雨の後は必ず晴れるもの
殿下の本領発揮
ザアザアと、雨が屋根に打ち付ける。降り続ける雨は、止むどころか強くなっているようだ。
濃厚な水の気配が、簡素な厩の壁の隙間から、染み込むようにして流れ込んでくる。
寒気がして、ぶるっと震えた。
日はまだ沈んでいないはずだが、雨のためかあたりは薄暗い。
部屋の外に出る予定はなかったから、簡素なドレス1枚しか着ていないのがあだとなった。
かといって、あんな醜態をさらしておいて、のこのこ戻れる心の強さは持ち合わせていない。
「お願い、少しだけ。くっつかせて。」
遠慮がちに尋ねると、相手は、ぶるっと鼻を鳴らした。
それって、いいって事?
そっと、私の目の高さにある茶色い毛並みに手を添えた。馬の筋肉がピクッと震えたが、嫌がられないところを見ると、許してもらえたようだ。そのまま、暖を求めて身を寄せる。
涙は、出尽くした。もともと、考えたところでどうする事もできない悩みだったから、もやもやした気持ちを外に出せただけで、幾分すっきりした気分にさえなっていた。
けどやはり、顔はまだひどい状態だろうから、部屋に戻る事はできない。
かといって、このままでは風邪をひいてしまいそうだわ。
逡巡しながらも、身体に感じる温もりから離れる事が難しくて、しばらくじっとしていた。
数分ほど経った頃だろうか。
突然、厩と城とをつなぐ扉が、ギイと音を立てて開かれた。
私は思わずびくりと肩を震わせた。
足音は1人分。ゴオッという音とともに、入り口付近が明るく照らされる。ランプに火を灯したのだろう。
厩の真ん中を通る通路の両側に、向かい合わせで繋がれた馬の顔がぼんやりと照らされている。
足音は、慣れた様子でコツコツと、確実に厩の中を進んでいく。
私は、別に隠れる必要はないのだけれど、出来ればこんな状態のところを見つかりたくないと思って、馬に身体をぴったりとくっつけたまま、息を潜めた。
その間にも、足音はどんどん近づいてくる。
そして、私の隣の馬の足元に、男性のブーツのつま先が見えて、私はぎゅっと目を瞑った。
わたしの瞼の裏を照らした明かりは、一瞬で遠ざかった。
それと共に、足音もわたしの前を通り過ぎた。
どうやらバレずにすんだようだ。私は心の中でほっと溜息をついた。
その時、再び厩の入り口が開く音がした。私の前を通り過ぎた足音が、あまり離れていない場所で立ち止まる気配がした。
「・・・お前は来るなと言っただろう。」
おそらく入り口に向かって言ったのだろうが、すぐ側で聞こえたように大きくて、びくりと震えてしまう。私の心臓がまた、ドキドキと早鐘を鳴らし始めた。
入り口から、コツコツという足音が近づいてくる。先に入ってきた男性の持つ明かりでほのかに照らされた厩が、足音の主の持つ明かりと重なって、どんどん明るくなってゆく。
お願い・・・!気づかないで!!!
私は強く願った。ぎゅっと固く目を瞑る。
やがて足音が隣の馬の前を通り過ぎ、私の前を通り過ぎた。
い、いけた・・・?
そう思って恐る恐る目を開ける。
その途端、足音の主が、一歩後ろに後ずさった。腰に下げた剣の柄に手を置き、私の顔をしっかりと見据えたため、ばっちり目と目が合ってしまった。
「ゃっ、・・ぁ゛・・・」
そこにいたのは、思いもしない人物だった。
私は、あまりのパニックに、思わず変な唸り声を出してしまい、ますます後悔した。
「ラファウ、どうした!」
すると、先に来ていた男性が、同じく腰の剣に手を伸ばした格好で、殿下の側に駆け寄った。輝くような金の髪を持った青年だ。その整った顔は、どこかで見た気がするけど、思い出せない。というか、そんなの後でいい。
殿下は、先ほどの格好のまま固まって、緑の目を見開いている。すごく居心地が悪い。
私は困ったように眉をキュッと寄せて、無意識に後ろに後ずさった。
すると後ろに出した足が、馬の前足にコツンと当たってしまった。それを嫌がった馬が、その前足を高く上げる。
「フラウ!」
「え」
何が何だか私にはさっぱりだったけど、私はなんだか切羽詰まった様子の殿下に手首を掴まれ、すごい力で引っ張られた。
さすが細身に見えても殿下は男性だ。手を引かれた私は、思ったよりも強い力についていけず、前につんのめった。殿下の胸に、顔からダイブする。
ぶっ
かろうじて声は抑えた、はずだ。私は片手を殿下の胸につき、もう一方の手で鼻を押さえながら、顔を上げようとした。
したところで、私のこめかみ付近に暗い紺色の髪がさらりとかすめて、ぴたっ!と動きを止めた。そして、ギギギ・・・と音がしそうなほどぎこちなく、顔を上げる。
殿下の緑色の瞳が、至近距離で私を見下ろしていた。
キャー!!
