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そして、また歩き出す  作者: 山田一朗
アーリィ・ステージ
2/18

01 測量

 長い時間プレイしたような気がするというのに、義明がヘルメットを外すと、ログ・インした時から数十分しかたっていないようだ。

 その証拠に、開始した時はもう夕日が赤々としていたというのに、まだ夕闇が窓の外に広がっていた。

 遠くはすでに暗幕がかかり、環境汚染のせいでにぶくぽつりと輝く星が見える。

 濃い朱色に染まった夕日と夜が混じる空間が、義明は好きなのだ。世界の不思議に遭遇したような気分になるのである。

 おなじように、白色の雲を透かして、橙色の朝日が昇ってくる日の出の景色は、どこか神々しさすら覚える。

 ――この病室からは、それを望むことはできないだろうが。

 知識ではわかっていたが、義明にとって、時間の相違は驚くべきことだった。

 PWO――あるいはVR世界は、現実とはことなる時間を進んでいる。

 自分自身という実証を得て、義明はなんとなくうきうきした気分になってくるのだった。

 もしかしたら、世界はそんなに袋小路ではないのかもしれない。

 そんな気分できょろきょろと義明があたりを見回すと、椅子に腰掛けている父親が見えた。

 ほとんど時間が経っていないせいか、彼の頬には涙が乾いたあとがあって、それがなにかを推測してしまい、義明はすこしの気まずさと、それだけ心配してくれていたのだという、すこしの喜びを覚えた。

