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そして、また歩き出す  作者: 山田一朗
ミドル・ステージ
12/18

11 青春

 八月も下旬に入るころ、義明はじぶんのなかのなにかが変わったことに気がついた。

 もともと彼は、食卓へ皿を並べるときに食器棚から皿を一枚いちまいだしていくような、要領のわるい男だった。

 そして、先日のことでまずぜんぶ持っていってから配ればいいということに気がつくことができた。

 このおかげで少年は、ようやく人並みまで成長することができた。

 しかし成長は、そこで留まらなかった。

 ゲームなどで代替していた成長の快感が身近なものになったとき、その手ごたえは快楽中枢を刺激したのだ。

 秀才が勉強にのめりこむ理由が義明にはよくわかった。

 勉学や日常生活において、どれだけやっても上達に繋がらない――前へ進んでいるというよろこびを、ほとんどと言っていいほど味わっていなかった少年は、それをまた燃料とすることで進歩を加速させていく。

 できないことができるようになるというステップ・アップの感覚は、たしかに麻薬にも似たものがある。

 ――もっと先へ。その欲は留まることを知らない。

 自身を突きうごかすものを背中に覚えて、日枝義明は飛躍のときを迎える。


 九月初頭。

 気温はまだ三〇度をくだらない。

 今日は二学期のはじまりで、義明も高校へ行く準備をしていた。

 水から揚げられた魚は、こんな気持ちだろうかと想像できるような快晴だ。

 季節の上では秋だが、夏の装いはまだ続く。長袖を身につけるには、あと一月ほど待つだろう。

 義明にはもう制服を身につけること、学校へ行くことが登校日のときほど嫌ではないのだった。

 学校には友人もいるし、注目されることにもある程度なら耐えられることがわかった。

 かばんを持ち、義明は食卓へ行く。すでにいそがしくしていた母・明子が、食卓に皿を並べていた。

「おはよう」

「おはよう。今日からまた学校ね」

「うん」

「食べたらすぐ行く?」

「そうする。父さんはもうでた?」

「お父さんのところも、始業式だからね」

「あー、なるほど」

 食卓に並ぶのは、|チョコレイト入りクロワッサン《パン・オ・ショコラ》と濃く淹れたコーヒーと牛乳を同量注いだカフェ・オ・レというフランス風のものだが、成長期の少年にはいかにも栄養が足りない。

 そこで昨晩のうちに仕込んでおき、冷製にして食べるポトフが追加される。

「あ、これ好き」

「でしょ。そう思ってつくっておいたの。おかわりあるからね」

「うん。ありがとう」

 やはり一皿では足りなかったので、こんどはチョコレイトの入っていないクロワッサンと、小盛りにしたポトフをおかわりし、最後にカフェ・オ・レを飲んで朝食を終えた。

「ごちそうさま。おいしかったぁ」

「はい。お粗末様でした。流しにつけたら行くから、準備しておいて」

「わかった」

 明子から車の鍵を渡され、それをポケットにしまってから車いすで玄関からでると車の横につけ、鍵でドアを開けた。

 助手席のほうにかばんを放りこんでから、車いすのロックを外して明子を待った。彼女はすぐにきた。

 薄いブルーのエプロンを脱いで、白いブラウスにすね丈のスカートという恰好である。

 別にエプロンを外す必要はないんじゃないか、と義明は思うのだが、そこが母であるか女であるかの境目だと以前、聞かされた思い出が記憶の隙間から出てきた。いくつになっても女は女で居たいものなのだろう。こどもにはまだ、はやいはなしだ。

 車いすをトランクに乗せて、義明は助手席まで這うようにしてなんとか座りこむ。毎度のことだが、この瞬間はどうにかならないだろうか、と思わずにはいられないものの、しかし、それが筋力の維持にも繋がっていると考えれば、無碍にもできないのだった。

「よし。それじゃシート・ベルト締めて」

「オッケ」

「はいはい。じゃ、出発」

 しずかなモーター音と故意的な騒音(エンジン)を響かせて、灰色のヴァンは走りだした。

 車はなめらかな運転ですぐに学校までついて、義明を降ろす。

「じゃ、いってらっしゃい」

「うん。行ってきます」

 ある程度、義明が注目を集めることは予想の範疇だったから、いろいろなものを無視することができた。

 その大半が興味深げにじろじろと見るものではなく、およそ一月前の登校日にも「ああ、いたね」という程度のものだったことも幸いだった。

 上靴に履き替えて義明は、一度、職員室へおもむいて教員たちへ挨拶をしたあと、教室までひいこらしながら昇った。

 始業式には、ここからまた講堂までせっせと車輪をまわしていかなければならないことを思うと、まるでハムスターにでも変身した気分である。

 チャイムが鳴るまでのあいだ、義明は親しいクラスメイトなどもいなかったので、かばんからとりだした本などを眺めながら時間を過ごした。

 予鈴が鳴る寸前になって、ようやく教室へ駆けこんできた石橋と桃坂に、

「お前らを見ると安心する」

 などと言ってしまう。

 席に着きながら、ふたりは口を尖らせた。

「なんだそりゃ。上から目線か?」

「一夏の恋でもしたんか?」

 真意はまったく伝わらないものの、それでいいと義明は思った。

「いいや、ゲームと勉強でへとへとだったよ」

「そいつはまた、けっこうなことで」

「のォ、わりには、灼けてるじゃん」

「だいたいはリハビリの移動中だよ」

「ほほう。そのだいたい以外ってのを、のちほど詳しく聞こうじゃないか。なあ、桃坂」

「ねぇ。石橋さん。いやいやー、いい思い出つくれちゃったんじゃないのー。あぁん?」

 やぶへびだったか、とあたまを抱えそうになる義明を前にして、口端をつり上げて目を半月状にしたふたりは、まるで井戸端会議をしている奥様がたのような手つきで言う。

「はい。そこ静かに」

「はい」

「はーい」

 教室に入ってきた教師に注意されて、ゴングに救われるかたちとなった。


 特別おもしろいような事件もなく、講堂でながったらしい校長のはなしもおわり、つつがなく解散ということになった。

 緊張感は雲散霧消し、友人たちとの再会であたたまった空気そのままに、「午後はどうする?」などという会話をしている生徒ばかりだ。

 だらだらと歩いているところを、教師たちもしかたがないなあ、という雰囲気で見逃すあたり、夏休み後の生徒たちは、むかしもいまもほとんど変わっていないのだということがわかる。

