思わぬ訪問者
体が、ぞくり、として、意識が浮上する。
次に感じたのは、凍え。
懐かしい、湿り気を帯びたひんやりとした冷気が、肌の上をゆっくりとなぞる様に通り過ぎてゆく。もう随分と長い間冷気にさらされていたのか、既にだいぶ熱を奪われた肌から、もっと奥深く、すべての熱を奪おうと、容赦なく、じわじわと襲ってくるそれはまるで、冷気という名の死神だ。
思わず、手足をすり寄せる。すると、冷たくなった手のひらに、より冷たいひやっとした肌を感じて、浅くまどろんでいた意識が急浮上する。
はっと瞼を持ち上げると、まつげに纏わりついた冷気が雫となり、目の縁に薄い透明の膜を張った。
瞳が潤い、視界が霞む。
ここは、どこ・・・?
ゆっくりと、雫を纏って重量を増した瞼を、はた、はた、と振る。
どうやら、視界が霞むのは瞳についた透明の膜のせいだけではない様だ。
辺り一面に立ち込める、濃い霧。
北国の柔らかな日差しをいとも簡単に遮るそれは、辺りをまるで日没直後の様に薄暗くする。
そして、仄暗い霞の先にぼんやりと浮かぶ地面。
ああ、どおりで、冷えると思った。
擦り寄せたそばから、水滴が生まれ出る肌。
短くない時間、霧にさらされていたに違いない。
肌蹴て膝まで露わになっていた夜着の裾をそっと直す。少し厚手の白い綿で出来たそれは、既に湿気を幾分か吸って重くなっていたけれど、足に出来た水滴をさっと吸い取った。
しかし、これで安心できるほど、甘くはない。
袖から出たむき晒しの二の腕を、手のひらでさする。
こんなこと、冷たい手のひらではなんの気休めにもならないことはわかっていた。
どうやら、もやの先に見える地面に雪は積もっていない。だとしたら、この懐かしい冷気は、秋の終わり頃にやってくる霧によるものだ。
まだ初雪が降っていないことに安堵するものの、油断はできない。北国のメシアは、たとえ冬でなくても寒さで死者が出るほど寒い国なのだ。早く暖をとらなければ、命が危うい。そして、既に冷え切った私の体に、あまり時間は残されていない。
けれど。必死に働かせようとする頭は、自分の意思に反してこの濃く立ち込める霧の様に霞みがかってすっきりとしない。
それどころか、少し気を抜けば意識がふっと飛んで、再び微睡みそうになる。
まるで錘でもついているかの様に、瞳を覆おうとする、瞼。視界が狭くなるにつれて、自分の意識を保つことも難しさを増してゆく。
ここで欲望に従って目を閉じること。それが死を意味することは理解しているはずなのに。
だ、め、
抗えない・・・
透明な膜を払おうと瞬きするために閉じた瞳は、それきり開けることができなくなった。
ついに完全に閉じきってしまった瞳に映るのは、暗闇。
・・・?
最後に頭に浮かんだ疑問も、あっという間に飛んでしまった意識と共に霞の中に掻き消えてしまった。
ぱちり、と目を開けた。
辺りは仄暗い。しかし、先ほどの様な命を奪われる危機感は皆無の、柔らかな仄暗さだ。
その未だ光源を見せない明かりの柔らかさに、直感的に、これは早朝の、日が登る直前の仄暗さだ、と感じた。
背中に感じるのは柔らかなシーツ。そして、胸の上まですっぽりと覆われた、ふんわり軽くて暖かな掛け布団。
天井にはぼんやりと浮かび上がる、見慣れた木目。
それでも、一応、確かめる様に手のひらを滑らせた腕は、布団から出ていたためか少しひんやりとするものの、先ほど感じていた様な死に迫る冷たさは微塵もなかった。
なのに、今すぐにでもあの冷たさを思い出して身震いしそうなほど、リアルな感覚を伴う夢だったけれど。
・・・寒かったのかしら?
