04 真昼
ゲーム内で渓谷を越えてから、ヨシュアたちはずいぶんと奮闘した。
さすがに包丁で戦闘するわけにもいかず、金策をするために渓谷へ戻ってリヴァリアンたちを狩るという羽目になったのも、いまではいい思い出だろう。
テラたち六人パーティとはフレンドになり、どうしても手が足りないという時や、クロモリたち三人組が居ないとき、混ぜてもらったりしている。
それから一月ほどが、あっという間に過ぎていった。
それだけあれば、環境も変わるのは当然のことだ。
退院が決まった。
といっても完治したわけではなく、単に入院から通院へと変わるだけだ。
L1完全型と呼ばれる腰から下の感覚消失状態の義明も、いまでは車椅子を乗りこなすためのリハビリテーションを、一段落させている。最初は、右腕にもかすかに麻痺があり、バーを掴むことさえ苦労したものだ。いまでは麻痺もなくなったため、どうにかなっているが。
しかし、今後もリハビリテーションは行われるし、完治することはないのだから、つきあっていくしかない。
はやいところ動けるようにならなければ、それだけ神経に麻痺は残るばかりなのだ。鉄は熱いうちに打て、ということである。
そういう精神的に前向きになれたのは、VRシステムがあったというのが大きいだろう。でなければ、いまでも義明は、ふさぎ込んでいたに違いない。
入院しておよそ二月――最初の一週間ちょっとは集中治療室であったが――のあいだ、しっかりと世話をしてくれた自称二九歳の美人巨乳看護師との別れは辛かったが、それよりも退院できるというよろこびが勝る。
「寂しくなるね」
と、すこしぽってりとした唇がつむぐ音は、そのよろこびを消すのに充分でもあった。
義明の使う車椅子は電動式ではなく、単なる自走式だ。
昨今のものならば、電動式が二〇万円とだいぶ安いので選択肢に入るかと思われたが、まだ歳が若いことと、筋肉をつけるために、わざわざ手動をえらぶという選択のようだ。
たしかに電動に頼りすぎれば、ただでさえ動かないのに筋肉は衰えていくばかりである。
車椅子に乗るまで回復したことは喜ばしかったが、そこから先は非常にむずかしい。
脊髄損傷のしかも完全型であるから、感覚の回復は見込めない。現代の進歩した医学でも、まだ完全治癒がむずかしいことはある。
障害者厚生年金なども、未成年の義明には払われないものだ。払われたとしても、それで暮らしていけるわけでもない。
加害者男性とその両親含めて身辺を調査したところ、即金で損害賠償金を支払えるだけの能力がないと判明した。
保険には入っていたから、対人賠償保険は適用されるが、それでも、支払いきれるものではなかった
ひき逃げ犯となってしまった男性も、取り調べの後は気が落ち着いたようで、だいぶ反省しており、当時、逃げ出したことをかなり悔いているようだった。
彼の両親は会社員とスーパーでレジ打ちのパートをしている共働きの夫婦で、貯金はあるが大金ではない。
支払うにしても最低限の生活を保障しなければならない。しかし紳士的にも、
「残りが分割でいいのなら……」
と、話し合いの結果、かなりの年月はかかるが、支払ってもらえることになった。
保険会社から払われるだけのものは払われた。しかし、それに頼らないための努力は必要となるだろう。
当座の入院費や治療費などのことは、両親が県民共済に入れてくれていたおかげで、保険金とあわせてなんとかなっているようだった。
しかしこれからのことを考えると、それでも充分に足りるものではない。健常者とはかかるランニング・コストがまったく違うのだ。
それでも、しばらくの猶予が与えられたことは、日枝家にいくらかの光を与えてくれた。
担当医師に挨拶だのを済ませて、両親は車の前までやってきた。
いまは排ガス規制によって、ほぼ一〇〇パーセントが電気自動車になっている。ただし、歩行者などに注意を喚起させるため、騒音はいまだ無くなっていない。
すこしばかり義明は、その音に震えた。時間が経って平気になったつもりでも、事故は確実にその精神を犯しているのだ。
しかし車なく移動できるほど、義明には体力もなにもない。その恐怖を押し隠して、ただ静まれと念じるばかりである。
自動車――日枝家のものはセダンだったので、レンタルでヴァンを借りた――で、車椅子やVRシステム一式などを収納するのすら、一苦労であった。力仕事をやるはずの義明は、こういう時、どうしようもなく申し訳なく思うのだ。
もう若くない父の義弘にすべてを任せなければいけないというのは、息子として、すこしばかり恥じ入るものがある。
しかし、謝ればどういう雰囲気になるか、ということぐらいは、義明にもわかることだ。
「ありがとう。父さんもまだまだ若いね」
「学校の部活で運動部を担当してるからな」
わかりやすく、ちからこぶなどをつくって、義弘はおどけた。
中学校の教員である義弘は多少苦労ごとが多いせいか、すこし白髪が多いようだった。
「そろそろ出発するから、あなたも乗って」
「ああ、はいはい。いま行くよ」
母の明子が運転席から、義弘を呼んだ。
三人を乗せて、車は病院から去っていく。
およそ三〇分ほど走って、車はエンジンを止めた。
一月ぶりに我が家へ帰ってきた義明は、懐かしいというよりも、帰ってくることができたという感動の方が先走った。
なぜか目に浮かんでくる涙がこらえきれず、ぐしぐしと袖で拭う。
「ただいま」
そういうのも、一月ぶりである。
「おかえり」
「おかえり、義明。きょうはなにが食べたい? あなたの好きなモノつくってあげる」
「そうだなあ。……とんかつ。とんかつが食べたいや。病院の食事は、あんまり脂っぽいモノがなかったから」
「とんかつね。わかった。奮発して、ちょっといいお肉買っちゃうから」
「とんかつか、ひさしぶりだな。うんと、余るぐらいにつくってくれよ。あした、かつ丼にして食うからな」