 VR世界から義明が戻ってきたことに気づくと、義弘はすこしのぎこちなさとともに、義明に聞く。

「義明。なんだ、その。VR世界? というのはどうだった。楽しかったか?」

「うん。すごく楽しかった。あのね、父さん。あの世界でなら、ぼくはまた歩けるんだ」

 たった数十分で、義明は、人間が違ったように明るい顔をしていた。

 崖の上から落ちないように、必死にしがみついていたような、そんな気持ちを抱いていたような少年と同一人物だとは、とても思えないような晴れやかな笑顔を浮かべている。

 それを見て義弘は、VR機器を買ってよかったと、こころから思った。

 そして、同時に胸中にへばりつくものがある。もしかしたら、自分たちは最後のチャンスを失ってしまったのかもしれない、と。

 本来ならば、自分たちがしなければ――いや、できなければいけなかったことを、VRシステムというものに押しつけている。

 義明が笑顔を、余裕を取り戻したというのはほんとうによろこばしいことだ。しかし、それを取り戻す手段は、間違っていなかっただろうか。

「それはよかった。医者もな、歩けるイメージを忘れないよう、大事にすべきだと言っていた。勉学に支障が出ない程度なら、いくらでもやりなさい。うん……」

 息子に心配をさせるわけにはいかないと、言外にもにじまぬよう、義弘は注意を払い、おのれの胸にすべてを押しとどめる。

「ありがとう。父さん」

 うれしいはずなのに涙がでるのは、不思議だ、と、義明はいまでも思う。

 そばに立つ明子は、ただ息子のしあわせそうな顔を喜んでいる素直さが、救いといえば救いだったのかもしれない。

 両親はできるだけのことをしてくれているのだから、それだけの期待に応えたいと、義明は思えるようになっていた。

 追い詰められて、じぶんにはもはやそれしか残っていない、という袋小路の考え方からすれば、それは大きな進歩だった。

 たった数十分という時間で、これだけ気持ちの変化を迎えられるというのなら、いつかはこの足も動くようになるのではと、義明は期待してしまう。

 もっとも、そんな奇跡を望めるほど、負傷が軽くないことは、おのれがわかっていることなのだが。

 勉学はせっかくやり方がわかってきたところなので、無理をしない程度で、義明も、やれるだけのことはやっていくつもりだ。

 学生の本分に手を抜いては、無理をしてくれているふたりに申し訳がないからである。

 ベッド上でのかるいリハビリについても、

「どうせ治るわけがない」

 というようななげやりな気分があった時と比べ、はるかに真剣に取り組んでいた。

 自分で歩くということも大切さと気持ちよさを再確認し、義明はこの世界でだって、できるはずだという思いに変わっていったのだ。

 たとえ希望がより大きな絶望へ落ちるための罠だとしても、VRシステムに触れたことは、義明にとってはいい経験となった。

 そしてやることをやったあとには、また、あの世界に入り、ヨシュア(じぶん)の足で歩くことができるというよろこびが待っている。

 義明にとって、生きる目標ができたということは、明日を生きていこうという気力につながっていく。

 病は気からという言葉もあるとおり、それはとても大事なことだった。


 翌日。

 事故時における単純骨折や打撲など、軽いダメージは、最新の自己治癒能力促進剤によって、ほとんど回復していた。

 しかし神経系などに関しては、そういった治療では回復させることができない。これらや脳はまだ神秘の領域にとどまっている。

 脳を誤認させるVR技術を応用すればできるのではないか、と義明は思うのだが、仮にそうできた場合、二〇キロ以上あるだろうVRシステム本体を常に持ち運ばなければならない。結局のところ、不便に違いないのだ。

