05 地図
かつてないほどの強敵がヨシュアを襲っていた。
その血色をしたバケモノは、どうしうようもないほどの絶望的なちからを秘めている。
「ぬあぁーっ、金がない!」
赤字なのであった。
ヨシュアはメリウスの宿屋にいた。
ベッドの上で所持金を見てみると、残っているのは水と氷の街・メリウスの豪華なレストランで友人たちと食事をし、ワインのひとつでもつけると消えてしまうぐらいのものだ。
当然ながら、これでは満足なMOB狩りの用意もできない。
加えて、ヨシュアが使っている武器防具の耐久値は、かなり厳しいところまで来ていた。
メンテナンスをしようと思えば、リザード・レザー装備と鋼の短剣あわせて、最低でも数倍は必要である。
「どうしてこうなった」
実のところ、ヨシュアにはそれほど金を使っているという覚えがなかった。
ではなぜかというと、単に稼ぎが低いのである。
通常、プラネタやメリウス付近で効率的なパーティを組んで狩りをやれば、時給五〇〇〇エルクぐらいだろう。
だが実際、そうはいかない。
フル・パーティが六人であるのに対し、ふだん、ヨシュアたちはクロモリ、アルミ、カーボンの四人でやっている。
たまにライムなどが参加することもあるが、彼女は彼女で独自のパーティがある。都合が合うときしか参加しないのだ。
計算すれば、ヨシュアたちの稼ぎは、よくても時給二〇〇〇から二五〇〇がいいところだろう。
むろん、MOBが沸かない場所に陣取れば、それ以下のこともある。
ここから実際に使うアイテム代やメンテナンス代をさっ引けば、手元に残るのはわずかだ。
そして狩りが終われば、みんなで食堂やレストランで飲み食いし、宿代も出すとなると、これっぽっちも残らない。
つまり、狩り場が身の丈にあっていないのであった。
「金がないのは首がないのといっしょっていったのは、誰だろう。アレはほんとうのことだなぁ」
どれほどにキレイごとを重ねようと、金がなければどうしようもない。
それはリアルでもゲームでも同様である。
「どうにかして金をつくらないと。ふつうなら狩りへ行けばいいんだけど……」
金がないから狩りへいきたいのに、金がないから狩りへいけない。
「なんて矛盾だ」
そのままばったりとベッドへ背を預けた。ほこりは舞わない。
金を稼ぐにしても、使える材料はいま持っているものですべて、ということだ。
アイテムとして、半壊状態の武器防具、料理スキルでつくった保存の利く薬膳、蜥蜴革素材がすこし。
スキルとして、短剣スキル、料理スキル、採取スキル、測量スキル――
「あっ!」
ベッドから上体を起こし、ヨシュアはひらめいた。
そう、測量スキルである。
これを習得してからだいぶ経つが、まだPWOの世界に完全な地図が広まったという話は聞かない。
もっとも、最前線ではとっく知られている可能性もあるが、ヨシュアのレヴェル・ゾーンで使用しているという噂はなかった。
であれば、
「地図をつくって、これが売れれば」
一攫千金も夢ではない。
その可能性は存分にある。
「そうだよ。つい、マップを埋めることだけを考えるようになってた」
すでに、星空の街・プラネタまでのマップはほぼ埋めてある。
メリウス近辺は雪山が残っているから不完全だが、そこへ至らなければ、使用可能なぐらいではあった。
PWOは、まだまだ新規プレイヤーが増え続けているゲームだ。
手頃な値段にすれば、田舎街〔ギヴァン〕付近の地図とて、まだまだ需要が見込める。
ましてや、PvP、GvGをメインにしているパーティ、ギルドが、そこいらを舞台にするという可能性もある。
すでにヨシュアの脳内には、おのれがバスタブの中ではだかになり、紙幣に埋もれている映像が浮かんでいた。
「イケる。イケるぞこれは!」
さっそく、のこっていたわずかな残金を地図にすべく、宿屋から飛び出して、市場へと出ていくのだった。
そしてヨシュアは、その作戦に穴があることを知ることになる。
「まさか、商人スキルが必要だとは……」
露天を出すにも店を持つにも、商人スキルが必要となってくる。
職人クラスにとっては常識だが、戦闘クラスのヨシュアにとって、これは哀しい事実だった。
ヨシュアに、いまから職人スキルを習得して、これを育てていこうなどというつもりはない。
地図を販売するために露天を出し、そこでぼーっとしているということは、この世界のすべてを歩き、測量するというヨシュアの目的とは逆のことだ。
ならば、解決方法はひとつである。
「委託、だよな」
地図をつくりあげ、それを信頼できる商人にあつかってもらう。
だがしかし、
「そんな知り合いがいれば、苦労はないんだよなぁ」
そうなのだ。人脈を作れるような能力があれば、そもそも窮地になんぞ陥っていないだろう。
しかし、そんなコミュ障にも救済策はある。
ゲーム内の掲示板なりで、委託先を募集すればいいのだ。いいのだが、
「ハズレを引く確率もあるってのが、難点なんだよな」
商売の取引に関してはドがつくほどの素人であるヨシュアが、応募してくるようなプレイヤーに、フェアな条件を飲ませるようなことができるだろうか。
もしも募集した結果、詐欺師まがいの悪徳商人や、手練れの老獪なプレイヤーがあいてになったら、勝ち目はない。
ヨシュアは膝を抱えて横になり、ゲーム内でも現実でもまくらを濡らす羽目になるだろう。
また、地図が相当に売れる品であった場合、余計な接点が生まれる原因にもなりかねない。
携帯電話のカメラだと美人に写る特殊能力者が、実際に出会ったら筆舌に尽くしがたいのとおなじように、壮絶な結末を迎えるリスクを背負うか否か。
「やはり、目で見なければ信用できない」
バランス感覚にすぐれたヨシュアは、余分なリスクを背負うことを選ばなかった。
PCの前で見るだけならば画像修正ソフトで構築された美人でもかまわない。
だが実際に付き合うならば、天然美人が好ましいのとおなじことだ。
なぜならば、ヨシュアにとって測量スキルでつくることができる地図は、最後の武器だ。
これがもしも滑るようなことがあったら、ガラスの装備で撤退戦を余儀なくされる。
なるべく確率をあげ、有効な可能性に賭けたいのだった。
「とにかく、見回らないとしょうがないな」
ヨシュアは散歩も兼ねて、街を歩き出した。
メリクスはどこもかしこも氷のように真っ白な建造物で、ともすれば透明感があるほどだ。
造りはヨーロッパの高級住宅街をモデルにしているらしく、洒落た屋敷などが多い。