 教室へ帰り、教師のはなしも終わると、石橋と桃坂のふたりも例外ではなく、さっそく義明にもとへ駆けよった。

「さて、おはなしの続きと行こうぜ、義明くん」

「だーね。おっしゃ、はなしはショで聞こう」

「ショってどこさ。はなしてもいいけど、別におもしろいことなんかなにもないよ」

「お前にとってのおもしろくないは、俺たちにとっては超おもしろいだから」

「そーそー。ゆっくりしっとり、場合によっちゃびっちょりと聞かせてもらう」

「そんな展開はない」

 どうしたものかと義明は悩み、比較的おもしろおかしくはなせるようなエピソードをピック・アップして、ちょこっと盛ったりしながら、それなりに受けるような話題を提供するのだった。

 往おうにしてこういうとき下手に謙虚になったりすると、そちらのほうが面倒くさくなったりするものである。

「むう。期待していた方面じゃなかったけど、なかなかおもしろかった」

「だねー。じゃ、これで取り調べはしゅーりょーっつーことで」

「今度は、カツ丼ぐらいだしてくれ刑事さん」

「ありゃー自腹だ」

「じゃ、いいや」

 はなしも終わったので、お開きの時間である。

 周囲の生徒たちも、

「じゃあな、日枝。またあした」

「んじゃ、またね」

 手をひらひらと振って、ふたりは去っていった。

 安堵と寂しさのない交ぜになったものを感じながら、義明はきょうを無事に過ごせたことによろこびを覚えた。

 そろそろじぶんも帰ろうか、と教室を出ると、

「あ、義明」

「お、まひる」

 月木まひるがそこにいた。どうやら彼女も帰るところだったらしい。

 懐かしい制服すがたに、ちょっとばかりはじめて逢ったときのことを思いだしかける。

 そして即行で記憶の蓋を閉じた。じぶんからはなしかけるなんてことは、義明にとってはなかなか恥ずかしいことであった。

 こんな廊下で赤面して、あたまを抱えたくはないのだ。

「ひさびさだねー。一週間ぶりぐらい?」

「リアルだとそれぐらいかな。ライムとはもうちょっと近いか」

「んー、ヨシュアとだと三日ぶりぐらいかな。どうしたのさ。最近、君ら四人がめっきり強くなったらしいじゃん」

「知り合いの人に、ちょっと教えてもらって」

「ズルいなあ。わたしたちはまだ、リフミラあいてに苦労してるのに」

「ぼくたちもそれは変わらないよ。四人だしね」

 ちょっと廊下で話しこんでしまう雰囲気だったが、周囲の目に気がついて、義明は、はっと気がついた。

「帰りながらにする?」

「そうだね」

 じぶん発信のものは回避できたものの、結局は赤面してしまうのだった。


 帰り道、義明は母を呼ばず、じぶんで車いすを押しながら帰ることにした。

 その旨はすでにメールで通達してあるので行きちがいの問題はない。

 なぜそうしたかといえば、月木まひるの存在が大きい。

 たまたま病院で出会っただけの少女が、どうしてこうもじぶんのなかのウェイトを占めるのか。

 小学生のころを除けば、はじめて友だちと言えるほど仲良くなった女性というのは、もちろんある。

 しかし、それだけでということはないだろう。

 じゃあなにか。気づきかけた事実を、義明は意図的にこころから遠ざけた。

 それが成就する可能性はきわめて低い。

 ――すくなくとも、いまは。

 だったらいつならいいのか、というはなしもない。

 いまのところ義明は、ただ月木まひるたちと仲良くできればそれでいい。そういう精神で居たいのだった。

 居られるのだった。いまは、まだ。


 他愛もないことをしゃべりながら歩いていると、時間などはすぐに去ってしまうもので。

 かのアインシュタインも相対性理論を簡略して説明するとき、かわいい女の子との会話だと一時間などあっという間だとおっしゃっている。

 まったくの事実だな、と義明は納得できた。

 丁字路があった。そのまままっすぐが義明のすすむべき道で、折れ曲がるもう片方はまひるが行く道だ。

「じゃあ、わたしここから別方向だから。またね」

「ああ。またゲームか、現実で」

 ぶんぶんと手を振って元気にまひるは分岐路の片方へ歩いていった。

 おなじように手を振っていた義明だったが、別れた途端に胸に去来した思いをなんと言えばいいのか、わからなかった。

 あるいはこれが、ストーヴの上に手を置いた一分なのか。

 ……自覚してしまえば、それはきっと苦しみに変わってしまうから。

 丁寧にていねいに閉じこめてラッピングをして奥底へしまっておく。

 まだはやい。それだけの人間じゃない。比べてしまえば、じぶんは他人を引っ張ることなどおこがましい人間だ。少年にはそう思ってしまうのだ。

 救ってもらった。そういう感情があるからこそ、よけいに大きく見えてしまう。

「足りないんだ。このままじゃ。もっと、もっと――」

 翼がほしい。義明はこころからそう願った。

 〔ソレ〕に関する格言は、枚挙に(いとま)がない。そして思春期は、そういう季節なのだ。

「もっと、先へ」

 行かなくちゃ。

 感じていたよろこびは焦燥感へとすり替わり、成長しているという実感はもっとはやくという欲望へ変換される。

 いずれじぶんの足で歩くという、とおい未来の目標ではなく身近なゴールができたことで、義明の眼はそれだけを見つめて進めるようになった。

 曰く〔ソレ〕は、人を強くも弱くもするという。それだけに安定感などかけらもない。

 もとより思春期の少年少女に、そんなものは望めない。ただがむしゃらな若さと勢いがあるばかりだ。

 それを立証するかのように、目標ができたことによって義明の成長はさらに加速を増していくことになるのだが、いまはまだ妙な無力感を胸に覚える少年であった。


 九月も中盤にさしかかると、急激に天気というものが変わってくる。

 タオルケットで寝ていた義明は、寒けを感じて眼をさました。カーテンを開けて外を見れば、しっかりと晴れているではないか。

 ではこの寒けはなんだろうかといえば、やはり秋の訪れにほかならない。

 朝晩と昼の気温差がもっとも変わってくる夏と秋の中間は、どうにも辛いものがあった。

 寝るときには暑く、起きるときには寒い。まったくもって不便きわまりない。

 季節の変わり目に弱い義明は、タオルケットを引き寄せてパジャマすがたで震えた。

「うぅ、さむ」

 薄手のパジャマでは、いかにも寒い。目覚し時計を見ればまだ鳴る前の時刻だったが、はやいところ着替えることにした。

 長袖を引っ張りだすべきか、あるいは夏服のままですごすべきか、義明は迷った。昼間は暑くなるだろうということで、夏服をえらんだのだが、朝はまだ寒いのでシャツを一枚羽織った。