 義明はすこし勉強をしてから、ベッド上だけの生活で、衰えていく筋肉を補う意味もあるリハビリをした。

 まだ歩行の方ははやすぎるためやらなかったが、上半身の筋肉トレーニングは、全身が汗だくになるであった。

 ひさしぶりでからだを動かすのはなかなか気持ちよく、精神のリフレッシュにも効果があったようだ。

 このまま歩けない生活になれば、万事、車椅子で移動しなければならない。そのためにも、上半身は鍛えておく必要があるのだ。

 汗を流してもらい、さっぱりとした義明は病室へ戻ってからもすこし勉強をした。

 時計を見れば、もうそろそろ夕食の時間である。

 リハビリで疲れたおかげで、義明はきょうの病院食とてうまいに違いないと期待していた。


「ごちそうさまでした」

 はたして昼食はなかなかうまいものであった。メニューや味付けは、ふだん出されているものと特別ちがうわけではない。

 やはり、気構えが違えばそういうことになる。

 カレイの煮付けなど、家で食べるものよりうまいのではないか、と、思うほどだった。

 病院食を平らげると義明はコーヒーが飲みたくなった。といってもミルで豆を挽いてドリップで、などというつもりはない。

 いつもならば台所で電気ケトルを使って湯を沸かし、インスタントの粉を溶いて、砂糖とミルクをすこしばかり混ぜて飲んでいる時間だ。

 いまはとてもそんなことが望めるような状態ではない。なんだったら、自販機に売っているような缶コーヒーでかまわなかった。

 いくらうまいと言っても、帰宅中、ジャンク・フードをむさぼるような学生(こども)舌の義明に、上品と言い換えられるような病院食のうすい味つけは物足りない。

 ちょっとした刺激か、いつもの安心感がほしくなったのだ。

 しかし歩くこともままならない義明が、一階の院内にある店までいくこともできない。まだ、じぶんで車椅子を操れるほどに回復しているわけではないのだ。

 入院しているのが大部屋ではなく個室というのもあり、誰かに淹れてくれと頼むこともむずかしかった。

 なんとかして手に入れたいと思うが、

「こういうことは看護師さんに頼んでもいいのかな」

 どうやらそれしかないだろう、という結論に達する。

 かんがえはまとまったのだが、結局、義明はあきらめることにした。

 じぶんのわがままで迷惑をかけるのを申し訳なく思ったのだ。

 すでにからだを拭いてもらったり、リハビリするため車椅子に乗せて連れて行ってもらったりしている。

 もちろん看護師は給与をもらい、奉仕ではなく技術職として仕事しているのだから、頼んだところで、いやとは言わないだろう。

 しかし義明は以前、飲食店でミスした店員に怒鳴り散らすおとなを見たことがある。

 あまりのみっともなさは、とても成人しているようには思えないほどだった。

 ことが終わった後の店内が、どれほど悪い空気になり、居合わせた客の食事がマズくなったのかは、言うまでもない。

 それを教訓とし、自制につながっているのだろう。

 ベッドに背中を預けて、腕を枕にしながら、義明は気分を変えるために、楽しかったことを思い出すことにした。

「そういえば、あのビスケットうまかったよなぁ」

 そこで、ふと気がついた。

 病院で飲めないのなら、あの世界で飲めばいいんじゃないだろうか、と。

「いや、あるのか? ……コーヒーはなくても、お茶ぐらいはあるよな」

 菓子があるのなら、そのお供に飲料の嗜好品ぐらいはあるだろうと、義明は決めつけた。

 そう決めてしまえば、ことはかんたんだった。今回のログ・インで、義明は飲料品を見つけて飲むことを目標にする。

 はやる気持ちを抑えて、教科書なんぞを眺めつつ、看護師が食器を取り下げるのを待った。

 ようやくひとりきりになって、義明はふたたびヘルメットをかぶり直したのだった。

 そしてまた、もうひとつの世界へと意識を羽ばたかせていく。


 からだが仮想体に変わるたび、歩くことがどうにも楽しくて、ヨシュアは無駄にそこいらを歩き回ってしまう。

 データとしてマップが標準装備されていないため、あたりのことなどは、記憶に頼るしかない。

 じぶんの知っていること以外、なにひとつわからないというのは、実に不便だ。

 しかしそれが逆に、ヨシュアにとっては、歩いてたしかめることが、おもしろくて仕方がないのだった。

 しばらく歩き回っているうち、空が暗くなり始めてきた。星々がまぶしいほどに輝いても、地上を照らすにはまだ足りない。

 木々が月の光すらさえぎる森には、すでにほとんどが闇にそまっている。

 街灯や蛍光灯なんぞがないこの世界は、あまりにも暗い。というより、現実世界がむだに明るすぎるのだろう。

 見え方が変わって、まさかのプレイヤー・ホーム近くで遭難などという心配をしながら、歩き通していると、空ではなく、地上の明かりが見えてきた。

 それは〔浅い森の村〕に灯る、あたたかい光だ。ヨシュアは必死に走りながら、そこを目指した。

 プレイヤーのうちいくらかが、そこまで慌ててきたヨシュアを怪訝そうに見ながら、しかし、数秒後にはじぶんたちの談笑へと戻っていく。

 どうせ、安全圏外へでも出て、アクティヴ状態のMOBに追いかけられたとでも思ったのだろう。

 村の中央付近でぱちぱちとはじけるたき火だけが、この夜には頼もしく、星と月は神のように、遠くで異様なほど輝いているばかりだ。

 しばらく火に目を奪われ、ぱちぱちと弾ける音さえが愛しく思えるようになっていたヨシュアは、落ち着いたあとで、当初の目的を思い出した。

 きょろきょろとあたりを見渡すと、設置されたベンチやテーブルで、木製のカップを傾けるエルフたちがいる。

 お茶か、夜だからアルコールか。どちらにせよ、飲み物という嗜好品が存在することを喜び、ヨシュアはちいさくガッツ・ポーズをとった。

 ではすなわち、そういうものを出す店があるのかと探すが、村といっても明確に店というものはない。

 基本的には別の村や街へ行くまで、自給自足を旨として生活しなければならない。

 種族〔エルフ〕は比較的すぐれた容姿の最大パラメータ、初期ステータスとしては高いAGIとMAGなどの代償として、最初は不便を与えられるのだった。

 いくら不便を楽しめるとはいえ、ヨシュアにとってこれは苦しい。目の前にえさをぶら下げられ、待てをされた犬のような気分になる。

 勇気を出しすでにアルコールのようなものが入り、陽気でしゃべりかけやすそうな男女ともエルフのコンビに、ヨシュアは話しかけることにした。

 頭上のアイコンから、男エルフが〔フィヨルド〕、女エルフが〔リアス〕という名前なのはわかっていたが、いきなり名前を呼ぶのは失礼にあたるだろう。

「すみません。なにを飲んでいるんでしょうか」

「うん? ああ、初心者か」

 装備を見て、どうやらヨシュアよりも高レヴェルなのだろうフィヨルドは納得したようにうなずく。

 くるくるとカップを揺らして中身を回し、彼はもう一口飲んだ。

 とてもうまそうに……ではないが、すこし眉間にしわを寄せ、苦みか渋みかを味わっているようだ。

「おれが飲んでいるのは、薬草茶だ。ちょっとドクダミっぽいが、慣れると癖になる……かもな」

 どうやら、かなり癖が強いらしく、賛否の別れる味らしい。香草(パクチー)のようなものだろうか。

 対して、かなりできあがっているのか、リアスはくすくすと笑いながら、甘い香りのする飲み物を一口飲んだ。

 熱の混じったような息を、ほぅと吐く。それはヨシュアにとって、目の毒のように思える。

「わたしが飲んでいるのは、蜂蜜酒(ミード)。坊やにはまだはやいかなぁ」

 からかうようにヨシュアの顔をじぃっと見つめて、女エルフがにこりとした。アルコールのせいだろうが、赤く染まった頬があいまって、扇情的ですらある。

 怒りよりも、年上の女性にからかわれたということに、ヨシュアも顔を赤くしながら、言葉を続けた。

「それって、どこで手に入るんでしょう。ここら辺、お店ってないですよね」

 こくりとうなずいて、フィヨルドはもう一口、薬草茶を飲んでから答えた。

「エルフをえらんだやつは、街に行くまで、自作するしかないね。基本的には、料理スキルを習得するのがいい。ほら、たき火の近くの、すこしふくよかな女性のエルフがいるだろう。料理スキルは、彼女に教えてもらえる」