日本では、家の内側を見せることを恥だと考え、外界と自分の家を分断するという目的で塀などをつくったりする。
しかし、ヨーロッパやアメリカなどでは、そのこころは逆にはたらく。
海外の住宅地は、むしろ外向きに造られる。散歩にきた人たちが楽しめるように、家や庭などに意匠を凝らす。
そういうことを知ってか知らずか、単にモデルにした場所のせいか、メリクスは散歩するだけで楽しめるような街になっていた。
もっともそのおかげでメリクスの土地や、建造物の賃貸料は高い。雪の降る僻地でなければ、その値段は天井知らずになっていただろう。
ロマンティックな景色のおかげで、もはや有名なデート・タウンとなってしまっているのが、ヨシュアにはたまらぬほど悔しかった。
「いかん、いかん。目的を思いだせ。お前はいま、崖っぷちなんだ」
ぱしぱしと顔をはたいて、意識を切り替えた。
一日目。
ヨシュアはメイン・ストリートを歩き回った。
さすがに人気地区らしく、活気があり、売買の激しい店が並んでいた。
いまでは見かけないような、商店街の体である。
「らっしゃい、らっしゃい」
「熱いたべもの、ありますよー!」
「寒いからこそ冷たいビール! いかぁっすかー!」
「武器防具、なんでも売り買いします! 修理も受け付けてますよー!」
水晶を削りだしたようなメリクスの景観には合わないが、これもひとつのカタチだろう。
不釣り合い感がむしろ生々しく、生活している様がある。
だがメイン・ストリートには、ヨシュアの望むような商人は、居そうになかった。
誰も彼もが遣り手に見え、交渉に立ち会えば不利になるのは明らかだったからだ。
二日目。
ヨシュアはメイン・ストリートから一本、裏へ入り、あまり人気のない場所を見回った。
ここいらもある程度は活気があるが、さすがに表通りと比べれば、控え気味である。
ヨシュアにとって、ある程度望ましい雰囲気であったが、
「兄ちゃん。いいもの売ってるよ」
「若いの。いまならお得なもの、あなただけに紹介するよ」
などなど、若さを嫌う玄人、詐欺まがい、老獪な男と、一風変わった商人の住まう場所であった。
三日目。
ヨシュアはさらに裏へ入ることにした。
あまりにも人気がなく、雪が降り注いでいるから当たり前なのだが、どこかじめじめとしていて、前日、前々日の通りと比べると静かすぎて、ほんとうに店が出ているのか、不安になるほどである。
はたして店は存在した。
路地裏も路地裏、ともすれば影のなか、ひっそりと佇むようにその店はあった。
看板には〔リード雑貨店〕と書いてある。おそらく、店主の名前だろう。
こんなところで店を出しているとは、よほどに人を避けたい品を売っているのか、あるいは……。
ヨシュアは、勇気を出して敷居をまたいだ。
「やってますかね」
「やっているとも。いらっしゃい」
カウンターの向こうに座るのは黒いかたまりであった。
腰に響くような声をしているが、それが男とも女ともわからない。
というのも、黒いローブを目深に被り、その奥から目だけが覗いているのだ。
ブラウンの瞳が金色に見えるほどに店は暗い。
ヨシュアには、店内を灯すろうそくだけが頼りである。
闇のなか、顔を近づけて並べてある商品をじっくりと眺めた。
「――む」
目をさらのようにして、じっくりと眺めている内に飲みこめた。
この店は〔売れていない店〕だ。
独自の商品があるわけでもなく、品揃えが豊富なわけでもない。
雰囲気はある。
もしもこの店で〔わけあり〕商品だの、ジャンクだの、あやしい骨董品だの魔法品だのが売っていれば、ひっそりとしたこの店構えはむしろ、プラスに働くだろう。
しかし並べられた商品は品質こそわるくないものの、わざわざここで買おうと思うほどのものはない。
メイン・ストリートを無視して路地裏に入り、そこからまた裏へ行き、思い出したように、買い忘れたものがあった時、この店をたまたま見つければ、買う可能性も否定はできない。
つまり九分九厘ありえない。
だが、たまたま今日は入荷した品がわるかったか、すでに売れてしまったということも考えられる。
ゲーム内時間で、時刻はすでに午後五時を回っていた。
「これ、もらえるかな」
「二〇エルクだ」
ヨシュアは地図をつくるために一〇枚入りの紙とインク、ペンがセットになったものを買った。
「またくるよ」
「そうしておくれ」
こんな陰気くさいところだが、なぜだか嫌いではない。ヨシュアはふしぎな感覚を味わっていた。
四日目。
ヨシュアは朝早くから先日の店へ行くことにした。
朝のメリクスは、夕方から夜にかけてほど寒くはない。
ダッフル・コートを羽織っただけで、ヨシュアは外出することができた。
メイン・ストリートから裏へ入ると日陰が多いせいか、すこし寒々しくなるが、それも我慢できぬほどではない。
影のなかにある店〔リード雑貨店〕は、朝はやくから開いていた。
「やってますかね」
「やっているとも。……ああ、昨日の。紙の具合はよかったかね」
どうやら、客のことを覚えているようだ。
「ええ。けっこうな描き味でした」
「今日も紙を?」
「いろいろ見てみようかと。おもしろいものは入りましたか」
「残念ながら、ごらんのとおりだよ。たまったものではないね」
はぁ、と嘆息する。
昨日はあまりしゃべらなかったが、話せば妙に芝居がかった口調であった。
品揃えはすでに売れてしまったわけではなく、ほんとうにただ、ないだけのようだ。
回復水薬や毒消し水薬などから、紙やペンといった雑貨など、めずらしいものはない。
せいぜい、利用価値のないファッション・アイテムである木製細工が目を引くぐらいか。
「ううむ……」
「ほんとうのことを言えばいい。なにもない店だと。そうなのだろう」
「誤解を恐れずに言うならば、そうなりますね」
「こちらとて、そういうことはわかっているさ。しかしね、君。なにも好きこのんで、こういうことをしているわけではないというのは、わかってくれるだろう?」
もごもごとローブの奥から、やたらと響く声を出す。
もしかしたら、現実のリードは舞台役者かなにかをしているのかもしれない。
「それはたしかに。メリクスは華やかですからね」
「そうさ。できることなら、メイン・ストリートで華やかな雪のシャワーを浴び、どっさりと客の入る店をやりたいものだよ」
黒いローブが縮こまった。哀しんでいるかのようだ。
人がわるいわけではなさそうだった。ヨシュアは一瞬のうち、思案する。
――この人にすべてを賭けられるか?