 それでもまだ寒く感じるのであった。

「コーヒーでも淹れようかな」

 いったん洗面所で洗顔と、コーヒーがまずくなるので練りはみがきを使わない歯磨きを終えてから、車いすをつかってキッチンまで行き、電気ケトルで湯を沸かす。

 さすがに両親がまだ寝ているうちから電動ミルを使うのはうるさすぎるので、淹れるのはインスタント・コーヒーということになった。

 そのぶん、たっぷり砂糖とミルクを入れて、しっかりあたたまろうという魂胆だ。

 どちらかというとコーヒーよりカフェ・オ・レになったものを啜りながら義明は、冷蔵庫を覗いた。

 夕食にでてのこったラタトゥイユと、四分程度で茹であがるというマカロニをとりだした義明は、ラタトゥイユをレンジに入れてあたためつつ、鍋に水をためてコンロにかけた。沸騰したところへ塩を足して、マカロニを放りこんだ。

 あまったラタトゥイユにマカロニを突っこんで食べようというのだ。料理というほどのものではないが、しかしあたたまるには充分な食事である。

 できあがったものにコショウをすこり振りかけて、朝にはすこし重たいが、あたたかい食事ができあがった。

「いただきます」

 と、両手を合わせてスプーンをつかって口にする。

「うん。チーズかなんかがあると、もっとおいしい気がする」

 しかしもともと味の濃いものにチーズを足したら、それはごってりしすぎてしまうだろう。タバスコをかければチープになりすぎるし、難しいところである。

 食べ終えて食器を洗っているうち、ようやく両親が目覚めてきた。それほどに早く起きてしまったのだ。

「あら、おはよう。今日はずいぶん早起きね」

「ほんとうだな。昨日は早く寝たのか?」

「おはよう。ちょっと寒くて、早く起きちゃっただけだよ」

「だいじょうぶか?」

「うん。なんとか」

 カフェ・オ・レとマカロニ入りラタトゥイユのおかげで、それなりにからだのあたたまってきた義明である。

「それ、夏服じゃない。ブレザーを羽織れば?」

「んー。昼になったら、暑くなると思って」

「いいから、羽織っておきなさい」

 そう言って明子は義明の部屋まで行き、ブレザーをとってきた。

「暑くなったら脱げばいいんだから。ね」

「うん。わかった。ありがとう」

 おとなしくブレザーを受けとり、シャツを脱いで羽織る。

「母さんたちはこれから準備するから、TVでも見ておいて」

「うん」

 そういって両親のしたくがすむまで、各局でやっている朝のニュース番組をザッピングしていく義明であった。


 学校までくるとしだいに日は高く温かくなっていき、ブレザーを羽織らなくてもだいじょうぶか、と脱ぎかけたが、まだ九時も前だからか、義明はそのままにしておくべき気温を感じた。。