「はいはい。わかってます」
くすくすと明子は笑う。むかしから、とんかつとなれば、義弘はそうなのだった。
この夜、義明はとんかつで二回もご飯をおかわりし、腹がふくれて動けなくなるほどに食べた。
退院したものの、日常の苦労はついて回った。どうやら義明が入院していたあいだにバリア・フリーの工事をしたようで、玄関と風呂場が広くなるなど、いろいろと変わっているところもあった。
しかしだからといって快適に暮らせるかというと、そうではない。あくまでも、比較的暮らしやすく設計されているというだけで、まったく問題がないというわけでもないのだ。
ベッドの上だけで生活していて退化した体はやせ衰え、まだまだ元に戻るのにすら時間がかかるだろう。
車椅子で通学できるようになるというほどには、すくなくとも一月はかかるに違いない。
それまで、勉強が遅れてはいないか。授業に復帰してついて行けるか。そういう不安もある。
しかしそれでも、やっていかなければならない。
いのちがあるだけ儲けもの。その考えにすがるようにして。
夏のせいか、時刻は夕方近いというのに、まだまだあたりは明るい。
何回目かの通院途中、義明はふと見覚えのある恰好を見かけた。それは義明が通っていた学校の制服だ。
「なんの用だろう」
義明が通う病院はけっこう大手の病院だが、わざわざ風邪を引いたからここへ、というほど内科が充実していただろうか。
それも、足取りのかるい細身の女の子だ。病気にしては、元気すぎるような気もするではないか。
今回、義明は一六時からのリハビリだったので、彼女が学校が終わってすぐ病院へやってきたことになる。
扉へ吸いこまれるようにして、彼女は病院へ入っていった。義明は首をひねり、あたまからすぐに追い出した。
「ま、いいか」
義明を乗せた母が運転する車も、おなじように、病院へ入っていく。
独特の消毒液のような臭いが鼻を突いた。いい加減に慣れたが、どうしても義明はこれが得意にはならない。
通常ならば、リハビリテーションは専用の病院へ行くものだが、さいわいか、義明が入院していた大学病院は、併設されていたので、新たにしなくともよかった。
受付を済ませてリハビリ待合室へ入ると、そこにはすでに顔なじみとも言っていい顔がある。
二〇代後半にして義明とおなじように下半身不随になってしまった青年や、右腕のない少年、左脚を欠損した老婆などだ。
彼らとは、共通の話題があったから、すぐに仲良くなることができた。というよりも、励まし合ったというのがほんとうか。
たわいもない話で盛り上がったあとのリハビリは辛いが、それでもなんとか元気をもらった気がして、義明はがんばれるのだ。
リハビリを終えて病院を出てくると、また義明は先ほどの少女を見かけた。
「あ」
と声を漏らしてしまったせいで、彼女は振り返った。義明を見かけて、折り曲げた人差し指をあごにくっつける。記憶を探っているのだろう。
「ええと、なにかご用ですか?」
「あ、いえ。すみません。ぼくが通っている高校の制服だったから」
「そうだったんですか」
それで、納得したように少女はうなずいた。
「休学中……なんですよね。もしかして、二ヶ月ぐらい前に事故にあった?」
「ああ、もうそんなに立つんだ。そう。その、交通事故にあった日枝義明。二年の三組」
「わたしはとなりの四組。月木まひる。月なのに、まひるなの」
月なのにまひる。ご両親のセンスに感歎する義明であった。
「だったら親御さんは、あさひさん?」
「あさひは妹」
ますます感歎するばかりだ。
もう一世紀近く前になる、二〇〇〇年あたりから流行ったキラキラ・ネーム世代が親になったとき、しっかりとした名前をつけるようになったおかげで、ブームは下火になったようだ。
名前だけならまともなのに、苗字と組み合わせるとスパークするという合わせ技は、芸術的ですらある。
「なるほど。妹さんがいるんだ。」
「うん。ふたつ下で、いまごろ受験でひいひい言ってる」
「あー。もう懐かしい気さえする。あと一年すれば、逆にぼくたちがひいひい言うんだけどね」
「いやあ。おもいださせないでよ」
両手をあたまにあて、ふるふると振るわせる。
かわいいな、と内心思いながら、どうして初対面なのにこんなに親しくできるのだろう、という気持ちも湧いてくる。
この少女――月木まひるがそうさせているにちがいないと気づいたが、どうしてそういう雰囲気を持てたのか。
ヨシュアにとってそのコミュニケーション能力はうらやましくもあり、そうしなければならなかった理由があるのだとすれば、可哀想でもある。
「コップにジュース半分の思考みたいなものだよ。まだそれだけあるのか、それしかないのか、ってやつ」
「ふむふむ。わたしは後者かな。だって一年後、生きていられるって保証はないもの」
病院で語りあうのだから、それは正しい。というよりも、笑えないジョークだろうか。
「たしかに。突然、車が突っ込んでくるってこともあり得るね」
こんなことでくすくすと笑えるようになるとは、義明にとって思いもしなかったことだ。
むかしは、老人が死についての話をしているのを聞くだけで、イヤな思いになったはずなのに。
「笑えないなあ。いや、笑えるのかも」
「笑っておくんなさいよ」
なめらかにすべった自虐ギャグほどむなしいモノはない。
「ま、なんだ。要するに、考え方次第なんだっていうことを学んだよ。……ゲームで」
「ゲームかっ! それも最近のVRシステムだと、バカにできないけどねえ」
「月木さんもやるんだ。イメージからすると、キュートでポップなワッツァ・ビューティフル・ワールドあたり?」
「ぶー。ああいう、キレイキレイしたのは苦手なんだよね。通院とかしてるとさ、嘘っぽすぎて」
「なるほど。じゃあ意表を突いて、火花散らす鋼鉄のロボゲー、フルメタル・ジャケテッド・ガンズ!」