夢なんて、見た内容や理由を考えたってわかりっこない、そんな不確かなものだ。
答えのない問いを真剣に考えるだけ時間の無駄である。
とはいえ、なんとも不気味で後味の悪い夢である。
私は、気を抜くと先ほどでの寒さを思い出してしまいそうになる頭をふるっと振って、気持ちを切り替える様に寝返りを打ち、枕を抱きかかえる様にして、もうしばし惰眠をむさぼることにした。
今日は以前より招待されていた、マルバラフ王妃没後二十年パーティーの日。
招待されているのは夕方の宴会からだから、準備に時間がかかるとしても、昼過ぎまでは自由に過ごせそうね、と朝食後のお茶をゆっくりと味わっていた。
とはいえ、本当にゆっくりすることなど、真面目な私にはできはしないだろうことは、わかっている。
後に何かしら予定が待ち構えていると、どうしてもソワソワしてしまって、全く心休まらないのだ。かといって、予定を忘れてしまえるほどの事をしようとすると、今度は本当に予定を忘れてしまうんじゃないかという心配がつきまとう。
結局、今日の午前は何をするにしても身が入らないでしょうね。
カップを手に、何か、いい暇つぶしはないものかしら、と頭を傾ける。
心ここに在らずでもできる様な、熱中しすぎず、時間がきたらスパッとやめられて、後を引かないこと。
これが、意外に難しい。
うーんと考え込んでいる、この時間こそが無駄な気もしないでもないが、それでもうーんと考え込んでいた、その時だった。
扉が、コココンッ!っと、慌ただしくノックされ、思わずカップの中身をこぼしそうになる。
突然、なんなのだ。
しかも、人を訪ねるには少し早い時間帯である。
私はエリザベートと顔を見合わせて、小さく頷いた。
非常識な来客は、きっと火急の用を携えてきたに違いない。
エリザベートがそっと扉に走り寄り、小さく扉を開け、外にいた人物と会話を交わす。
その姿と声は扉の向こう側に隠れてほとんどわからないが、すぐにエリザベートの顔に驚きの表情が現れて、私は平静を装いながらも心の中では顔をしかめていた。
良くない知らせであることが確定してしまった。
私の自由時間、なくなりそうな気がする・・・
やがて、扉を閉めて静かに走り寄ってきたエリザベートに耳打ちされて、私は自分の予想が正しかったことを知る。
いいやむしろ、自由時間どころの騒ぎではないかもしれない。
「バッツドルフ侯爵家の馬車が来たですって・・・!?」
背筋がぞくりと冷えた。
ああもしかして、今朝の夢はこれを暗示していたのかしらと思うくらいに。
バッツドルフ家の馬車が城に入ったとの報せを受けてから、何があっても良いように一応身支度を整えながらエリザベートに情報収集をお願いしたところ、支度が終わる頃エリザベートが戻ってきた。
心を落ち着けようとお茶を淹れてもらったが、全く落ち着ける気がしない。
誰だ、昼過ぎまでは自由に過ごせそうとか言ったのは。私だ。
慌てて机に戻したカップがカチャリと大きな音を立てても、今回ばかりは気にならなかった。一刻も早くエリザベートの話を聞きたい。
「それで、どうだったの?」
茶器の音に一瞬眉をひそめたエリザベートだったが、彼女も今回は見逃してくれるらしい。すぐに表情を元に戻すと、私に早足で近づき側に跪く。
「ええ、やはり、先ほどの報せに間違いはありませんでした。」
予想していたこととはいえ、思わず天を仰ぐ。
一体、バッツドルフ家が、何の用があって突然やって来たのか。来るにしても、既に滞在している私かエレオノーレに先触があっても良いのではなかろうか。
「・・・それで?一体誰が来たのかしら?」
色々飲み込んで尋ねると、エリザベートは少し迷うように目線を漂わせたが、すぐに私を真っ直ぐに見上げてしっかりと口を開く。
「ご当主様にございます。」
「・・・へ?」
思わず間抜けな返事を返してしまった。
だって、ご当主?ご当主って、1人しかいないわよねぇ?