 母の忠告は聞いておくべきだな、というのがよくわかる事例である。

 見れば、いくらかの生徒たちもブレザーを羽織っていた。世の母はなかなか良い忠言をもっているにちがいない。

 教室までいけば風がシャット・アウトされているので、いくらかはあたたかいだろう。そんな期待をこめて、義明は校舎のなかへ入っていった。

 その考えはあまったれていた。むしろ窓ガラスが光をシャット・アウトしているので寒いのだった。

「……ううん、こりゃダメだ」

 むしろ冷えこんできた感さえあり、義明はつくえを抱えこむように、うつぶせになってしまう。

 実際のところ、義明はうすうす感づいてはいるのだ。これは単なる秋の気配ではないな、と。

 しかし事故欠で出席日数がとてつもない状態になっているので、休めないのである。

「よー。どしたの、風邪?」

「言わないでくれ、まだ信じたくないんだ」

 その背中に矢を突きたてるのは桃坂である。

 彼はずばりと、義明が逃げていた現実をうちこんできた。

「出席とったら、保健室行ってこいよ。完全にアウトだろ」

 石橋がいう。たしかにこの様子では、授業など耳に入らないにちがいない。

「しかし、一二月には期末考査が……」

「アホ。一日も早く治したほうが、圧倒的効率だ」

「ううん……そうしようかな」

 さすがに友人ふたりに心配されるようでは、そうとうにひどい状況なのだろうと言うことがわかる。

 世のお母さまたちと並ぶような忠言に従い、出席だけはどうにか参加し、義明は一限目から抜けて保健室へ行くことにした。

 毎年こうなのであった。

 季節の変わり目というか温度の変化が急激になると、義明はいつもこうして風邪をひく。

 別に注意していないわけでもないし、風邪を甘く見ているわけでもないのだが、どうしたってひくものはひくのであった。

「ぼくがなにをしたっていうんだ……げほっ」

 とうとう、この有り様である。

 一度、自覚して進行してしまうと、風邪というやつはどこまでも忍びこんでくる。

 唯一の救いは、

「んー、薬のんで寝とれ」

 養護教諭がおじいちゃんであり、なかなかゆるいことであった。

「はい。……えほっ」

 水と薬をもらって飲み、義明はベッドへ横になってえほえほと咳をこぼしながら、しずかに寝入るのだった。

 朝、早くに目覚めすぎたせいか、睡眠まで落ちていくのはかんたんなことだった。


「え、風邪?」

「そう、風邪」

 昼休みになって、いっしょにお弁当でも食べようかとやってきた月木まひるが義明のクラスを覗くと、そういうことになっていた。

「じゃあ休み?」

「出席日数がヤバいとかって来たけど、ソッコーで保健室(ムショ)送り」

「あー」

 まひるも自分自身が病欠で長期入院になったときのことをふりかえると、その行動にはうなずけるものがあった。

 留年すること自体はそれほどツラいことではないのだが、したしい人間が先輩になるということには恐怖を感じる。

 それで縁が切れてしまったら哀しいと思うタイプなのだ。

「ま、暇があったらお見舞いでもしてあげてくれ」

「そーすりゃ、アイツも浮かばれるしさー」

「いやいや、死んでないでしょ」

 けらけらと笑って、まひるはあごに手を当てる。しかしそうすると、どうにも予定がくずれてしまうのだ。

 昼に義明をゲームに誘って夜はひさしぶりで月木組に招いてみようか、というプランが崩壊を迎えた。

 さて、どうしてくれようか。と、やっていると、

「なにやってるの、ドアの前で考えこんで」

 委員長・来島夕花だった。彼女は教室で昼食をとっていたらしく、頬にごはんつぶがついていた。

「あ、おべんと」

 それをまひるがつまんで食べると、夕花はすこしだけ顔を赤らめた。

「ありがとう。……じゃなくて、そこにいたら邪魔になるでしょう。入るかでるか、どっちかしてよ」

「なら、入って夕花とお弁当する。あ、机借りてもいい?」

 夕花の近くにいた生徒に承諾を得ると、まひるは「どもども」と言いながら座って、お弁当をひろげた。

「まったく、図々しいんだから」

「うらやましい?」

「ある意味ね」

「えへへ。褒められちゃった」

「ちっとも、褒めてないけどね」

 ため息を漏らして、夕花は水筒からお茶をついで飲んだ。

「あ、いいな。ちょっとちょうだい」

「持ってきてないの?」

「うん」

「しょうがないんだから」

 そう言って、夕花はいま注いだぶんを飲み干して、縁をしっかり拭いてからあたらしく注いだ。

 典型的な世話焼き女房になるタイプである。こういうのがかかあ天下になると、生活は安定するが夫は苦労するだろう。

「ありがと。……んー、おいし。これ、お礼ね」

 そういって、まひるはじぶんのお弁当から卵焼きをひとつ夕花のお弁当箱へおいた。すこし焼き目のついた、お弁当用に甘く味つけしたタイプだ。月木家ではそれがふつうである。

「いいのに」

「まあまあ、いいからいいから。じゃ、いただきまーす」

 まひるは真っ先に、梅干しを叩いてソースにした鶏のつくねを頬張った。

 好物は先から食べるほうなのだ。


 放課後になっても熱の下がらなかった義明は、迎えにきた明子に怒られつつ、車に乗せられて帰っていった。

 おそらく、今日は一日中ベッドに縛り付けられていることだろう。

 あしたになっても、復帰してくるかどうかはあやしいところだ。その二、三日がデッド・ラインなのだから、意地でも復活してくるとまひるはにらんでいる。

 しかし今夜はゲームもせずに寝ていることだろう。薬を飲んで、必死で治すにちがいない。

 まひるはすこし寂しいと思った。誘おうと思って空ぶったからというのもあったが、友人が苦しんでいるというのは、どうにもこころダメージがくるような女なのだ。

「……んー、どうしよ」

 だからといってべつにまひるがPWOにインしないという理由にはならないし、やりたいという気持ちはあるのだ。

 来島夕花――ユーガ、ヨルコ、アサヒル、シンヤというメンバーたちもいるし、彼らとたのしく遊びたいというのは嘘じゃない。

 きっとまひるはライムとなって、今夜ゲームの世界に旅立っていることだろう。

 でもなぜか、気になってしまうこともたしかだった。

「あしたこなかったら、襲撃にいってやろうかな」

 襲撃――いわゆる、見舞いである。装備は桃缶と季節のフルーツか。

 そうすることに決めて、月木まひるは家路を踏んだ。

 秋が来るせいか、もう空が赤くなりはじめている。昼のみじかい季節がこようとしていた。


 翌日。

 日枝義明は学校を休んだ。さすがに一日で治すことは不可能だったようだった。

 そのことを委員長こと夕花から聞かされたまひるは、放課後、日枝家を襲撃する作戦を通達した。

 月木組はそれを了承し、各自、装備を充実させてから、本日一六○○時に作戦をおこなうことになった。

 放課後になるのをまちどおしくなった幾人かの生徒たちは、教師から注意を受けることになる。


 ようやく放課後になって、さっそく行動を開始した五人は、購買部で買いもとめたもの、作戦行動中に商店街という補給基地で調達したもの、あるいは手製のものなどをかき集めて、月木分隊は目標地点である日枝家までやってきていた。

「現在時刻、一五五四時。あと六分だ」

「ヒャッハー! もう我慢できねぇぜ。隊長、いっちまいましょう」

「まて。先走ると死ぬ」

「チィ。しょうがねェ」

「まさか、獲物を前に舌なめずりとはね」

「おれたちムーン・ウッド・フォースの名が泣くぜ」

「いったい、どこのならず者たちですか」

 夕花ひとりがツッコミになり、どこからはじまったのかもわからない軍隊コントにあたまを抱える。

 時間がすぎるまで、ご近所さまの生あたたかい眼に晒されながら、夕花はいまにも帰りたい気持ちになっていた。

「三、二、一……作戦開始!」

「おうよ、目にモノ見せてくれるぜ!」

 ……と突撃したはいいが、インターフォンを押して明子がでてくると、すっかりいいこちゃんに戻る四人なのだった。

 それなりに回復していた義明に、月木組五人がうずうずとしながら絡んだことは言うまでもない。

 明日には学校へ来られそうな義明に、まひるはほっとしたのであった。

 なぜそんなに気にかかったのか、いまはまだ感じることもなかった。


        *


 風邪が治ると義明は、まず見舞いにきてくれた五人や、心配してメールをくれた友人たちへ、感謝のメールを送った。

 それから、もう風邪などひかないように、多少汗を掻いてもあたたかい服装をするようこころがけるようになった。

 両親からは心配をもらったが、帰ってきた友人たちからのメールで叱咤や激励をもらい、なんだか嬉しい義明なのだった。

 九月は、義明もクラスになじむことで精一杯だった。

 クラス委員長をしている来島夕花と、石橋、桃坂の三人にはずいぶんと骨を折ってもらい、してもしきれないほどの恩義を感じている。

 ようやく学校のみんなも車いすでの登校に慣れ、義明を日常のひとつとして受け入れる体勢ができてきた。

 夏休み後のどさくさに紛れられたというのも大きかったのか、意外にはやくやってきた日常への回帰は、すこしばかりの寂しさを残しながらも義明を喜ばせる。

 それだけに言い訳は通じなくなったので、いっそう、なにごとにも励む必要が生まれたのだが。

 はじまりの九月は、そうやって過ぎていった。


 そして一〇月が訪れた。

 そうなると、もはや気温は冬に近しいものになる。二の舞は避けようと義明は万全を期し、布団とてしっかり掛け布団を追加し、必要とあればさらに毛布を一枚追加する準備がある。