それだけの信頼を築けるほどの関係ではない。だが、そこを逆に考える。
ここから、そうし得るだけの関係を作り上げるべきだと。あいてにしても、じぶんの提案に乗ることはリスクがある。
あえて、ヨシュアは軽く考えた。リペルーマまで行って、逆走して金策に走ったことがあった。
あれとおなじことを、またすればいいじゃないか、と。
うまくいけば儲けもの、失敗したらその程度の価値であったのだ。
「ではひとつ、あつかってもらいたいものがあるのです」
「ふむ。まずは見てみないことには、話にならないな。見せてくれよ」
腰のバッグから、三枚の巻きものを取り出した。
「これは地図か。たしかにめずらしいものだが……いや、まて。どういうことだこれは。あまりにも精密過ぎる」
通常、マッパーが記す地図というのは、よく行く場所や有効な地点など、優位な狩り場やおおまかなルートを描いたものになる。
だがしかしヨシュアの地図は、俯瞰視点から見た地域別の正確なものだ。その余白に、実際に歩いて手にいれたデータが入っているので、参考にもなる。
ギヴァン、リペルーマ、プラネタの完璧と言っていい地図だった。
「これをどこで。いや、そうではないな。まさか、マッピング用のスキルか?」
「まさに。測量スキルでつくったものです」
ということは、量産が可能というのも大きな点だ。
ノン・スキルのマッパーがつくる地図は、どれひとつとしておなじものがない。それは正確性の問題という点で。
だが測量スキルでつくったものなら、その差異は最小まで抑えることができる。
「なるほど。これだけのものならば名物になる。しかし、ではなぜこの店に?」
ブラウンの瞳がギラリと輝いた。
リードにしてみれば、わからない話だ。メリウスの隅も隅、売れていない店に持ちこむ理由がない。
メイン・ストリートでも目玉として扱えるほどのものを、じぶんのようなところへ出したのか。
――もしや詐欺られているのではないか。
そういう疑惑が芽生えるのも、仕方がないだろう。
この地図がほんものであるという保証もない。
精密に描いてあるからといって、それがイコール、しっかりしたものであるということにはならない。
「はっきりと言っていいので?」
「よござんす」
黒いローブの奥に輝く瞳はいよいよすさまじさを増した。
口のなかが乾いて、喉がぺったり張りつくような感覚がヨシュアを襲っていた。
胸が詰まり、どうにも言いづらいことだが、それを言わなければいけないというのは、思った以上のストレスだった。
「この店が、たいして売れていないと踏んだからです」
茶色の瞳に怒りの色が混じった。燻って、どこか灼熱を帯び始めたようだ。
「こいつは与しやすい、なめてやろう。とおっしゃるので?」
「結果的にはそう見えますが、ぼくが商人でないからという理由もあります」
ちりちりと背筋が粟立つのを感じながら、ヨシュアは続けなくてはならなかった。
黒いローブは一度、深呼吸をした。熱された空気が宙に発されたような気がして、ヨシュアは息を呑む。
「たしかにこの店ならば多くの商人たちのように、手のひらに包みこまれることはないかもしれない」
一度、落ち着くために言葉を句切って、ふるふるとローブの中で震えた。
「そういう考えは透けた。だからといって、信じられるとは考えていないだろうね?」
ヨシュアにとっていちばん問題だと考えていたのはそこだ。
もしもじぶんが商人だとして、持ちこまれたものが聞き覚えのないスキルでつくられたものだと言われ、はいそうですか。と信じられるものではない。
むしろうたがうというリードの感覚がよくわかる。それだけに、ヨシュアはここから説得をしなければならない。
「信じていただくためには、実証以上の方法はないでしょう」
これは危険な賭けである。
PWOにはPvPというシステムがある。ということは、プレイヤー・キルが実装されているということだ。
そこを疑われて実証すら許されなかったら、ヨシュアにはもはやどうしようもない。
「あなたが前を歩いて、エスコートしてくれるのだろう?」
「それぐらいはもちろんです」
ようやく着陸できそうだと、ヨシュアは嘆息した。もうすこしまともにコミュニケーション能力を磨かねば、苦労するばかりだろう。
黒いローブ――リードにしてみてもこれは賭けだった。地図という商品はほしい。だが甘すぎる蜜は、危険をはらんでいる。
実際には勘違いなのだが、しかし人間と人間である以上、こういうことは仕方がなかった。
中途半端な状態のメリクス地図をその場で書き上げ、ふたりはパーティを組み、付近で狩りをすることになった。
それだけでリードは半分ほど納得できたのだが、まだ、うたがうこころは完全に溶けていない。
ヨシュアにも苦楽の歩みがあるように、リードにも同様のものがあるのだ。それがそうさせているのだった。
「このあたりでいいのかい、ヨシュアくん」
「はい」
ふたりが潜むのは、メリクスからほどなく離れた湖ちかくの茂みである。
このあたりに出るエネミィMOBは、カッシ・ゲーナという種族が多い。人間とさほど変わらない二足歩行の霊長類系だが、最大の特徴は半透明であるということだ。
特性として星幽体というものがあり、通常の剣や槌など、衝撃ダメージの威力を半減させる。
ピュア・ファイターのヨシュアにとっては、かなりの天敵と言えた。
ふたりが待っていると、湖の奥からそうするのが自然であるかのように、カッシ・ゲーナのひとりが上がってくる。
彼らには地面や水中という概念はなく、どこであってもスムースに行き来することができた。
「ほんとうに孤独のカッシ・ゲーナが居た。彼らは群れると思っていたが」
「溢れているからそう見えるんです。魔法使い以外は嫌いますから」
リードは首肯した。
黒いローブの端から鋼製の杖が覗いている。魔法使いと杖使いのデュアルなのだ。
でなければ、わざわざヨシュアは天敵ののさばる場所を選ばない。
「ぼくが飛びこんでいって足を止めます。ディレイでトドメを」
「後ろは任せたまえ。存分に踊ってくれていい」
言いざまに苦笑が浮かんでくるが、噛み殺してヨシュアはうなずいた。