こんなに近くで殿下に見られるなんて!耐えられない!!でも、でも、殿下、とても綺麗・・・!
殿下の瞳は、ただじっと、私に注がれていて、私の心はパンク寸前だったけれど、目をそらすことなんて到底できなかった。でも、でも少しだけ、距離を取りたくて、腰を引こうとして、気づいてしまった。私の体が、殿下の片腕に、がっちりとホールドされていることを。
そして、そんな私の動きに抗うように、殿下の腕に力が入り、私は殿下に密着するように抱き抑えられてしまう。
だめだ、腰が砕けそう・・・
「フラウレン、泣いていたのか・・・?」
膝から崩れそうになるのを必死でこらえていた私は、殿下の言葉に、ピキーンと身体を凍らせた。
そうだ、私、顔がぐしゃぐしゃのまま・・・!
さらに言えば、髪の毛もいつものように香油で塗り固めてないから、湿気でボッサボサ・・・!!
かぁっ!っと、音がしそうなくらい赤くなったのが自分でもわかった。思わず両手で顔を覆おうとするも、殿下に片手を掴まれてしまう。解くどころかびくともしなくて、腰も先ほど同様がっちりと抱きかかえられているから、私は無理やり殿下の胸に額をつけることで、顔を隠した。
バレるなんて、最悪だ。
頭上から小さく、殿下の鼻息混じりのため息が聞こえて、私は身を縮こまらせた。
「・・・ラファウ、早く行かなければ。」
「・・・ヘリオス、外套を。」
「!?正気か、ラファウ!連れてなんて行けない!」
「・・・わかっている。が、何故だか、ここに置いていてはいけない気がするんだ。」
ああ、何だかよくわからないけれど、私のせいで2人をすごく困らせている。
私はいたたまれなくなって、さらに身体を小さくした。
そんな私の身体を、殿下はぎゅっと抱きしめる。
とても優しい殿下。だから私はいつも、あなたから離れるのが難しくなる。
ヘリオス様の慌ただしく走る音が遠ざかって、私は殿下の胸から額をそっと離して、恐る恐る、殿下の顔を見上げた。
殿下は、そんな私を、気遣うように見下ろす。
「フラウレン。急ぎ行かなければならないところがある。本来なら、君のような女性を連れて行くところではないんだが・・・すまない、少し付き合ってくれ。」
殿下の言葉に、頭にハテナが浮かぶものの、素直にこくんと頷く。すると、殿下も小さく頷いた。
少しだけ緊張の解けた私は、先ほどから気になっていたことを口に出してみることにした。
「殿下、先ほど、フラウ、と・・・」
殿下の顔が盛大に顰められると同時に、戻ってきたヘリオス様が私の体に厚手の外套を掛けて下さり、それ以上言うことができなくなってしまった。
ヘリオス様が持ってきてくれた外套は、中に綿が詰められた、フード付きの雨具だった。
男性もののそれは、私には大きすぎて、本来膝丈のそれは、私の足首まですっぽりと隠してしまった。しかしそのままでは足が濡れてしまうからと、水を弾く毛皮のブーツを貸してもらった。
さらに、大きなフードをかぶれば目元まですっぽりと覆われてしまい、一見すると女性だとはわからない、大きなてるてる坊主のような、滑稽な姿になった。
そんな私は今、殿下の愛馬の上で、殿下の胸にしがみつく形で、降りしきる雨の中を結構な早さで疾走している。
何故こんなことになったのかといえば、馬に乗れないと言った私に大きなため息をついたヘリオス様が、私の腕を掴もうとしたのに対し、殿下が無言で私の腰を抱いたまま、殿下の愛馬の上に引き上げてしまったからである。
殿下は私を自分の前に横向きに座らせ、片手で手綱を、片腕で私の腰をつかむと、さっさと馬を走らせ始めてしまった。
後からやや遅れて、近衛兵の方々が馬を走らせてくる気配がする。
いや、皆さんの動揺はごもっともです!
