15-3 再見-3
たのしい時間はまたたく間に過ぎる。
かのアインシュタインも相対性理論の説明をするときに、かわいい女の子といっしょに一時間座っていても、それは一分のようにしか感じられない、と言ったように。
まったくほんとうのことだと義明が理解するのに長い時間は必要なかった。月木まひると恋人関係になってから義明が感じていた時間は、急激に加速して流れていった。
現実でも仮想世界でもずっといっしょだった。ときにはケンカもしたり、おもしろいことばかりではなかったけれど、それさえも〔たのしい〕に含まれていた。
そして季節はまた春へ一巡りする。
義明がこころの底から哀しいと思った卒業式は、最初で最後だった。涙を流したのも、きっと後にはないことだろう。
あまりにも長過ぎて暇になりそうな校長や賓客の挨拶でさえ、進んでいくのが惜しい気持ちになったほどだ。
しかし、時間はもどらない。時計の針は進んでいる。
ずいぶんと優秀な頭脳を持っていた月木まひるは、いろいろ考えたうえで、希望通りの大学・医学部へ現役で進学することができた。義明もまた希望通りに、第一希望であった地元の大学へ進学が決まっている。両親の職種であった教育の道ではないが、義明が進学すると言ったとき、ふたりはずいぶんと喜んだものだ。
講堂から出たあと、学校に植えられた桜の花弁が風に乗って吹いていくのを見て、泣くものがあった。なにをセンチメンタルな――と、バカにできるような人間はそうそういない。それを見て、もらうように涙を流しているものもある。
よろこびと哀しみが入り交じり、混沌のるつぼと化したこの時間も、しばらくすれば思い出にすり替わっていくだろう。だが、いまはまだその渦中にいた。涙と笑いは共同するものだと知ったり、親元を離れてひとり暮らしをはじめるものたちが不安と興奮に彩られたり、感情をむき出しにする古代的儀式のようですらあった。
「卒業、おめでとう」
「そっちこそ、おめでとう」
月木まひるだ。
すこしばかり目を赤く充血させている。泣いていたのか、いるのか、すくなくとも平常ではない。感動的になっていたのが自分ひとりではなかったことがわかり、義明はすこしばかりほっとした。泣いていることが恰好わるいとは思わないが、自分だけ、というのは気まずいものがある。
「もう、一年も経っちゃったよ。早いねえ」
口調はあかるいが、すこしばかり涙声が混ざっていた。やはり、泣いていたのだ。
「……そうだなあ。まひると出会ってからは、二年弱か」
「すごく短かったね」
「うん。あっという間だった」
春風が吹き、桜が舞った。まひるはスカートを抑え、義明はそっぽを向く。
「見た?」
「まったく」
「即答されると、乙女的に複雑だなあ」
「見たくないわけじゃないのだけども」
「見るな」
「はい」
ふたりしてくすくすと笑う。こんなやりとりもまた、しばらくお別れになるのだ。そこにさびしさはあるが、しかし、それはおたがいの夢のためである。なかよく居たいから立ち止まるということはできない。
校門のあたりでは、父兄と教員たちの会話がおこなわれていた。実際、卒業した元・生徒の男子、女子たちは、退屈そうに会話したり、ふざけあっているようだ。
そのあたりでふたりの両親も、井戸端会議のように父兄同士で会話しているようだった。中身は知ることができないが、特に重要なこともないだろう。
「あー、なに話してるんだろう」
「たいしたことじゃないってわかってるんだけど、気になるんだよね」
「そうそう。悪口じゃないんだろうけど、あんまり勝手にしゃべらないでって思っちゃうのはなんでだろー」
まひるは小首をかしげた。
「まひるでもそう思うんだ。ぼくは、自分があんまりできのいい子じゃないってわかってるから、敏感になるんだと思ってた」
「その仮説はおもしろいけど、わたし、ほら、優等生だから!」
胸を張って、ふんぞり返った。得意げなしたり顔ですらある。
「……ああ、はい」
「ドライだね、ええ?」
「優秀かダメかで言ったら優秀っすわー。かーっ、まひるさん優秀だわー! ぼくとは格が違うなー!」
義明は大声になり、過剰なほど周囲に知らしめるように言った。あたりの元・生徒たちは、苦笑しながらふたりのほうを見た。
「恥ずかしいからやめれっ」
義明をひっぱたいて、まひるはやめさせた。さすがに羞恥心ぐらいはあり、卒業式ぐらいは体相を整えたいと思っているのだ。
「あいてっ」
「まったく、締まらないなあ」まひるは苦笑した。「ま、でも、それがわたしたちにはちょうどいいか」