 しかも多少暑いぐらいの服装がちょうど良かろうと、制服にニットのベストを追加装備した。

 家でもしっかりと厚着をして、空調が効いていてもあたたかいぐらいにしている。冬になればどれほどの重装備になって着太りするのか、と悪友たちが話のネタにするほどだ。

 しかしそれぐらいがちょうどいいのだろう。便利になりすぎた世の中では、病気などに対抗する抵抗力は弱まりつつある。

 まず、きっちりと自己管理をしなければ、ただでさえハンディキャップを抱えている人間はやっていけないのかもしれない。

 ……と、いまだにペーパー・メディアを使っている高校に通いつつも、義明はそう思うのだった。

 この頃になると、義明たちもPWOで攻略をずいぶん進めており、第五エリアの〔リフミラ〕で、キャラクター的にもプレイヤー的にも充分、経験を重ねたヨシュアたちは、第六エリアを破竹の勢いで通過し、第七エリアまでやってきたのだ。

 このエリアは海に近く、攻略できるエリアが満干に支配されているところが特徴的で、干潮のときは砂浜などに生息しているのだろうMOBが湧き、満潮のときは、さかななどの海でしか生息できないMOBが湧く。ここで問題となるのは、どっちのMOBが強いかということではなく、地形に影響を受けるということだ。

 舞台となる場所、挑むべきダンジョンはかなり低い地形で、海が満ちてくるとだんだんと足下が水に埋もれてくる。

 すると動きにも影響がでてくるので、とくにAGI型でスピード命であるヨシュアは苦労をしていた。上半身から上は問題なく動くので、ある意味では紙一重の修練にもなるのだが、ダンジョンのなかで一瞬の気の緩みも許されないのは、かなり消耗を強いられる。

 というわけで第六エリアはなんなく通過したヨシュアたちであったが、第七エリアにはかなり苦しめられていた。

 彼らの進撃は、ここでいったん、なめくじの勢いまで落ちることになる。


 義明は見学で不参加であった体育祭の熱もすぎようとしていた十月の中旬、彼らには別の熱が入りはじめた。

 そう、文化祭である。

 日頃、勉強だなんだというストレスに晒され続けている少年少女たちが、いかにもキラキラとした青春の光を放ちはじめるのがこの行事だ。

 とくに進学校でもない県立の高等学校であるここでは、三年生ですら全力で文化祭に打ちこむ。正気の沙汰とは思えない。

 むろんそれが二年生ともなれば、全力も全力である。もはや命を賭けているといっても、多少の過言程度で済むような生徒たちが続出するのだ。

 一年生はまだ堅さがあり、彼らも情熱を傾けるのだが熟成するにはもう一年必要になる。とはいえ、勢いならば負けるものでもない。

 学校をあげての祭りに、熱狂しないバカは置いていかれる季節なのだ。

 これは義明たちも例外ではない。二年B組が精魂こめて提案するは、ずばりエキサイティング・アンド・喫茶である。

 熱狂と興奮、そして恐怖のどん底へ客をたたき落とそうというのだ。

 その名も〔スローター・ハウス・B〕。まず生かして返すつもりがない。

 実態は、支払いにかんして無料か通常かというチャンスが与えられるどこもかしこも手垢をつけたシステムである。

 えらべる選択肢は、ぜんぶで六つ。

 一 じゃんけん五連勝(一回負けたらアウト)

 二 レスリング部のエースと腕相撲

 三 陸上部スプリンターと五〇メートル走

 四 ドMとどっちがケツバット耐えられるか

 五 ドSに三分、罵詈雑言を浴びせられる(ドMお断り)

 六 一発ギャグを披露して面白かったら

 というコースがある。

 もちろん良識を持った教師に以上の案件はすべて却下され、ふつうの喫茶店と相成った。

 かわったことといえばメニューがすこしばかり実験的なぐらいの、実に小規模なエキサイティングであった。


「まひるのとこはなにやるの?」

 卵焼きをつまみながら、義明が聞いた。

 いまは四限目も終わって、昼休憩の時間である。

 教室はがやがやとうるさいが、しかし外に出てあたたかさを捨てるほどのことはない。

「んーと、フィーリング・ホログラフィの展示」

 プチ・トマトを咥えながら、すこし不鮮明な言葉で返す。

「へえ。ずいぶん凝ってるね」

「うちのクラスに|そういうのに詳しい人が多くてさ。助かるよ」

 そういうのとはもちろん、技術系オタクである。

 フィーリング・ホログラフィ――接触が可能な映像で、専用のシステムを使って触った質感を表現できる機械だ。VR技術とは別の、幻想を現実に引きずり込む手段のひとつである。

 干渉による乱れを防ぐ微粒子の構成指示や感覚再現の精度は、学生のつくるものだからそこまで期待はされていないだろうが、しかし期待にそぐう程度のものはつくろうと、躍起になっているようだ。

「ま、楽しみにしててよ。あっと驚くのをつくる……らしいから」

「まひるは関わってないんですね」

 お茶をすすり終えて、来島夕花が言う。

 今日はまひるがB組までやってきて、いっしょに弁当を食べているのだ。

「数値設定とか、コードとか、グラフィックとか難しいんだよね。わたしは雑用係」

「アレはプロじゃないと、完全にはイジれないからねぇ」

 さすがに市販モデルやフリー素材なんかは転がっていて、そのデータを読み込ませることでホログラフィは立ち上がるが、それを触るだけでは味気ない。それを実用、芸術レヴェルにまで高めるのは、デザイナーでなければむずかしいことだった。

「せっかくの技術系展示だから、成功するといいですね」

「うん。わたしも、目いっぱいサポートするつもり」

「当日になったら、絶対行くよ」

「来てきて。サーヴィスするから!」

 展示会でなにをどうサーヴィスするのかはわからなかったが、義明と夕花はうなずくことしかできなかった。


 そして熱狂が最高潮を迎える開催前夜を通り越して、文化祭ははじまった。

 祭りというのはやっているあいだよりも、その準備期間が一番楽しいという。その言葉を裏付けるかのように、一部では燃え尽きた学生たちが接客をしているところもあるという。