「お父様!?」
エリザベートが嘘をつくはずなんてないのだけれど、否定して欲しくて思わず叫んだ私に、エリザベートは哀れむように深く頷いた。
ああ、何故なの。
何故父が突然、何の知らせもなく、この城に。
嫌な想像しか思い浮かんでこなくて、気分が急降下するのだけれど!!
私はがくりと項垂れ、額に手を当てた。
けれど、その後続いたエリザベートの言葉に、更に首どころか腰までぐぐぐと折下げる。
「内密に陛下に謁見なさったとのこと。現在は、ラファウ殿下とお話しなさっている様です。」
なに、何をお考えなの、お父様・・・
野心家で腹黒い父が、陛下だけでなくラファウ殿下とお話しだなんて、一体何の話をしているのか、知りたい様な知りたくない様な。
もしかして、殿下との関係がばれたとか?
いやいや、それよりも、未だ返事のない私の留学目的レポートという名の手紙の件?
及第点に満たなくて、私を連れ戻しに来たとか!?
いや、落ち着きなさい、フラウレン。バッツドルフ侯爵が娘ではなく先にお世話になっているマルバラフ王家にご挨拶するのは、何も間違っていない。
間違っていないのに。
お父様のこととなると、どうしても素直に受け取れないのよね・・・
しかも今日は特別な日。
夕方から招待されている自分とは違い、陛下やラファウ様は昼過ぎから何らかの式典に出席なさるはずだ。とすれば、朝から準備に忙しいはず。その最中に謁見だなんて・・・
どんどん膝に沈み込んで行く額を止められない。どうにも、考えは悪い方にばかりゆく。そもそも、思い当たる節が多すぎる。
そんな私の部屋に、ノックなしに扉を開けて入ってくる者がいた。
当然、私たちは大きく肩を震わせる。
けれど、はっと顔を上げた私は、顔を真っ青にして額には汗すら浮かび上がらせた、平時の優雅さとは程遠い妹を見るなり、大きな、それは大きなため息をついた。
ああ、ここにもまた一人、心に後ろめたいものを持った者がいた様だ、と。
「お姉さま!!匿って!!!」
部屋に入るなり、エレオノーレは髪を振り乱して私の肩を掴む。
かと思えばすぐに離して、室内をキョロキョロと見回し、やがてその視線はある一点で止まった。クローゼットである。
「・・・何があったか知らないけれど、それはやめておいたら?」
何となく、妹のやろうとしていることがわかってしまって、私は釘を刺しておいた。
エレオノーレが何をしでかしたかは知らないが、さすがに成人となってまでクローゼットに隠れていたら、ちょっと痛い。
そんな私に、エレオノーレは焦った様に振り返る。
「それじゃあ!どこに隠れれば良いの!?」
隠れるの前提なのね。
堂々と戦うという選択肢はないのかしら?あなたのポリシーでしょう?
思わず口をついて出そうだった言葉は、何とか飲み込んだ。
マルバラフにやってきた頃は、随分大人になったという印象だったけれど、エレオノーレは昔のエレオノーレのままらしい。
それが何とも、可愛いな、と思ってしまったのだ。
エレオノーレには、ラファウ様との邪魔をされたはずなのだけど、腐っても妹。不思議と、嫌いにはなれそうにないようだ。
「どうしても隠れたいというなら止めはしないけれど。でも、聞かれたら答えるわよ?」
「それでいい!お姉さまがいるだけで、緩衝帯になるもの!お父様ってば、お姉さまには甘いんだから!!」
何だか色々と突っ込みどころのあるセリフに、どこから指摘しようか、とクローゼットに向かうエレオノーレの背中を眺めていたとき。
コンコン。
大きくもなく、小さくもなく。
しかしその扉を叩く音は、室内を静まりかえらせるには十分だった。
扉に向いた目を、ちらっとエレオノーレに向けると、彼女はクローゼットより随分手前でこちらに背を向けたまま動きを止めている。
「・・・はい」
躊躇いがちに、扉の方へ返事をする。
間髪入れずにカチャリと開いた扉から姿を現したのは、想像通りの人物、バッツドルフ侯爵にして、私たち姉妹の父その人であった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
およそ2年ぶりに再開した父は、記憶に違わなかった。
エレオノーレによく似た淡い蜂蜜色の前髪を掻き上げ、露わになった端正な眉と吊り気味の瞳は、父の纏う存在感と相まって、相対するものを竦ませるほどの威圧感を生み出している。
そして、父を前にすくみ上がるのは、娘もまた例外ではない。
無言の父が、一歩、また一歩、と近づいてくると、顔に貼り付けた微笑も、思わず崩れてしまいそうになる。
表情を取り繕うことに精一杯で、用意していた挨拶など、とてもじゃないが口から出せそうにもない。
エレオノーレときたら、挨拶どころか未だに背を向けている始末。
ゆっくりと歩を進めるに従い、体の大きさも、威圧感も増してゆく父が、これ以上は近づかないで!という距離に来て、ようやく歩を止めた。ただでさえ鋭い瞳が、きゅいんと、私を射抜くように細められる。
あ、これは・・・っ!