「それは穿ちすぎだって」
苦笑しながら、まひるは正解を口にした。
「正解は、パラノーマル・ワールド・オンライン。きれいだけど、それだけじゃないところが気に入ってるの」
「ああ……なんだ。ぼくといっしょだったんだ」
「ほんとうに? だったらキャラクター・ネーム教えてくれない。フレンド登録しあおうよ」
「うん。ぼくのキャラクターはヨシュア。いまはプラネタ――リペルーマのつぎの街――を拠点にしてる」
ほんとうに驚いたように、まひるは一瞬目を見開いて、くすくすと笑った。
「へえー、ぐうぜん。わたしも、いまプラネタ。ネームはライム」
「OK。ライムか、記憶した。じゃあ、これから帰ってダイヴしたら、待ち合わせよう」
「ええ。時間があったら、向こうでいっしょしましょう」
「今夜、プラネタの酒場で」
「ゲームの中だって、飲み過ぎたらダメなんだよ」
ほんとうに初対面とは思えないようなやりとりをして、ふたりは別れた。
もうそろそろ、夕空には月が輝いていた。
母手ずからの餃子や焼売などの点心を堪能すると、義明は苦労しつつ、なんとかじぶんの部屋へたどり着いた。
もともとは階段を上がって右手側にあったのだが、いまは一階の、父の書斎があった場所である。
書斎は二階の義明の部屋に移設された。書斎は四畳半で義明の部屋は六畳だったから、いくらか狭くなったが、いまの義明にはそれぐらいがちょうどよい。
どうせ、ベッド、机、VRシステムぐらいしか触らないのである。
「やっぱり、蒸したては熱くてうまかったなあ」
ベッドで仰向けになりながら、まだ思い出せる味を、反芻のように堪能していた。
すこし厚めにした皮がむっちりとして、噛んだ瞬間に口にあふれる肉汁のせいか、蒸し餃子など、一〇個も二〇個も食べてしまったほどだ。
しかしながら歯は磨いてしまったので、しばらくする内にミントの香りが思い出を奪っていく。
「そろそろPWOにログ・インしてみようかな」
一般的な少女の生活時間というものは、義明にはわからない。風呂が長いだとか髪を乾かすのに時間がかかるだとか、そういう断片的な情報しか知らないのだ。
うんせうんせと苦労してVR端末をあたまに被り、PWOの世界へと落ちていった。
視線入力でゲームを起動すると、一分ほどバーが表示され、それば一〇〇パーセントまで行くと、情報が表示された。
「お、ついに新マップ導入か。……へえ。あのバグついに修正されたんだ」
アップ・デートがあり、ついに最新のマップが導入されたのである。最前線にひとつと、渓谷越えのプレイヤーなら誰でもウェルカムというマップがひとつだ。
修正されたバグは、一部のユーザーが使っていたもので、両手剣技を片手剣で使えるというものだ。両手剣の技の大半は、高い威力と性能を誇っているが、防御性能が低いということでバランスを取ってある。それを見様見真似の偽技ではなく、効果付きのもので、盾を装備できる片手剣にされたら、たまったものではない。
「修正されても短剣と両手剣不遇は変わらないんだけどね」
VRMMOでは、間合い――つまり、距離の取り方、自分自身が得意とする空間の支配が必要となってくる。
それは車を運転していて、なんとなく車幅などを把握して、壁に当てないようにする、というようなものだ。
もっとも、最近の電気自動車は自動運転が標準装備されいるので、このような感覚を持つものは、すくなくなってきているようである。
そんな世界の中で、短剣というリーチの短い武器が不遇であるのは道理だろう。もっとも取り柄はあり、極めれば、手数が多いだけに秒間火力で最大級に位置している。……のだが、PvPではそれが発揮できる前に、距離を取られてつぶされるのが常だ。
「いまさら乗り換える気もないけどさ。もうちょっと優遇されてもいいんじゃないかなあ」
完全にハマってしまったがゆえの愚痴をこぼしつつ、義明はヨシュアとなるために、ログ・インを済ませて仮想の世界を歩き出した。
ゲーム内時間でも夜のようで、空には星が瞬いていた。泊まっていた宿屋から抜け出すと、ヨシュアはごった返す人々を眺める。
「こんなに、どこから集まってきたんだろう」
第三の街・プラネタは、比較的人気の高い街である。しかしだからといって、ここまで混雑はしていなかったはずだ。
「あ、そういや今日、アプデのイヴェントやるんだっけ」
プラネタから繋がる、追加された街への遠足のような催しで、参加者全員にアイテムが配布されるのだった。
「それより、バーへ行かなくちゃな」
手早くフレンド・リストを見て、クロモリ、カーボン、アルミの三人が来ていないことを確認すると、場所を移動し始めた。
彼らはふだん、VRカフェからログ・インしているらしく、このような現実時間にはまず現れないのだった。
プラネタにもバーはいくつかあるが、ただ、バーと言って指すのは、料理スキルをコンプリートした趣味人〔かじまら〕の経営する〔モーナ・モーナ〕だろう。すくなくとも、ヨシュアはそのつもりだった。
「いらっしゃいませ、ヨシュアさま」
うやうやしく挨拶をするのは、雇われNPCである。黒い衣服と白いエプロンを纏う淑女で、清潔で清楚な服よりも、挑発的な赤いドレスを着させたいような女だ。
「いつもご苦労様。寒くない?」
「いえ。この服はなかなか暖かいのですよ」
にこりとほほえみ返す彼女に会うために来ているプレイヤーも、すくなくないのだろうな、とヨシュアは確信した。
店は広くはない。カウンターに椅子が六つと、四人がけのテーブルがふたつあるばかりだ。ふだんならばみっちりと満杯なのだが、イヴェントに出ようとするプレイヤーが多いのだろう。カウンターが半分と、テーブルがひとつ空いていた。
ほとんどが木材でできていて、下品にならない程度にワックスで磨かれていた。照明はキャンドルで、明るすぎない橙色の光が店内を満たしている。