突然現れた殿下が、得体の知れないものと二人乗りで、しかも自分の前に乗せたら、怪訝に思わないほうがおかしい。
近衛兵の方々がいらっしゃるからには、これはご公務の一環なんだろうから、尚更。
殿下ご自身で、ご自分の株を落とすような行為だ。
こんなの、到底受け入れられない。
しかし、残念ことに私、1人では馬に乗れないのだ!
そんな私が、殿下に支えられているとはいえ、結構なスピードを出す馬の上に、座っていられるだけでも奇跡みたいなもの。
走っている時間自体はおそらく10分かそこらなのだろうけど、馬の揺れに合わせてお尻がごっつんごっつんぶつかって痛いし、殿下にしがみついている両手も、そろそろ痺れて限界だ。
殿下に抱っこされて乗馬なんて夢のようーなんて程遠い、本気で辛いとしか思えない状況。しかも、雨。私は、てるてる坊主状態で、進行方向に後頭部を向けているから、ほとんど濡れることはない。それでも、打ち付ける雨が、外套越しに伝わって痛いと感じるのに、フードを被っているとはいえ、顔面に雨粒を受けているだろう殿下の痛みはいかほどか。
こんな日に、急ぎで行かなければならないところって、どこだろう。
私の脳裏に、嫌な予感がよぎる。
ほどなくして、殿下は馬の歩みを止めた。
どうやら目的地に到着したらしい。
私は痺れる手を殿下の胸から引き剥がし、そっとフードを目の高さまで持ち上げた。
まず目の前に飛び込んできたのは、川だった。茶色い濁流が轟々と音を立てながら流れている。私たちは、その川の堤防の上に立っていた。背後には山、堤防の両側には、民家が立ち並んでいる。川の下降方向を眺めると、王都の城壁と、城の上部が見えた。
どうやらここは、王都を流れる支流の本流、ハイル川の側にある町らしい。
ここまで来る間に、雨は幾分か小降りになっていた。殿下はご自分の外套のフードを背中に落とし、川を挟んだ向こう岸の堤防を見つめた。
一瞬殿下の雨に濡れたお顔にときめいてしまった私も、慌てて向こう岸に目をやる。
ちょうど、ハイル川の蛇行部。その堤防の上に、いくつもの明かりと、人影が見えた。
目を凝らしてよく見ると、土嚢を腕に抱え、堤防の補修を行っているように見える。
この雨で川が増水して、堤防が欠損したんだわ。
堤防の向こう側の町には、人の気配は見えない。おそらく、既にどこか安全な場所に避難させているのだろう。
川の水位は普段よりもだいぶ高くなっている。けれど、私たちのいる高さにはまだまだ及ばない。
「この調子だと、保ちこたえそうだな。」
背後から、ヘリオス様が近づいてきた言った。
・・・そうかしら。
と私は思う。
越流しない、という意味でなら、保つかもしれない。しかし。
私の母国メシアは、自然に囲まれた辺境の地。ここマルバラフの様に立派には、整備されていない川が幾つもある。
元来、空から降る雨は、木々の根が抱く大地に保水され、徐々に染み出し川となる。けれど、ここ最近の長雨で、大地の保水力は等に限界がきているはずだ。それは、川の源流の山でもそうだし、ここの、土で作られた堤防もまた然り。
つまり、目には見えないけれど、脆くなっているのだ。
それに、仮に今ここで雨が止んだとしても、ハイル川の勢いは、あと2,3日は弱まることはないだろう。その間、脆弱な堤防が耐えられるか。
どちらとも、断定はできないけれど、保ちこたえそうだ、と言えるほど楽観視できる状況でないことは確かだ。
殿下は、ヘリオス様の問いに、押し黙った。
そして、しばらくの間をおいてから、
「派遣している軍を増員させよう」
と答えた。
ハイル川の増水が引かない限り、脆弱化した堤防全体を補修することはできない。
それならば、今欠損したところを早急に補修して、早く人を下がらせた方が良い。
という具合だろうか。
さすがは殿下だ。ご自分の判断が、人の命を左右しかねないことを十分にわかってらっしゃる。けして状況を楽観視なさらず、被害を最小限にする方法を導き出す。
私は殿下を見上げた。
殿下は私の視線に気づいたのか、視線を合わせた。
「こんな所に連れてきて、すまなかった。さぁ、帰ろう。」
そう言って、背中のフードをかぶる。
帰る、のか・・・
まだお尻と手が回復してないのだけれど・・・
思わず顔が引きつる。
と、その時だ。嗅ぎ慣れない匂いがして、私はくん、と鼻をすすった。
何だろう、この匂い。嗅ぎ慣れたことのある、なんだったかしら・・・
殿下やヘリオス様は、気づいておられないようだ。手綱を握り、馬の向きを変える。
雨の匂い?いや、雨は土埃のような匂いがするけれど、これは少し違う。埃というよりは、カビ?そうだ、カビの匂いだ。土の、カビの、・・・・・・!!!