実際、それどころではないのだ。
ヨシュアの装備はほぼ半壊状態で、鋼の短剣はまだマシな方だが、革装備である防具はかなり酷い状態だった。
耐久値だけのことであるから性能に影響はないが、事態は困窮を極めている。おそらく、あと二桁も攻撃を受けたら壊れてしまうだろう。
それだけにヨシュアは、ヒット・アンド・アウェイに徹するつもりであった。
息を殺して、ヨシュアは体勢を低くして走っていく。狙うは一撃必倒である。
短剣技は手数の攻撃で、火力を出すというつくりをしているので、単発で大威力を出すようにはできていない。
そのなかで、比較的マシだろうといえる技をヨシュアはえらんだ。
むろん、耐久値をなるべく残したいという思いからだ。
濃黄色の光が尾を引き、鋼の短剣は流星のように速度を増していった。
「しっ!」
短剣技単発中威力攻撃〔蜂の一刺し〕である。
感知していなかったカッシ・ゲーナの背部に衝突すると同時、黄色と黒のエフェクトが散り、甲高い音が響いた。
一瞬、震えるようにして半透明のからだがぶれた。
蜂の一刺しの追加効果ではなく、このカッシ・ゲーナがさほどにすばやくないことに起因する。
表示を見れば、カッシ・ゲーナの精神滴下飲みとある。
状態異常攻撃やMPダメージを得意とする、カッシ・ゲーナ族のなかでも屈指の嫌われものだ。
洞穴の中で風が吹いたような声を出し、カッシ・ゲーナは手を伸ばす。
それに触られるだけで、からだのなかを寒風がとおり抜けるような感覚とともに、ダメージが発生するのだ。
「くっ!」
ヨシュアが体勢を崩しながらバック・ステップで下がると同時、リードの魔法が放たれた。
「〔火・雨・矢〕!」
火炎のダーツが数十と、ヨシュアの目の前に降り注いだ。その雨にとかされるようにして、カッシ・ゲーナの精神滴下飲みは消えていった。
「……こんなものなのか?」
「団体戦なんかだともうちょっと効果はあるんですけど、ミクロ的にはこんなものです。長距離移動や撤退戦なんかだと、わかりやすいんですけどね」
ヨシュアは思いちがいをしていた。
リードが言ったのは、カッシ・ゲーナをこんなにかんたんに狩れていいのか、という意味であった。
しかしヨシュアが汲みとったのは、地図の威力とはこんなものなのか、という意味だ。
黒いローブのなかリードは瞠目した。しかしそれは、外へは漏れていなかった。
「じゃあ、つぎ行きましょう。カードはあとで分け合うということで」
このようにして、ふたりはある程度、狩りを成功させた。
といっても、ヨシュアにとっては毎回が冷や汗ものだ。一歩まちがえれば、全身の装備を失ってもおかしくないのである。
事実、接近前に五度ほど振り向かれ、迎撃を浴びた。
それだけでリザード・レザー・メイルなどは、もう一発も被弾できない状況である。
威力が高いふん摩耗値も高いのか、鋼の短剣の消耗もバカにならない。
リードなどは調子にのって、
「もうすこし、もうすこし」
と、狩りを望むのだがヨシュアにとっては、もはや崖の上でチキン・レースをしているにひとしい状態だった。
「もう、限界じゃないですか」
しきりに言うのだが、
「斯様に狩れるはひさしぶりだ。もうすこし」
止まらぬのである。
商人プレイヤーのリードにとって、狩りをするというのはあくまでも商品入荷などのためであり、このようにスポーツ感覚でやるのはひさしぶりであった。
しかたがなく、ヨシュアは街を出る前の約束どおり、前へ出てリードの盾となるしかない。
そして事態はやってきた。
「あっ!」
カッシ・ゲーナの修道士の背部に刃を突きたてた途端、ガラスの泣き声があたりに響いた。
鋼の短剣は耐久限界値を超えて雪と混じり、消失していく。
背後からおどろきの声が聞こえ、魔法の詠唱が中断されたことがわかった。
眼前には、HPが一割も減っていない近接格闘タイプのカッシ・ゲーナがいる。
状況は絶望的だった。
断崖絶壁に打ちつける波のような音とともに、徒手空拳が繰り出された。
ひとつの崩壊は連鎖するように、ヨシュアのHPと鎧の耐久値を削り取っていく。はたして、鎧もまた雪に溶けた。
「うそだろ……!」
行動はバック・ステップの択一である。
逃げながら視界左下のマップを見て逃亡を考えるが、しかしリードを放り出すわけにもいかない。
ヨシュアは瞬間的にあたまを巡らせる。いまこの状況で役に立つものを持っていないか、と。
「そうだ――ぐふっ!」
カッシ・ゲーナの修道士から追撃の蹴りをもらい、HPは一気に二割が削れた。その勢いで雪上を転がりながら、ヨシュアは腰のバッグへ手をやる。
あたかも雪から短剣を作り上げたようにして、その手には雪の結晶が握られていた。
すばやく立ちあがり、氷の短剣を持つ右腕を前に出して、防御の構えをとる。
「やっててよかったイヴェント参加!」
攻撃にはともかく、防御に関しては非常に使えるアイテムだった。
トラブルによる気の動転から回復したリードも、ふたたび詠唱を再開する。
防戦一方ながら、カッシ・ゲーナの修道士を抑えることに成功し、ヨシュアは降雪の中、HPを半分に減らす程度で済んだことに安堵した。
「君、まだ生命のろうそくは消えていないだろうね!」
リードが駆け寄ってくる。黒いローブだから表情は見てとれぬが、その声色にはさすがに心配したものが混じっていた。
「なんとか生きてますよ。死んではいないって程度ですけどね」
ヨシュアの顔をローブの奥からじろじろと眺めて、ようやくリードは落ち着いたようなため息を吐いた。
「わるかったよ。君の忠告をさんざっぱら無視して。そういう事情だとは、露も知らなかった」
「言わなかったのは、ぼくのせいです。地図を買い取ってもらいたい事情っていうのがここまで切羽詰まっていたら、買いたたかれると思うでしょう」
「……わかったよ。地図の有用性も、なにもかもわかった。君が信頼できるというのもね。さあ、我が愛しの路地裏へ帰ろう」
「ええ。さすがにこれ以上は勘弁してもらえると、ありがたいです」
「意外といじわるな奴だな」
「まあ、装備の値段ぐらいには」
ふたりは撤退するために、ふたたび地図を有効活用し敵性MOBの網目を抜けるようにして、帰還した。