 そちらを見ると、たき火を使って、じゅうじゅうとうさぎ肉をあぶっている、およそエルフらしくない体つきの女の人がいた。

 頭上に浮かぶアイコンを注視すると、名前が浮かんできた。彼女はマルガリータという名前らしい。

「そうそう。わざわざビールと安い発泡酒、どっちを買うか悩まないでいいものね」

 やたらと庶民じみたことをいうエルフたちもいるものだった。

 ふたりも当然、じぶんたちで作ったのだと言う。たしかに、茶はともかく、この世界で酔うという感覚を味わえるのならば、それほど費用対効果に優れたことはない。なにせ、どれだけ上等な酒でも、作ってしまえば好きなだけ飲めるのだ。

 毎日の晩酌を我慢して、ボーナスを足せば、すこしばかり無茶をする必要はあるが、七五万円という額は買えないほどではない。彼女はその体現者のひとりなのだろう。

 戦闘を積み重ねて強くなっていき、ラスボスを倒すのが目的のRPGというよりも、幻想世界の住人となる、セカンド・ワールドとしての性質に近いPWOだからこそかもしれない。

 もっとも、より純粋にセカンド・ワールドとして取り組んでいるプロジェクトと比べれば、ゲーム的な処理は多いのだが。

 ヨシュアはふたりの話を聞いて、思っているよりも多くの嗜好品があることと、それはじぶんで作ることができるということを知った。

 コーヒーが存在するかどうかはともかく、それだけで、この世界への執着はより強くなっていく。

 病院食をうまく感じると言っても、それは感じるだけのことであって、ほんとうならば、下品なぐらいに味のついたものを食いたいという欲求はなくならない。

 歩くことができる。うまいものを味わうことができる。もしかすれば、それ以上のことすら待ち構えているのだ。

 感動にぶるりと震えながら、ヨシュアの期待は高まっていく。

「薬草茶はそこいらに生えてるのを料理スキルで加工したものだ。熟練度が低いうちから作れるよ。おれも今、特訓中だ」

 どうやら彼は、好きこのんで飲んでいるというわけではなかったらしい。

 フィヨルドも、実はリアスに料理スキルの習得方法を教えてもらったんだろうかと思いながら、ヨシュアは、自分に薬草茶はヒットするだろうかという懸念を抱いた。

「ありがとうございました。料理スキルか。さっそく習ってきます!」

「たっしゃでー、少年」

 けらけらと笑って、干した果実をつまみにしながら、リアスは見送った。

 甘いものをつまみに蜂蜜酒を飲んでいるあたり、彼女はそうとう甘党の酒好きという、なかなかおもしろい部類に入るようだった。

 たき火の方へ近づいていくと、炎のあたたかさがヨシュアを包んでいく。気温設定は不明だが、夜は肌寒くなるようで、その温度が心地よく感じられるのだろう。

 夜の怖さをなりを潜め、すこし、リラックスしたような表情になった。

 じゅうじゅうと焼けたうさぎの肉に塩を振りかけて、頬張ろうとしたマルガリータに話しかけるということは、とてもできそうにない。もしもじぶんがそんなことをされたら、なにかを教えてやるなどまっぴらごめんだと思ってしまう。

 うさぎ串を食べ終えたのを待ってから、ようやく口を挟んだ。

「すみません。ちょっとよろしいですか?」

「なんだい、ぼうや」

 一夜に二度もぼうや呼ばわりされたのは、はじめてだな、とヨシュアは思いながら続けた。

「お料理が上手だと聞いて、是非、習いたいと思って尋ねたんですけど、よろしいでしょうか」

 制作者がAIのできを自慢したいがためか、この世界にはウィンドゥを開いてお手軽にコマンドで売買したり、スキルを習得する、などということが認められていないのだ。そのため、必要があれば、わざわざNPCをなだめすかしたり、持ち上げてごまをするなどといったことを、しなければならない。