たたかれた部分をさすりながら、義明がそれに続けた。
「今生の別れってわけじゃなし、自分たちのスケールでやっていきましょうか」
「そうするしかないねえ。とかくこの世はままならぬ、なんてね」
涙に腫れていた目は、いまや笑みに細められていた。ふたりは笑顔を交換して、この先を生きていくだけのエネルギィを共有していた。
春日のもと、誰もがあたたかな光に包まれていた。
きっと、この先も順風満帆ではないだろう。予見できない事故がやってくるように、不運は一寸先の闇から突然やってくる。
それでもなんとかなる。そう確信できるのは、現実と仮想の経験によるものだ。
たかがゲームと言えばその通りだろう。しかし、そこで培ったものは、たしかに彼らのなかに生きている。ときどき怯えたり迷ったりしても、その世界には、手を引いてくれる存在がある。
――だから、いまは笑って見送ろう。
こぼれ落ちそうになる涙をこらえながら、誰もが別れを尊んだ。そこからまた進むための、最初のステップを。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うん。つぎに会うときは、いつだろうね」
「さあ。ゲームのなかでなら、今夜にでも」
「それは気まずい。ちょっと、恰好つけたつもりなのに」
ふたりから苦笑がこぼれた。どうにも決まり切らない運命でも背負っているのかもしれない。
見送る言葉を、ありったけのポケットと引き出しを開いて探したが、義明のなかにはそういう洒落たものは入っていなかった。そういう人生を送ってきたのだから、おのれを恨むよりほかない。
「……まあ、そのう、お達者で」
でてきたのはこういうものだった。
「そのチョイス、じつは嫌いじゃない」
「ほんとうに?」
「ホント、ホント」
「それならよかった」
ほっとしたような顔をする義明に、まひるは胸があったかくなるものを感じていた。
正直なところを言えば、彼女にとっては、義明が真剣に紡ぎ出した言葉なら、なんであれうれしいものなのだった。
「達者にするよ。義明も元気にね。風邪とかひかないように、あったかくして寝なさい」
「お母さんか」
「あはは。別れの挨拶がコレはないか」
「いや、すごく正しとは思うけどね」
ただし、それが恋人関係にある男女のものでなければ、という前提ではある。
「いいや。しんみりするのも、わたしたちらしくない。じゃあね、義明。わたしがこっちに帰ってくるまでに、せいぜい、いい男におなり」
「うん、じゃあね。まひるはそのままで充分魅力的だから、あんまり女っぽくなりすぎないでくれ。男どもが放っておかなくなるから」
真顔でそんなことをいう義明に、まひるはげらげら笑った。本気が三割、からかいが七割混じったジョークだ。
ひとしきり笑ってから手を振って、ふたりは違う道を行く。
校門を出て商店街を挟み、お互い反対側に進んでいく。
現実で再会する日を待ちわびて、いまはただ、自分の道を歩いていった。
*
卒業式から一二年の月日が流れた。
医学部をきっかり六年で卒業したまひるは地元へはもどらず、大学病院で最先端技術を学んでいる。逆に義明が地元を離れ、まひるが働いている大学病院のある場所近くへの就職が決まったのだ。
義明は大学院へ行ったから、実際はまひるのほうが早くに社会へ進出している。
住居こそいっしょで籍も入れているが、満足に家でゆっくりできる時間はない。しかし、顔も合わせないかというと、そんなことはなかった。
〔妖精〕などと呼ばれているプロジェクトで、義明の勤めている研究所と大学病院が手を結び、ひとつの製品を作り上げているのだ。
それはかんたんに言ってしまえば、人間が喪失した機能を代替するモノだ。
極小サイズの疑似神経回路をナノ・マシンでコントロールすることにより、脳が下した決定を感覚の喪失した局部へ接続、つくりだした感覚と反応を与え、あたかも正常であるかのように稼働させられるとというものだ。
このシステムの良いところは、たとえその局部が義肢であっても、疑似神経回路が接続してあれば、感覚を再現できるというところにある。
そのために、再現できるだけのデータを持つ大学病院と、システムを構築している研究所が手を組んだわけだ。
プロジェクトでは被験者として、まず 動物実験をおこなった。その段階ではうまくいき、実際の人間で臨床試験をおこなう段階になった。そこでプロジェクトは日枝義明を使っている。これは本人による希望であり、強制ではない。