私は唐突に、それの正体を思い出した。
母国で何度も嗅いだことのある、あの匂い。
頭から血の気が引いた。
「で、殿下っ!!」
私は慌てて殿下の胸を叩き、顔を見上げた。けれど、大きなフードが邪魔をして、私の視界を塞ぐ。
あぁ、もう!
私は邪魔なフードを乱雑に後ろに引っ張った。そして見えたのは、殿下の驚いた瞳だ。
「フラウレン」
殿下の口から、私の名前が聞こえる。その顔は、いつものような、綺麗な無表情。だけど瞳が、少し咎めるような色をしているのに気づいた。
気づいたけれど、私はそれを無視して叫んだ。
「殿下!!今すぐここを離れてください!みなさんも、早く下がらせて!!」
殿下の眉が寄せられる。
それはそうだろう、突然小娘にこんなことを言われて、はいそうですかと素直に聞けるはずがない。
それはわかっているけれど、今すぐ逃げないと、大変なことになるのだ。
私は、殿下の瞳を真っ直ぐに見つめた。
どうか、伝わってと願いながら。
すると殿下は一つ瞬きをすると、意を決したように、被ったばかりのご自分のフードを外した。そして、周りに聞こえる大きな声でこう叫んだ。
「全員、撤退!!対岸へ伝令を!急げ!」
私は目を見開いた。まさかこんな簡単に、殿下が私を信じてくれるなんて正直思っていなかったからだ。
でも、余韻に浸っている暇はない。私は殿下の後に続いて叫んだ。
「下流方向へ逃げてはだめ!!出来るだけ、川から離れて!!!」
私は尚も叫ぼうとしたが、殿下が馬を動かし始めたので殿下の胸に手を伸ばした。すぐに馬は速度を速め、堤防を駆け下りる。
私は殿下の胸に顔をうずめ、ぎゅっと服をつかんだ。舌を噛まぬよう、口を引き結ぶ。
その時だった。
突然、空気がゴゴゴォと震え、地面がガタガタと揺れ始めた。
周りから、何事かと叫ぶ声が聞こえてくる。
しかし次の瞬間、叫び声は悲鳴に変わった。
大地が裂けるような、物凄い轟音とともに、背後で建物がバリバリと壊れる音が聞こえる。
私はガタガタと震える体を、殿下にさらに押し付けた。胸を掴んでいた手を、殿下の腰に回してしがみつく。
殿下の馬がスピードを上げた。
やがて音は遠ざかり、後には不気味な静寂が訪れた。
その間も私は、殿下の腰にしがみ続けた。
どれ程の時間が経っただろう。短いようにも、永遠のようにも思えた。
突然、殿下が馬のスピードを緩めた。
私はようやく、腕の力を緩めて、ゆっくりと殿下の胸から体を起こした。
馬は既に城壁を超え、城の門をくぐり抜けるところだった。殿下は馬を止めると、手綱を放して私を見つめた。
口で荒い息をしているものの、目立った外傷はないようで、私はほっと胸をなでおろす。
「よ、くぞ、ご無事で。」
被害にあったものも、いたはずだ。けれど、まずは、殿下が無事でいらっしゃったことで、私は胸をなでおろす。
殿下は片腕で私を力強く抱きしめ、もう一方の手で私の頭を支えた。
そして、噛み付くようなキスをした。
そして、すぐに顔を離すと、私ごと馬から降りた。地面に崩れそうになった私を支えて立ち上がる。
「仔細は後だ。私はもう一度戻らなければならない。」
私はこくんと頷いた。