 このあたりもゲーム的に処理できるだろうにとヨシュアは思うのだが、仕様であるのならば従うよりほかない。

 あまり得意ではない会話もこなしていかなければ、えさにはたどり着けないのだ。

「なんだ、そんなことかい。いいよ。減るもんじゃなし、教えてやろうじゃないか」

「ありがとうございます」

「はっはっは。かしこまらなくてもいいよ。あたしはマルガリータ。うさぎ肉はもってるかい?」

「あ、ヨシュアです。名乗り遅れてすみません。うさぎ肉ならいくつか」

 腰のバッグから兎肉のカードを取り出し、実体化させる。

「そいつはけっこう。うさぎぐらい狩れなきゃ、暮らしちゃいけないからね」

「まあ、なんとか」

 手こずりましたとは言えず、ただ苦笑を浮かべた。

 マルガリータはひとつうなずいて、言葉をつないだ。

「いいかい。あたしに続いて、肉を炙っていくんだ。間違っても、炎のなかに入れちゃいけないよ」

「はい」

 マルガリータから串を受け取って、それにうさぎの肉を刺していく。本来ならばズレないようになど、いろいろなテクニックが必要となるのだが、あまりにも細かすぎるので、このあたりはゲーム的に処理してあるようだった。

 アイテム名が〔うさぎの肉〕から〔うさぎ串・生〕へと変化した。

 ふたりは肉を通し終えた串を、たき火からすこし離して炙り始めた。

 火が通るのはけっこうな時間がかかるはずなのだが、どうやらそこらもは簡略化されてるらしく、すぐにいい匂いが漂いはじめた。

 ヨシュアには、このゲームの基準が永遠に分からないような気がしてきた。

「片面が焦げないようにひっくり返して。焦がしたのなんて食えないからね」

「はい」

 串を回すと、火に当たっていたうさぎ肉の表面には、いい感じで焼き色がついていた。

 夕飯を食べたばかりだというのに、思わずヨシュアはのどが鳴った。脂の焼ける匂いは暴力的だ。

「よし、もういいだろう。引き上げて」

「はい」

 炎から遠ざけた肉、ややこんがりと茶色く焦げ目のついた、うまそうなうさぎ串へと変わっていた。

 名称も〔うさぎ串・生〕から〔うさぎ串・こんがり〕になっていた。

「上できじゃないか。あとは塩を振って、完成だ」

 マルガリータが、塩を振ってくれた。そして、ほおばってみろと、ヨシュアに促す。

 湯気の立ち上る焼きたての肉に、ヨシュアはがぶりと噛みついた。

 焦げの香ばしさ、表面のかりっとした食感と、中の弾力のある肉、とけた脂の甘み、ちょうどいい加減の塩と、ほとんど料理らしい料理でもないというのに、ヨシュアは、もう止まらずに食べ尽くしてしまった。