この店に来るたび、ヨシュアはどこか背伸びをしている気分になる。だが、そういうことから、意識というものは生まれるのだ。
「まだみたいだな。それとも、ここじゃなかったかな」
とりあえずヨシュアはカウンターに腰掛け、飲み物をひとつ頼んだ。ふだんは食事をしにくるのだが、さすがに夕食を食べたばかりで、また食べようとは思わない。
やがて、ノン・アルコールのカクテルがひとつ出てきた。レシピはオリジナルで、柑橘系を使っているのはわかるが、ヨシュアにはレシピの検討がつかない。
しばらく、ちびちび飲んでゆったりしていると、またひとり客が現れた。肩胛骨までかかるライム・グリーンの髪をしたF型ヒューマンだ。彼女はしずかに歩いてくると、ヨシュアの横に腰を下ろす。
「……おどろいた。リアルとほとんど変わらないね」
ヨシュアと義明の相違など、せいぜい耳が尖っていることと、髪型ぐらいだろう。
幾分、現実よりも調えられた感はあるが、おおまかに変わっているものはないと言ってよかった。
「凝ろうと思うまえに、ゲームを始めたかったんだよ」
肩をすくめて、いまさらながらに後悔している風を装った。
「さては、取扱説明書を読まないタイプだ」
「そういうライムは、攻略本を買ってからやる派?」
「ひどいことを言うね。このナチュラル・ビューティに対して」
頬を膨らませてから吹き出し、くすくすと彼女は笑った。
この少女が、月木まひること、ライムで間違っていないようだ。
「わかった。君はもともとかわいい。むしろ仮想体のほうが現実よりも劣っているかもしれない」
「それはそれで、何時間もかけたつくった〔わたし〕を否定された気になるよ」
どうも、この少女を前にするとヨシュアはじぶんがじぶんでないような気分になってくる。
彼女自身も顔立ちなどはほとんどリアルと変わらないというのに、髪型やカラーなどで、だいぶ雰囲気が違っていた。
もっとも、スタイルなどは幾分、補正してあるようだが。
「わるかった。それより、なにか頼まないの」
「晩ごはんは食べちゃったからなあ。……それ、おいしそうだね。なんてやつ?」
「シトラス・スクウィーズ」
「まんまだなあ」
苦笑しながら、彼女もシトラス・スクウィーズをひとつ注文した。
氷がからりと音をたてて、グラスの中を回っている。
夜はすこし、長引きそうだった。
*
柑橘系のノン・アルコール・カクテルを飲み終えて、ライムは代金をカウンターへ置いた。
「そろそろ行こっか」
「もう、そんな時間?」
おなじように、ヨシュアも代金をカウンターへ乗せる。
「うん。現実時間で二〇時半からだからね」
ステータス・ウィンドゥを開いてみれば、たしかに現実の方を示す時計は二〇時二五分を回っていた。
あたりを見回せば、お客のほとんどが、見倣うようにして立ち上がっていた。彼らも時間をつぶすためにここへ来ていたようだ。
「せっかくの運営側が開催するイヴェント、しかも参加者全員にアイテムだもんね。見逃すはずないか」
「どんなものがもらえるんだろうね。前のイヴェントじゃ、変身アイテムだっけ?」
小首をかしげて、記憶を掘り起こすように聞いた。
「みたいだね。使い捨ての巻きもので、モンスターとかにもなれたらしいよ」
「いいなあ。ほんとうの仮装パーティだ。今回も期待だねっ。かじまらさん、ごちそうさまでした!」
椅子を戻しながら、ライムがドアに向かっていく。
「あ、と。ごちそうさまでした。おいしかったです」
かるい会釈をして、ヨシュアもそれに続いた。
「また、どうぞ」
樽に手足を生やしたような体型のドワーフからは到底想像できない、子猫のような声で、かじまらはすべての客を見送った。
「うわぁ。真夏の市民プールみたい!」
プラネタの道という道に、ぎっちり人が詰まっていた。旧世代のMMORPGなら、まちがいなくラグで会話もままならないに違いない。
さすがに辟易した様子で、ヨシュアはすこしばかり、イヴェントに参加するのが億劫になった。
「前線攻略隊なんかは、これさいわいって感じで、新マップに行ってるんだろうけど、レヴェルがあるならそっちの方が賢いな」
数万という人のざわめきのせいで、ただ会話するだけにも密着し、すこしばかり大きな声を出さなければならなかった。
それがうれしくないと言えば嘘であると、内心、ヨシュアは思っていた。なんであれ、女性と密着するというのは、この年頃の男ならば、よろこばしいものだ。
「はぐれちゃいそう。手、つなごうよ」
ぐーとぱーを交互に出し、ライムは手のひらを上に向けて、ヨシュアに差し出した。
「いいの?」
「こっちが言い出したんだから、いいに決まってるでしょ」
言うや、強引にライムはヨシュアの手を奪った。あたたかいやわらかさが伝わっていく。
彼が同世代の女性の手をしっかり握るのは、中学生の時にやったフォーク・ダンス以来だった。
その感動たるや、言うまでもない。
「なんか、すごく緊張してきた」
「もうそろそろ、イヴェントが始まるからねえ」
そういう意味ではないのであったが。
周囲からは、時計の数字が変わるたび、大声で叫ばれている。
現実世界においてあと三〇秒ほどで、イヴェントは始まるのだった。
最後の確認にヨシュアがステータス・ウィンドゥを開くと、テラ、イグニス、アクア、マレウス、ルクスの五人がオンライン状態であることがわかった。テネブラエ、アルミ、カーボン、クロモリの四人は、ログ・インしていない。
もしかしたら、向こうで連絡が取れるかも知れないと思い、ヨシュアはフレンド・メッセージを飛ばしておく。
のこり一〇カウントになると、街の上に数字が浮かんだ。
カウントが進むごとに、周囲の声は大きくなっていく。
「なんか、わたしもドキドキしてきた!」
「ぼくも!」
否応なく上がっていくテンションに乗っかって、ふたりは最後のカウントを、みんなといっしょに叫んだ。
――ゼロ!