昔何度も経験した感覚。けれどニ年の間に少し鈍った私の勘は、心の鎧を纏う作業を遅らせた。
「・・・・・・久しぶりに会う父への挨拶も忘れたか、フラウレンよ。」
常時よりもさらに低い声。その声に私は体を震わせる。
「も、申し訳ございません、父上。突然のご来訪に、感極まってしまいました。」
慌てて口に出した明らかな言い訳に、父は鋭い瞳をそのままに、フンと鼻で笑う。
たかがそれだけで、私の体は可笑しいほどに硬直してしまう。
「・・・まぁ、良い。」
間を置いて吐かれた言葉に、私は内心で深い、それは深いため息をついた。あくまで内心で、だ。もしもここで表に出そうものなら、侯爵家の淑女たるもの云々のこわーいお説教が始まるのは痛いほど経験済みだ。父は、家の損得に関わる部分においては小姑のように煩く、しかも魔王のように恐ろしくなるのだ。
というわけで、私は慌てて頭を働かせる。父の機嫌を損ねない、ただ一点のみを目的として。
「長旅、お疲れ様でございました。どうぞこちらにおかけになってくださいまし。エリザベート、お茶をご用意して差し上げて。」
ひとまず、実の父とはいえ、実家ではない我が部屋に訪れたのだから、部屋の主としてもてなすのが正解だろうと、ソファを勧める。
すると父は鋭い瞳のままゆっくりと頷いて、優雅な動作でソファに腰を落とした。それを見届けて、ほんのり安堵した私は自分もソファに腰掛けようとして、ふと、エレオノーレに目をやった。そこで、気づいてしまった。未だに背中を向けて微動だにしないエレオノーレと、その背中を射抜くようにじっと見つめる父に・・・
「・・・久しいな、エレオノーレ。」
先に声をかけたのは父だった。ありふれた言葉なのに、何故か背中にぞくりと悪寒の走る声色だった。私は父の視線がエレオノーレに向かっているのをいいことに、肩をぶるっと震わせる。
声をかけられたエレオノーレは、ピクリと肩を震わせた。けれどすぐに、そのミルクティーのような淡い金の髪をふわりと翻して、こちらに向き直った。その顔には満面の笑みが称えられている。
「お久しぶりでございます!お父様。こんなにも突然お会いできるだなんて、わかっていればもっと着飾って参りましたのに。娘に成長したところを見せる機会も与えてくださらないなんて、なんてひどいお父様なのでしょう!」
極め付けに、こてん、と首を傾ける。我が妹ながら、あざとい。しかし、可愛いとは本当にずるいものだ。
エレオノーレの父への非難とも取れる言葉に、言われた本人は意外にも怒るでもなく、くつくつと喉を震わせた。
「ひどいとは、とんだ言い草だな。恥ずかしがり屋の家出娘は、突然押しかけなければ恥らって出てこられないだろうと気を使ってやったというのに。しかし、お前の言う通りだ。娘にも心の準備が必要だったのかもしれぬ。でなければ、もっと娘の成長を実感できたろうに。」
父の嫌味に、エレオノーレは笑みを消し、はっきりと顔をしかめた。
こうして父に感情を露わにする妹は、父からすれば未熟なのかもしれないが、私からすれば本当の親子のようで羨ましさを感じる。
父に従順な私には、二人の嫌味の応酬でさえ羨ましく、胸にチクチクと突き刺さるのだ。
けれど今は、そんなことよりも気になる言葉を聞いてしまった。
聞き直しても良いのだろうか。いや、父が口に出したのだから、隠す意図はないはずだ。なんとも聞き捨てならない、その言葉。
「家出とは、どういうことですか・・・?」