 一言であらわせば、それは野生の味だ。料理だけど、料理じゃない。自然をからだに取り入れたような、ジビエにも似た感覚である。

 ほんとうならば堅くパサつきやすく、ハーブやスパイスを使って癖のを消さなければいけないうさぎの味が、さほどもいやじゃない。

 夢のないことを言ってしまえば、それはしょせん、ゲーム的処理に過ぎないからだ。しかし、ヨシュアはこれを、料理のおかげだと思えた。

 料理というスキルに抱いた期待は、ヨシュアにとってこれ以上ないほどに、答えてくれた。

「そんなにうまかったかい」

「はい。こんなにうまいものを食べたら、下手なものが食えなくなって困りますね」

「あっはっは! そいつはよかった。かんたんなことは教えたから、あとは自分でやってみることだね。調味料がほしけりゃ、基本的なやつは売ってやるからさ」

「ありがとうございます。お世話になります」

 レヴェルが上がるファンファーレのように派手なものではなく、地味な効果音があたまに響いて、ヨシュアは自分が〔料理〕スキルを学んだことがわかった。

 ウィンドゥを開くと、〔短剣〕スキルなどが並んでいた欄に、〔料理〕スキルがあらわれていた。

 さっそく、ヨシュアは空いていたスキル・スロットに〔料理〕スキルを入れた。

 そして目的であった飲み物を得るため、そして熟練度を上げるため、薬草を求めて夜の森へと出かけていった。

 食事による感動のせいで、夜の怖さをごまかされてしまったのだろう。

 それがヨシュアの未来を永遠に変えてしまうことになるのだが、いまは知るよしもない。


        *


 ぎゃあぎゃあと怪鳥のような声が空から響いている。森の中に闇は深く、遠くを見渡せるような視力も明かりもない。

 せめて火種ぐらいは持つべきであったと、ヨシュアは肩を落とした。

 腰のバッグには、すでに数十という薬草が入っているが、その代償として、道しるべをなくしてしまった。

 気を抜けば、ぐるぐると喉を鳴らし、星のように目を輝かす〔ワイルド・ウルフ〕がたちまち食らいついてくるだろう。

 最悪の手段としては、死に戻りという方法もある。が、しかしヨシュアは安易にそれを選択しない。

 デス・ペナルティうんぬんという話ではなく、仮想であっても死を間近にするたび、フラッシュ・バックのようにミニ・ワゴンが迫ってくるのを幻視するのだ。それがどれほど恐ろしいかは、彼以外には知れぬだろう。

 現実へ退避して一時中断しようにも、仮想体は意識のログ・アウトをしてから、五分ほどフィールド上に残るのだ。そのあいだならば、殺されても意識はないだろうと思われるが、それでさえも不安になるほど、ヨシュアは死を忌諱している。

 ともかく、ヨシュアはどれだけ恐ろしくても、この闇が終わりを迎えるまで、ただ森の中を彷徨い続けるほかない。

「……おばけなんて、いない。おばけなんて、いない」

 キィキィと鳴くのはコウモリだ。がさがさと揺れるのは木の葉だ。

 物音を断定し、恐怖を遠ざけ、足下をたしかめつつ、ただ一歩一歩進んでいく。

 歩くのが楽しいと思っていたヨシュアは、いまはそれどころではなかった。ただ、前へ。あるいは、どこかへ。

 ヘンゼルとグレーテルでもあるまいし、地面に目印などなかった。いや、あったとしても、耐久限界値を超えて消失していたりするに違いない。

 ふと、耐えかねた〔ワイルド・ウルフ〕が一匹、飛び出した。眼光が闇に伸びる。

 文字どおり〔一匹狼〕のようで、ふだんならばリンクする性質があるようだが、今のところ、他のオオカミは見えない。

「ぐぅっ!」

 がぶりと噛みつかれたところから、不快感がヨシュアの脳天に突き抜けた。がさがさと腰の鞘を探り、ナイフを引き抜いて、唯一見える眼光に突き立てる。

 悲鳴がくぐもって漏れた。しかし噛みついた牙が離れることはない。

「このっ、離せよ!」

 引き抜いたら、次は当たらないかも知れない。そんな予感がして、ヨシュアはむしろ、ナイフをより深く突き込んだ。

 ぞぶり、となにかをえぐったような手応えとともに〔ワイルド・ウルフ〕は動きを止めた。不快感が引いていき、暗闇の森に光の粒が舞う。

 ある種、幻想的な光景だった。それはいのちの光だ。

 つぎはだれがそれを散らすか、分かったものではない。

「くそっ。朝はまだこないのかよ」

 乱暴な言葉を吐きながら、腰から引き抜いた薬草のカードを実体化させ、口に入れてすりつぶすように噛んでいく。

 苦みと青臭さに思わずはき出しそうになる。こういうときばかりは、ヨシュアもVR世界に味覚があることを恨まずにはいられない。

「こんなものを飲んでいれば、そりゃ、あんな顔もするよな」

 無理におもしろかったことを思い出しながら、気を奮い立たせる。そうでもしなければ、やけになりそうなのだ。

 結局、夜が明けるまでヨシュアは一二匹のワイルド・ウルフを葬り、レヴェルをひとつあげることとなった。


 空が白み始めて、ようやくヨシュアは生きた心地となった。

 腰のバッグにあった薬草は、すでに摘んでいた半分になっている。

 苦みと臭みは慣れなかったが、口にすることに、もはや抵抗はない。

 しかし現在地がどこであるかは、まったくの不明だった。もともと土地勘というものが働くほど、この世界に慣れ親しんでいるわけではない上に、森というのは、どこもかしこも似たような景色になりがちである。

「どこなんだよ、ここは」

 ほとんど絶望にも似た気持ちが胸に染み渡ってくる。おそらく、こんな不便なところに一般のプレイヤーは足を運ばないだろう。

 じぶんのうかつな行動を呪いながら、ヨシュアはそれでも歩かなければならない。足がだるくなるような疲労がないことは救いだったが、疲労感はすでに喉からあふれ出そうなほどだ。