震える足を叱咤して、殿下の胸に手をつき、そっと押して身体を離す。
ちょうど城の入り口から兵が駆け出してきた。殿下は、その内の1人に私を任せて、ご自分はすぐに兵をかき集めて再び馬上の人となった。私は、兵士の1人に身体を支えられ、ぎこちなく城の入り口へと向かう。途中、首を伸ばして背後を見れば、殿下は既に背中を向けて走り出していた。
城に入ると、私は兵士から女中に託された。客室に連れて行かれ、ドロドロになった外套とブーツを脱ぐ。そのまま、湿ったドレスも脱がされ、用意されていた湯船に浸けられた。土で真っ黒に汚れた白い髪の毛も、花の香りの石鹸で、丁寧に泥を洗い流される。
私はなされるがままになりながらも、心ここに在らずといった感じだった。
まだ先ほどの衝撃から立ち直っていないし、再びあの場に向かわれた殿下を思うと、心配で心を落ち着けるなど到底不可能だった。
綺麗になった身体を拭い、新しく用意された、身体を締め付けない楽なドレスに着替えると、ちょうど侍女のエリザベートが、息を荒くしてやってきた。その目には、涙がたまっていた。
私はエリザベートとともに自室に帰り、温かいお茶を飲んだ。
体は鉛のように重く、疲れていたが、殿下のことを思うと、眠るなんてできそうになかった。
「土石流、ですか」
私の話を聞いていたエリザベートが、ごくっと唾を飲み込んだ。
「確かに、土石流の発生する前に、土埃のような匂いがすると聞いたことはありますが・・・」
「メシアでは、あまり山や川を弄らないから、土石流の話も経験談として有名よね。でも、私も実際にその場に居合わせたのは初めてよ。」
そして、あんなに恐ろしいものだと知ったのも。
土石流が立て続けに2回起こるとはあまり聞いたことのない話だが、無いとは言い切れない。再び現地に赴かれた殿下の安否が気にかかる。
「フラウレン様、そろそろお休みになられた方が。」
外は日が沈んで久しい。
私は、そうね、と言って、気遣わしげなエリザベートを下がらせた。
そして朝日が昇る頃、遠慮がちなノックと共に、エリザベートが殿下の帰還を告げに来て、私はようやく眠りにつくことができた。
ハイル川の上流で土石流が発生して1週間が過ぎた。
その間に、あれほど長引いた雨は止み、ここ数日は久しぶりの晴天に恵まれていた。
1度、エレオノーレが訪ねてきた。以前私と言い合いになった際に、部屋を出て行った私が、ドロドロになって帰ってきた、という情報だけ得たようだ。
私の身を心配してくれるエレオノーレと、ぽつりぽつりと話した。
まぁ、姉妹だし、前からそれほど仲も悪く無いから、もう少し時間が経てば仲直りできるだろうと思う。
そして今日の私は、朝から身支度に余念が無い。殿下に、執務室に来るよう言われているのだ。
術中百九、土石流の話だとは思うが、私には一つ、気になることがあった。
私、どさくさに紛れて、殿下と、キスしなかった・・・?
荒い息をした殿下が、私を抱き寄せて、噛み付くようなキスを・・・
ぼふんっと音を立てる勢いで顔が真っ赤に染まる。背後で私の髪を結っているエリザベートが、フラウレン様?と訝しむが、こんなこと、言えるはずが無い!