リード雑貨店までやってきたふたりはカウンターの奥、居住空間になっている場所へ裏手から入った。
薪ストーヴに火をいれて、ようやく一息吐いた。
防具代わりになっていたダッフル・コートを脱いで、ヨシュアは地の底から響くような声を出す。
「あ゛ー、づかれたー」
「わるかったよ。なにか、いまあたたかい飲みものを淹れよう」
黒いローブを脱いだリードは、エルフらしいしなやかな上下の衣服だけのすがたとなった。
「あ、おかまいなく」
と振り返ったヨシュアは、一瞬止まる。
ぶっきらぼうな会話からM型だと思っていたが、そうではなかったようだ。
エルフにしては、出るとこの出たブルネット美人であった。いわゆる、ダーク・エルフというものか。
褐色の肌と相反する、青白いさらさらとした長い髪は、あまりにも現実感が薄い。ゲームなのだから、当然とも言えるが。
しかしそれも、ヨシュアのなかで納得のいく解決にいたる。ネカマだ。そういう趣味の男もいる。
もっとも、それはもっとかわいらしくロール・プレイをして〔姫〕などと可愛がられ、貢ぎ物をがっぽりいただくという欲望にまみれたものが大半なのだが、リードはそうではないように見える。
どうせプレイするなら、男より女になりたいという願望のあらわれだろうか。
「入ったよ。スープだ」
「ありがとう。ん、あったまる。なんのスープだろう」
「責任押しつけ味」
「うん? ……ああ、蜥蜴のしっぽ切りね」
そういうリードの言い回しが、嫌いではなくなっていた。
「まず、謝らせてくれ。すまなかった。君の忠告を聞くべきだった」
「それに関しては、もう謝ってもらったからいいよ」
「そうか。ではありがたくその気持ちを受けとっておく。……それと、地図に関してなんだが、ほんとうにわたしに預けてもらっていいのか?」
「っていうか、リード以外にいないんだよ。預けたいなって思った人が」
大きな瞳をさらに開いて、リードはくすりと笑った。
「なかなか素敵な殺し文句だ。そうやって、さぞかし女を口説いてきたんだろう?」
「そんな手管を持っていたら、リードに怪しまれることはないよ」
「ちがいない」
からからとリードは笑った。黒いローブすがたに隠れていた彼女は、種族とはことなって明るかった。
「それじゃあ、さっそく明日から取り扱わせてらっていいかい?」
「うん。お願いできるかな。ああ、それとひとつだけお願いがあるんだけど」
「なんだい? ランプの魔神のように、聞けるだけのことは聞いてやろう」
「住み込みでアルバイトさせてくれ。もう宿代もないんだ」
音のしない袖を振りながら、ヨシュアは言った。
「……いいよ。君の好きなだけ」
今度こそ、リードは大きな声で笑った。
それから地図の評判が広まるまで、ステルス・マーケティングこみで一〇日と要らなかった。
あやしげな店で売っているあやしげな地図は、それなりの高値であったが、PvPギルド、GvGギルドを中心に飛ぶように売れた。
資金難から、一気に大金持ちへの階段を駆けのぼるヨシュアとリードなのであった。
*
地図が飛ぶように売れるなか、やはり測量スキルを持っていたのは、ヨシュアたちだけではなかった。
ひそかに。あるいはおごそかに。有用なものというのは隠匿されるものであった。
いったん口火が切られると、各地で地図は売りに出された。
そのなかのひとりにアルミも居た。彼女たちも狩りでは赤字だったのだ。
地図の売買が隆盛をきわめると、旧来マッパーの立場は脅かされていった。
彼らのなかで困窮したうちのいくらかは、手製のものをスキル製だと言い張り、売りさばくという詐欺も横行した。
しかし、それらは測量士のひとりが取得方法を公開すると、次第に落ち着いていく。
もはや先達のアドヴァンテージは、いままでに蓄積したマップだけである。
そうなると、売れる地図というのは絞られていくことになる。
ひとつはヨシュアたちが売りだす、コンプリート・マップと呼ばれるエリアごとに完全のものである。
これはもっとも高値で取引され、暴落していった不完全状態のものとはことなり、いまなお価値を保っている。
スキル間のマップ・データ交換で手に入れた情報は、実際に踏破していないところは地図に書き起こすときに、不完全状態として記録される。
そのため、コンプリート・マップは膨大な時間をかけてその地域を制覇したという証でもあるため、価値があるのだった。
つぎに価値があるのは、フロンティア・マップと呼ばれる最前線のデータだ。これの価値は言うまでもない。
最後に値が付くのは、ダンジョン・マップと呼ばれる迷宮区域、エネミィMOBの支配する場所のマップだ。
後塵を拝するプレイヤーたちにとって、このデータは非常に重用された。
では焦点を絞らない不完全地図はどうするのかというと、これは売りに出されない。じぶんたちで運用するために、パーティ・メンバーやギルド内でのみ流通するのだ。
ヨシュアとリードは、一財産を築き上げることに成功する。
いずれ値段が落ち着くことがわかっていたからこそ、スタート・ダッシュを重要視して、まずありったけ需要に答えたのだった。
供給量が絞られれない以上、飽和状態になることはあきらかだった。
販売限定で需要を増やすという手段は、提供元が絞られているからこそ通用する。
談合などが行われなかったからの勝利であった。
「さて。そろそろか」
リード雑貨店へ一月ほど地図を卸していてると、ヨシュアの懐は、太陽ほどにあたたまっていた。
そのあいだにもちょこちょことマッピングはしていたのだが、危険地帯には近づいていなかった。
メリクス・エリアにのこる未踏破地区は雪山だけだが、Wikiなどに掲載される情報から、ヨシュアが入るには、まだレヴェルが足りそうになかった。
「ほかの女のところへ行くのかい」
カウンターでアイテムを売っていたリードが振り向いた。
黒いローブの奥、瞳が揺れている。ともすれば透明なしずくが浮かんできそうだ。
「もうお前には、飽きたんだよ」
面倒くさそうな態度を取り、吐き捨てるようにヨシュアは言った。
「雨の日も雪の日も、すべてを君にささげてきたじゃないか」