 森の中で湿気があるせいか、霧まで出てきた。ここまでくると、ヨシュアはむしろ笑い出したい気分になってくる。

 それでも、歩かなければならない。それでも、死んでしまいたいとは思わない。

 歩いて、歩いて、歩いて、歩く。歩いて、戦って、倒して、歩いて、戦って、歩いて……日が空に登り切るまで。

 いつのまにか、霧が晴れていた。

「もうすこしがんばろう。あとすこしだけ」

 そうやって、どのぐらいじぶんを誤魔化してきたのか、ヨシュアにはもはや、わからなくなっていた。

 また、しばらく歩いて。

 ようやく、文化のにおいを感じだ。森の中にひっそりと、ログ・ハウスのような家がある。

 そこがたとえNPCハウスであろうと、なんであろうと、安全圏内(セイフティ・ゾーン)であるのなら、かまわない。

 疲れ切ったこころを休めようと、ヨシュアはドアをノックした。

「すみません。どなたかいませんか」

 コツコツとたたき続けた。しばらくして、よたよたとした足取りの老人がひとり出てくる。

 森の中に住まうものだが、エルフではない。その証拠に、耳がすこしも長くないのだ。

 茶色いシャツとズボンを身につけ、半分ほどあたまの禿げた小さな男だ。ベルトではなく、編み込んだひもで上下を結んでいる。

 鼻の下から喉までを覆う、長いひげが特徴的だった。まるで世捨て人だな、とヨシュアは思った。

「どなたかね」

「はじめまして。突然、失礼してもうしわけありません。ぼくはヨシュアと言います。森で迷ってしまい、どうしても抜け出せなくて、ここにたどり着いたんです」

「そいつは大変だったね。よし、あがって行きなさい。なにもないが、お茶ぐらいは飲ませてあげられる」

「ありがとうございます」

 ほとんどくたくたという状態で、ヨシュアは足を踏み入れた。

 長方形のテーブルと四脚の椅子に、小物などが収められた棚と、その上に花瓶などが置いてある。

 内装は質素だが清潔で、毎日、手を抜かずにしっかりと掃除しているようだった。

 実際のところ、汚れるようになっていない仕様なので、必要がないだけなのだが。

 すすめられてヨシュアが、背もたれ付きの椅子に腰を下ろすと、そこからもう、一歩も立ち上がりたくなくなっていた。

「お飲みなさい。このあたりで採れたハーブ茶だ」

 老爺がトレイに載せて、湯気の立つマグ・カップを持ってきた。ふたつあるそれを、じぶんとヨシュア、それぞれの前に置く。

 木製のカップになみなみと注がれた薄黄色の液体は、清々しい香気を放っている。

 ヨシュアが一言断ってから口をつけると、どこか、ほんのりとした甘さが広がった。

 それはむかし、義明がこどもの頃、夏に母方の実家へ行き、外で遊び回ったあと、からからに乾いた喉へ染み渡った井戸水のような味だった。

「うまいかね」

「はい。とても」

 渇いていたものが、潤っていく。

 それは喉だけでなく。

 ゆっくりと飲み干して、ヨシュアはほとんど嫌気がさしていたこころに、余裕が戻るのを感じた。

「ありがとうございました。すごく、助かりました」

「礼はいい。それより、きちんと帰れるかね」

 その問いに、ヨシュアはうつむかざるを得ない。もともと地理が得意なわけではないし、ここまでたどり着けたことが、そもそも奇跡に近い。フィールドはつながっているのだから、いずれどこかへはたどり着くか死に戻りできるだろうが、それだけの気力を振り絞れるかどうかは別問題である。

 そうしていると、老爺は椅子から立ち上がり、棚から一巻きのスクロールとペンとインクを取り出した。

「すこし待っていなさい。ギヴァンまででいいのなら、地図を描いてあげよう」

「地図! ありがとうございます。この世界にも、地図があったんですね」

 すくなくとも、ヨシュアの記憶とネット上のWikiにそういったものがあるという話はなかった。

「われわれのように測量士はいるとも。数は少ないがね」

「そうだったんですか。失礼しました。でも、地図というのは、あまり出回っていませんよね」

 オークションやバザーというシステムはPWOにもあるが、そういったものが売りに出されたという話は聞いたことがない。

 一部のプレイヤーが独占しているのか、あるいはまだ発見されていないのか、定かではないが、ヨシュアは初耳だった。

「多くの測量士は、私のように人の行かない場所へ行く。そして測量する。だから、人目につかないし、地図に起こしたものを売りに行く暇がない。それに、まだ世界のすべてを測量したわけではない。だから、そんな不完全なものを人目に触れさせようとは思えないのだよ」

