エレオノーレの懺悔
エリザベートに温かいお茶を入れてもらった私たちは、ソファに向かい合わせに腰掛けようやく人心地着いた。壊れたローテーブルは、エリザベート達の手によって、既に簡易テーブルへと差し替えられている。とはいえ、未だ冷めやらぬ恐怖が、カップを持つ手を震わせて、カチャリと音を立ててしまうけれど。
何だか色々と疲れて、ふぅーと大きくため息をつくと、何故だか向かいのエレオノーレがピクリと肩を震わせる。
心外だ。
「・・・別に、貴方に呆れてため息をついたわけではないのよ。呆れてないとは言わないけれど。」
思わずもう一度ため息をこぼすと、エレオノーレは手にしていたカップを机に置いて、その縁に手を沿わせる。
「自分でも、子供っぽいことをしている自覚はあるもの。けど、あんなに怒らなくて良いじゃない?」
語気には少しの怒りが含まれていたが、先ほどに比べだいぶ冷静さを取り戻したようで、安心する。
「それは、貴方がお母様の話を持ち出したのが悪いんでしょう。お父様に、お母様の話は禁句なの、もう忘れてしまった?」
「忘れてないわよ!でも、話というほど?お母様って単語を使っただけよ?」
「・・・それほどに、お父様の心の傷は深いのでしょうよ。それに、お父様が怒るのも最もだと思うわよ?今回ばかりは、うちの中だけの話じゃないもの。マルバラフを巻き込むだなんて。」
「巻き込むつもりは・・・」
尚も反論しかけたエレオノーレだが、カップの縁をなぞりながら視線を泳がせているところを見ると、一応自覚はあるようだ。
姉としては可愛い妹を甘やかせたい気持ちもあるが、叱るのもまた勤め。二度と同じことが起きないよう、もう少し深く追求しなければならない。
「そもそも、何故マルバラフに?いえ、何故家出なんてしたの?」
咎めるような口調にならないよう注意して、優しく問う。するとエレオノーレは、唇を噛んで沈黙した。テーブルの上をじっと凝視して、何やら言おうか言うまいか考え込んでいるようだ。
これはもうしばらく時間がかかるか、とちらりとエリザベートの方を見てお茶のおかわりでももらおうかと思ったその時、エレオノーレはふぅーっと長い長いため息をついて、どさりとソファの背に体を預けた。まるで淑女らしからぬ行動に思わず眉をひそめるが、どうやら腹をくくったらしい妹に、ぐっと小言を我慢する。
「縁談が来たの」
「・・・縁談?」
それは、エレオノーレに、で間違いないだろうか。だが、そんな話は初耳だった。
「・・・お相手は?」
全く思いつかなくて素直に尋ねると、エレオノーレは仏頂面でしばし沈黙するも、やがてポツリとその名をこぼした。
「イズルード」
・・・は。
と、口に出さなかった私を誰か褒めてくれ。
イズルードって、あのイズルードで間違い無いだろうか。二年前まで私の婚約者で、婚約を破棄したと思っていたら未だ婚約は有効だと主張し、最近はここマルバラフで私を口説こうとする、あのイズルードのことで。
意味がわからず次の言葉が出てこない私を置き去りにして、仏頂面を崩さぬエレオノーレがどんどん話を先に進めてゆく。
「お姉様との婚約は、間違いなくお父様が最もらしい理由をつけて破棄しているわよ。でもその後、家の利益がどうのこうのって話で、今度は私との婚約話が持ち上がったらしいの。でも私、いくら顔が良くったって他に好きな人がいる男性と結婚するのなんか我慢できないのよね。だから家出して来た。」
「・・・それは、何というか・・・」
驚きすぎて直ぐには言葉が出てこない。
確かにエレオノーレからしたら、他に好きな相手のいる男性と婚約するなんて嬉しい話ではないだろう。どうやら当人達の意思は置いてきぼりで、両家の当主同士で勝手に取り決めてしまったらしい。
しかしだからといって家出するのはどうかと思うが。
「それで、どうにも婚約させられそうになったから家出してみたものの行き先がなくて、とりあえずお姉様のところに寄ってみたのよね。すぐに足がつきそうだから長くいるつもりはこれっぽっちもなかったんだけど。でも来てみればラファウ殿下がしばらく滞在していけって煩くて。最初は鬱陶しいと思ったんだけど、よく考えたらラファウ殿下もかっこよくて優しいし、イズルードよりも身分が高くて私のこと求めてくれるから、ラファウ殿下を落とせればイズルードとの婚約話も立ち消えて一石二鳥かなと思って。」
饒舌なエレオノーレの話を、私はただ眉間に皺を寄せて黙って聞いていた。
気になる言葉が何個か聞こえた気がしたが、話が進まなさそうなのでじっと我慢することにする。
「いえ、正直言うとね、お姉様が殿下に気があるの、知ってて近づいたのよ。」