恐る恐る父に尋ねるも、父は鼻でフンと笑ったのみ。答えるつもりはないようだ。
私はエレオノーレを見る。
「い、家出じゃないわ!ちゃんとマウリーには行ってきますって伝えたもの!」
とは言いつつも視線を漂わせる妹に、私は全てを理解して盛大なため息をついた。これはもう、表情を取り繕うことなどできない。
「マウリーに、ちょっとそこまで行ってくるとでも言って隣国にまで来てしまったの?まさか一人で?」
「んーまぁ、そんな感じかしらね。直接は言ってないけど。旅に必要なものは持っていたし、トラブルも何度かあったけれど想定内だったし、意外と快適な旅だったわよ?」
私は再度、はぁーと深いため息をついた。
何故その行動力と、市井を一人で渡り歩く知識、実行力がありながら、それを家の為に使おうとしない。
「・・・マウリーはさぞ心配したでしょうね。貴方を止められなかった罪で、侍女や門番が罰せられるかもしれない。そこまで考えなかったの?そもそも、なぜ家出など。・・・正々堂々が信条なのでしょう?マルバラフに来たかったのなら、お父様を説得すればよかったのでなくて?一人で隣国まで来るなんて、何もなかったから良かったようなものを!」
最後の方は感情が高ぶって少し声が大きくなってしまった。しかし言われた当人は、何でもないかのようにけろっと答える。
「今まで私がしてきたことで、乳母や侍女が罰せられたことがあって?誰を持ってしても私を止められないってこと、お父様ならよくご存知のはずだわ。あと、正々堂々は戦う時の話よ。別に常に正々堂々じゃなきゃって思ってるわけじゃないわ。お姉様ったら相変わらず頭が堅いんだから。それから、なぜお父様を説得しなかったかだけど、許してくれるはずがないとわかっていたからに決まってるじゃない!そもそも、どこへ行くかなんて決めてなかったし。たまたま通り道だからお姉様に会っておこうと思ってマルバラフの王城に寄ったら、なんか殿下に引き止められてずるずると滞在しちゃったのよね。今考えたら、体良く保護されたのかしら。」
なんっ・・・・・・!
私の中で、エレオノーレへの呆れ、怒り、そしてラファウ様への申し訳なさが膨れ上がって、大声を張り上げそうになる。しかし、全く悪びれないエレオノーレを見ると、張りあげそうだったものも行き場をなくしてしゅるしゅるとしぼんでゆくのであった。
私には考えられない自由勝手さだ。色んな人に迷惑をかけて我を押し通す。
私なら、迷惑をかけることで嫌われるのが怖い。なので誰にもなんの迷惑もかけたくない、そう思うのだが。
それとも、エレオノーレは今まで、自分勝手に振舞って、その結果嫌われた経験が無いというのだろうか。彼女の美しい容姿と、どこか憎めない愛らしさのお陰で?うーむ、十分にあり得る・・・
私はへなへなと父の向かいのソファに座り込み、こめかみを抑えた。
ちらりと向かいの父を見ると、父は相変わらず膝の上に両肘をつき手を組んで、いつもの威厳漂う無表情でエレオノーレを見ていた。が、私の視線に気づいたのかちらっとこちらを見たため、一瞬目が合った。が、すぐに逸らされる。
なんだろう、と不思議に思ったが、父と目を合わさなくていいならその方がありがたい。
というか、あれ。
以前父は私に、エレオノーレは息災か?みたいな手紙をよこしては来なかっただろうか。てっきり留学中のエレオノーレを案じてのことだと思っていたけれど、エレオノーレが家出していたのだとしたら、父はエレオノーレの所在さえ知るはずがなかったのでは無いか?
