15-1 再見-1
四月、春。
青空が広がっていた。あたたかい日が射し込み、長袖の出番も少なくなるような陽気がやってきている。
車いすを押していると、うっすらと義明の額に汗がにじんだ。まぎれもない、春である。
並木は花をつけず青々としているが、これも夏になれば、いっそう爽やかに茂るだろう。
義明が車いすで進む先、慣れない大きめの制服着られてぱたぱたと駆けていく新入生のすがたがあった。
車の通りはすくない。その上、今年からは監視員が置かれているようだ。負の意味も込めれば、義明の成果である。
物珍しそうに視線を投げかけられることにも慣れた義明は、春風に吹かれながら学校への道を進んだ。
商店街へさしかかるあたりで、義明は反対側から歩いてくる月木まひるのすがたを見つけた。おもい冬服ではなく、春らしい服装――といっても制服だ――を身に纏う少女は、いかにもキラめいている。
「おはよー、今日も車いすってるね」
「それは意味わからないけど、おはよう」
まひるはすこし狭めの女性らしい歩幅で歩いていく。
義明は車いすのスピードをまひるに合わせた。ふたりは並んで道を行く。
「いつから車じゃなくて、車いす登校になったんだっけ、って思って」
「えーと、三学期はじめぐらいかな」
「もうそんなになるんだー。腕、太くなった?」
まひるが義明の腕を触り、かるく握った。
車いすを押しているせいで掴みづらいだろうが、そんなことお構いなしである。
「いくらかはね」
ちからを込められた腕は、制服の下で堅く隆起した。
腕に食い込んでいた指を、張り詰めた筋肉がはじき返す。
うごかなければ太る。そういう意識を持った義明は、いまのところきっちり体型を維持できている。
むしろ、健常であったころよりも引き締まっているぐらいだ。
「お、これはなかなか。いい腕してますねぇ」
「そういう趣味だっけ」
「んーん、ぜんぜん。でも、なんだか男らしくていいよ、コレ」
素っ気ないような口ぶりでいいながらも、まひるは義明の腕から手を放そうとしない。むしろぺたぺたとさわり放題にしている。
車いすは低速でうごいているから、片腕をふさがれていても邪魔にはならない。義明はまひるの好きにさせていた。
そうやってまひるが腕を触っていたのは、そう長い時間ではなかった。カップ麺ができあがるよりも短いだろう。
「堪能させていただきました。ゴチっす」
「お粗末さま。……なんか、いやらしく聞こえる」
「まさか、まさか。わたしは筋肉フェチとかじゃないし」
「そうはいってないけどね」
まひるはくるりと義明のうしろに回り込み、車いすを掴んだ。しっかりとグリップし、地面を踏み込む。
車いすの速度があがった。ほとんど早歩きのようにして、まひるはぐいぐいと突き進んでいく。
「ほーれ、チャリオーッツ」
「わっ。なに、急に?」
「べっつにー」
恥ずかしさを誤魔化すようにして、まひるは車いす型戦車をぐいぐいと進ませていった。
それなりの勢いがついたところで、ふたりを追いかけてくるすがたがあった。
「あよっす。介護か?」
「おはよー。っていうか、レース?」
シンヤとアサヒルだ。彼らも車いすをつかみ、うしろから支えるようにして押しはじめる。
「わっ、ちょっ、やめてっ」
「おはよー、諸君。ちょいとチャリオットごっこをね」
「メソポタミアか」
「地獄へ一直線って感じだけど」
「冷静に言うなよ。っていうか、止まってくれーっ」
結局のところ義明は、周囲の注目を集めながら学校まで数人係で押し込まれることになった。
今日は始業式で、道を行く人が多いというのに。
授業もなく、始業式のあとの軽い説明だけで学校の日程は終わった。
「以上。お前ら受験生なんだから、勉強だけはきちんとしとけよー」
そういって、教師はドアを開けて帰って行った。
昨年の始業式はいったい、どんな雰囲気になったのだろう。義明は思案する。
もしも、始業式に向かう生徒が車にはねられて、そのまま集中治療室に担ぎ込まれるような事件が起きたら、それなりの騒ぎになることは想像にかたくない。