リードが歩み寄り、袖をつかんだ。
ローブから伸びる細い指が、切なげに震える。
「さあね。ぼくの知るところじゃないよ」
一月ほどいっしょにいて、芝居的な口調が移ったようだ。
そういうとこにも辟易するのか、苦々しい顔をする。
「どれだけ縋りついても、ダメなんだろうね」
「そういう情念は、嫌いじゃなかったよ」
袖をにぎる指が強くなった。そして、ちからが抜ける。
「……いいよ。君がもどってきて『ぼくをまた鎖で縛りつけてくれ』というまでいつまでも、ここで夜を越えるよ」
フードを脱いで顔を外気にさらした。褐色の頬が夕日色に染まり、青白い髪が雪のように冷たくこぼれている。
ブラウンの瞳は、いまにもこぼれ落ちそうなほどの湖が満ちていた。
「いつかきっと、お前の熱を懐かしく思うんだろうな」
「さようならは言わないでくれ。その日を信じたいんだ」
「ああ、わかった」
「うん。いってらっしゃい」
夕日をとおりすぎる雨と笑顔でヨシュアを送りだした。
それが見えないように、夜のフードをすぐにかぶる。
ヨシュアは振り返らずに店を出て行く。それだけの礼儀は持っていた。
雪の降るメリクスの街を歩き、路地裏の店からおもてへ、おもてへ。
ちょうどメイン・ストリートへ着いたところで、ヨシュアにフレンド・メッセージが届いた。
リードからだった。
読もうか読むまいか、葛藤があった。
戸惑うようにして、それでもヨシュアはメッセージを開いた。
『七五点。なかなかいい演技だった。地図は、毎回きちんと郵送してくれ』
ヨシュアはこう返答した。
『高得点どうも。忘れないかぎりはかならず届けます。かしこ』
ふたりはだいたいにして、暇なときなどはこうして、ミニ・ドラマじみた演技やコントなどをやっていた。
しかしヨシュアがいい加減、リード雑貨店に居候するのをやめたのは事実だ。
「さて、そろそろ装備を新調するか」
未だに、壊れた武具の代わりを見つけていないのである。
AGI・LUC型であるヨシュアのほんらいは、MOBを狩って得た素材で街の鍛冶屋か裁縫屋に頼み、装備をつくってもらうというものである。であればこそ、LUCを育てる意味もあるというものだ。
この付近でもそれなりの武器や防具はドロップするのかもしれないが、そういうものを引けていなかった。
「前とおなじ蜥蜴革っていうのもなあ」
なんだかおもしろみがないではないか、とヨシュアは思うのだ。
「そうだ。オークションでおもしろそうなのないかな、っと」
PWOのNPCショップでは、すべての街で連絡がとれ、武器屋なら武器のオークション、道具屋なら道具のオークションというものができるようになっていた。
ヨシュアは店に入ってオークションを覗くのだが、
「ぬぅ。どれもこれもレヴェルが足りないなあ」
高性能の装備にはレヴェル制限がかけられていて、足りなければ装備することはできない。
オークションに出品されるような高値の付きそうなアイテムは、ヨシュアのレヴェルを大きく超えるものばかりであった。
「仕方がない。オークションに新しいものが出品されるまで、一度ログ・アウトするか」
メリクスの宿にチェック・インをして、さっそくログ・アウトする――前に、すこしばかり地図を描いておくのだった。
ログ・アウトして目覚めると、午後二時ほどであった。
いかにも中途半端な時間で、なにかはできるが、なにをしていいかわからない。
義明は空調の効いた部屋のなか、うかつにログ・アウトしてしまったことを後悔する。
「勉強でもいいんだけど、ちょっと、なんかなあ」
午前に必要分はやっていたが、それでいいのかと言われると、義明は不安になる。
だが根を詰めてやろうと思えるような気分でもなかったのだ。
「マンガを読もうってんでもないしなあ。……ひとつ、散歩というのはどうだろう」
太陽が最高に輝いている時間、外へ出て車椅子でわざわざひいこらしたいかというと、そんなことはまったくあり得ない。
想像しただけで、汗が噴きだす気分になるだろう。
「そこをあえてやってみようか」
ちかごろ母親の料理がうまいもので、退院直後から、すこし肉がついたのであった。
それでも事故前から比べればまだ細いのだが、いつ動けなくなり、脂肪でふよふよになるかわからない。
ふだんからすこしずつ節制しようと、こころに決める義明であった。
熱中症にならないように帽子をかぶり、リヴィングまでたどり着くのはすでに慣れたものだ。
母・明子は近所の奥さん方と話をしているようで、家のなかには居なかった。
「じぶんで車椅子を用意できるぐらいにはなっていて、よかった」
かなりの苦戦を強いられたが、義明はなんとか車椅子に収まることができた。
玄関はなだらかなスロープになっていて、苦もなく滑り降りられる。しかし逆に、
「む、ぐ、くく」
スピードが上がり、玄関扉に激突しないようにしなければならなかった。
「ふー。まじめにリハビリやっててよかった」
常人ならばなんの苦労もありはしないが、こういうところにまだまだ不都合さはある。
ドアを開けると、エア・コンの冷えた空気から、三〇度を超えている熱気に曝された。
「うぐ。いやイケる。むしろイケる。逆にイケる」
哀しい自己暗示である。
すでに耐久値が半分を割りこんだ勇気を振り絞って、義明は外へ車椅子をすすめた。
下半身が動かなくなってから、ひとりで外出するのは今回がはじめてのようなものだった。
「書き置き残しておけばよかったかな。いいや、メール送っておこう」
着用型端末を起動し、母へのメッセージを送信する。
二〇四〇年代あたりから、技術と素材の進化により、携帯端末は形状の自由度を得た。
義明のものは、アイヴォリー・ホワイトの腕輪型だ。
どちらかというとモバイル・コンピュータの後継ではなく、携帯電話の系譜に連ねられる。
眼鏡型ディスプレイとセットで使うのが定番で、義明もその例に漏れず、黒いフレームの眼鏡を着用していた。
「これでよし、と」
さすがに家に帰って、じぶんが居なかったら心配するだろう。そういう配慮も覚えなくてはならない。
家を出ると太陽の日差しが強く降りそそいでいた。