 寝不足なのだ。それをすこしでも寝て回復を図るか、いっそのこと深夜のテンションでそのまま突っ切るかは好みの問題だが、どちらにせよ脱落者や、脳内麻薬でなんとかごまかしているものばかりだ。

 義明は、きちんと学校に泊まらず家に帰ってから通学してきた組なのだが、そういう〔外泊組〕には〔徹夜組〕や〔宿泊組〕の結束から、いまいち外れているような錯覚を感じるのだった。

 保健所に届け出て飲食店もしっかりできるので、校庭には屋台がたくさん並んでいる。

「いらっしゃーい、いらっしゃーい、イカぁうまいですよー!」

「タコ、なんていってもタコ! 丸いですよー!」

「フランクフルトぉ、フランクフルトぉ。ながい、ふとい、おおきい!」

「輪投げいかぁっすかー!」

 などなど、定番のものから、

「マッサージ! 女子高生のマッサージですよー!」

「寒い日にくいっと一杯、ノン・アルコール・カクテルどーすかー!」

「秋だからこそ冷やしおでん。こころの底まで冷え切りましょう!」

 などなど、差別化しようとあぶない橋を渡っているところもある。

 よくも許可が出たものだ。あるいはどさくさ紛れに出てしまったのか。

 しばらく義明は校舎をうろうろしていたが、それは別に暇だからということではない。

 人を待っているのだ。

 それはある意味、再開だった。しかし紛れもなく初対面である。

 知っているはずの知らない人と出会うのは、興奮もするが恐怖も感じる。

 ましてや義明は未知を嬉々とするタイプではなく、むしろ怖れを抱くほうなのだ。

 だがこの日ばかりは、そうも言っていられない。自分から文化祭のチケットを送って招待したのだから。

 はたして、その人たちはやってきた。

 ひとりは小柄な男で、ひとりはすこしひょろっとした白い肌の男、もうひとりはすこし険を感じるがうつくしい少女だった。全員、成人いないぐらいの年齢だと思われた。

 そのうちの小柄な男が、車いすで移動している義明に気づいた。彼は目を丸くして、すこしばかり微笑みながら言う。

「もしかして、義明?」

「うん。はじめまして」

「へー。聞いてはいたけど、まんまだねー」

「どうせなら、コスプレでもすればよかったろう」

「そんな勇気はないよ」

 義明は苦笑した。

 彼らは、いつも義明がPWOで組んでいるメンバー三人、クロモリ、アルミ、カーボンなのだった。

 第七エリアの十月停滞期に、気分でもほぐそうとオフ会でもやらないか、という提案があったのだ。

 義明は遠出することが難しいから返答できずにいたのだけど、文化祭のことを思いだしてもし遠くなければ、と誘ったのだ。

 はじめて自分のことをカミング・アウトした時は、

「すごいよ。おれだったら、きっとヤケになってるね」

「うんうん。あたしたちのおかげ?」

「ヨシュアの努力だろう」

「それじゃーつまらないじゃん」

 などなど、ヨシュアは重く受け止めるわけでもなく、かといってないがしろにするわけでもなくしっかりと、キャッチしてくれた。

 それだけで嬉しかったのだが、それに加えて、

「案外近いところにあるね。それじゃあ、ヨシュアの高校の文化祭でオフ会しよう」

「さんせー」

「異議なし」

 ということになったのだ。

 そうして彼らは、ここまでやってきてくれたのだ。これが喜ばしくないわけがない。

 現実世界のクロモリは、あの鎧に着られているような印象そのままだが、現実世界のほうがもっと優しい顔立ちをしていた。

 黒いローブに埋もれていないカーボンは、色白美肌の縦長少年だ。可愛らしげはないが、眼の奥のひかりがなにかをしでかしそうな雰囲気を持っていた。

 そしてアルミは、笑えばかなりの美人なのだが、だいたいは腕を組んで口を尖らせていた。それは不満があったというよりは、癖のひとつなのかもしれない。

「じゃあ、案内するよ」

「うん。よろしくね、義明」

「まかせた、マッパー」

「頼りにしている」

 現実に役割を当てはめられるとは思っていなかったが、しかしそうなれば、義明は月木組にも足を運んだほうが面白いな、と思いはじめていた。

 文化祭は、まだ始まったばかりだ。


        *


 まず、義明が案内したのは自分のクラス二年B組である。なにはなくとも、まずここへは来させなければならない。

 客引きをするという名目で外出していたのだ。たとえ車いすだとしても、文化祭というコンバット・ゾーンにおいて無駄は許されていない。

「お客さん連れ来たよー」

「でかした、日枝。いらっしゃいませー、よろこんでー!」

「スローター・ハウス・Bへようこそ!」

 システム案は却下されたが、名称だけは引き継がれていた。

 奇抜で斬新な料理による屠殺場というのは、確実にまちがっている。すくなくとも人間的には。

 教室内は、清潔感を大事にするべく白いテーブル・クロスや白いシャツでの応対など、ホワイトを基調として作り上げられている。

 それを引き締めるようにエプロンは黒く、汚れも見えづらい。だからこそ働くウェイターやウェイトレスのうごきが際だって見える。ここは舞台で彼らは役者なのだ。

 自分こそが最高の役者だ。俺こそがギヤマンのマスクをかぶるのだ。周囲にそうアッピールするべく彼らは、ひとつひとつの動作を大きく、きっぱりとしたものにしていた。

「三番テーブルまでご案内しまァーす!」

 やたらに低音ヴォイスをひびかせ、大柄のウェイターが不自然なほどきびきびした動作でテーブルまで案内し、座らせる。

 そしてマジックのように突然、手の中にメニューが現れ、ウェイターが完全なしたり顔を見せつけたあとで、配られた。

 彼は満足したように会釈をしてその場を去り、あとを義明にまかせた。

「うわぁ。なんていうか、歓迎されているのかされてないのかわからないね」

「いいんじゃない。文化祭の浮かれた感じがよく出てる。こんなもんでしょ」

「雰囲気は嫌いじゃない」

「えーと、ありがとう。それよりなにを食べる?」

 褒められているのか貶されているのかは区別がつかないが義明は、手書きのメニューをペラ紙にプリント・アウトしたものを広げた。