「・・・どういうこと?」
「だってお姉様、いつもいつも、私の欲しいものを全部手に入れていくんだもの。だから、たまには私に奪われれば良いと思ったのよ。」
完全にふっきれたエレオノーレは、悪びれもなく正直に淡々と語る。
その言葉に私の心は穏やかではいられない。
「・・・私がいつ、あなたの欲しいものを手に入れたというのよ?」
「怒らないでよ。お姉様が殿下と恋仲だって気づいてからは、むしろ協力してあげたじゃない!お父様はお姉様には甘いし、お母様との思い出は私にはない。初恋の人だって取られるし、屋敷の使用人はみんなお姉様の味方!これのどこが手に入れてないとでも!?でも私だって悪じゃないんだから、お姉様の本気の恋に横恋慕入れたりはしないわよ。」
エレオノーレのよくわからない理論に、眉間に寄った皺をほぐすように指で揉みしだく。
ツッコミどころが何個かあったように思うが、どこから掘り下げれば良いのだろうか。
そして、私たちに残された自由時間はあとどれくらいなのだろう・・・
ちらりと窓の外を見て、日が随分高い位置にあることを確認する。そのままエリザベートに視線を移せば、有能な侍女は、こちらと目が合うと、表情を変えずに片手をわずかにあげて、親指と人差し指で小さな隙間を作って見せた。
曰く、もう少し。
私たちに残された時間は、多くはない。どちらかといえば少ない。では、最も気になる話題から突っ込んでいくことにする。
「本気の恋には邪魔しない、と言ったけれど、だったら何故イズルードを寄越したの?貴方が以前言っていた切り札って、イズルードのことでしょう?」
「あれはお姉様達が恋仲だって気づく前から動いてた話だもの。今更なかったことにはできなかったのよ。でもまぁ、結果的には良かったんじゃないの?イズルードは昔の恋に区切りをつけられるし、お姉様達は障害でより一層仲良くなっちゃうんでしょう?」
悪びれずに言い切るエレオノーレに胸のムカムカが増して来て、何か言ってやろうかという気持ちがもたげたが、最後の一言にそんな気持ちも吹き飛んでしまった。
突然頭に浮かんだのは、先日受けた、ラファウ様からのプロポーズ。
もしかしてあれは、少なからずイズルードに触発されての行動だったのだろうか。
だとすると・・・イズルードには悪いが、嬉しい・・・
「ああ、なっちゃう、じゃなくて、なったのね。イズルードも可哀想に、いい気味!」
同情しているのかけなしているのかどっちなのだ、とツッコミを入れる余裕はない。何故なら、私は顔を真っ赤にするのに忙しいからだ。
「で、では、ええと、イズルードの目的は、私との関係にけじめをつけること、で良いのね?けれど私はラファウ様以外に考えられないから、彼の気持ちには応えられない。ならそれでイズルードについては一件落着?」
「あらお姉様、そう簡単にいくかしら?」
「え?」
「なんせ婚約を破棄されるという屈辱を受けても諦めきれず、国境まで越えてやって来た男よ。相手が大国の皇太子だと知っても引く気は無いみたいだし。そんなねちっこい男が、お姉様に振られたくらいであっさりと引くかしら?」
「それは」
「お姉様、イズルードを侮ってはダメよ。まだ、油断しちゃ、だめ。次期侯爵の名は伊達じゃ無いわよ。」
「そんな、」
大袈裟な・・・と鼻で笑おうとして、しかしエレオノーレの真面目な顔に、それは失敗した。
その時、突然頭に先ほどの父の声が蘇る。
「そういえば先ほどお父様は、今回の職務はは護衛だと・・・」
「護衛?お父様が直々に?一体どんだけ偉い人よ、それ。」
「わからない。けど、相当身分の高い方よね。そして、バッツドルフの名に隠れる必要のある方。」
「イズルードの差し金だっていうの?いえ、お父様のことだもの、ただの比喩かもしれないわよ。・・・でも、ねえ、お姉様。お父様は、お姉様と殿下のことご存知なの?」
「いえ、公の仲ではないし、まだお伝えはしていないから、ご存知ないはずだわ。」
「なら、お父様がイズルードから上手いように言いくるめられてる可能性もなくないわね。もしご存知なら、マルバラフの皇太子妃なんて座、野心家のお父様が手放すはずがないもの。・・・でも、それならなぜ、お姉様の留学を未だお認めになってるのかしら。」
「・・・そうね」
二人の間に沈黙が降りる。
だが、手がかりの何も無い状態で考え込んでも意味がない。今はこの話題は置いとくのが無難だ。
そう考え直して、話題を変えるように口を開く。
「とにかく、イズルードには今後も気をつけるわ。」
「それが良いわ。あと、例の婚約者様にも、ね。」