そのうちに、アスファルトさえ溶け出すのではないか、と、義明には思えてならない。
車椅子は住宅街からほど近い、商店街へ向かっていた。
むかしながらの個人商店こそ数は少ないが、チェーン店や新興店のおかげで賑わいは保っている。
「なんだか、すごく懐かしい気分だ」
地元住民が顔をだし、店を覗いているすがたを見るのは、いかにもこころづよい気がするのだった。
たとえば、一軒の大衆食堂がある。ファスト・フードやファミリィ・レストランというものが繁栄するなか、営業しているというのは奇跡に近い。
そういうものが残っていると知れば、まだまだ人情というものがあるじゃないか、という気になる。
人に頼らなければ生きていけない立場上、こういう店はまぶしく見えるのだった。
「さすがに暑いな。なんか、冷たいモノでも……」
喫茶店は安くないので自販機を探していた。ゲーム内では金持ちでも、現実ではただのこどもなのだ。
すると、義明は別なものを発見した。否、された。
「あれ、もしかして日枝?」
「ホントだ。久しぶりじゃん。元気ってのもおかしいけど、元気してた?」
「石橋と桃坂じゃないか。見てのとおり、満身創痍だよ」
突然の再会に驚きつつも、顔には笑顔が溢れた。まだ一年生のころ、仲良くしていた友人である。
「そいつは大変だな。押してやろうか」
背後にまわり、車椅子をつかむのが石橋だ。野球部らしく色黒で、坊主あたまをしている。
「エンジンはふたつのほうがいいんじゃね?」
「ひとつで充分ですよ。っていうかいいってば」
関係が変わっていないことに安堵して、義明はくすくすと笑う。
「そうか。なんにせよ、すがたが見られてよかったよ」
「もう三ヶ月ぐらいだっけ? マジで心配してたんだからな、こいつ」
「うん。ありがとう。ちょっとネトゲにハマってて、連絡遅れた。わるい!」
ぱちん、と両手を合わせて拝むように、ふたりにあたまを下げる。
「なんだよ、俺たちはゲーム以下か」
「石橋は野球バカだからなあ。ゲームはわからねーっしょ。つーことは、念願のPWOを満喫中ってわけか」
「へへへ、実は」
ずいぶんとだらしなく、頬が緩んでいた。
「餅か、お前は」
「うらやましーよ。オレなんて……っと、そろそろ時間ヤバくねー?」
桃坂のウェアラブル・ターミナルから電子音が響いた。
「そんなか? わるいな、日枝。ちょっと用事あってさ。今度、メール送れよ」
「うん。じゃあね。今夜、メールする」
「二学期ぐらいには復帰すんだろ? 待ってっからー」
手を振って、ふたりは去っていった。
「そういや、退院してからメールとか送ってなかったな」
義明にも友人と呼べるものはいくらかいる。
リハビリや勉強、ゲームにかまけて、そういう関係を大事にしていなかったのはうかつだった。
しかし時間が経ってもじぶんを気にしてくれているというのは、おもわずうれしいものだ。
「そうだ。自販機、自販機」
話している内、のどの渇きを忘れていた。
自販機の前まで行き、腕を伸ばしてウェアラブル・タームナルをかざした。電子マネーが消費され、ボタンが押せるようになる。
「ソーダでも飲みたいところなんだけど」
実際に押したのは、つめた~いの緑茶だ。
味覚的に、アスパルテームなどの人工甘味料はあわないので、義明は買うのならば、甘いものは砂糖が入ったものに限られる。
するとカロリーが増えるので、甘いものは飲めない。苦渋の決断だった。
「ふー、うまい」
とはいえペットボトルのお茶も進歩したもので、安い茶葉をつかったぐらいの味はする。
半分ほど一気に飲み、飲みさしのボトルを車椅子へしまった。
義明は、活気のある商店街へまた飛び込んでいく。
声をはり上げる八百屋、ひっそりとたたずむ肉屋、周囲からも浮いている磁気浮上ボード・ショップなど、そのところどころの店に、それにあう客層がたむろしていた。
混沌としていて、どこかつかみどころがない。
そういう雰囲気に飲まれて、義明はむしろ冷静に立ち返っていく。
「これだけ人がいるのに、ぼくは」
言葉を飲み込んだ。
すこし友人とふれあい、思い出してしまったのがいけないのだろう。
寂しさが感覚のない場所から昇ってくる。
太陽の日差しが瞬いていた。
「……う、ダメだ」
あたまがくらくらとして、視界が揺れて人に酔っていた。
胃の奥が蠕動し、数時間前に食べた昼飯がうごめく。
「ちょっと休むか」
商店街を抜けて、最寄りにある公園へ向かった。
緑の芝生はないが木々が生い茂り、建造物の建ち並ぶなか清涼感を与えている。
雲梯や、はんぶんほど地面に埋められた車のタイヤでつくられたのとびばこなど、古くから、こういうところにあるものは変わらない。
唯一、特徴があるとすれば、つるつるの石でつくられた、大幅のすべり台ぐらいか。
バカなこどもは現代にもいるようで、滑り降りる場所から逆さに登りはじめ、頂上に到達しては自慢げな顔で周囲のこどもたちを見ている。
うらやましい。そういう気持ちはずきずきと鼓動するように肥大化してくる。
「とはいえ、商店街よりはいいや」
あれだけこころ強かった商店街が、いまは苦しい。気の持ちようというのは複雑なのであった。
しばらくぼーっと空を眺めていた。
日差しが強く、そのうちにペットボトルのお茶がもうはんぶん消えた。
雲がのんびりとしていて、雨は降りそうにない。
こどもの声がきらきらと輝いていて、ああいう時代がぼくにもあったな、と義明は反芻する。
その内に、背後から声がかかった。
「昼間だというのに、ひとり黄昏れてるね、少年」
振り向けば、月木まひるだった。
「あれ、月木さん」
「呼び捨てでいいって。向こうじゃそうでしょ。それより、そんなだっけか、日枝くんって」
「や、まあ、あかるい方じゃないけど。こっちも呼び捨てでいいよ」
「OK。義明って、見た目より気分の上下激しいよね。ぼーっとしてそうなのにさ」
「名前かよ……いいけど。まだ落ち着いてないんだろうね。自覚はないけど」
振り返ってみれば、落ち着くための時間はあったはずなのに、それらはすべてPWOの世界に吸いとられていった。
一種の興奮状態に陥って、心底を整理するための空白はなかったのだ。