ぶんぶんと首を横に振って誤魔化した。
初めての、キス。
なのに、突然すぎて、殿下の唇を感じる余裕がなかった・・・
しかも、私はドロドロのぼさぼさ。
初めてのキスって、もっと甘くて綺麗なものだと思っていた私は、少なからずショックも受けていた。
エリザベートの手によって、香油でベタベタながらも綺麗にまとめあげられた髪の毛と、普段はあまり着ない、上質な布地の薄いピンク色のドレス。私は満足げに頷いた。
大丈夫、見られないことも無いはずよ。
そして、ふうと一呼吸おくと、大きな両開きの扉の前に立った。この奥に殿下がいるかと思うと、すごくドキドキしてくる。
エリザベートが扉の両側を守る騎士に話をすると、騎士は扉の奥の殿下に確認を取り、私を中に招き入れた。
「フラウレン・バッツドルフ、只今参上いたしました。殿下に置かれましては、ご機嫌麗しく・・・」
・・・ないようだ。
思わず言葉が途中で止まってしまうが、執務室の中央奥で書類にサインをしていた殿下はこちらを一瞥したのみで、座れ、と言うとすぐに書類に目を落としてしまった。
エリザベートに助けを求めようにも、彼女は執務室の扉の外で待機させている。
殿下の隣に目をやれば、ヘリオス様が腕を組み、壁にもたれかかってこちらを見ていた。
なんだか、すごく怖いんですけど・・・
わたしはびくびくしながらも、侯爵家で教えられてきた礼儀作法を必死で思い出しながら、出来うる限り淑やかに、執務机の前に向かい合わせに置かれたソファの1つに腰掛けた。
すかさず、女中によってカチャっと目の前のテーブルの上にお茶が置かれるが、とてもとても、飲めるような雰囲気ではない。
「バッツドルフ様、お構いなく、どうぞお召し上がりください。」
なのに、ヘリオス様が親切心からか、ありがたくないことを勧めてくる。
飲めと言われて飲まないわけにはいけなくなった。
私はだいぶ躊躇いながら、震える指先で、そっとカップの持ち手を摘んだ。
ああ、やっぱりだめだ、このまま摘み上げたら、震えで中のお茶をこぼしてしまいそうだ。
その時、天使が舞い降りた。
「無理して飲むことはない、フラウレン。ヘリオス、やはり早急すぎたようだ。」
殿下が筆を置いて、席を立つ。執務机の横を回り込みながら、私の座るソファへ近づき、腰を下ろした。
ソファ越しに、殿下の座った反動が、ミシっと伝わる。
私はその一連の流れを、ぼうっと見ているしかできなかった。
殿下、何故私の隣に・・・?
プライベートならいざ知らず、ここは殿下の執務室で、すぐそばにはヘリオス様と、女中も控えている。
しかし、疑問に思ったのは私だけなのだろうか?誰も突っ込むことはしない。
ヘリオス様が壁から身体を起こして言った。
「本当に、バッツドルフのご令嬢となると甘いな、お前は。1週間も待ったんだ。これ以上待てるか。」
声が怒っている。
というかヘリオス様は、私が出会ってからずっと、怒っているところしか見たことがない気がする。
もしかしなくても私、彼に嫌われているのかもしれない。
それよりも、さっきから会話を聞いていれば、何やら殿下たちは私に聞きたいことがあるのに、私を心配して、もう少し待とうか、いやもう待てない、などと言っているようだ。
ここは私が口を開かねば、場が収まらない気がする。
「・・・あの、私なら大丈夫ですから・・・。殿下、お気遣い頂き、ありがとうございます。ですが、必要とあらば、殿下のお力になることを、私は厭いません。どうぞ、何なりと・・・」
ヘリオス様が、鼻でフンッと笑って、私の向かいに腰掛ける。
「では聞くが、貴方は何故あの時、土石流が来るとわかったんだ?」
既に言葉もやや乱暴になっている気がするんですけど。
私は心を痛めながらも、顔に出さぬよう努めて、ヘリオス様に返事をした。
「匂いが、しました。山の土を掘り返した様な匂いです。我が母国メシアでは、土石流の前兆として、よく語られる匂いです。」
匂い・・・と、隣で殿下が呟かれた。
ヘリオス様は納得がいかないのか、眉を寄せている。
「確かに、今思い起こせば土臭かった様な気もするが。雨の匂いじゃないのか・・・?不確かな匂いだけで、あの場で殿下を動かしたというのか?」
これは問いかけというよりも、独り言の様だ。ヘリオス様は腕を組み、じっと足元を見て悩まれている様だった。
でも、ヘリオス様の言うこともごもっともだと思う。もしもあの時、単なる私の勘違いで殿下や近衛騎士の方々を動かしていたら、後々不敬罪を言い渡されてもおかしくない。殿下に危険を進言するには、ものすごい勇気がいることだと思う。
とは言え、私がものすごい勇気の持ち主だったということでは、絶対ない、という自信がある。
あの時はただ、必死で、他のことを考えられなかっただけだ。
だから、ヘリオス様がご納得できる様な理由も持ち合わせていないから、私はただ、彼に判断を任せるしか術がない。
でも、何故殿下は、私の言葉をすぐに信じてくれたのだろう。
私は首を傾げて、隣に座る殿下を見上げた。
それとほぼ同時に、同じことを考えたのだろうか、ヘリオス様も殿下を見る。
同時に2人に見つめられた殿下は、目をパチパチさせた。
「・・・フラウレンの目が、綺麗だったからな」
今度は私たちがパチパチする番である。
「危険が起こることを疑いもしていない、真っ直ぐで、綺麗な瞳だった。」
何故だろう。そうしてじっと見つめられると、まるで口説かれていると錯覚してしまいそうになる。
私は思わず、殿下の瞳に縫い付けられたかのように動けなくなってしまった。
それを見たヘリオス様が、ボソッと呟いた。
「・・・人前でいちゃつくな」
しゅぼんっと音がして、私の顔は爆発して真っ赤になった。
い、いちゃつくって、あのいちゃつく?