そう考えると、なんだかむず痒いような気分になってくる義明であった。
三年生は受験前に環境を変えることもないだろうという方針のせいで、特別な事態でもなければクラス替えというものがなかった。
月木まひるたちとおなじクラスになれなかったという寂しさは義明にもあるが、かといって仲良くなったクラスメイトたちに不満もない。というより仲の良すぎるともだちが近くに居ると、遊んでしまうおそれがあったので受験を考えれば、いっしょにならなかったのは正解かもしれない。
変にマイナスへ考えるよりこれでよかったのだ、という風に考えられるようになった義明は、ひさしぶりにあったクラスメイトたちと雑談をしながらそう思っていた。
時計の長針が四分の一周もするぐらいそうしていただろうか。義明の身につけていたコンピュータから、電子音が鳴った。今朝にセットしたものだ。
「あ、こんな時間か。わるいけど先に帰るよ。じゃあね」
「おう。またな、日枝」
「じゃーな。こんど暇つくっとけよ。あそぼーぜ」
「うん。こんどー」
義明は装具と松葉杖を使い、教室後ろに置いてあった車いすまでいくと、ベルトで固定して廊下へ出た。廊下で話をしている人たちのあいだをゆっくりと進みながら、スロープを使って玄関へ行き靴に履き替えて校舎を離れる。道もまた、帰路へつく生徒たちでみっしりと混んでいる。
車いすはかなりのスピードが出せるが、しかし人がひとり歩くよりも余計にスペースが必要となる。だからアラームをセットしていたのだが、それにも関わらず道路端の歩行用スペースは埋まっていた。
「……ああ」
こうなる前に帰りたかったのに、という後悔が胸中を過ぎ去っていった。
すべてをあきらめた義明は、流れにのってゆっくりと車輪をまわした。
「ただいまー」
言葉と同時、ドアを電子キィでスライドさせて開く。
義明が家に着いたのは、予定の二〇分遅れだった。
「おかえりー。ひさしぶりの学校はどうだった?」
エプロンすがたの明子がやってきて、室内用の松葉杖を差し出した。義明はそれを受け取り、車いすから離れる。
「あんまり変わらないね。受験生の緊張感はまだまだかな」
「始業式だしね。変に気負うよりはぜんぜんいいんじゃない」
「そうかも」
明子の随伴もあり、義明は食卓の椅子に座ることができた。そこにはすでに昼食が並べられている。ハムと新鮮な野菜のサンドウィッチだ。全粒粉のパンを使っていて色が濃い。
「待ってて。いま、コーヒー出すから」
「うん」
冷蔵庫からサーヴァを出した明子は、グラスに氷を三個放り、ミルクといっしょにコーヒーを注ぎ込む。できあがったアイス・カフェ・オ・レを、義明の前に置いた。
「ストローなくていいでしょ?」
「いらない。ありがとう」
さっそくグラスを持ち上げ、喉に流した。義明はようやく落ち着いた気分になれた。春の日差しに長時間あてられ、額に汗が浮かんでいたところだ。
一息にグラス半分ほど飲んで、義明は口中から染み渡る冷たさを喜んだ。グラスを置いてサンドウィッチを手に取る。
「いただきます」
「はい、めしあがれ」
耳のついた食パンを斜めに切って、三角形になったものがふたつならんでいるうちの片方にかじりついた。みずみずしいレタスがシャキシャキと弾ける。
「ん、うまい」
ハムの香り、トマトの甘酸っぱさ、レタスの食感を存分に楽しみ、最後のひとかけらを飲み込む。カフェ・オ・レもちょうどなくなった。すこしかんたんだが、充分な昼食だろう。グラスの氷をひとつ口に放り込み、義明はガリガリとかじった。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さま」
明子は食器を下げて流しに置いた。先ほど食べたのだろう自分の食器と合わせ、すぐに洗いはじめる。
腹のふくれた義明は自室へ行き、制服から涼しげな長袖のシャツとパンツに着替えた。ぐっと楽になったのか、背筋を伸ばしてからベッドに倒れ込む。時計は一二時半をすこしまわったところだ。
「昼寝もいいけど……」