という絶叫と同時、空に花火が打ち上がった。
数百発のスター・マインや割物とともに、ピエロのような派手な恰好をした男が宙に現れる。
こういうイヴェントごと担当のGM〔フライディ〕である。
「やあやあ。よくぞ集まってくださった、プレイヤーの諸兄諸姉! ヴィーナスがほほえむ夜へようこそ!」
歓声と、さっさとしろという旨の罵倒が飛び交った。派手なイヴェントに定評のある男で、GMの中では敵も崇拝者も段違いに多い。
「はっはっは! ありがとう。それではみなさま方。さっそく夜の遠足へ行くとしましょう。今夜だけはとくべつのはからいに、ハイキング・コース付近の敵性MOB出現率を、ぐーんと上げさせていただいた!」
しねー! という四方八方から飛ぶ過激なコールに挑発的な解答をして、フライディはゆっくりと宙を進んだ。
「さあ、新たなる世界へ旅立だとうではないか、英雄たちよ!」
「おー!」
「お、おー!」
周囲のプレイヤーたちといっしょに、ヨシュアとライムも叫んだ。というよりも、先ほどから張り上げっぱなしだった。
「なんかいいよね。お祭りって気分でさ!」
「そうだね。けっこうわくわくしてきた!」
待っていると、次第に人の群れは動き出した。街の出入り口付近から先発隊が外へ出たようで、ぞろぞろと河のように流れていく。
ヨシュアたちが動き始めるには、およそ二分ほど待たなければならなかった。
そのあいだにも、がんがん湧出したMOBたちが、先発隊を襲っていた。あまりにも大量の攻撃を捌き切れず、いくらかのプレイヤーが死に戻りしている。
拡声モードで、あちらこちらからフライディを罵る声が上がっていった。もはや遠足ではなく、未知の領域を行く探検隊の様相である。
「もしかすると、フル装備じゃなかったら即死なんじゃないか?」
ヨシュアがつぶやくと、となりでライムがうなずいた。
「かも。わたしたちはまだ街の外に出てないから、いまがチャンスだよ」
そう言うと、ウィンドゥを操作してふたりは自身の装備をいま持っている最高のものと交換していく。
ヨシュアは蜥蜴革でまとめ上げた軽装を全身に着用し、腰に鋼の短剣と四本のスロゥイング・ナイフを差した。
ではライムはと言うと、さわやかな髪色と細身の体からして、おなじように軽装の戦士かとヨシュアは思っていたが、実際のところはそうではない。
「……うっそ。ライムって、その見た目で壁役?」
あるく度にがちゃがちゃと揺れるフル・プレート・メイルを装備し、あたまの天辺からつま先までを鋼で固めていた。
そして特徴的なのはガントレットで、むしろ盾のように巨大な厚みと丸みを帯びている。盾を装備しない代わりなのだろう。
「ふふん。驚いた? しかもウェポンレスだよ」
全身鎧で盾や武器を持たないというのならば、彼女が扱うスキルは決まっている。体術系スキルだ。
しかもその姿では関節系などできるはずもない。すなわち重量を生かした直接殴打型と推測できる。
「タンクで打撃系? また変わり種っていうか、脳筋一直線っていうか」
「エルヴン・ファイターの言うことか。しかも短剣じゃない」
そう言われると、ヨシュアもそれ以上強くは言えなかった。ただ、顔がフル・フェイス・ヘルムで完全に見えなくなるのは残念だった。
しばらくして新マップ探検隊は、上空からフライディの煽りにビキビキとこころのささくれを作りながら、その場にいるメンバーで協力し合うこととなった。でなければ、寄ってきたMOBに囲まれて死ぬ運命が待っている。
ヨシュアとライムも例外ではない。周囲に居た、整いすぎて気持ち悪いほどの美形ヒューマン〔ミーツ〕と、別方向だがかなり作り込んである仮想体の〔壺男くん〕に協力を頼まれた。名前のとおり、どこか壺のような体型と、一癖も二癖もありそうな顔をしている。
「よろしく。私は主にレイピアを使う」
充分に恰好つけているのだが、どこか挙動不審であったり、やたらと動作にキメをつくるあたりが、どうにもコンプレックスを垣間見させる。
「ヨローチークー。ワタチ、壺男くんアルヨ。ナマステー」
小器用に、首だけを左右に振りながら、妙ちくりんなダンスをしつつ壺男くんは三人へ向かったあたまを下げた。
イントネーションや語尾など、どう考えてもうさんくさく、これはこれで、どうしていいか反応に困るヨシュアとライムであった。
「チナーミーニー。ワタチ、斧使いですねん。せやからってあ、くさっ! ってわけナイアルヨ!」
「ああ……うん」
「さいですか」
なんだかどっと疲れる思いをするふたりなのであった。
言動や態度とは裏腹に、さすがにプラネタまで来ているプレイヤーだけあり、バトル・センスはそれなりのものがあった。
AGIとLUCに偏ってパラメータを上げているはずのヨシュアと同等の速度で敵を迎え撃ち、的確な反撃を繰り出すミーツに、近寄ってきた敵をライムが押し込めたところで、すぐさま斧で吹き飛ばし、MOBを他のプレイヤーへ押しつけるという非道の技を繰り出す壺男くんは、かなりの力量であった。
「ヒョホッホー! アイテム拾えるわけでナーシ。EXP稼げるわけでナーシ。マジーメにあいてするなんてバカアルヨバカ」
くねくねと踊りながら、壺男くんは右へ左へMOBを弾いていった。行軍中のことであるから、立ち止まらずに歩いていかねばならない。だからこその判断である。
「やるな、壺男くん。だがしかし、それはバッド! だよ。真に紳士たれが信条の男、このミーツから言わせれば、瞬殺! これこそがグッド! だよ」
言うや、全身に防御力の高い鱗がある、剣を持つリザードマンの急所を的確に突き、切り裂き、鍔際まで刀身を押し込んだミーツは、数秒で二足歩行の蜥蜴を葬った。
「これこそがヴェリィ・グッド! すなわち最ッ高ッだよ!」
のちに聞くところによると、壺男くんとミーツはもともとソロ・プレイヤーであるという。決して望んだわけではなく、なぜかそうなっていたらしい。
新マップへの大遠足、ドキッ、モンスター襲撃もあるよ! という運営主催のイヴェントは、中盤、レアMOBすらも大量発生による奪い合いでパーティ崩壊という釣りもあり、一万数千といたはずのプレイヤーが、約八〇〇〇人ほどへ落ち込むというフライディの策略どおりになった。
当然ながら参加者全員サーヴィスなので、アイテムは与えられるが、途中退場という扱いになりグレードは下がる。