若い男女が、お互いベタベタ触って愛を囁いたり、キスしたりするあれ・・・
って、キス・・・!!!
「・・・レン。フラウレン。」
はっと殿下の方を見るが、それがいけなかった。
キス。殿下とキス。殿下と、キス・・・!
私はパチンと音がするほどの勢いで、両手で口元を覆った。思わず殿下から離れるように身体を反らす。
顔は見なくても真っ赤だろう。体が熱い。
「・・・もしかして、もう済んでたのか?お前、意外と手が早いな・・・」
ため息混じりのヘリオス様の声に、私は一瞬なんのことだかわからなかった。
済む?済むって何を・・・
はっ!私が咄嗟に口に手をやったから!?キスしたのばれてしまったっていうの!!?
もう、限界だった。
顔は熟れたトマトのように真っ赤で、熱で目が潤み出す。私は、口を覆っていた手を広げて顔全体を隠した。我慢できずに、退出しようと腰を浮かす。
が、なんと、顔を隠していた手を、殿下に掴まれてしまった。
私は浮かした腰を再びソファにポスンと戻すしかなかった。そしてどうしたらいいかわからず、殿下に掴まれた腕に顔を寄せ、俯く。もちろん、もう一方の手で顔を覆っているけれど、全然、隠れきれていない。恥ずかしすぎる。殿下、何故・・・!
「ヘリオス、もういい、出て行け。フラウレン、まだ話は終わっていない。」
いつもは無表情で素敵な殿下だけれど、ああ、この時ばかりは殿下の冷静さが憎い。
殿下、よくこんな状態の私を引き止められますね!話、できるように見えますか!?
でも、そんなこと面と向かって言えない私は、ぎゅっと目をつむって悶絶していた。
その間に、向かいのソファに座っていたヘリオス様がゆっくりと私の横を通り過ぎ、扉を開けて出て行かれた。そのあとを、茶器を乗せた滑車がガチャンガチャンと音を立てて付いて行く。
やがて執務室の扉がばたんと閉められると、部屋の中はしーんと静まり返った。
それでも私は、まだ顔を上げることができない。
しばらくそのまま、時間だけが過ぎていった。
「フラウレン。」
殿下がぽつんと呟かれた。私は固く瞑った目を少しだけ開いた。
「私は君が羨ましい。」
殿下の思いがけない言葉に、私は思わず顔を上げる。殿下の緑の瞳とぶつかった。
「私は、自分の感情を表に出すということが難しい。それを君は、難なくやってのける。」
「そ、そんな!むしろ私は、殿下のように大人になりたい、のです・・・」
私は慌てて否定する。勿論、本心だ。
それに、殿下は殿下だ。殿下が私のように顔を真っ赤にさせるなんて、想像もできない。
でも、そんなところも含めて素敵なのだ。
しかし殿下は納得しなかったようで、ゆっくりと首を横に振った。
「・・・フラウレン。私たちが初めて、庭園で出会った時のことを覚えているか?」
私は内心首をかしげながら、小さく頷いた。
勿論、殿下と初めてまともにお話しした日のことは、今も鮮明に覚えている。
あれは私がマルバラフ王国に留学してきてしばらく経った頃。
殿下とはそれまでに夜会などで何度かお目にかかったことはあったけれど、まさか庭園で出会うとは思っていなくて、そして、普段は上品な笑みを貼り付けている殿下が、酷く危うい瞳をしていることに気がついて、驚いた。
けれど、何故今その話を?