もしかして、鎌をかけられた?
と思ったところで、私とエレオノーレのやり取りを黙って聞いていた父の堅い口が、ゆっくりと開かれ、私はゴクリと喉を鳴らした。
「・・・して、得るものはあったのだろうな?好き勝手に振る舞った代償はまけられんぞ。」
父の鷹のように鋭い目がまっすぐにエレオノーレを射抜く。これにはさすがのエレオノーレも、眉を寄せてあらぬ方へと視線を漂わせた。
「・・・・・・」
エレオノーレの口が、何か言いかけては閉じ、また開かれては閉じる、を繰り返した。他人事とはいえ、気の毒になってくる。
けれどしばらく逡巡した後、腹を括ったように父をキッと見つめ返した。我が妹ながらその心の強さに天晴れだ。
「いつもいつも、お父様の物差しで損得を判断されるのは納得いかないわ!私がしたことは、私が私であるために必要不可欠だったのよ!バッツドルフ家としては意味ないかもしれないけど、だからなんだっていうの!?私の人生よ!お父様が私の父親だからって、何でもかんでもお父様の言いなりにならなきゃいけないなんて、絶対におかしい!もしお母様が生きてらしたらっ・・・!」
声を荒げて肩で息をするエレオノーレ。
冷静さを失う妹を眺めながら、私は思わず口元を手のひらで覆った。
いけない、エレオノーレ。
どうすれば、と頭で考えるわずかな時間もなかった。
目の端に父の拳が振り上げられたのが見えたと思えば、バキィッ!!!と大きく鈍い音が部屋を震わせて、私は思わず体を大きく震わせ、思わずソファからすべり落ちそうになりながら父から逃げるように距離をとった。
足をもつれさせて絨毯に手をつくが、この際行儀など構ってられない。
振り返れば、鷹のような目をギラギラと煮えたぎらせソファに座る父と、父の前に置かれたローテーブル、だったものがあった。だった、とは、もはや父の拳が降ろされた周囲は跡形もなく砕け散り、ギザギザとした木片が露わになっているからである。
しんと静まる部屋に、ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえて目線を向ければ、恐怖に顔を歪めて瞳を潤ませるエレオノーレがいた。
可愛そうだが、自業自得だ。というか、とばっちりもいいところだ。
かくいう私も、体が小刻みに震えて止まらない。
とそこに、まるで闇の帝王が君臨したかのような、腹の底から震え上がらせるような低い声が聞こえてきて、私ははっと父に視線を戻す。
「・・・いかんな、つい、感情が高ぶってしまってこのざまだ。借り物を壊してしまうとはな。」
そう言って父は細かな木片の刺さる拳を、動きを確かめるようにゆっくりと開き、膝の上に戻した。そして、エレオノーレをじとり、と見つめる。ひっと息を飲む声が聞こえた気がしたが、おそらく気のせいではないだろう。
「なぁ、エレオノーレよ。人生を好きに生きたいのなら、バッツドルフの名を返すのが筋というものではないか?なんせ、お前の我儘を実行できるのもまた、バッツドルフの名のお陰なのだから。・・・だが、ああ、愚かしいことよ、私はそれを許さない。お前の母が命を賭して産み落としたお前を、存在意義を持たぬ者に貶めるなど、誰ができようか。ならばエレオノーレ、お前にできることは、自らの存在の価値を高めることだ。それによってのみお前は、自分の人生、と呼べるものを手に入れることができるのだ。・・・好きなことをしたいのなら、それが許される価値を身につけろ。順番を違えてはならん。」
凹凸のない声が静かに終わり、息を飲んで沈黙していた誰もがおずおずと呼吸を吐き出し始めた。父の怒りは運良くもローテーブルによって鎮められたようだ。