エレオノーレの含みをもたせた声に、私は一瞬ぽかんとしてしまった。が、次の瞬間、様々な懸案事項を思い出して盛大に眉をしかめる。
「お姉様ったら、あんな強敵のこと忘れてたの!?良い神経してるわね。」
「ええ、ええ、そうね。でも・・・」
私は頭にナディア様の凛々しいお姿を思い出す。その隣に立つのは、星空の色の髪の下に、端正な顔を携えたラファウ様だ。その宝石のような緑色の瞳が細められ、隣に立つナディア様を優しく見下ろす。
とても絵になるお二方。
「・・・そっちはもう、手遅れかもしれない」
なんでもないことのように口にしようと思って来た言葉は、意に反して震えを伴った。私は恥ずかしさを隠すように顔をうつむける。じわり、と目元が潤むのがわかった。
「手遅れってどういうこと?まさかもう結婚が決まっ・・・あっ!まさかお姉様、あの噂ーーー!」
エレオノーレが声を張り上げようとした時、部屋の扉がこんこん、とノックされた。エリザベートに合図をすれば、彼女は少し申し訳なさそうに前に進み出る。
「申し訳御座いません、お嬢様方。そろそろお支度の時間にございます。」
エリザベートの声と共に、扉の向こうから今夜のパーティーの支度を手伝うためにやってきた女官たちが入室してくる。
有無を言わさぬ態度から、もう時間に余裕がないことを察した私は、まだ何か言いたげに眉を寄せるエレオノーレの背中を押して、少々強引に扉の外で待つエレオノーレの女中達に引き渡したのであった。
エリザベートが余程根気よく私たちの自由時間を見守っていてくれていたらしい、とわかったのは、身支度をしながら軽い昼食を食べさせられたからだった。
まさか、コルセットでお腹をぐいぐい締め付けられながら口に食べ物を放り込まれる日が来るとは。ただ、全く飲み下せなくて、ほとんど昼食を摂ったとは言えないけれど。
何故かいつもより、身支度に力がこもっているのも良くなかった。お湯に浸かり丹念に磨き上げられた体には、いつも以上に幾重にもクリームが塗り重ねられた。髪も、トリートメントだけで2〜3回は洗い流したはずだ。
やっと服が着られると思ったら、出てきたのは事前に予定していたドレスではなく。しかも、普段なら絶対に着ないような、露出の高く華美なドレスだった。首元はきっちりとボタンで留められているが、胸元は薄くピンクがかったシースルーになっていて、複雑に織り込まれた刺繍が胸元を隠したり隠さなかったりと、平素と比べればなんとも際どい。腕に至ってはノースリーブで、二の腕をこれでもかというほど晒している。スカートは光沢のあるやや分厚い生地ながら、歩けば脚のラインをやんわりと見せつける。
全体的に刺繍が多く、見た目に反してとても重い。さらに、着付けた後に付けられる宝石と言ったら。その数だけでなく、一つ一つの大きさに、私の顔は盛大に引きつっていた。
「御当主様の言いつけで」
そう言われると、断ることなどできやしない。
一体、こんなに着飾って何だというのだ。
突然やってきた父は、今日という日に自分の娘を目立たせて何がしたい。
何か良い知らせでもあるとでもいうのだろうか。
いいや、そんなことはあるはずがない。
今夜、パーティーが終わる頃、私はきっと目を真っ赤に腫らせているだろうから。
ただでさえ重い気分が、この衣装のおかげで精神的にも物理的にもより重く感じる。
私は目元を伏せ、長い長いため息をついた。
瞳に影を作った長い真っ白なまつげが目に入る。もちろん、自前ではない。化粧でで元の2倍も長く細工してある。
豪華なのは衣装だけでなく、化粧だってまた然りなのだ。
ていうか、よく探してきたわよね・・・
色素の薄い人種のメシア人とは言え、自分ほど白に近い色を持つものはそういない。そのため、普通に売られている化粧品だと自分に合わず、ここまで完璧に色味の合う化粧を施すことなど初めてに近い。
どんなにお金と労力がかかっているのかと考えると身震いする。
本当に、何故こんなに・・・と、答えのあるはずのない何度目かの問いを投げかけた時、部屋の扉が軽くノックされた。返事をすれば、同じく準備を終えたらしいエレオノーレが入室してくる。
私はそこで、目を見張った。
エレオノーレが綺麗すぎてびっくりした、とか、自分を上回る衣装の着こなしに驚いた、などではない。ないことが問題なのだ。
なぜなら、もちろん自分と同じく父によってプロデュースされたと思っていたエレオノーレが、普段と変わらない装飾で現れたからである。
もちろん、普段と変わらない彼女は、盛大に着飾った私に負けず劣らず美しかったけれど。
入室したエレオノーレは、同じく驚きに目を見開いた。
「どうしたの、その格好!?」
その言葉、そっくりそのまま返すわ。