「あの日私は、酷く疲れていた。国内で小さな内乱が起きて、鎮圧のために国民を殺めてきた後だったのだ。」
「それまでの私は、施政者として、大きなもののためには小さな犠牲は仕方のないものだと思っていた。そしてその時も、内乱が各地に飛び火する前に早急に武力で方をつけることは、最善の策だと思っていた。」
私は黙って殿下の声に耳を傾けた。
私の腕を掴む殿下の手に、力が入る。
「帰り際、ある少年が私に刃を突き立てた。私は恥ずべきことにそれまで、私が殺めた国民の一人一人に、命があり、人生があり、悲しむ者がいることを、わかっているつもりで、実際には微塵にも感じていなかった。そして、その少年は、私のために殺された。私はその時初めて、一つの命のために泣いた。」
殿下は目を伏せ、その瞳に睫毛の影を作った。
「周りの者たちは、私のしたことは間違いないと言う。むしろ、上に立つ者が、一人のために何かを捧げることは危険なことだと。わからなくもない。けれど、その時の私の心に湧いた疑問を、払拭することはできなかった。」
殿下の緑色の瞳が、光が陰るように曇った。
そう、それはまるで、あの時出会った殿下と同じ。
私は思わず、腕を掴む殿下の手に、自分の掌を重ねた。
殿下が、伏せていた瞼をあげて、私を見る。
「その時、君と出会った。」
どきり、と私の心が跳ねた。
私は誤魔化すように、慌てて口を開く。
「わ、私ったら、その時、蟻に餌をやっていたのでしたよねっ!!」
「あぁ、変わったご令嬢だったね。そして、突拍子もないことをしでかした。」
そう言うと殿下は、ふっと笑って、体を私の方へ倒してきた。私の胸に、顔を埋める。
わっわっ・・・!!
「あの時も、こうして胸に抱いてくれた。」
私は慌てて、キョロキョロと左右を見回した。勿論、誰もいないのはわかってるんだけど。殿下の肩に手を置いて、そっと押し返す。
すると、殿下の両腕が腰に回されて、一層くっつく形になってしまった。
「たまには、甘えさせてくれ。君くらいにしか、私は甘えられないんだ。」
そう言われて、私はもう、殿下の肩を押し返すことはできなかった。手を置いたまま、おろおろとするばかり。
胸元にある殿下の顔を見下ろすと、目を閉じて、安らかな顔で深呼吸をしていらっしゃる。私には、殿下が優しく笑っていらっしゃるように見えて、もうこの状態をなんとかするのを諦めることにした。ドキドキするのは相変わらずだけれど。
「あの時は、私たちは恋人でもなければ、友達でもなかった。なのに、年頃の男性を胸に抱きしめるなんて、躊躇いはしなかったの?」
私の胸に頬を押し付けながら、殿下は囁くような小さな声を出した。まるで、小さな男の子が、眠る前に母親に甘えているようだ。
そう思うと、私は少し心が和らいで、殿下の肩を控えめに抱いた。
殿下のお心が、少しでも癒されますように。
「・・・全く意識しなかったと言えば、嘘になりますが。あの時は、殿下のご様子も尋常ではありませんでしたし。・・・それに、私の貧相な胸に抱きしめたくらいで、殿下は欲情されるはずがない、と思ったのです。」
後半は、恥ずかしくて少し声がすぼんでしまった。
しかしその後、殿下の更に恥ずかしい言葉によって、私は体をガッチガチに固まらせてしまうのだった。
「欲情?・・・するよ。私だってね。でも、それはまた、次回・・・」
あっま
この後何があったか、本編では飛ばす予定ですが、代わりに短編で書こうかなと思っています。予想通りの激甘になる予定ですので、お好きなのみどうぞ。
あと、蟻の話もその内詳しく書きたいなぁ。今のままでは、フラウレンがあんまりなので。