ちらりと横目で時計を見てから義明は考えを巡らせた。時間は午後いっぱいたっぷりあるが、それをどう使おうか決めかねているのだ。やりたいこともやれることもいくつか見つかるが、それに決めようというだけのものが見つからない。どこか宙ぶらりんで、ふわふわと浮いているだけの飛行船みたいな気分を味わっているのだ。
勉強やらなくちゃ。ゲームもやりたい。こんな天気に外へ出ない手はない。カーテンを開けて昼寝というのはどうだろう。コンピュータいじりもわるくないんじゃないか。誰かに連絡をとろうか。自主的リハビリテーションなんていいかも。
いくつ浮かんでもどれもこれもが通りすぎていく。どこにもいけない切符を持っているかのように、なにも決まらない。
「……いいや」
肉体的、能動的なことをすべて放棄することにした。どうせ、こんな気分ではなにをやったってよくならない、ということがわかっているのだ。だから自然と思考はどんどん深く、奥底へ沈んでいくことになる。
日頃感じていながら無視してきたこと、無意識に押さえつけられてきたマイナスだ。そのほとんどは、言ってしまえば自己能力への疑問にほかならない。やりたいこと――将来の目標は決まっている。だが、それを実現できるほどのちからが身につけられるのか。その一点に絞れる。
やりたいこととできることはイコールになっていない。ふたつをイコールにするために、だいたいの人間は努力や時間を積み重ねる。つぎ込んだからといってそうなれるという確証もない。それが不安や悲観となって現れる。一種の予防線だ。どうせ、だって、きっと、やっぱり。そんな前置きで自分を夢から遠ざける。傷つきたくないのだ。
義明もそんな人間に分類される。できるだけ泳ぐように摩擦なく生きていきたい。こころのなかはそんな思いでいっぱいだ。
そんな考えを変えたはずだった。逃げたりしないことを覚えたはずだった。だからといって、二度とぶり返さないということはない。
なにもやる気になれない、ならないのは、そんなあせりや不安がすこしずつ噴き出しているからだ。もう高校三年生、時間的猶予がなくなってきていることが苦しいのである。
もしも、やりたいことに才能がなかったらどうしよう。
漠然とした未来への自信のなさが、足を縫い止めている。ほんとうは気づいているのに。
「わかってるんだ」
日枝義明は、自分が天才でないことをしっている。
天才だったら、そもそも悩みなどしないだろう。すでに目標に向かって突き進んでいる。おのれをわきまえているからこそ、不安とたたかわなければいけなくなる。
しかし、だからといって諦められる夢ではない。誰かにたくして指をくわえて待ってなどまっぴらだ。
あたまでもわかっている。もういちど歩きたいという願いは、それほど弱くない。
だからこそ怯える。達成の困難も同時にわかってしまっている。
世界に数十万、数百万と存在する科学者、医学者たちが、いまだ達成していないという事実。それに対して、一年前までただの落ちこぼれだった自分がなんの助力になるだろうかと、卑下してしまう、躊躇してしまうのだ。
「でも、やるんだろう?」
義明は自分に問いかけた。答えはすぐに帰ってくる。
――ああ、やるとも。
ゲームの世界で最強、攻略不可能とまで言われた青色竜を倒せたように、やってできないということはない。
困難であるということを知っているように、義明は、やればできるということも知っている。
もやもやしたこころは、達成できるまで消えることはないだろう。
いつか後悔する日がくるかもしれない。もしかしたら、希望なんて抱かないほうがよかったのかもしれない。
茨の道を行くのは、自分のためだ。だからやるしかない。
でも、義明は予感している。そう遠くない未来に状況は変わっている、と。
だから、押しつぶされそうな現実と向き合っていけるのだ。
「なんだろう、躁鬱なのかな」
根拠のない自信と打ちのめされそうな想像にくたびれて、義明は目をつむった。
きっとやさしくない未来を行くための、負けないこころをつくるために。
昼寝をしたせいでその日の夜は、徹夜でPWOをすることになった。