もういちど、現実世界で歩けるようになりたい。そのための努力が、ついに実を結ぼうとしているのだ。そのために選んだ道なのだ。被験者として手を上げたのは、まったく道理だった。
生体発電で電力を賄えるほどの省エネルギー駆動体をつくりあげるまでの道のりは非常に長かったが、そのおかげで実験がスタートしたのである。
インプラント・チップを埋めこみ、ナノ・マシンが活動するのに最適な環境作り――体質改善を徹底し、義明は最善をもって実験に挑んだ。
感覚の暴走――ファントム・リム・ペインではなく、誤再現――や、ナノ・マシン群体の異常などといったかなりスレスレな状況がありつつも、義明は歯を食いしばり、実験に挑み続けた。実際に歩行までに至ったのは、全一四回の歩行実験中、たったの四回である。
しかしそれは義明に言わせれば、四回も、だ。
架空世界ではなく、現実世界で歩けるということを知ってしまえば、止まれるだけのブレーキを持っていない。念願叶えるべく、最善を尽くすのみだ。そうと知っているから、スタッフの一人として、まひるも全力を尽くさずにはいられない。
実験施設では準備が整い、スタッフも固唾を飲んで見守っている。最初から見直し、今回は自信がある研究者たちではあるが、しかしいままでも自信だけはあった。あとは結果を祈るのみである。
深呼吸を繰り返して意識を集中し、義明はヘッド・セットを通していった。
「お願いします」
一五回目の実験がはじまった。
*
16 一歩
「……そろそろかな」
発着場は、おおいに混んでいた。そんななか、混雑を避けるようにして座っているものがひとり。三十を越した日枝義明だ。
歳をとってはいる。が、体型にほとんど変化はなかった。中年太りをしないように、いつも気を遣ってくれている人がいるのだ。その彼女は、自販機で飲みものをふたつ買っていた。買い終わると、ぱたぱたと軽やかな足取りで義明のもとへもどってきた。
「はい。お茶」
「ありがとう、まひる」
おなじく、三十を越した日枝まひるだ。子供っぽさこそ抜けているが、明るい雰囲気はそのままに、ショート・カットの快活な女性に変貌を遂げている。医師という激務の職種についているからか、多少の疲労感はあるが、しかし、いまはそれどころではないようで、妙にうきうきしている。
『まもなく二番昇降機がまいります』
「お、そろそろか」
「やっとかぁ。長かったね」
発着場に着いてからというのもあるし、学生時代、いつか行きたいね。と話していたというのもある。
「大人気だからしょうがないよ」
「わかってる。ほら、行こう。チケットは?」
「しっかりしてるよ」
腕輪型のコンピュータからデータを送り、まひるのメガネ型ディスプレイにふたりぶんのチケット・データが映っている。
義明は二番昇降機を見た。降りてくる人びとは、意外にもすくない。きちんとした人数制限が守られている証拠だ。行き先は軌道エレヴェータの先――すなわち、宇宙である。
「それじゃあ行きましょう、あなた」
「うん」
あなた呼ばわりには慣れないなあと思いつつ、義明は立ち上がった。いまでも、立つたび、歩くたびに義明は感動で泣けてくるのではないか、というほど、うれしい。うれしくてたまらない。人間としてあたりまえの機能を喪失していたものにしかわからないだろう。
車いすよりもずっと高い視界がある。そこからずっと低い車いすの視点がある。
ふたつの視点から見た世界は、なにも変わらないようで、すこし違っている。
だから、義明にとってここは、新しい世界なのだった。新鮮な世界をまひると行ける。それは宇宙よりももっと鮮烈だ。どこへだっていいのだった。ただ、となりにいる人といっしょに居られれば。
「なにぼんやりしてるの。宇宙が待ってるよ!」
「宇宙は逃げないけど、昇降機は逃げるからね。ごめんごめん」
義明は笑って、頬を膨らませるまひるに謝った。
先を行く彼女を追うために、そして、また歩き出す。
了
ここまでご覧いただき、ありがとうございます。
ですが、本編に関わる話ではありません。
この作品は都合上、意図的にiPS細胞というアイテムを無視しています。
医学においてSF作品でいうナノ・マシン並の衝撃をもたらしたであろう代物です。
あと三〇年もすれば、調子の悪い臓器や手足を交換する時代がくるのかもしれません。
おもしろ怖い未来ですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
山田一朗