 なるほど、とヨシュアは納得した。同時に、興味がわいた。

 まだ世界(PWO)に知られていないスキルに、じぶんが触れているという興奮があった。

「測量って、ぼくでもできますかね」

「誰でもやろうと思えばできるとも。やり続けようと思うのがいないだけでね」

 老爺はさらさらと地図を描きながら、一瞬、ちらりと目を虚空へやった。なにかを思い出しているのかも知れない。

「ぼくに教えていただけますか〔測量〕を。やってみたいんです」

「教えると言っても、やることはただ歩いて、それを記録するだけだよ」

 彼の言葉にはすこしの面倒くささがあった。過去に教えてほしいと頼まれ、結果、教えを請うた者が挫折した経験があるのかもしれない。

「お願いします。地図があれば、またぼくのように彷徨ったひとが救われるかもしれないんです」

 それはなにより、自分自身(ヨシユア)のことだった。

 あんなに不安な夜と、苦しい思いはもうたくさんだ。そう感じずにはいられない。

 一度だけ嘆息し、うなずいた。

「わかったよ。これから教えることは、基本に過ぎない。それ以上のことは、君自身が発見していくしかない。いいね」

「はい。もちろんそのつもりです」

 小一時間ほど、老爺の話は続いた。それは彼が言うように、要約すれば、土地を歩いて記録していくという行為に他ならない。

 彼が教えてくれたのは、山へ登るときの注意、吹雪や砂漠への対処法など、自然に対しての防御法が主だった。

 しばらくして、電子音がヨシュアから響いた。それは〔測量〕スキルを習得したという証拠だ。

 その頃には、老爺の手もスクロールをすべり終わり、そこには白と黒とで描かれた道があった。

 くるくると丸めて紐で綴じ、老爺はそれをヨシュアへくれた。

「がんばりなさい。若い測量士よ。長命種であるエルフ(きみ)なら、あるいは完成させられるかもしれない」

 あたたかな手が、くしゃくしゃとヨシュアの黒髪をなでた。

「ありがとうございます。ほんとうに、なにからなにまで」

「後輩にはやさしくするのが、先輩というものだよ」

 まるで似つかわしくないウィンクをした。それまでの態度から想像できないような茶目っ気に、ヨシュアは思わずちいさく吹いてしまう。

「かなわないですね。……いまは。いずれ、やってみせます」

 萎えた気力は、いまや充実していた。お茶のおかげか、あるいは測量のおかげか。ふたつのおかげだろう。

「うむ。もしも他の測量士にあったら、〔ランド〕が、よろしくと言っていたと伝えてもらってよいかね」

「もちろん。それでは、お世話になりました」

「気をつけて。よい旅を」

「ランドさんも、よい旅を」

 それが測量士たちのあいさつであると、教わった。

 ヨシュアがランドのログ・ハウスを出て、地図どおりに進むと、一時間ほどで一本の道に出た。

 どうやらヨシュアは、森の中をぐるぐると回っていたようだった。

 道中には数匹ほどリンクしたワイルド・ウルフや、うさぎ以上のスピードとパワーで突進してくるワイルド・ボアという敵もいたが、それらは夜中に戦い続けたおかげで閃いた剣技・移動攻撃〔箭疾歩(ステップ・イン)〕を用いて撃破できた。

「……そんなに広くなかったんだ」

 ヨシュアがウィンドゥを開くと、測量スキルは歩いた場所が自動でマッピングされるようになっている。その広さから言うと、ログ・ハウスから街道まで、三キロメートルもない。街道を通っていけば、ギヴァンから浅い森の村までは、三〇分足らずでたどり着ける。

「なんていう恥ずかしいことをしたもんだ」

 喉元過ぎれば熱さを忘れるというやつだろう。ヨシュアはしかし、それでもご機嫌だった。

 なぜならば、今のところ、自分にぴったりのスキルが見つかったからだ。

 歩くことが楽しい。それが実際、役に立つことになる。なんてすばらしいことだろう、と、ヨシュアは思っていた。

 あるいはそれが、ヨシュアがVR世界でほんとうに踏み出した一歩目のことであったかもしれない。

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