踏破することで与えられるはずだったものが紙幣の価値を持つものだとすれば、途中退場者は最小の硬貨ぐらいの価値を持つものだ。
イヴェント用アイテムは限定だから、のちにプレミアがついたりする可能性は高い。それだけで価値がある。だからこそ、目の前のレアMOBなんぞに釣られたプレイヤーたちは、歯噛みして悔しがるのだった。
道中、八〇〇〇人という大規模行軍隊が回り始めると、もはや大量のMOBなぞあいてにならなくなった。
「なるほど。さすがは歴戦の勇士たち! 散発的なものではもはやクズに等しいようだ!」
パチン、と指を鳴らし、フライディは口の端を吊り上げた。
「では、こうしてみればいかがだろう!」
そういうとフライディは、湧出したMOBたちを一カ所に集め、津波のように一度に襲いかからせた。
「ばかじゃないのアイツ!」「アホだよ」「キチだろ!」「腐ってやがる」「いいから戦え。そして砕け散れ!」
と、大評判である。
先発隊はあっけなく飲み込まれた。なんとか持ちこたえたところ、MOBたちは鶴翼に変化して包囲網を築きつつある。
「テメェAIのアルゴリズムいじってんじゃねーよ!」
プレイヤーたちは激怒した。
「かんたんに新マップへ到達してしまったら、よろこびがないでしょう! 感動を与える前提で、まず恐怖と苦痛を味わっていただく! そのためのイヴェントですよ!」
ひょうひょうと返しながら、フライディは宙に浮き、腹を抱えてゲラゲラと笑っている。
いつかPKす。
その思いがプレイヤーたちをひとつにして、約一〇〇〇はいようかというMOBたちの突撃隊を凌いだ。
「殴ってやる。っていうか新マップに着いたらぜったい殴る」
「殴るだけ? ぼくは全力で短剣技をぶちこむよ」
ヨシュアやライムに芽生えた殺意も、いまはただ地獄の遠足を歩くための燃料に使われる。
「ヒョホッホー! あのGM、イモータル・オブジェクトやったら、バグでもディスカヴァリィしないとダメアルネ」
「ああいう外道は、ひとたび煉獄にたたきこみ、罪科を焼き払わねばならんな。ヴェリィ・バッドな思考をだ!」
ミーツと壺男くんも同様の意見のようだった。
もはや新マップ到達が目的ではなく、フライディを宙から引きずり落とし、殴るために死ねない。
約六〇〇〇まで数を減らしたプレイヤーたちは、断固たる決意でこの行軍を乗り切ったのだった。
「みなさま方、お疲れ様でした。無事、新たなる世界へと到着いたしましたよ!」
水と氷の街〔メリウス〕へとついたプレイヤーたちは、その水晶のような氷の建造物やさらさらと降る雪や鏡のような湖には一言も触れず、ただ獲物を構えて全力を解き放った。
弓使いの空へ放った矢が、角度を変えて急降下しながら敵を襲う技〔雎鳩〕やらが、フライディを目がけて襲いかかる。
攻撃不可能やら破壊不可能設定やらされていると思われたフライディは、いともかんたんに落ちた。ただし、HPがべらぼうに高いらしく、ほとんどダメージはない。
「あらあら。どうしたんですか英雄諸君。こんなことをなさって」
余裕綽々であるフライディの態度がまた気に入らず、プレイヤーたちは牙を剥いた。
いちばん近くに居たプレイヤーたちが、単発大威力やら七連続攻撃など、豪華な技をぶちこんでいく。さすがに一〇〇〇の攻撃を超えたあたりでフライディは死んだ。が、GMの能力なのか、即座に復活した。
「あら、死んじゃいました。みなさん落ち着いて。GMは倒してもアイテム・ドロップしませんし、EXPもらえませんよ」
「知るかボケ!」
「オラ、殺せ殺せ殺せ!」
「ハリィ、ハリィ、ハリィ!」
「テメェの○○○○○に○○ブチこんだらァ!」
などなど、過激な台詞も飛び出す始末。結局、フライディが八回ほど死んで、事態は収束した。
たしかに六〇〇〇人のプレイヤーには、一生残るような怒りと、カタルシスの解放が与えられただろう。
性格はそれこそ最悪に近いが、こうして死んでオチをつけるだけ、まだまだ良識のあるGMなのであった。
マップを踏破したプレイヤーたちには、参加賞として水晶を削りだしてつくったようなデザインの〔氷の短剣〕が与えられた。
鍔と柄尻が雪の紋章のようなデザインになっている両刃のもので、純粋攻撃力は初期武装にも劣るが、攻撃属性が衝撃ダメージではなく衝撃と氷のふたつであるため、なんらかの役には……残念ながらたたない。いわゆるファッション・アイテムである。
鍛冶スキルによる改造も修理も不可能だが、その代わりか、氷や水に触れさせておくと、耐久値が自動回復するという機能があった。
「なんていうか、今回の報酬はGM殴れたって方だったね」
ヨシュアがぽつりとこぼすと、ライムは同意したようにうなずいた。
「でも、いいじゃない。たぶん、こんなこともうないよ。……フライディの時以外は」
だが二度と、このGMのイヴェントには参加したくない。そう思うふたりなのだった。
壺男くんとミーツのふたりは、アイテムを貰うなり、街を抜け出して行ってしまった。
まだ投入されたばかりの、ここらでしか採れないであろうアイテムは、今の時期なら高値で売れるという判断だ。
ソロ・プレイヤーのふたりにとって、稼げるときに稼いでおくというのは非常に重要なのだった。
「ぼくたちはどうしようか」
「それじゃ、お洋服を買いにいきましょう。いい加減、気温パラメータのせいで凍傷になりそう」
全身板金鎧姿のライムは、がちがちと震えながら言う。燃えさかっていた怒りの炎が消え去ったいま、雪の降るメリウスの気候はいかにも冷たい。ヨシュアも気がつけば、手足の感覚が麻痺するような寒さを感じはじめていた。
「っくしゅん! ……そうだね。とりあえず、装備は変えておいた方がいいよ」
ライムが装備を戻し軽装状態になると、金属の冷たさは消えたが、寒さが消えることはない。むしろ風が背筋を吹き抜けるたび、風邪を引いてしまいそうな悪寒が襲ってくるのだ。
「さ、さささ、寒い。ヨシュア、君はずいぶんあたたかそうじゃない?」
「そんなわけないだろ。レザー装備だからって、防寒性は低いよ」
「うるさい。その温度をわけろー!」
ずぼり、とヨシュアの服の中に、ライムは手を突っ込んだ。
「ぎゃあ! やめろよっ、氷かその手は!」
「あったかーい!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、ふたりはメリウスの街を探索していく。