しかし、それがわるいことではないことを、義明はわかっている。
こころをすくい上げてくれたのもまたPWOなのである。ただそれに甘えすぎて、じぶんを失っていただけだ。
「だったら、いま落ち着きなよ。時間はあるんでしょう」
「ああ、うん。時間だけは」
「なら、ゆっくりすればいいよ。夏だからまだまだ二、三時間はあかるいからね」
風は凪いでいたから、暑さがないわけではない。
だが木陰の涼しさというのはあり、三〇度を超えるというのにもかかわらず、すごしづらくはなかった。
となりのベンチにまひるが腰掛けて、義明とおなじように空を見上げた。雲がただそこにあるばかりで、格別のものはない。
「ぼーっとしてるのも飽きたね。なにか話さない、義明」
「おい。まひるが落ち着けって言ったんだろ」
さすがに呆れて、言葉もない。
「いい、時間っていうのは、いまよりはやいものはないんだよ。瞬間、瞬間で、パっと切り替えられなくちゃ。それはそれ、これはこれっていうでしょ」
「……さいですか」
まったくもってこの少女には敵わないのであった。
しかたがなく義明は、会話に応じた。
「ええと、そうだな。もうすぐパラリンピックですね」
「お、いきなりそこ持ってくる。義明はオリンピックより、そっち派なんだ」
「なんていっても、派手だからね」
義肢の性能が生身をはるかに上回った二〇三〇年代から、パラリンピックは世界大会の花形となった。
生身での一〇〇メートル走がいまだに九秒がどうのという話をしているのに対し、義足の場合は六秒を下回る。
「意外だねえ。義明はもうちょっと地味で玄人っぽい感じが好みだと思ってた」
「ぼくは低俗だよ。だからPWOをやりたいと思ってたんだし」
「定番的で王道だからこそだよ」
「そういう言い方もあるか。とにかく、ぼくはパラリンピックの方が好きなんだよ。夢があるしね」
「夢っていうと、インプラント・チップあたり?」
「うん。ぼくらのようなものにはありがたいよ」
義手もいまでは脳波コントロールと筋電のハイブリッドに、VR技術を応用して簡易的に疑似感覚を再現する三・五世代型が主流だ。まだダウン・サイジングが厳しいせいで、ほぼ完璧に再現はされていない。
インプラント・チップとポケットに入る程度のものになれば、チップを埋め込むなどして、義明の感覚も取り戻せるのだろうが。
そういうこともあり、いまではオリンピックよりも、超人競技大会がメインとされているのであった。
もっとも、これはアスリートよりもむしろ企業の技術力発表会という趣が強くなり、その面が批判されている部分もある。
パラリンピックで良い成績を残した企業が、のちに業績を伸ばすのは事実なのだ。
だがそれもわるいことばかりではない。技術力のあるところに仕事が入り、資金力が潤えば、それだけ進歩する可能性がある。
中小企業にどう光を当てるかという問題ものこるから、手放しで褒められはしないのだが。
「バッテリィとかいろいろ、山積みだね」
「死ぬまでにとは言わないけど、老いて歩く気力もなくなる前に実現すればありがたいよ」
「それで、どこを歩きたいと?」
「そりゃもちろん、世界中を旅するよ。歩けなかった分を取り戻すね」
そういうヨシュアの瞳はキラキラと輝いていた。昼月のように、真夏の日差しのなかですらわかる。
視線の先、映っているのは地表ではない。もっと遠い、空の彼方である。
「あの空の先も?」
「行けることなら。……いや、いつか行くよ」
軌道エレヴェータが完成してから一〇年以上経つが、しかしまだ一般人の多くは利用することができていない。
企業が独占しているというわけではないが、値段が高いことが理由に挙げられた。
むろん、旧来のようにロケットを打ち上げるよりもよほどに安価ではある。
だからといって、一般人がおいそれと出せるような金額ではないのも事実であった。
現在は無重力で実験や合金の生成などをメインに行っているようで、無重力チタン合金などがよく出回るようになった。
エレヴェータを足がかりに月面に基地を作成し、月面研究所などというものが、現在の研究者垂涎の環境であるようだ。
「だったら、義明は研究者になるべきだね。いま、パンピーの君に可能性があるとすれば、それがいちばん!」
「パンピー言うな。でもたしかに、それは可能性が高いけど、そこまで頭脳的でもなければ意欲的でもないんだ」
「すくなくとも、意欲的にはなれるね。きみ自身が研究者になれば、疑似感覚システムのダウン・サイジングにも打ちこめるのだよ」
それは一種、義明を開眼させた。
将来的になにをやればいいのか、という疑問すら、その前ではほどけていくようだった。
やりたいことは? という疑問に、義明は即答できたことがない。
こころの底から望んでいたものがなにもなかったからだ。
だが、いまならわかる。いまなら答えられる。
やりたいことは?
――じぶんの足で歩きたい。
その夢を実現させるために、時計の針を進めることができる。
胸を張って言えるほど、たいしたものだ。
「そうなんだ。いつだってまひるは、ぼくを変えてしまうね」
「ん、それってどっちの意味で?」
「両方かな。おかげで、目標ができちゃったじゃないか」
「それは僥倖。だったらいつか、恩返しをしてくれたまえよ。向こうででもいいしね」
口角を上げて、わるい顔をして彼女は笑った。
「いいよ。ランプの魔神のように、なんだって聞き流してあげる」
「流すなよ!」
「エジプシャン・ジョークだよ。すこしリッチになったから、豪華なレストランぐらいなら奢れる」
「ほほう。そいつぁ楽しみだね」
目を丸くしてから、にやりと細めてまひるは笑った。おそらくは、ハイ・エンドのコース料理を頼もうと思っているのだろう。
いまのヨシュアにとっては痛くも痒くもない値段だが、それで彼女が喜んでくれるなら、金を稼いだ意味もあるというものだ。
「今夜?」
「今夜、メリクスのバーで」
あのときと逆だね、と、まひるが笑った。
いつのまにか、義明のこころはさびしさではなく、よろこびで満たされていた。
いつだって、彼女と居ればそうなれる。
そう確信していた。