エレオノーレは唇を噛んで下を向いていた。その表情は金の髪に隠れて窺い知れないが、時折ずずっと鼻をすする音が聞こえるから、そういうことなのだろう。
だからいわんこっちゃない。父に、母の話をするのがタブーなのは身を以て知っていたはずなのに。
それでなくても、怖いもの知らずで忘れっぽいエレオノーレは、父を怒らせるのが上手いのだから。
絨毯についていた手を静かに払い、さりげなく腰を浮かせる。
「フラウレン。」
「はっ、はいっ!?」
突然父に声をかけられて膝を立てて踏ん張ろうとしていた片足がびくりと震え、再びつんのめって両手を床につく。
な、なんて無様な。
びくびくと怯えながら背後の父を振り返るが、何事もないようにすくっとソファから立ち上がった父は、こちらをちらりと見下ろすと、興味なさそうにくるりと背を向ける。
「・・・すまないが、替えの品を頼む。王への謝罪は私が。」
そのままゆっくりと、部屋を横切り、扉へ向かう父の背中に、私はおずおずと声をかけた。
「お、お父様。これからどちらへ?」
本当は今回の旅の目的を知りたかったし、何より、何の話をするためにこの部屋へ来たのか、それが全く明らかにされないまま去ろうとしていることに、不安を感じる。けれどそれを全て尋ねる技量もなけへば度胸もない私は、直近の予定を聞くことしかできなかった。
答えてくれるか自信はなかったが、父は意外にもピタリと足を止めた。そして首だけぐいっと動かし、肩越しに私を振り返る。その、肩にほとんど隠れた口元が、弧を描いているように見えて、私は思わず目を見張った。
「・・・護衛という本来の職務に戻るだけさ。」
そう言い残すと、父は再び歩を進め、呼び止める間も無く扉をくぐって出て行ってしまった。
扉を開いた瞬間、外で右往左往してたのだろう城内の騎士が、現れた父を見、そして無残にも木片を散らせたローテーブルを見、みるみる顔を青ざめさせたのが目に入って何ともいたたまれない気持ちになったが、すぐに扉が閉められてその顔も見えなくなり、ホッとしてしまった。
バタンという音と同時に、部屋に静けさが戻ってくる。静けさと言っても、先ほどの部屋の空気が凍りついたような絶対零度の静けさではなく、嵐が去った後の晴天のような、晴れやかで心地よい静けさである。
だが、そう簡単に心を切り替えられない人物もいるようだ。
未だぐず、ぐず、と鼻をすするエレオノーレである。
「・・・まるで、恐怖政治、ね。」
絨毯にへたり込むエレオノーレにそっと近づき、わざとおどけてみせる。
すると下を向いて鼻をすすっていたエレオノーレは、キッと赤い目でこちらを見上げて、またすぐに俯き目元を前髪で隠した。
「・・・お父様の言いなりになんて、ならないんだから・・・。ていうか、なんなの、あの怪力。お父様、ただの一侯爵よね。」
いつも通り強気な発言のエレオノーレに、私は心の中でほっと安堵する。憎たらしくて可愛い、それでこそ我が妹だ。
けれど、釘をさす時は、刺さなければならない。父の言葉にもはや反射的にに反抗してしまう妹を優しく諭す役割は、昔から母に代わって私の役目だったのだから。
「とはいえ、今回は貴方も悪いのではなくて、エレオノーレ。貴方のことだから、何の理由もなく家出したとは思わないけれど、そのことで周りに迷惑をかけたのは確かなんだから。」
「・・・そんなの、言われなくてもわかってるわよ。」
顔を上げず、ふてくされたように呟くエレオノーレに、私はしょうがない子ね、と優しく彼女の手を取り、立つように促す。
「ええ、そうね。わかってるわ、貴方が時に姉の私よりも思慮深いこと。ほら、こっちにいらっしゃい。エリザベート、温かいお茶をお願い。」