洋服屋は街の入り口付近にあり、ここへやってきたほとんどのプレイヤーが押しかけ、非常に混雑していた。
さいわいながら、NPCショップだから有限ということもなく、無尽蔵に売っているため、待てば購入することができる。
こういう辺りはウィンドゥ・コマンドで買えない不便性が如実に現れたものだろう。
「ううう、寒い寒い寒い。このマップはしんどいよ」
「ライムって冬とか苦手なほう?」
両手をこすり合わせ、息を吹きかけながら震えるライムへと問いかける。
「うん。夏生まれだから。暑いのはぜんぜん平気なんだけど」
「そっか。じゃあそろそろ誕生日?」
現実世界では、そろそろ六月から七月へ移り変わるあたりだ。あまりにゲーム内と乖離した季節感に、ヨシュアは思わず苦笑する。
「そう。来週の火曜日。ぴちぴちの一七歳だよ」
「そういうと、逆に嘘っぽいなあ。ほんとうだって知ってるけどさ」
「こら、少年。おめでとうが先じゃないのかね」
「そうだった。ハッピィ・バース・ディ。おめでとう、ライム」
「よしよし。ありがとう、ヨシュア」
順番は流れていき、しばらくしてふたりの番となった。
ヨシュアは最初、ハードボイルドな雰囲気のあるトレンチ・コートを買おうとしたのだが、試着してみれば、エルフの小柄で細くしなやかシルエットとは似合うものではなかった。
仕方がなく、ライムとそろいで色違いのファーの付いたダッフル・コートを購入した。ヨシュアがキャメル、ライムがホワイトである。
翠色の髪とあいまって、白いダッフル・コートを着たライムはどこか、雪の精霊のような雰囲気を持っていた。くるくるとよく変わる表情でなければ、基本的には怜悧な面差しもそうさせているのかもしれない。
ライムは追加でミトン型の手袋も買い、いそいそとはめていた。ヨシュアはもともと持っているリザード・レザーの五本指グローヴだけだ。柔らかな手袋をしてしまえば、肝心な時に短剣を握り損じるということもあるだろう。
「あー。ようやくあたたまってきた」
「コート一枚羽織るだけで、ぜんぜん違うね」
「だねぇ。ようやく落ち着いた。そろそろ街を探検しにいこうか。せっかくの新マップだよ」
「そうだね。人がいっぱい居るだろうから、ごちゃごちゃはしてるだろうけど、それはそれで活気があっていいか」
人のいない寂れた街ほど寒々しくなる光景はない。そういう意味で言えばメリウスは、いちばんあたたかい街といってもよかった。
「だったら、目玉いこうよ、目玉」
メリウスの街は放射状の作りをしていて、その中央に位置するのは、雪の降る気候でも凍らない噴水だ。
しばらくして落ち着いたら、このあたりはPWOのデート・スポットとして人気になるだろう。
「OK。みんなは、道具屋とかに集中してるみたいだから、まだ空いてる方かな」
「だね。よっし、競争ね。負けたらなんか奢ってよ。よーい、ドン!」
「ちょっ――ずるいぞ、ライム!」
ヨシュアはスタート・ダッシュで遅れた分をAGIで取り返したが、徒競走ならばともかく、これは人を避けて通らなければならない障害物走である。
そうすると、二ヶ月近く外を出歩いていなかったヨシュアは大幅に不利なのであった。
「いっちばーん!」
「っくそー! ……まあ、いいや。誕生日プレゼントってことで」
「ほほう? だったら、がっつりしたセットにしてもらうか」
「いいとも。タンカーらしく、がっつりごっつり食えばいいさ」
「偏見だコノヤロー。いいよ、VR世界じゃ肥らないもん!」
「そういう目的でプレイする人も、すくなくないぐらいだからなあ」
「まあ、ねえ。いいじゃない。女の子は甘いもの大好きですよ!」
「わかったよ。あまいものでも奢ろうじゃないか」
〔甘味〕というのれんを下げた屋台で、ヨシュアは白玉の入った熱いしるこをふたつ買った。
すこしとろみがついていて、冷めづらいように作られていた。甘い香りと湯気が顔にあたり、ライムは目を細める。
「うん、おいしい。この味、この味。……って、べつにどこも懐かしくないんだけどね」
「わかるよ。なんとなく」
食べ終えると、屑は光に消えていった。ゴミが出ないから景観が保たれているというのは、VR世界の利点だろう。
「んー、あったまった。でも、なんていうか。雪の中の噴水っていうのは幻想的でキレイだけどさ」
「ライムにとっちゃ、寒々しいだけっていうんだろ」
「あたり。なんだ、ヨシュアって意外と、わたしのことわかってるね」
「わかってるっていうか、ライムがわかりやすいっていうか」
「誰が単純バカだって?」
「そうは言ってないって。難癖つけて奢らせようとするなよな」
「へへへー」
いたずらがバレたこどものように笑う。
不覚にも、その笑顔をかわいいと思ってしまうのが悔しいヨシュアなのだった。
「じゃあさ、今度はヨシュアの行きたいところへいこうよ」
「ぼくの?」
「そう、キミの。噴水に来たのは、わたしの希望だったから」
「だったら、ひとつだけ」
そうするのが自然であるかのように、ふたりはいっしょに歩き出した。
ライムが素顔を晒していると、いくらかのプレイヤーがそれに目を止めた。
キレイに作られたF型仮想体というのは、それだけで価値がある。
まして、その挙動が自然なものなら、中身も女性だろうと、声をかけてくるプレイヤーもすくなくない。
であるから、
「ちょっといいかな。キミのアヴァター、キレイだよね。どれぐらいつくりこんだの?」
こういう風に話しかけてくる輩もいるのだ。ライムの進行方向を邪魔するように、M型ヒューマンが立ちふさがる。
もしかしたら、ライムが全身板金鎧を装着するようになったのは、そういう経緯も存在するのだろう。
「邪魔だ。退けよ」
「キレイ過ぎて破綻してるやつとか居るけど、キミはそういう感じないねー。スキャニングして五分とかじゃない?」
「退けって。アンタのあいてしてる暇ないんだ」
MMOには付きものの、いわゆる直結野郎だ。
こういうのをあいてにする主婦プレイヤーなどがいるから、ライムは辟易する。
「まあまあ。そう言わないでよ」
「見てわからない? となりにツレが居るんだよ」
「いいじゃん。俺、けっこう上手いんだぜ。だったらさ、三人でパーティ組もうよ」
さすがに、ヨシュアも黙ってはいられなかった。
