぶんと顔を振る。
「だから、つい・・・攫ってしまいたくなる。」
その言葉を、心の中で反芻する。
ラファウ様が、私のことを、眩しいから、攫いたくなると。それは、自惚れてもいいならば、もしやもしや、独占欲というやつ・・・?
綺麗じゃなくて眩しいと表現されたのは、私がナディア様やエレオノーレの様に綺麗の部類には決して入らないからですよね、とひねくれた考えが浮かばないではなかったが、それよりもラファウ様がもしかしたら嫉妬してくれていたのかもしれないという事実に、私は嬉しさを噛み締めた。
そして、本来自分が言うべきだった言葉をここに来てようやく思い出す。
私は、慌てて口を開いた。
「あ、の!イズルードとは、何もなくて!ごめんなさい、昨日は、・・・」
焦りすぎて、何だか言葉が出鱈目だ。これでは何も伝わらないではないか。
慌てる自分を叱咤して、頭の中を整理する。幸いラファウ様は、口元の笑みは消したものの、依然優しい瞳で私の言葉を黙ってじっと待ってくれている。それがまた、嬉しい。
「彼とは、本当にただの幼馴染なのです。恋心もなければ、もちろんそういった行為も一度もありません。だから、昨日からの彼の行動には、私も戸惑っていて・・・。でも、ごめんなさい。」
「何故謝る。」
ラファウ様にまっすぐ見つめられて、私は居心地悪く視線をそわそわさせてしまう。だってこれはとても、言いにくいことだから。
「あ・・・の、これは、違っていたら、大変お恥ずかしいのですが・・・、私の好きな人が、他の人と一緒にいたら、その気がなくても、とても嫌な気持ちになる、と思うの、です。」
ラファウ様の婚約者であるということだけでナディア様に嫉妬してしまいそうになる私。お互いを名前で呼び合う二人。並ぶと絵になるお似合いの二人。遠くで見ているだけで、それを想像するだけで、胸が痛くなる。
大人なラファウ様が、私がナディア様やエレオノーレに感じるほどにはイズルードのことを気にはしていないとしても、やはり、私を好いてくれるということは、多少なりとも不快な思いをする可能性があって。だからこその、昨日の別れ際の怒りだと、思っていたのだけれど。
ああ!やっぱり、私の自惚れだったのかしら!
押し黙るラファウ様を見て、後悔が沸き起こる。
「・・・フラウ」
「は、はいっ」
「王座に興味はあるか。」
え、王座?
突然の質問に、私の体からさっと熱が引く。こちらを見つめる深い緑に、無意識に背筋が伸びる。
王座、それはきっと、王太子妃、ひいては王妃の座、ということよね・・・
王座には興味がない。私がそれを望むとしたら、ラファウ様を手に入れる、そのためだけだ。
私は、奇しくも以前ナディア様から発せられたのと同じ質問に、同様の答えを返そうと思って、口を開いた。
が、ラファウ様の瞳に見つめられ、口をつぐむ。
何故ラファウ様は、今この質問を口にされたのだろう。
ラファウ様は今初めて、私に王座という単語を使った。その途端に、これは個人レベルの話ではなく、国レベルの話となる。
ならば、私の用意している答えは。ただの一人の小娘の、わがままは、相応しくない。
そうだ、わがままだ。王座はいらない、でもラファウ様は欲しいなんて、なんてわがままだ。
私はラファウ様のことを、王太子だから好きなのではない。それは確かだ。しかし、だからと言って、ラファウ様から王太子という肩書きが取れることはない。例え本人がどんなにそれを望もうが。そして真面目で誠実なラファウ様は、その肩書きを捨てることはもちろん、意に反することをすることをも、嫌悪されるだろう。
ラファウ様は初めから、自身の責任を自覚しておられた。そして、体現しておられた。
そんな彼を、迷わせ、苦しめたのは、私の幼さに他ならない。
ああ本当に、私はなんて愚かだったのか。
今まで気づけなかったことを悔やむべきか、はたまた今、気付けたことをよしとするべきか。
私はゴクリと唾を飲んだ。
覚悟を決めねばならない。
強くならねばならない。
だって、私は、ラファウ様に守られたいわけではないんだもの。
彼の、隣に、立ちたい。
彼に、相応しく、なりたい。
「私は・・・王座を望みます。ラファウ様が、欲しいから。ラファウ様の背負うもの全て、受け入れたいから。そうして初めて、あなたの隣に、立てる気がするから。」
私を見つめていたラファウ様の瞳が、ゆっくりと、溢れそうなほどに見開かれる。
ラファウ様はどう思われただろう。隣に立ちたいだなんて、傲慢な女だと、思われただろうか。
でも、これが私の、本当の、本当の気持ち。そして、覚悟だ。
沈痛な面持ちでラファウ様の瞳を受け止めていた私は、彼の顔が泣きそうにくしゃりと歪められて、違う意味で眉の皺を濃くした。
思わず手を差し伸べたくて、右腕が宙を彷徨う。
けれど、ぱっと俯いたラファウ様が、一呼吸置いて再び顔を上げた時にはもう、その顔から悲しみは消えていた。
「フラウ、少し外に出ないか。」
そう言われて、私は戸惑いながらも、軽い気持ちで頷いた。