 もっとも高いメニューは七五〇円の〔最後の晩餐〕であり、もっとも安いメニューは一〇〇円の〔牛乳を注ぐ女〕である。

 後者はまだしも、前者の内容は頼んでみなければわからない。選択肢自体がすでにギャンブルだった。

「オススメはなに?」

 さすがにストレートにこれを頼もう、という気分にはならず、義明に尋ねる。

「あとで屋台に行くかもしれないから、軽いモノのほうがいいよね。〔馬鈴薯の収穫〕がいいかな。フレンチ・フライの盛り合わせなんだけど」

「それをもらおうかな。あと〔牛乳を注ぐ女〕」

「いいねー。あと、この〔リンゴの入った籠〕ってのも気になるんだけど」

 値段、二五〇円。ただのリンゴにしては、ずいぶんと高い値段だ。

「アップル・パイなんだよ。長方形の生地にリンゴを敷き詰めて焼いたタイプ」

「お、大好き。なら、それと〔ティーポットのある静物〕ね」

「俺は〔赤い屋根〕」

 三五〇円と、メニューのなかでは中堅クラスの値段である。

「聞かないでいいの?」

「なにがくるか、それもおもしろそうだ」

 そういうところを楽しむ性質がある男なのだった。

「注文いただきましたー」

「はい、よろこんでー!」

 五分ほどそのテーブルで会話をしていると、すぐに注文したものは届いた。さきほどの低い声の男が、アルバイトで培った皿の複数持ちをこれ見よがしに披露しながら。

「馬鈴薯の収穫、牛乳を注ぐ女、リンゴの入った籠、ティーポットのある静物、赤い屋根、以上でよろしかったでしょうか?」

「うん。あってる、あってる」

「では、ごゆっくりどうぞ」

 テーブルに並べられたのは、さらにざっくりと盛られたフレンチ・フライにケチャップが添えられたものに、八号サイズをカットしたアップル・パイと、〔赤い屋根〕ことトマトとチーズとベーコンのオープン・サンド、牛乳と紅茶が一杯ずつである。

「意外とまともだったな」

「メニューのなかじゃ、当たりのほうだから。〔牧場〕とか〔昼食〕とか、抽象的なのは基本的にヤバいよ」

「そっちを頼んだほうがおもしろかったな……」

 なぜだか、残念そうなカーボンであった。


 食べ終えた四人は、義明の案内でつぎの出し物へいくことになった。味のほどは文化祭なので推して知るべしである。すくなくともレストランの領域にないことだけはたしかだ。

 リノリウムをぺたぺたと、あるいはくるくると進んでいく。廊下には、浮かれた生徒や遊びに来た一般人がひしめいていて、車いすではどうしたって順風満帆というわけにはいかない。となりの教室までいくのだって、何人もの人びとに邪魔だなあという視線を送られるのだった。

 二年A組が展示するのは、フィーリング・ホログラフィである。

 飲食店やおばけ屋敷などの定番の店ではなくとも、技術的に見る――否、触る価値があるこの教室は、昼も前だというのに繁昌(はんじょう)していていた。

 ドアの前にはたくさんのお客さんが行列をなしているというほどではないが、教室内を覗くと、みっしり人が詰まっていた。その視線が収束するのは、教室中央で作動している接触可能光学立体像投影機である。外見は機械仕掛けの棺桶のようで縦に長い。

「お、やってるやってる。ここが今日の目玉」

 そういって、三人を教室のなかへ通した。いま投影されているのは、むかしに流行したグラヴィア・アイドルを再現した、かなりきわどい水着だけの巨乳な女性だ。彼女が胸を揺らしながら最前列にいるお客さんと握手をしたり、微笑んだりしている。さすがに胸を触らせてはいない。というよりも、させていたら文化祭で出せるようなお店ではなくなる。

 プログラムによれば、いくつかの人物を投影したり劇をやらせたりするようで、時間により投影する中身が違うあたり、抜け目がない。

「ネット動画じゃ見たことあるけど、実物を見るのははじめてだよ」

「おー、リアルだね。遠目からは完全に実体に見える」

「モーションがすこし甘いぐらいだな。グラフィックに関してはかなり作り込んである」

 なにを隠そう、いちばん鼻の下を長くしているのは、グラフィック担当の生徒であった。かなり厳しい日数だったのか、目の下に色濃い隈がある。しかし疲労は欲望が吹き飛ばしているようだ。

「お、来たね。義明」

 教室の奥から、スタッフとして働いていた月木まひるがそろそろと近づいてきた。まだ彼女に疲労は見えない。

「うん。今日は一日、案内役」

 そういって義明のとなりに居た三人が、見覚えのない女生徒に軽く会釈をした。誰だかわかっていないようだった。

 全体的なつくりや顔はそれほど変わらないものの、髪の色や長さなど、こまかな雰囲気が違いすぎるのだ。

「どうも、はじめまして」

「ヨシュ――義明のともだちですか?」

「……どうも」

 戸惑いの隠せない三人である。

「あはははは。なんだか、そうかしこまられると変な気分。はじめまして。わたしは月木まひる。ライムって言ったらわかる?」

 笑うと、長い黒髪でどこかおとなびた表情をしていたまひるの顔つきが、一転して少女のものになる。

「ライム……ああ、ライム!?」

「そうか。どっかで見覚えあるような気がしたんだよなー……」

「女の化粧と仮想体作りにかける情熱は、不可解だ」

「失礼な。いつでもキレイで居たいって、普通のことだよ」

「そーそー。男だって、キモチワルイぐらい美形にしたのいるじゃん。……そいつとかね」

「否定できないねぇ」

 過去にやったゲームで、やたらめったらにキラキラの王子様的ヴィジュアルを作りあげたクロモリには、痛い話だった。

 子供のころから小柄だった男が、一度は長身になってみたいという夢を叶えたのだ。それを否定することは、あまりにも酷である。

 すくなくとも義明は、できそうになかった。自分にもそういう経験があったから。

「でも、世間は狭いねー。ヒットしてるゲームだからプレイヤーはどこにだって居るんだろうけど、あたしたちみたいにもともと友だちで合流したんじゃなけりゃ、いっしょになることなんてまずないってのに」