「いらないよ。見たところ、装備もよくなさそうだし」
男はプラネタあたりなら標準的といっていい鋼系装備ですらなく、いまだに鉄の上半身鎧をしている。
手足のレザー装備にしても、蜥蜴革ではなく、未だにリペルーマ周辺でメインの虎革だ。
レヴェルやプレイヤー・スキルはともかく、装備的にはふたりに劣る。レヴェル帯の違うプレイヤーをパーティに入れるのは、そのキャラのレヴェリングや仲がいいことを除けば、まずあり得ないといっていい。
「じゃあさ――」
と、それでも食い下がる直結男を振り切るために、ライムはヨシュアに腕を絡ませた。
「逃げよ」
「OK」
「あ、ちょっと」
見た目どおり、性能もそんなに良いわけではなかったようだ。AGIを重視していないライムでも振り切れることを考えれば、リペルーマを拠点にするプレイヤーなのであろう。
ジグザグにデタラメに、気の向くままにふたりは逃げた。
人の多い場所を抜けたり裏路地を走ったり、いろいろなことをして、結局は街の外まで来てしまった。
「ごめんね」
「ライムはわるくないだろ」
「……ん。ありがと」
「いいって。でもさ、ちょうどよかったよ。ぼくが行きたかったのは、街の外なんだ」
「どこか狩りに行きたいところでも?」
首を横にふり、ヨシュアは否定した。
「ううん。このあたりって、雪山が見えるだろ」
「そういえば、あるね」
街からでも見える場所、深々と雪の降り積もる山がある。
標高も名称もわからないが、それが追加された難所であることは、わかっていた。
「あの山の近くへ、見に行きたかったんだ」
「のぼらなくてもいいの」
「それだけの準備は整ってないから」
「そこに山があるから登りたい、みたいなこと?」
「別に登山家じゃないよ。ライムは知ってるだろ。ぼくのリアルを」
そう言われて、ライムは小首をかしげたあと、ああ、とうなずいた。
「そっか。だったら、ああいう場所は絶望的だもんね」
さすがに山は車椅子なんかで登れるようにはできていない。
できないからこそ、やってやりたい。そういう気持ちはライムにもわかるのだった。
「なんか、わかった。わたしといっしょだね」
「ライムと? でも……ああ、そうか。通院患者だっけ」
んー……、と口のなかでつぶやいて、ライムは雪の山を見た。吹雪がいよいよ強まっている。
どこからかケモノの鳴き声のようなものが響いていた。
気持ちが決まったように、ライムが表情を引き締めた。
「そう。隠すことでもないし、わたしだけ知ってるっていうのフェアじゃないかな。教えてあげる」
「言いづらいなら、言わなくてもいいよ」
「ぜんぜん。でも、その気遣いはもらっとく。ありがと」
にこりとほほえんで、ライムは続けた。
「わたしね、白血病だったの」
それはとても軽々と話せるようなことではない。
だというのに、なぜライムはそんなことを言えるのか、ヨシュアにはわからなかった。
「白血病って……。そんなかんたんに言うことじゃ」
「かんたんにってわけじゃないよ。なんていうのかな……なんていうんだろう。いろいろで、わからないよ」
それは、失ったものがある者同士で傷をなめ合うようなものだろうか。そうヨシュアは解釈しそうになったが、そうではない。
であったら、ライム――月木まひるがそんな風に言えるわけがない。
「じぶんでもわからないの?」
「じぶんのことがわかってるって錯覚してる人間は、単なる思いあがりだよ」
その言葉にはうなずけた。じぶんというのは、他人の評価からなるものだ。
おのれを客観視できるような人間が、どれほどいるだろう。
「白血病だったって、完治したってこと?」
「どうだろう。いまのところは問題ないけど、再発する可能性はあるかね」
「……すごいな、ライムは。ぼくだったら、たぶん、そんなにポジティヴにはなれない」
白血病は、いま日本を悩ませている病気のひとつだ。というのも、数十年前に大地震の影響で放射能が東北から関東にかけてを汚染した事故に原因があった。
これにより、甲状腺がんや白血病患者が劇的に増えた。しかも、子供の方が強く影響があるのだから、少子化に加速がかかってしまう。
東北はいまでは封鎖され、代わりにメガフロートが作られているが、しかしそれでも、周囲に及んだ影響まではどうすることもできない。
患者が増えたことによって、皮肉にも治療方法は洗練されてきたが、だからといって、それが根本的解決には繋がらない。
いまでは術後十年全生存率も九〇パーセント以上を占めるが、それでもどうしようもないこともある。
白血病を治す場合、生殖機能は破壊される。
もちろん、卵子を冷凍保存するなど、子孫を残す方法は確立されているが、それでも生物にとって、自然的な方法がとれないというのはショックなものだ。
「だって、どうしても生きたいと思ったんだから。それでうじうじとなんて、悩んでられないでしょ」
それを強さだと思ったのは、まちがいかもしれない。でも、それさえも強さだと思えたのは、どうしてだろうか。
背中がなにかに押されているわけでもなく、払ってきたすべてのものに感謝して、日常へ立ち向かっていく。
「生きるって、そういうことなんだ」
「キミがすこしでも足を動かそうとしているのと、いっしょなんだよ。カタチが違うだけでさ」
せっかく助かった命の時間をVRMMOのようなゲームで無駄にして、と批難する者はいるだろう。
だからといって月木まひるは、その命すべてを、そういう気持ちはあるにせよ、恩返しだけに使えるとは思っていない。
助かったものだからこそ、精一杯、じぶんとして生きていく。それが彼女の出した、いまの回答だ。
将来的には変わるかも知れない。なぜあんな無駄な時間をと後悔するのかもしれない。
でも、義務でつぶされるような命ではいたくない。
それだけの結論を出すのに、どれほどの苦悩があったのか。義明は考えるだけで吐きそうになる。
「ありがとう」
いろんな意味があった。それをくみ取って、
「よせやい」
それだけに込めた。
いつか、なにかがあったら、彼女を支えてやりたい。義明はそう思えるようになっていた。
「この山を登れるだけの準備が整ったら、いっしょに行こう」
「いいよ。付き合ってあげる」
ヨシュアに、先ほど送っていたフレンド・メッセージの返答が届いた。
誰も孤独になんて脅かされる必要はない。そういう意味があるように思えた。