「そうだねぇ。わたしもまさか、義明と仲良くなるなんて思わなかったよ。クラスもちがうしね」

「まあ、そうかな」

 病院でナンパのまねごとのようなことを持ち出されては、今後、数日にわたってからかわれるネタになってしまう。

 それがわかっているからまひるは、にやにやとして切り札を握っているというような顔をしている。

 実に分の悪い駆け引きだった。そうそうに義明はドロップして、話題を変えることにした。

「感動の出会いよりも、まずは目の前のフィーリング・ホログラフィを体験してよ。ほら、空いたみたい」

 話し込んでいるあいだに、どうやら前のほうにいたお客さんは、満足して出て行ったらしい。たしかに教室に若干の余裕ができていた。

「お、それじゃ、行ってくるか。おさわりアリだけど、どの辺まで?」

「女の子はぽよーんまで。男の子は、握手とハグまで」

 スタッフ・まひるが答えた。それに、クロモリが脊髄で反射してしまう。

「うそっ。そりゃ残酷だ。あんまりです」

 いったん、脳で整理できていない言葉は、あまりにも本能的だった。

「……時間帯が早いから、ね?」

 言外に、朝じゃないところで、と言っているのだ。

「なぁんだ。それならそうと……ねぇ?」

「俺に同意を求めるな」

 カーボンがすこしだけ頬を絡めて、なにかしらの合図(サイン)をクロモリに返す。

「それじゃあ一足お先に、わたしだけぽよーんを堪能するか」

「あ、ああ……」

 アルミがそのたわわに実ったふくよかな乳房に手を触れると、一昔前のアイドルは、すこしだけ恥ずかしそうに眉尻を下げながら、両腕ですくい上げて、強調するように差し出した。

「うっひょぉー!」

 妙にテンションの高くなったアルミが、まさに揉みしだという感じにその豊かな果実を乱暴にする。

「……男子諸君の目がやらしいなあ」

 じっとりとした女生徒の視線が、その場で揉みしだかれる胸にこころ奪われていた男生徒を貫いた。

「そんなことはないっす」

「ないっす」

「ないでごわす」

 誤魔化せてはいなかった。

 三〇秒ほど堪能したアルミは、いい汗掻いたとばかりに腕で額を拭いながら、天国からご帰還した。

「いやー、いい感触してたわ。年齢から考えると、もうちょい固めって気はするけどねー」

「あれだけの大きさなら、やわらかくて当然なんじゃないかな」

「いやいや。あれだけみっちりっていうか、たっぷりしてたら、そりゃはち切れんばかりの感じがだね……」

 女性によるおっぱいトークに、男子たちは耳を澄ませながらも、しかし気恥ずかしさを感じて介入できないのだった。


 その後も四人で校内を巡り、さまざまなところでいろんな出し物を堪能した。

 とくに三年生の出し物であったVRシステムに自作ソフトを走らせたものは、かなりの行列ができるほどだった。

 レース・ゲームなのだが、走っている最に環境が入れ替わり、無重力になったり砂嵐になったり、過酷な環境を走りぬけるという耐久レースなのだが、やはり技術力やデバッグが足りなかったのか、ドライヴァーを残して車だけすっ飛んでいったり、コースを外れてどこかもわからない世界へワープしたり、そういうハプニングも含めてなかなか楽しめるモノであった。

 もっとも、プロフェッショナルでもないのにVRシステムで自作のソフトを走らせるということ自体がすごいのだが。

 真面目にすごいところもあったのだが、最終的には笑って楽しめるクソゲーということで、四人は大満足であった。

 遊んで腹が減ったら校庭の屋台で腹を満たし、また遊ぶ。それだけのことがどうしてこうもすばらしく思えるのか。

 それはまだ、いまの時点ではわからないだろう。どれだけかけがえなく貴重なことか。ふり返るたびに輝きを増す宝石のような時間だ。

 たっぷりと遊べば、それだけ時間は過ぎていく。すでに空は赤い。カラスが鳴いていた。

 クロモリ、アルミ、カーボンの三人は、そろそろ電車の時刻が迫っている。帰れなければいけない時間だ。

 ほとんど泣きそうになりながら義明は、三人を見送った。彼らも残念そうな表情をしていたのは、見まちがいではないだろう。

 時間が早すぎておっぱいを揉めなかったということが原因なのかかどうかはさておき。

 見送り終わってから、義明はすこしだけ目元を袖で拭った。

 いっしょに見送りに来たまひるが覗きこむ。

「あ、泣いてる」

「わるいかよ」

「……否定しないんだ」

「べつに哀しいわけじゃないから」

 寂しくないかと言われれば嘘だ。しかし、哀しくないのはほんとうだった。それはむしろ、よろこびのために流されたものだ。

 あまりにも楽しくて楽しくて、この時間が終わってしまわなければいい。それほどに楽しかった瞬間を迎えたのは、義明にとってはじめてのことだった。

「ふーん。なんだよ、この。わたしたちとはそうでもないってのか」

「そんなこと言ってないよ。まひるたちと居るのだって、すっごく楽しいよ」

「どうかなぁ。慌てるところがアヤシイ」

「ほんとうだって」

「……まあ、そういうことにしておきましょう」

「なんだよ急に。言っておくけど、まひるがいなかったら、多分、ぼくはもっと落ち込んだ人間になってる!」

「胸張って言うこと、それ」

 つい、笑ってしまう。それでもう、まひるの胸に降って湧いた気持ちは消えてしまった。

 それがなんなのか、少女にもまだ感じるところはない。


 そして楽しかった文化祭が終わって、いよいよ一一月。もう期末考査は目前だった。

 確実に寒さを増していくなか防寒対策をきっちりした義明は、風邪も引かずに勉強をがんばっている。

 下手な点数をとれないだけに気合いは充分入っている。

 そろそろ夜も九時を回る。義明は、閉め忘れていたカーテンに気がついた。ゆっくりと時間をかけて移動しながら、カーテンを閉じる。窓は結露していていかにも冷たい空気が流れていることが伝わる。

「……はぁ、さむ」

 もうそろそろ、息が白くなる季節がやってくる。

 そうしたら、受験に悩むような最後の高校生活がやってくる――否、迎えられるのだろうか。

「もうすこしやっておこう」

 机にもどって、義明はペンを握りなおした。

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